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第321回 邪馬台国の会
30周年特別講演会・纒向学への招待
箸墓古墳の年代
寺澤先生が質問にお答えする


 

1.纒向学への招待 -纒向遺跡と初期ヤマト王権- (寺澤薫先生)

321-09■開会の挨拶(内野会長)

今年の7月で邪馬台国の会の発足30周年となります。今日は30周年記念行事のひとつとして、纒向学研究センター所長の寺沢薫先生をお迎えして特別講演を行います。

さすがに寺澤先生の人気はたいしたものです。今日の会場は超満員となりました。少しご迷惑をおかけしますがご容赦下さい。

邪馬台国の会は昭和58年7月23日に安本先生の講演会で知り合った方々を中心に7名の方が集まり、第1回の集まりが行われました。その後第2回の集まりで、会則などを制定しました。

お陰様で、今年で30周年となり、会員も1500名になっています。

 

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・纒向遺跡の勃興と衰退
纒向遺跡は200年を少し過ぎたころから出現する。それは庄内0式の頃で、布留0式の頃が最大となる。纒向遺跡が衰退して小さくなるのは布留1式の頃となる。3世紀の中ごろには衰退してきて、4世紀になるとなくなる。せいぜい100年間続いたと思われる遺跡である。
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・纒向遺跡は農業的要素が少ない
唐古遺跡の延長が纒向遺跡ではない。纒向遺跡は3世紀前半に運河づくりから始まる。鋤(すき)が出てくるので、土木用具として使っていたと思われる。この遺跡は農業的な要素が少ない。321-10

・纒向遺跡の土器
各地から土器が運ばれて来ていた。 また、纒向の土器が地方に拡散した。

・箸墓古墳と石塚古墳
箸墓古墳は布留0式の古い段階であり、相対年代は確定した。
石塚古墳は庄内3式の時代で箸墓古墳より古い。全長が96メートル、後円部の直径が64メートル、前方部の長さ32メートルで、3対2対1となる纒向型前方後円墳である。

・纒向型前方後円墳の広がり
庄内3式時代の古墳、石塚、矢塚、ホケノ山などと同じタイプが福岡県・佐賀県から千葉県まで広がっている。
次の布留0式の段階は、西は鹿児島県から北は山形県まで広がっている。吉備の中山茶臼山古墳など90メートル級のものが出てくる。
纒向の古墳は他の地方より大きい。

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・纒向遺跡はヤマト王権の最初の大王都
纒向は大和川を使った交通の要衡であった。

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・王権誕生による社会変革

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・イト国から纒向王権
国家は紀元前から九州で成立し、イト国の王が倭国王と考えられる。広型銅矛を祭器にしていた。その後、倭国が乱れる。そして纒向に王権が誕生する。

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・国家の成立
部族社会から、部族連合をへてヤマト王権となり、更に律令国家となった。

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・条坊都市
纒向に条房制がないと言われる。しかし中国でも6世紀の北魏の洛陽城にならないと条房制にならない。それでは中国では3世紀まで都市がなかったか?そうではない春秋時代には既に都市があった。
日本では弥生時代に環濠集落となり、環濠集落が巨大化する。その後環濠集落が解体し、纒向の時代となり、住居が分散化する。更にその後7世紀に再集住化として飛鳥京となる。そして条房都市として藤原京となる。
都市の発展を考えると3世紀に纒向で都市化の段階が考えられるのではないか。

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2.箸墓古墳の年代(安本美典先生)

日頃、寺澤先生の論文、著書は九州説、畿内説を問わず、参考になる内容が多いと思っている。
321-11 邪馬台国論争は一人一説である。今回は、討論ではなく、どこがどう違うか、考え方の違い、立場の違いを整理してみたい。

確実な根拠がないため、たとえば、布留O式とされている箸墓古墳の築造年代でも、考古学者によって、次のように、およそ百年ぐらいの幅で異なる。

①四世紀の中ごろ(西暦350年前後)
   関川尚功氏(元奈良県立考古学研究所員)
②三世紀のおわりごろ(西暦280年~300年ごろ)
   寺沢薫氏(桜井市纒向学研究センター所長)
③三世紀の中ごろ(西暦250年前後)
   白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)

寺沢薫氏は、土器の編年を、西暦の実年代にあてはめることの難しさについて、箸墓古墳の「布留0式期」(布留0式という型式の土器の行なわれた時期)に関連して、つぎのようにのべる。
「それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい」(寺沢薫「箸中山古墳[箸墓]」、石野博信編『大和・繼向遺跡』学生社、2005年刊所載)

白石太一郎氏
『相対年代の枠組みに絶対年度を与えるのは、非常に難しく、考古学の方法だけでは決定できない。文献史料の助けを借りたりして総合的に考えていかなければいけないわけで、今後も我々に与えられた材料を総動員して、最も合理的な年代観を想定していかなければいけないし、新しい資料が出てくればどんどん修正されていくわけです。」(上田正昭・大塚初重監修、金井塚良一編『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』[学生社2001年刊])

国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者で、亡くなった佐原真は述べている。
「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代をきめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅器」『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年刊)

纒向遺跡はおもに、第10代崇神天皇~第12代景行天皇ごろの関連遺跡ではないか?
①崇神天皇の時代は天皇一代平均在位年数十年説で、4世紀と出せる。
②炭素14年代測定法でも、箸墓古墳の築造年代は、4世紀となる。
③ホケノ山古墳出土の小枝資料によるとき、もっとも可能性の大きい年代推定値は4世紀となる。
④『魏志倭人伝』に記されている主要な事物の、考古学的な出土状況が、北九州中心から、畿内中心に変わる年代は、3世紀末ごろとみられる。

寺澤薫氏は『箸墓古墳周辺の調査』[奈良県橿原考古学研究所2002年刊にて、次のようにのべておられ、もっともなことだと思う。
箸墓古墳の暦年代については最近、これを3世紀中葉として、『三国志』「魏書」東夷伝倭人条記載の卑弥呼の墓に比定しようとする意見が多くみられる.具体的な土器編年をもとに考古学的な手法で暦年代を積み上げた結果であれば、大いに議論すべき問題であろうが、ごく一部の研究者を除いてその多くはこうした自己の分析プロセスを全く提示しないか試みた形跡すらない。また、最近の年輪年代や放射性炭素年代をそのまま鵜呑みにして、それによって生じる考古学的な矛盾を全く等閑に付したケ-スも少なくない。これらの意見は、論理の転倒にとどまらず、考古学研究者としての本務を全く放棄している点で、考古学の存立そのものをも危うくする以外のなにものでもあるまい。
さらに、卑弥呼が魏王朝から240年に拝受した「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡に違いなく、この鏡を初期のうちに副葬したであろう箸墓古墳は卑弥呼の墓と考えてよいとする考えもある。こうした議論は一見、中国鏡の製作年代から導き出された考古学的年代決定によっているかのようには見えるが、実はそれぞれが議論の対象となる幾重もの独断と可能性のうえにたった歴史解釈上の仮説でしかなく、うがった考えをすれば、まず箸墓=卑弥呼の墓ありきで、箸墓の年代観がこの前提に規定されているのではないかとまで疑いたくなる。


3.寺澤先生が質問にお答えする

①会員からの質問:箸墓古墳、ホケノ山から出土した桃の種からC14年代法は出たのでしょうか?
寺澤:これから分析する予定。
しかし、C14年代法の結果を現状でそのまま信じるつもりはない、参考として見ている。
年代推定はあくまで考古学で積み上げたもので行っていく。

②安本先生質問:纒向遺跡で、崇神、垂仁、景行天皇の古墳は近いところにあり、箸墓古墳も比較的近くにある。『古事記』『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫命と大吉備津彦命は姉と弟の関係とかかれている。『陵墓要覧』では箸墓古墳のとなりに大吉備津彦命の中山茶臼山古墳が記載されている。箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓とされており、中山茶臼山古墳は吉備津彦命の墓とされている。中山茶臼山古墳は崇神天皇陵の1/2のスケールである。この二つの古墳は何ら関係があるのではないか。
寺澤:現象として、このようなかたちが残るのであろうかとしか言えない。一地方の中山茶臼山古墳は崇神陵のかかわりと言うより、纒向型であろうと考える。私は考古学なので、文献については『日本書紀』に書いてあることをそのまま考古学に当てはめようとはしない。例えば崇神天皇の年代についてもいろいろな考え方があるので、きちんと議論されて、はっきりした結果が出ているかは疑わしい。まだ文献学は議論の段階ではないように思われる。
考古学では議論したいが、文献学については、一つの方向が出ているか疑わしいものについて、議論にくみしたくない。

纒向年代について、どのように求めるか説明すると、九州の鏡から九州の土器の年代を推定しその暦年代から、九州と吉備や伊予の土器の平衡関係を求め、次に吉備や伊予と近畿の土器の平衡関係からもってきており、膨大なデータから求めたもの。そのため、他の考古学者と比べ、纒向年代が新しくなっているはず。

その他の内容もありましたが省略します。



 

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