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第325回 邪馬台国の会
邪馬台国の条件
邪馬台国は筑後川流域にあった
高島忠平先生・安本美典先生対談


 

1.邪馬台国の条件

(1)「倭人伝」が示す九州説の根拠
①邪馬台国論争と倭人社会
325-07  邪馬台国は、すぐれて「魏志倭人伝」を中心とした文献の解釈・理解の問題であると同時に、日本古代国家(8世紀に確立した律令国家)の成立過程を、どのように見とおすかの日本古代史上の問題でもある。この二つ論点を抜きには、邪馬台国論は成立しない。
  これまでの「魏志倭人伝」の文献学的な考証は、それぞれの邪馬台国位置論に立った逐条解釈が大局で、我田引水的で、「南」が東であったり、「里」数が短里であったり、「二万余戸・・七万余戸」がそのまま「国」の人口を示すものだったり、「径百余歩」が巨大前方後円墳であったりなどなど論者の独自の解釈によるもので、当然反論がある。邪馬台国論争上、一定の成果をあげてきているが、それぞれの「解釈」が錯綜、擦れ違いをおこして、水掛け論の域を脱却できない状況にある。

 古代史上の論争としては、邪馬台国や卑弥呼の「政権」が、後のヤマト王権つまり古代律令国家形成の主体に直接結びついていくものなのか(近畿説)、或いは結びつかずに各地に、ツクシ・キビ・イヅモ・ヤマトなど地域国家(王国)成立し、その間の抗争を経て、最終的にとヤマトが古代国家成立の覇権を握ったとするのか(九州説)、大きく二つの論に分かれる。近畿説では、すでに三世紀、卑弥呼め政権は、西日本一帯に、広ければ関東まで及んでいたことになる。ところが九州説では、卑弥呼の政権は、せいぜい九州北半部に限られてくる。三世紀の列島社会の政治状況が近畿説と九州説とではまったく異なり、両説は古代史論争上の対極にあるといえる。

②倭人社会には、卑弥呼の統治の及ばない倭人がいる。
  そこで、女王卑弥呼の政権は、三世紀当時、列島社会どのくらいの地域を統括していたのであろうか、「魏志倭人伝」は、倭人の棲息状況について記している。その記述は異なった解釈の余地のできないところで、その記述を素直に読めば、女王卑弥呼の政権の及ぶ地域が、倭人社会全体にではなく限定的なものであることがよく理解できる。

 卑弥呼は、魏の皇帝から「親魏倭王」称号を得たが、北部九州に存在した国々をはじめ二十九の国の地域を統括する倭王に過ぎない。「魏志倭人伝」は、女王国に属する二十九国以外の地域にも倭人がいることを記している。まず、「対馬、一大、末路、伊都、奴、投馬、邪馬台」など二十九国からなる女王卑弥呼政権が統括する地域、「女王国の南狗奴国有り、女王に属さず。・・狗奴国男王卑弥呼弓呼、素より和せず相攻伐・・」の地域、そして「女王国の東海を渡る千余里、皆倭種、国々をつくる」地域と、倭人は少なくとも三つのグループに分けて倭人社会を捉えている。したがって、卑弥呼が倭王として在位した時代は、少なくとも先述の三つの地域の倭人社会を統一する倭主権は存在していない。しかも狗奴国とは、もともと相攻撃する仇敵の間柄である。魏帝の認証を得ていないと思われるが、狗奴国王を僭称する男王卑弥弓呼は、女王卑弥呼とは、対等に倭王権を争う一方の政治勢力を構成していたと考えられる。三世紀、邪馬台国の時代というのは、列島各地に小「国」が生成し、それらが一定連合し政治勢力を構成、さらに「国」連合勢力間で次代のより広域的な政治勢力の再編成、広域に及ぶ王権の成立に向けての「相攻伐」の世紀であったと考えるのが自然である。つまり、邪馬台国時代の後、四・五世紀を中心に各地に、キビ、イヅモ、ツクシ、ヤマト、ケヌといった多くの国々を包摂した王権による地域王国が成立してくるのである。また最近、弥生時代後半期、列島各地に独自の王権の生成や政治勢力の存在を示す地城独特の集落形成、墳墓や祭祀の状況が考古学において明らかになってきている。これらは列島における王権の生成が多様・多元であったことを示しており、女王卑弥呼が都(御家拠)をおいた邪馬台国は、北部九州といった地域にあった女王国連合の有力な「国」の一つと考えるのが合理的である。

(2)考古学的に見た邪馬台国の条件
①「国」成立の状況が明らかでなければならない。
  当時の「国」の実態は、律令期および現在の郡にほぼ対応し、弥生時代の「国」は律令国家の構成単位に繋がっていく。
  末盧・伊都・奴国の各弥生時代集落・墳墓、古墳時代の首長墓である前方後円墳、律令期の地方豪族の建立した寺院遺跡などのまとまりからみると、北部九州だけでも約四十の国が存在する。現在の北海道・東北大部分・沖縄を除く列島各地には、弥生時代の特色である戦闘施設である環濠・環壕集落が分布する。この共通性が強く、互いの攻防・交通が想定できる地域が倭人の棲息地域である。弥生時代後期(二・三世紀)にはこれらの地域に、国または国への発展途上の地域が数百はあった。
  卑弥呼が統括した国は、三十である。北部九州域の国々で充分にまかなえる。三十国が「近畿邪馬台国」を中心に存在するとした場合、列島に存在する数百の「国々」の中に拡散してしまい、こうした地域の弥生時代遺跡の存在、まとまりと合わなくなる。倭人社会を、三十国のうちで限定できない以上、卑弥呼の三十国は、邪馬台国をはじめ各国は、北部九州という地域で考えるのが自然である。 

②卑弥呼の都したところは環壕集落でなければならない。
  吉野ヶ里遣跡は、日本初期農耕社会の成立と発展の中で、北部九州において「国」といった政治的社会の形成過程を具体的にたどることができる豊富な情報をもっている。それは、この遺跡が、40ヘクタール以上におよぶ弥生時代最大の環壕集落であると同時に、繩文時代晩期・弥生時代前・中・後期(紀元前4・5世紀から紀元3世紀〉、約700年間を通して、規模を拡大、施設を充実しながら変化・発展していった継続的な集落であるからである。しかもこの遺跡は、集落を営んだ人たちの墳丘墓や甕棺墓といった墳墓の形成・発展とが対応して捉えられる。とくに後半期(紀元1・2・3世紀) には、「国」の首都として、信仰と政治および経済的な中核的拠点として諸施設を整え都市的機能を備えるに至った「弥生都市」でもある。
魏志倭人伝に卑弥呼の「都」するところとして「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、人がいて武器をもって守衛す」とある。「都」は御家拠と書き、身分の極めて高い人の居住する館のことである。日本では7世紀まで、大王(天皇)が都を移すということは、施政の場である館を移転することであった。今日の皇族の宮称の起源でもある。
居所はプライベー卜な宮殿、宮室はパブリリックな宮殿、楼観は塔のような高殿で物見や雲気を占う信仰的な建物である。城柵は城字の構成どおり土を盛った土塁のことで、その上に木の柵を設ければ城柵となる。吉野ヶ里遺跡でいえば北内郭、南内郭、環壕のことで、壕の発掘調査で、壕の外側に土塁があったことが判明している。

 こうした施設がまとまった形で、魏志倭人伝の記述と符合するような集落跡の全貌が判明しているのは、今のところ吉野ヶ里遺跡であるが、北部九州の「国」の拠点となるような環壕集落は、弥生時代後期(1・2・3世紀)に、吉野ヶ里遺跡同様もっとも拡大・充実することが判っている。
  また、魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州の弥生時代後期後半の環壕集落が符号するということは、邪馬台国の所在地は勿論のこと、それらの遺跡・遺構や伴出土器の年代をも示しており、議論のある邪馬台国論争に関わる遺跡・遺構・遺物の年代を決定する有力な根拠である。このことによって邪馬台国近畿説の多くに登場する遺跡・遺構・遺物の年代観が崩れることになる。

 北部九州の弥生時代後期に筑紫平野一帯に発達する多くの環壕集落跡群の展開は、まさに、魏志倭人伝に見られる邪馬台国をはじめ三十近い「国々」の存在や攻防を反映したものであろう。近畿地方には、邪馬台国時代から古墳時代にかけてこの種の環壕集落跡は存在しない。纏向遺跡の中核は、邪馬台国時代のものではなく、4世紀以降のものである。共伴する土器の年代は、邪馬台国や卑弥呼が纏向遺跡に居たとする固い想念で邪馬台国代と推定されたもので、当該遺跡内にある一部の人が「卑弥呼の墓」とする箸中古墳の周濠から出土した鐙(日本では5世紀以降、中国・朝鮮半島でも騎馬戦の発達とともに4世紀後半以降採用された)の年代とは大きく隔たりがあり、矛盾する。また、大型建物の床束をもつ構造は、柱配置から見て5世紀以降に見られるもので、古くても4世紀以降と考えられる。さらに、建物配置は古墳時代中期以降にみられる家型埴輪並びにも共通し、それからみると水祭祀を行った祭殿であり、宮殿とは言いがたい。例え邪馬台国時代であったとしても、近畿地方の代表的な集落である奈良県唐古・鍵遺跡の環濠は、水濠で城柵とはならないし、纏向遺跡の大型建物を囲む柵は、土塁を伴わない。したがって、魏志倭人伝の「卑弥呼の都する邪馬台国」は、この時期に環壕集落が発達する北部九州にあったとするのが、遺跡考古学からして妥当である。

③卑弥呼が都する邪馬台国は、国際性が豊かであらねばならない。
  北部九州の弥生時代後期後半の遺跡からは、日本列島各地はもとより、中国・朝鮮半島の文物や影響をうけた遺構が顕著である。後漢系の鏡、貨泉・権(天秤ばかりの錘)、大量多種の鉄器・漢式土器や中国城郭の形をうけた環濠集落や市などの遺構が存在する。特に鉄製品は、鉄素材を朝鮮半島南部に求めていることが、東夷伝中の弁韓の条に書かれている。弁韓で産する鉄は韓・濊・倭が求め。さらに中国の楽浪・帯方郡にも供給されており、交易において「中国の貨幣」のように使用されているとある、この記述は、鉄が倭人社会を含むと東夷社会と中国の朝鮮半島支配にとって政治・経済上極めて重要な物資であることを物語っている。当然、倭人社会における鉄の流通と使用は、「国」の統治、「国」力、「国々」の交通・交易、「国々」の抗争、「国々」の連合、王権にとって主役的振る舞いであったといえる。つまり鉄は弥生後半期において政治・経済の戦略的物資である。これが、近畿では九州に比べて極めて存在が貧弱で、当時の鉄をはじめとした物資の流通システムは、九州から山陰が主流であり、近畿はその枠外にあった。また、纏向遺跡をはじめ近畿の遺跡では、鉄以外の大陸系の文物も出土が貧弱で、中国・朝鮮半島とは交易・交流が盛んであった邪馬台国があったとしては、はなはだ国際性に欠けていると云わざるを得ない。

④卑弥呼のような巫女王の出現過程が考古学的に説明できねばならない。
a.巫女とは
  神霊と人との間をつかさどり、ある儀礼を行うことによって、神がかり・憑依=(エクスタシー)となり、神霊の託宣を告げる巫覡(かむなぎ)。司祭・神主(宮司)・呪師などは宗教的仲介者であるのにたいして、シャーマンは仲介者というよりも神の依り憑く特殊な血統や性質をもつ人間である。いわば半神人であって、日本の「ミコ」は神の「御子(神子)」という意味上から、よくその本質をあらわしている。

 古代中国の「巫覡」は、『周礼』には「凡以神仕者」、「国語」には「在男日覡、在女日巫」とみえる。大陸における巫道は殷・周の王権に、つかえた「巫師」以来、秦・漢でも盛んであった。
  日本は、縄文時代には、万有霊魂観(精霊信仰)の呪物である土偶・石棒・土器の文様などから呪師の存在が窺える。巫覡ついては、仮面など憑依の呪具の存在から可能性が考えられる。いずれにしても、巫覡は、縄文社会の生活秩序が進化するなかで、特殊な性質を持つ者が、万物の心霊に憑依するものとして現れてくるのであろう。

 弥生時代後半には、女王卑弥呼のような「鬼道」のような巫術を行う巫女王が出現した。巫女王卑弥呼は、血族・部族を超えた「国々」を、霊力・信仰でもって一定の政治的に統括する巫女に成長している。しかも、弟の政治的実務権力をも超える権力を有している。弥生時代後期後半(2・3世紀)、このような巫女王は、どのような歴史的過程を経て出現してくるのか、古墳時代の巫女埴輪・古代の巫女へのつながりを視野に入れて、巫女王出現の過程を明らかにする必要がある。弥生時代になると、精神社会に大きな変化が生まれてきた。それは農耕社会の確立するなかで、農耕生産を背景とした新たな「祖霊信仰」が生まれ支配的な信仰となっていったと考えられることである。やがて、首長制のもとに「国」といった政治的社会が成立し、「祖霊信仰」は、その社会と連携・融合し、政治的支配性を帯びた祭祀へと発展していった。祖霊や神霊と人々の間をつなぐ巫女は、「祖霊信仰」が社会の統一理念として発展してゆく中で、「祖霊」の託宣を告げる職能者-巫女-として、次第に政治性を帯び、「国」といった地域的政治社会の統治者としての地位を高めていったと考えられる。

⑤卑弥呼の鏡と墓は?
a.卑弥呼の鏡
  卑弥呼の鏡は、内行花文鏡・方格規矩鏡・獣首鏡・位至三公鏡など後漢の官営工房で製作された鏡の系統の鏡である。これらの鏡は北部九州を中心に出土する。魏志倭人伝にある魏の皇帝が卑弥呼に与えた詔書には、銅鏡百枚を与えたとある。この種の鏡は、多くは北部九州の甕棺墓・石棺墓・土抗墓から副葬品として出土するが、呪封の破鏡として或いは住居跡など集落跡から出土する北部九州には弥生時代後期の普遍的にある中国鏡である。邪馬台国近畿説が卑弥呼の鏡の主流とする三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡など神獣鏡は、中国南方の三国のひとつ呉国で製作され利用されたもので、魏国のある中国北方では、僅かしかない。魏国の鏡は先述の後漢鏡に系譜を引くものであることが、中国の鏡の研究で明らかになっている。中国の研究者も魏帝が卑弥呼に与えた鏡は、後漢鏡系の鏡であるとしている。特に三角縁神獣鏡は、日本のみで出土するもので、中国では一面も出土していない。景初三年など魏国の紀年銘があるとしても、中国鏡の規範から外れる大きさであり、後世の日本での擬古・擬銘である。どのように考えても三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡は、卑弥呼の鏡にはなりえない。後漢鏡は、近畿地方でもかなりの数出土しており、邪馬台国近畿説の立場でも、卑弥呼の鏡は、後漢鏡系の鏡を対象に検討されるべきである。

b.卑弥呼の墓は、径百余歩でなくてもよい。小型の周溝墓で良い。
  魏志倭人伝に記述されている万以上の戸数、里程、寿命年齢、墓規模の歩数などの数字は、詔書にされた主尺刀ニロ、銅鏡百枚などの数的記述以外、信憑性がない。山海経・論衡・前漢書地理志など紀元前からの中国の倭人観がある。それは、倭人は遠隔の地にあって、不老不死・長寿の薬草を産する理想郷としての捉え方である。極め付きは、マルコポ一ロの黄金の国「ジパング」である。このような観点で、魏志倭人伝の記述の史料批判が必要である。里程は魏の基準尺と合わない、戸数は伊都国・奴国とも奈良時代の人口より十倍近くになる、倭人の寿命が百歳以上とは考えられない、4から5人の妻を持つ、百余歩の墓は魏晋の理想社会の後漢の皇帝の墓がおよそ百余歩であるなどなど、これらの数字を根拠に考古学資料と直結するのは危うい。

 卑弥呼の墓は、必ずしも邪馬台国にあるとは言えない。三十国で共立された王で、霊力に秀でた巫女で、三十国のどこかの国の出身である。邪馬台国にある確立は三十分の一である。死後埋葬されたとすれば、古代の大王がそうであるように、出自の地である。したがって、北部九州に存在の明らかな国に卑弥呼の墓があってよい。先述したように弥生時代後期後半と位置づけられる当時の伊都国である福岡県糸島市平原1号墳の被葬者は、女性と想定されており、他より抜きん出て四十面といった破鏡で封じ込められた強大な巫力・呪力を持つ人物ということになると、卑弥呼である可能性は、私は大きいと思う。

(3)日本列島における古代国家成立過程を見通すと邪馬台国は九州にあったと考えるほうが合理的である。

 3世紀に日本列島の大部分を統括する政権は成立していない。卑弥呼の統括する三十国の政権は、北部九州といった地域的なものである。したがって、九州南部、中国、四国、近畿、山陰、中部、北陸、関東など成熟度の差はあっても、それぞれの地域での中心となる政権が存在する。それが、狗奴国との抗争に初見が見られるように、3~6世紀抗争、を通じて、ツクシ・キビ・イヅモ・ヤマトなど豪族を構成体とした地域王国が出現、それらが、列島の政治的覇権を賭けたさらなる抗争の結果、6世紀後半に、ヤマトが古代国家成立の主導権を確立するのである。そして、7世紀後半、「天皇」が豪族から実権を奪い、天皇を権力の頂点に置いた律令国家が確立したのである。
  統一権力の確立過程は、列島社会のグローバルな課題であり、日本書紀のような一系的な列島社会の古代国家の成立過程は、最近明らかになりつつある各地独白の政権・政治勢力の成立状況から、各地の多様な地域史とは両立しない。


2.邪馬台国は筑後川流域にあった

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下図の「弥生時代の遺跡の推定分布」は弥生時代の遺跡・遺物の出た土地と同じ条件(標高、土地の傾斜など)の土地を北九州の地域から見出そうとしたもの。そこから見ると、 筑後川流域、遠賀川流域、福岡平野が多いことがわかる。

弥生時代の人口密度が大きいところからも、筑後川流域が多いことがわかる。

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下図の「人口から見た『魏志倭人伝』諸国の位置から」、上の数字は奈良時代の人口で、下の数字は『魏志倭人伝』の戸数である。例として、末盧国を見ると、人口18,315人で1,000戸となる。そこで1戸当たりの人口は4.58人となる。もし1戸あたりの人口を4~5人としても、邪馬台国が7万戸であるとすると、奈良時代の人口から考えても、筑後川流域の多くの地域を入れないと7万戸にならない。


邪馬台国時代の鏡の分布とか、鉄器の分布を考えると、鏡では筑後川流域に広く多く分布していることがわかる。また糸島半島の平原遺跡から多く出土している。しかし鉄器を考えると筑後川上流の朝倉地域に分布している。
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邪馬台国時代の遺物の出土状況を見ても、筑後川流域(吉野ヶ里遺跡を含む)と糸島半島の平原遺跡と福岡平野と遠賀川流域が多いことがわかる。
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・西南学院大学の高倉洋彰氏
小形内行花文鏡が、甕棺墓から出土した例のないことは、西南学院大学の高倉洋彰氏が、つぎのようにのべておられるとおりである。
  「弥生時代北九州における鏡の出土状態は、舶載鏡(中国製で、日本に移入された銅鏡)の多くがこの地域特有の甕棺墓副葬品であるのに対し、小形内行花文仿製鏡は現在のところ(甕棺墓からは)一例の出土もなく[安本注:一部出土例有]箱式石棺墓の副葬遺物となることが多い。甕棺墓葬の伝統が後期前半を境に急速に消滅し、箱式石棺墓・石蓋土墳墓と交替していく事実を考え合わせれば、仿製鏡盛行の時期は後期中頃以降にあると推定される。」(『考古学雑誌』第58巻、第3号)
  高倉洋彰氏は、その論文「鏡」(『三世紀の考古学 中巻 三世紀の遺跡と遺物』学生社刊)のなかで、「長宜子孫」銘内行花文鏡について、つぎのようにのべる。
「長宜子孫銘内行花文鏡は洛陽焼溝漢墓では後漢中~末頃(焼溝第五・六期)にみられる鏡式で、方格規矩鏡と交代するように出現してくる。日本出土鏡の中には時期を示す例に乏しいが、これまでのところ甕棺墓副葬例を欠き、方格規矩鏡に後出する可能性を示している。
共伴の土器によって時期をうかがいうる例として、熊本県戸坂、兵庫県播磨大中、岐阜県瑞竜寺山山頂などの遺跡があるが、いずれも弥生時代後期終末頃に考えられている。」

・考古学者の森浩一氏
森浩一氏は、「語りかける出土遺跡」(『邪馬台国のすべて』「朝日新聞社刊」所収)のなかでつぎのようにのべている。
「『長宜子孫』(長く子孫によろし)という銘を書きました内行花文鏡が後漢の後半の代表的な鏡ですが、それが北九州での三世紀ごろと推定される墓から点々と出ております。しかし、中国鏡だけではとても、すでに広がりつつあった鏡に対する愛好の風習はまかないきれないとみえまして、北九州の社会では、二世紀の終わりごろ、あるいは三世紀の初めごろ、いずれにしても邪馬台国がどこかにあった時代に、直径が8センチ前後の小型の銅鏡を多量に鋳造しています。」

■甕棺と箱式石棺の鏡などの出土状況
銅利器(細形・中細形の銅剣・銅矛・銅戈)は甕棺から出土する。前漢鏡[(清白・精白・青白・日光・日有喜)銘鏡]は甕棺から出土する。しかし甕棺から2例あるが、小型仿製鏡Ⅱ型は箱式石棺から多く出土する。長宜子孫銘内行花文鏡などの鏡も甕棺から2例あるが箱式石棺から多く出土する。

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福岡県の例だが、甕棺、箱式石棺、古墳時代で分類すると、前漢鏡[(清白・日光・日有喜・昭明)銘鏡]相当数が甕棺から出土し、後漢鏡の方格規矩鏡は甕棺、箱式石棺の両方から出土し、小型仿製鏡は箱式石棺の方が多くなり、長宜子孫銘内行花文鏡も箱式石棺の方が多くなり古墳時代にも出土する。西晋時代の鏡の10種の魏晋鏡は箱式石棺と古墳時代が半々になる。画文帯神獣鏡は古墳時代の出土となるが、なぜか甕棺墓から1面出土している。三角縁神獣鏡は古墳時代の鏡となる。

平原遺跡の鏡は長宜子孫銘内行花文鏡で邪馬台国時代と言える。

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3.高島忠平先生・安本美典先生対談


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<安本>
邪馬台国畿内説を主張する人たちが畿内説とする根拠が何か、よくわからない。
しっかりした根拠がない。卑弥呼の宮殿が出てきたといっても、たいした根拠があるわけではない。箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかというけれど、箸墓古墳は邪馬台国時代よりあとのような気がする。『魏志倭人伝』には武器として鉄矛を使うとあるが、鉄矛は九州からしか出てこない。しっかりした根拠がなく雲をつかむような話から、畿内説が出てくるように思える。

<高島>
私も畿内説とする根拠についてはよくわからないのですが、根底にあるのは日本の国家権力の起源が奈良にあるのだという考えがあるのではないか。それを正当化するために、いろいろな考古学的な説明がなされているのではないか。すべての権力、文化の発祥地が近畿にあるという中央主観があるのではないかと考える。思想的なものではないか。

<安本>
しかし、考古学の場合は考古学的なもので考えなければならない。邪馬台国問題は『魏志倭人伝』に書かれているから、邪馬台国問題と思われるものは鉄にしても、矛にして、絹にしても、鏡にしても九州から出ている。どうしてそれでも畿内といえるのか。年代を古く古くもっていく。

<高島>
三角縁神獣鏡の同笵鏡について解釈が二つあり、配布または下賜したとするか、それとも献上したとするかである。京都大学の小林幸雄さんは両方の考え方をもっていたが、近畿説にとってはやまとにいる卑弥呼が配布した方が都合よかったので、配布したという考えとなっていった。
庄内式土器についても、畿内説の人は起源は瀬戸内海が出発点だと言う人がいる。しかし根拠はなく、近畿に邪馬台国がなくてはならないという使命感にもとづいてそうさせるように思われる。

また、椿井大塚山など邪馬台国時代より新しいという古墳は九州説に有利になるので、4世紀という古墳を3世紀に遡らせたいという願望があり、弟子たちがこの30年くらいに努力して、そのようになっていったようだ。

<安本>
九州からいろいろな遺物が出ているが、西谷正先生や岡崎敬先生のような九州大学の先生が近畿説をとなえる。これらの先生は京都大学を出ておられてそのために畿内説をとなえているのかなと思える。

<高島>
岡崎先生は京都大学の呪縛から近畿説であったが、心情的には九州説であったと思われる。古代史の方はどちらかといえば九州説が多い。岡崎先生はヤマト政権に対し反乱の歴史がある椿井大塚山の勢力が、何故、卑弥呼の指示より三角縁神獣鏡を配布しなければならないのか疑問に思ったとしている。古代史をやっている人は理論的に考える。考古学やっている人が九州から鉄が出土するというなら、古代史をやっている人から何故鉄が多いのかと指摘される。

<安本>
京都大学の小林先生は古墳の発生を300年以後と考えていた。この考えだけでは古墳時代は卑弥呼の時代とは言えない。また、梅原末治先生以来発掘の正確さなど考古学について正確に記述することは進歩したが、その発掘結果からの推論は正確さがない。その結果よく分からないということになる。古代史論の理論の欠落が多い。

<高島>
考古学者の古代史論の理論は借物で、自分で構築したものではない。例えば、『日本書紀』から借りたもので古代国家形成像を作り、そこに自分の考古学データをあてはめているような気がする。古代史論の理論の欠落が多い。

<安本>
文献学者は九州説が多く、考古学者は畿内説が多いと言われている。考古学者は国または公共団体からお金をもらって発掘しているのに、あまり根拠がないアドバルーンをあげている。

<高島>
両論があって決め手がない状況のとき、公的機関が一方に肩入れすることは明らかな逸脱である。
近畿説の考古学者と討論会をやった時、箸墓古墳を掘れば、卑弥呼の墓であることが明らかになると言ったが、私は卑弥呼の墓という表札や邪馬台国という看板でも出てくれば明らかになるかもしれないが、掘れば掘るほどますます分からなくなるでしょう。と言った。考古学者の中に考古学的な細かい標本で明らかになると思っている人もいるが、考古学はある事実が分かれば、その先の疑問がコンコンと出てくる。掘ればわかるという人は科学というものに対する姿勢が確立していない感じがする。

<安本>
箸墓古墳について『日本書紀』に崇神天皇の時代としての記載がある。そのような事実を無視して、矛盾したことを言っている。解釈というより思い込みである。

<高島>
旧石器の捏造事件があったが、それはある説の理論にあうように、発掘され、それにより理論が正しとされて来た。しかし、それが捏造であると分かった。自分の都合のよい理論だけで考えない方がよい。
近畿でもそれなりに後漢鏡も出てきている。畿内説の学者は三角縁神獣鏡にこだわらずに、これらの後漢鏡から卑弥呼の鏡説を構築してもよいと思うが、そのような説を排除している。私は三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡の主役になれないと言っている。排除しているわけではない。


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