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第327回 邪馬台国の会
魔鏡について
三角縁神獣鏡はメイドインジャパンである
四世紀崇神天皇時代の諸天皇の陵


 

1.魔鏡について

■読売新聞の記事
『読売新聞』2014年1月30日(木)の記事。
『卑弥呼の鏡』は魔鏡、三角縁神獣鏡 背面文様を投影 祭祀に使用か
邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が、鏡面に光を反射させると背面の文様が壁に映し出される「魔鏡」の特性を持つことがわかり、京都国立博物館の村上隆・学芸部長が29日発表した。国内の古代鏡で確認されるのは初めて。太陽を崇(あが)める祭祀で光を操り、権威を高める役割があったとみられ、古代鏡の用途などを解明する糸口となりそうだ。

魔鏡と確認されたのは、愛知県犬山市の東之宮(ひがしのみや)古墳(4世紀初め)で出土した2面(直径21~23センチ、重要・文化財)。立体物を精巧に再現する3Dプリンターで復元模造品を作り、実験した。この日の記者発表でも、鏡に光を当てると、神像がうっすらと映し出された。

魔鏡は江戸時代中期以降、隠れキリシタンが所持し、十字架やマリア像を浮かび上がらせ、礼拝の対象にしたことで知られる。
銅鏡の鏡面は研磨すると、厚い部分ほど減り、薄い部分はあまり削れずに残るのが特徴。魔鏡は、厚さ1ミリ程度まで研磨を繰り返すため、背面の文様に沿って、鏡面にも微細な凹凸ができる。この凹凸による反射光が像を投影する仕組みだ。
三角縁神獣鏡も部分によって厚みが異なり、今回の2面も厚い部分で23.5ミリあるが、薄い部分は0.8ミリまで研磨されている。

魔鏡との共通性に着目した村上部長は、「薄い部分は割れやすく、なぜこれほど厚みの差があるのか謎だったが、像を投影するため、意図的に作ったことが明らかになった」と話す。
鏡と太陽信仰は古来、密接な関係があると考えられてきた。卑弥呼は太陽に仕える「日の巫女(みこ)」との説がある。森下章司・大手前大准教授(考古学)は「鏡を介して太陽を使った祭祀や儀式を営んでいたことがはっきりした。光と影が織りなす図柄は、古代の人々にとって衝撃だっただろう」と話している。


■魔鏡についての問題
1)日本で、4世紀ごろに製作された鏡に、魔鏡現象がみとめられたとしても、それだけでは邪馬台国問題にむすびつかない。

2)「魔鏡」は、どのていど、特殊な現象なのか。「三角縁神獣鏡」に「魔鏡」があるとしても、それは意図的なものなのか。凸面鏡で、鏡身が薄く、模様の部分の厚みの差が大きければ、魔鏡を意図しなくても、魔鏡になるのではないか。

3)「三角縁神獣鏡」のような中国南方系の鏡も、「昭明鏡」のような中国北方系の鏡も、「魔鏡」でありうるとすれば、魔鏡になりうるのは、あるいは、ありふれた現象なのではないか。

4)「画文帯神獣鏡」ではどうなのか。「長宜子孫銘内行花文鏡」ではどうなのか「鼉(だ)竜鏡」など、明白な鏡ではどうなのか。「位至三公鏡」ではどうなのか、など中国・日本出土の広汎な鏡についての魔鏡現象についての調査がなければ、「魔鏡」が、どのような意味をもつのか、わからない。

5)鈕の穴の鋳バリを完全に鋳ザラていないものが多く、かつ、ほとんど墓からしか出土しない「三角縁神獣鏡」は、丁寧に研磨されていたのか?

 

■魔鏡現象は何故生じるか

①研削過程
327-01 石野亨「鋳銅鏡に現れる魔鏡現象」(『Boundary』1998年.vol.14、No12)にある。

鏡面を磨くため、やすりや鏟(せん)による研削を繰り返すと、鏡背肉厚部の鏡面はよく削れるが、鏡背に模様のない薄肉の基地部は研削の時の逃げが大きく研削量も少ないことが想像される。事実。削り終えた段階で、鏡の断面を精密に測定してみると、肉厚部は大きく削られ凹みを生じていいた。これらの結果を綜合すると、鏡面全体として凸面鏡となり、鏡背の模様(鋳物断面の肉厚)に応じて、部分的に凹み(凹面鏡)を形成することが知られる。このように、鏡背の模様に対応してきわめてわずかで、肉眼ではほとんど確かめられないが、鏡面に凹面を呈する部分が出現する結果、光を当てるとその反射面は収斂し、他の部分は散乱して、明暗の像を作り、魔鏡現象が出現する。

②鋳造過程
胡道静校証『夢渓筆談校証 下』(上海 古籍出版社、1987年)
平凡社東洋文庫『夢渓筆談2』の梅原氏による日本語訳
世に透光鑑というものがある。鑑の背面にはおよそ二十字の銘文があり、とても古い字で読むことができない。鑑で日光をうけると、背面の文様と銘文はすべて屋内壁面にくっきりと透けてうかびあがる。
その原理をしらべた人があった。鋳造の際、薄い部分は早く冷える。ただ、背丈のやや厚いところは遅れて冷え、しかも、銅の収縮度は大きい。文様は背面にあっても、鑑に表面にもそれと知れぬ跡ができる。だから日光にあてるとあらわれるのである。

このように二つの考えがあるようである。


■魔鏡現象は何に使われたのか
・葛洪(かっこう)『抱朴子(ほうぼくし)』(村上嘉実(よしみ)著『抱朴子』(明徳出版社、1967年刊)

・葛洪について
葛洪は、丹陽郡句容県[こうよう](南京の近く)の人で、葛天(かつてん)氏の子孫であるという。
  葛洪(抱朴子)の祖父は学問を好み、経国の才があった。三国の呉に仕えて海塩・臨安・山陰の三県の令(知事)を歴任し、中央に入っては吏部侍郎・御史中丞となり、また廬陵太守・吏部尚書・太子少傅(ふ)・中書・大鴻臚(こうろ)・侍中・光禄勲となり、呉将軍に輔せられ、呉寿県侯に封ぜられた。
  葛洪の父は孝悌友愛の徳に篤く、ひろく書籍に親しんだ。やはり呉に仕えて会稽太守になったとき、西晋の軍が揚子江を下って攻め来り、呉は滅亡した。それより晋の天下となり、父は晋に仕えて大中正・肥郷県令などを歴任した。その県は戸二万ばかりで、公田を借りて耕作するような不届者はなく、官で用いる紙筆なども私財を以って弁じ、刑罰は不用となるほど、徳化が行なわれたという。それから邵陵(しょうりょう)太守に遷ったが在官中に卒した。

「鏡と神仙」
或ひは明鏡の九寸以上なるを用ひて自づから照らし、思存する所有りて七日七夕なれば、則ち神仙を見る。或ひは男、 或ひは女、或ひは老い、或いは少(わか)くして、一たび示せるの後は、心中自(おの)づから千里の外、方(まさ)に来るべきの事を知るなり。(雑応篇)

 これはまだ修業中の道士が、鏡の威力で神仙の姿を見、それによって千里眼や、将来を予知することが記されている。
  鏡は人の容貌を写すものであるから、その中には霊が入りこんでいるとされ、神秘なものと考えられていた。深山に入る者は必ず鏡をお守りとして身につけてゆくことが、前述入山の法の中にくわしく述べられている。

 本文・・・九寸以上の明鏡を用いて自分の顔を写し、七日七晩の間冥想していると、そこに神仙の姿が見えてくる。その神仙は、男であったり、女であったり、或いは老人や若者であることもある。一度神仙の姿が示されると、自然に心が開けてきて、千里眼が得られるようになり、また将来のことも予知できるようになる。
  神仙の姿を見るということが、自分みずから神仙の仲間入りをしたことの証拠となるのである。

[注]これは、葛洪が鏡に威力で仙人になることについて書いたものである。魔鏡現象が関係したようにも思える。

 

■魔鏡現象についてその他記事
・石野亨「魔鏡」(産業技術センター1977年9月刊)
「中国では透光鏡と名付けられているが、これに関する歴史が古い。中華人民共和国上海博物館には「内清質以昭明」と呼ぶ前漢中晩期(紀元前100~50年ごろ)の魔鏡(昭和51年には日本でも展観されて話題を呼んだ)が保存され、隋代(581~618年)以来魔鏡現象の観察と原因の解明が行われているとのことである。」

・野崎準「中国と日本の魔鏡」(『Boundary』1998年.vol.14、No12)
「凸面鏡で鏡身が薄く模様の部分との厚みの差が大きいほどこの現象が起こりやすいから、三角縁神獣鏡は魔鏡になりやすいはずだという興味深い記事もありました。」としている。

このように、三角縁神獣鏡は魔鏡を目的として作られたものなのか?
ありふれたものではないのか?

 

■考古学者が三角縁神獣鏡を魏鏡とする考えに対する見解
魏鏡説否定
・九州説
高島忠平、古田武彦、奥野正男、森浩一などの諸氏。
・畿内説
石野博信、寺沢薫、菅谷文則、白石太一郎などの諸氏。

魏鏡説賛同
・畿内説
岡村秀典、福永伸哉、車崎正彦などの諸氏。

このように、畿内説の学者も含め、6割以上の学者が三角縁神獣鏡は魏からもらった鏡ではないとしている。

各学者の述べている例を示す。

・「邪馬台国=畿内説」の考古学者、石野博信氏は、1998年の『歴史と旅』四月号所載の「”卑弥呼の鏡”ではない」のなかで、つぎのようにのべている。
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして、四世紀にヤマトで創作した鏡なのである。」
石野博信氏は、『邪馬台国と安満宮山(あまみややま)古墳』(吉川弘文館1999年刊)のなかでも、つぎのようにのべておられる。
「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の『布留式土器』と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器と一緒に出てくる例は一つもない。それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるでしょうが、それにしても、一つもないのはおかしい。だから新しいんだろう。つくったのは四世紀前半ぐらいだろうと思うんです。」

・ 石野博信氏は、『邪馬台国研究 新たな視点』(朝日新聞社1996刊)のなかで、つぎにまとめられるような見解をのべておられる。
(1)京都の椿井大塚山古墳は、土器からすると、どうみても四世紀の中ごろから四世紀後半ぐらいのものではないかと思われる。
(2)椿井大塚山古墳から、三角縁神獣鏡が三十数面出土している。
(3)三世紀の三角縁神獣鏡が、だれでも認める形ででてこない。三世紀だと考えた三角縁神獣鏡をもつ古墳は、かなり努力して古くしている方のものである。
(4)椿井古墳の三角縁神獣鏡と同じ型で作った鏡を、いくつかの古墳で分有するようになるのは、四世紀中葉以降であると考えられる。それは、前方後円墳が、東北から九州まで全国的に広まった段階と一致するのではないか。

石野博信氏はのべる。
「あれ(三角縁神獣鏡)を勉強しなくても卑弥呼のことがわかる。後のことなのだからあれは無視していいと考えればいいのではないかと思っている。」

・奈良県立橿原考古学研究所所長菅谷文則著『日本人と鏡』(同朋社出版1991年刊)
「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
「この日本鋳造の可能性を他の面から補強することができる。これは三角縁神獣鏡に多く見られる現象で、鋳造の時に鈕の穴の鋳バリを完全に鋳ザラエていないものが多いことで、広峯一五号墳鏡にも、神原神社古墳鏡にも見られる。普通の鏡の穴は、四角・丸・半円のように外からみえるが、三角縁神獣鏡の八割以上は不整形である。この点は、この鏡の用途と深い関係にある。つまり長期の使用を目的としていれば、この穴に紐を通して使用する訳であるから、鋳バリの鋭い角で通された紐は容易に切れてしまうことになる。このことからこの鏡が、短期の用途を予想して鋳造されていたことが判るのである。出土状態からは祭祀と墓葬用の明器であるとみてよい。」

・大阪府立近つ飛鳥博物館館長白石太一郎著『古代ヤマトと三輪山の神』(学生社2013年刊)
「中国大陸で一面も出てこない鏡、そして日本列島で大量に出てくる鏡を魏からもらった鏡と考えるのはおかしいと、同志社大学におられた森浩一先生が40年以上も前に問題提起されています。これはもっともな疑問で、私もこの鏡を魏からもらった鏡と考えるのはおかしいと思っています。」

・考古学者原口正三氏(『邪馬台国と安満宮山古墳』吉川弘文館、1999年刊)「あくまであれ(三角縁神獣鏡)は魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」

・岡村秀典氏(京都大学教授)(『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999年刊)
「魏の都洛陽はおろか、中国全土から、三角縁神獣鏡は、まったく出土していないにもかかわらず、岡村秀典氏は、つぎのようにのべる。
「三世紀、卑弥呼は『親魏倭王』に冊封され、魏と倭との緊密な交流が景初三年・正始元年以後も正始四年・六年・八年とつづいたことが記録されている。卑弥呼がもらった鏡は最初の『百枚』だけだった、というのは歴史的にも考えがたいことであり、その後の交流のなかで大量生産された三角縁神獣鏡が陸統(りくぞく)ともたらされたにちがいない。」

「陸統」とまあ、見てきたような。

・王仲殊氏はのべている。
「ここで注意すべきは、中国の平縁神獣鏡が、どの種類であれ、すべて南方の長江(揚子江)流域の製品であって、北方の黄河流域のものでなかったことである。最盛期である三国時代のさまざまな平縁神獣鏡を例にとると、それらは長江流域の呉鏡であって、黄河流域の魏鏡ではない。」(前出、『三角縁神獣鏡の謎』・・・)

神獣鏡系の鏡を卑弥呼の鏡とみることはおかしい。

また、『大炎上「三角縁神獣鏡=魏鏡説」』を贈呈したときの礼状でも、王仲殊氏は同じようなことを述べていた。

マスコミ宣伝ばかりがあって、実質的内容がない。「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」説は、学会においても、多数意見とはいえない。


■鏡の面径からみる
中国出土の「画文帯神獣鏡」は面径が平均13.2センチであるのに対し、日本出土の「三角縁神獣鏡」は面径が平均22.2センチとなり、明らかに大きい。
中国浙江省出土の鏡で、「画文帯神獣鏡」は面径が平均12.9センチで中国全土にほぼ近いが、「浙江省出土の「画像鏡」は直径は面径が平均19.6センチと少し大きくなる。それでも日本の「三角縁神獣鏡」より小さくなる。(C)(D)のデータの元になる『浙江出土銅鏡』は参考となる資料である。

327-02

参考に中国出土の「画文帯神獣鏡」の出土地の数を示すと下図となる。湖南省、浙江省など呉の領域が多い。

327-03

 

原田大六氏が示した大型鏡の上位10面を見ても、30.6~46.5センチと大きい。これらの鏡は日本製と考えられる(下図左)。
日本で出てくる大きな鏡は日本製である。江田船山古墳出土鏡の同型の「画文帯神獣鏡」があるが、これは日本製である。画文帯神獣鏡も4世紀ごろと考えられる(下図右)。

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前表の⑧の勾玉文の鏡は右図で、勾玉文の鏡など明らかに日本製である。

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■真の「卑弥呼の鏡」は?
中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳(じょへいほう)氏はのべる。
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、變鳳鏡(きほうきょう)・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。[注:特に方格規矩鏡・内行花文鏡・位至三公鏡は重要]
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・變鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。」

これは正しいと思う。

もし、邪馬台国の都が、纒向のふきんにあったのなら、纒向遺跡のあたりの庄内期の遺跡から、あるいは奈良県から、卑弥呼が魏からもらったのにふさわしい鏡が、なぜ、多量に出土しないのか。卑弥呼が魏からもらったのにふさわしい鏡でたしかなものらしいのは、寺沢薫氏のデータで奈良県出土のものは、四葉座鈕連弧文鏡(内行花文鏡)の鏡片、しかも、倣古鏡とみられるものが、一面あるのみではないか。

 

天皇1代10年説から、崇神天皇の没年は360年頃となり、4世紀中頃となる。しかし白石太一郎氏は崇神天皇は3世紀中頃としている。崇神天皇の時代が卑弥呼の時代とすると『魏志倭人伝』の記述と合わないことが多い。

前方後円墳の築造年代推定からも、崇神天皇の墳墓は4世紀と考えられる。

下図から三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も出土する前方後円墳を調べると、三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も4世紀の古墳から出てくる。つまり三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡は崇神天皇の時代と言える。また、崇神天皇は4世紀頃の天皇と言えるのである。
(下図はクリックすると大きくなります)

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寺澤氏の庄内式土器に出土する鏡について、3世紀中頃の卑弥呼の時代に絞り、県別グラフにすると下記となる。福岡県が圧倒的に多い。

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そして、その時代の鏡の種類について分布をみると、下記となる。内行花文鏡、方格規矩鏡が多い。

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2.三角縁神獣鏡はメイドインジャパンである

■「三角縁神獣鏡」は「画文帯神獣鏡」と「三角縁画像鏡」とを足して、2で割ったような鏡である。
画文帯神獣鏡は下記の左のような鏡である。面径は少し小さい。

「画像鏡」は下記の右のような鏡で、面径は大きく、物語を表している。下図の鏡は呉王、伍子胥(ごししょ)画像鏡で呉越の故事を描いたもの。

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中国では三角縁神獣鏡は出土しないが、画文帯神獣鏡と画像鏡は出土する。これらを足して2で割ると三角縁神獣鏡となる。

画文帯神獣鏡を三国時代の領域で分けると下記となる。また、年代別に分類すると200~300年の間が多い。250年以前に出土したものでも、墓自体は西晋早期や、東晋時代のから出てくる。
「画文帯神獣鏡」はおもに、3世紀後半以後ごろの鏡である。

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「画文帯神獣鏡」も「画像鏡」も基本的に、中国南方系、揚子江流域系の鏡である。

 

■「三角縁神獣鏡」について

樋口隆康氏による「三角縁神獣鏡」を規定する六つの条件
①径21~23センチ大のものがもっとも多く、まれに径19センチや25センチのものもある。
②縁の断面が三角形を呈している。
③外区(外がわの高くなっているところ)は鋸歯文帯、複線波文帯(複波文帯)、鋸歯文帯の三圏帯からなる。
④内区(内がわの一段ひくくなっているところ)の副圈帯は、銘帯、唐草文帯、獣帯、波文帯、鋸歯文帯のいずれかが多い。
⑤主文区は、四または六個の小乳によって等間隔に区分され、その間に神像と瑞獣を、同向式か求心式に配置する。
⑥銘文は七字句数種と四字句一種かある。
(以上、『三角縁神獣鏡綜鑑』より)

 

「三角縁神獣鏡」の周圏帯は右記となる。

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・「三角縁神獣鏡」の内区の文様は、「画文帯神獣鏡」から
・「三角縁神獣鏡」の「三角縁」および外区の文様は「三角縁神獣鏡」から
・「三角縁神獣鏡」の大型化の傾向は「三角縁画像鏡」から?
・「三角縁神獣鏡」および「三角縁画像鏡」の外区は、・・・鋸歯文帯→複波文帯→鋸歯文帯。

「画文帯神獣鏡」も「画像鏡」も基本的に、中国南方系、揚子江流域系の鏡である。

 

鏡の直径が20cm以上であるものの割合について、中国出土の「画文帯神獣鏡」は1%程度であったものが、日本出土の「画文帯神獣鏡」は29.6%となり、「三角縁神獣鏡」は97.5%となる。日本では鏡が大きくなるのである。
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■日本各地で製作された鏡
大化前代の、四世紀を中心とする時代において、各地にいた鏡作り氏の役目には、つぎの三つが考えられる。
(1)各地で、鏡作り部という部民をひきい、鏡を製作し、作った鏡を、各地の大和朝廷関係の豪族、あるいは、大和朝廷そのものに貢納した(生産品の貢上。貢納型の仕事)。
(2)各地の鏡作り部の工人などが、交代で故郷をはなれて畿内に上番[じょうばん](勤務につき)、中央で、大和朝廷の必要とする鏡を製作した。そのばあい、工人などの生活費などは、出身地の鏡作り氏が負担する(労働力の貢上。上番型の仕事)。
(3)中央の鏡作り氏が、渡来系の工人をかかえ、それらの工人の生活費などを各地の鏡作り氏が負担する(資養型の仕事)。
各地の鏡作り氏は、おそらく、この三つの役目を、ともにはたしていたのであろう。

 

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鏡が現地で鋳造されたことを示すのが、以下にのべるような事実である。
全国で、三面以上の三角縁神獣鏡の同型鏡が出土し、そのうちの二面以上が同じ古墳から出土しているケースをとりあげる。
すると、同じ古墳から出土している同型鏡は、面径が一致するという強い法則的傾向がみとめられる。このことは、葬儀にあたって、同じ古墳に埋納される同型鏡は、同時に鋳造されたことを強くさし示している。

つぎに、三つほど典型的な事例を示す。

[Ⅰ]奈良県の佐味田宝塚古墳や京都府の椿井大塚山古墳その他から出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡
この鏡の全国での出土地と面径とは、つぎのようになっている。
①滋賀県雪野山古墳(4号鏡)   24.1センチ
②奈良県佐味田宝塚古墳(9号鏡) 23.9センチ
③奈良県黒塚古墳(24号鏡)    23.7センチ
④京都府椿井大塚山古墳(M3)  23.7センチ
⑤静岡県赤門上古墳        23.7センチ
⑥兵庫県吉島(よしま)古墳    23.4センチ
⑦兵庫県吉島(よしま)古墳    23.4センチ

最大のものと、最小のものとでは、7ミリ違う。
鏡は、「踏み返し鏡」を作ると、面径が変化する。

この①~⑦を観察すれば、つぎのようなことがわかる。
(1)兵庫県の吉島古墳から出た二面の同型鏡は、同じ面径をしている(⑥、⑦)。これは、吉島古墳築造のさいに、見本鏡(原鏡)をもとに、同時に作られたことを強く示唆する。
(2)福永伸哉氏は、その著『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005年刊)において、これらの鏡を舶載鏡(輸入鏡)とする。しかし、中国大陸で製作されて、日本に運ばれ、時間を経てから各地で埋納されたものであれば、途中でばらばらになり、完全な同型鏡のみがたまたま同じ古墳に埋められることがくりかえしおきることは、ありそうにないことである。

[Ⅱ]奈良県黒塚古墳出土の「王氏作徐州」銘四神四獣鏡
①福岡県老司古墳       22.4センチ
②奈良県黒塚古墳(20号鏡)  22.3センチ
③奈良県黒塚古墳(32号鏡)  22.3センチ
④滋賀県古富波山古墳     21.9センチ
最大のものと、最小のものとで、5ミリ異なる。
福永伸哉氏は、これらの鏡も舶載鏡とするが、疑問がある。

[Ⅲ]大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡。
①大阪府紫金山古墳      24.4センチ
②大阪府紫金山古墳      24.4センチ
③福岡県沖ノ島17号遺跡    24.3センチ
④京都府百々池古墳      24.2センチ
⑤大阪府壷井御旅山古墳    24.0センチ
最大のものと、最小のものとで、4ミリ異なる。
やはり同一古墳から出土した同型鏡は、同じ面径をもち、異なる古墳から出土したものとは違う面径をもつ。

このような事例は、数多くあげることができる。
下垣氏の『三角縁神獣鏡事典』に示されているデータにもとづき、計算をしてみると、「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、80.0パーセントである。これに対し、「異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、23.4パーセントである。この二つの比率のあいだには、統計学的に、とうてい偶然とはいえない差が認められる(1パーセント水準で有意)。「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」のほうがはるかに大きい。つまり、同じ古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン同型鏡」がほとんどであり、異なる古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン踏み返し鏡」がほとんどであるとみられる。

測定誤差などを考慮し、1ミリ以内の面径の差は、誤差範囲とみなすとどうなるか。つまり、1ミリ以内の面径差は、「一致」の範囲に入れて同様の計算をすると、つぎのようになる。
「同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率」は、92.0パーセントである。これに対し、「異なる古墳から出土した同型鏡の面径の一致率」は55.5パーセントである。
一致率は、測定誤差などを認めないばあいにくらべ、ともに上がる。
しかし、二つの比率のあいだには、統計学的に、とうてい偶然といえない差が認められるという結論には、変わりがない(1パーセント水準で有意)。

同じ形式のものが、あるていどの期間のなかで(私、安本は、350年ごろから400年ごろまでの50年間ぐらいと考えるが)、くりかえし踏み返されているとみられる。(以上のような議論について、くわしく『季刊邪馬台国』68号所載の拙稿参照)。

 

■中国出土の鏡
・位至三公鏡の分布
「位至三公鏡」は、中国では洛陽を中心に分布する。わが国では、福岡県を中心とする北九州から主に出土する。大阪からは出土例があるが、奈良県からは、確実な例がない。

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洛陽の「洛陽晋墓」をとりあげよう(「洛陽晋墓的発掘」[『考古学報』2、1957年、中国・科学院考古研究所編、中国・科学出版社刊]参照)。
「洛陽晋墓」のばあい、総数54基の墓から、24面の銅鏡、7面の鉄鏡が出土している。
  杉本憲司・菅谷文則両氏の論文に、洛陽晋墓出土鏡について、右表のような表が示されている(「中国における鏡の出土状況」[森浩一編『鏡』社会思想社、1978年刊所収」)。

 私は、洛陽晋墓出土の變鳳鏡、半円方形帯神獣鏡(画文帯神獣鏡)、長宣子孫連弧文鏡(蝙蝠鈕座内行花文鏡)などは、むしろ晋代の鏡とすべきであると思う。杉本氏らの表の分類には、多少異論がある。ただ、前代の鏡が、かなり埋納されていることは読みとれる。

 

このように、洛陽で出てくる鏡は北九州から出土する鏡に多い。

3.四世紀崇神天皇時代の諸天皇の陵

崇神天皇陵古墳について、東京大学の考古学者、斎藤忠氏は、つぎのようにのべている。 「今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える・・・」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)

また、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も、「四世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの。」とされている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社刊)。

崇神天皇陵について、『古事記』『日本書紀』は、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の勾(まがり)の岡の上にあり。」(『古事記』)
「山辺(やまのへ)の道の上(へ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
現在、崇神天皇陵古墳は、たしかに、奈良県の山辺の道のほとりの、岡のうえにある。自然の丘陵地形をよく利用してつくられている。
現在の崇神天皇陵古墳の存在する場所は、『古事記』『日本書紀』の記述とよくあっている。
しかし、江戸時代には、現在の崇神天皇陵古墳[行燈(あんどん)山古墳、ニサンザイ古墳ともいう。ニサンザイは、ミサザキがなまったものとみられる]が「景行天皇陵」とされ、現在の景行天皇陵古墳[渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳]が「崇神天皇陵」とされたことがあった。
つまり、崇神天皇陵と景行天皇陵とが、いれかえて認識されていたことがあった。

景行天皇陵について、『古事記』『日本書紀』ぱ、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の上にあり。」(『古事記』)
「大足彦天皇[おほたらしひこのすめらみこと](景行天皇)を倭国(やまとのくに)の山辺の道の上(やまのへのみち)の陵(みさざき)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
  つまり、文献上は崇神天皇陵についての記述も、景行天皇陵についての記述も、ほとんど同じであって、区別がつかない。

崇神天皇陵の候補としては、崇神天皇陵古墳(行燈山古墳、ニサンザイ古墳)と、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の二つ以外には考えられないことについては、斎藤忠氏のくわしい考察がある(「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。
すなわち、斎藤忠氏は、つぎのようにのべる。
「現存する大和の古墳の上から見ると、古の城下(しきのしも)郡になり、山辺道の上にあって壮大な墳丘をもち、しかも最も古い時期におかれるものは、ミサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)と向山古墳(景行天皇陵古墳)との二つしかないのであり、この二つの古墳の被葬者をもって、記紀や『延喜式』に見られる葬地と照合することによって、崇神天皇陵・景行天皇陵とすることは最も適当とするところなのである。」

(1)図の「前方後円墳築造時期推定図」をみれば、崇神天皇陵古墳は、景行天皇陵古墳よりも、あきらかに、古い形式をしている。崇神天皇陵古墳を景行天皇陵にし、景行天皇陵古墳を崇神天皇陵にすれば、第十代の天皇で古い時代の崇神天皇の古墳が新しい形式をもち、第十二代の天皇で新しい時代の景行天皇の古墳が古い形式をもつことになってしまう。

(2)『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、吉備津彦を西の道(のちの山陽道)につかわし、丹波(たにわ)の道主(ちぬし)の命を、丹波(後の丹波・丹後。大部分は現京都府)につかわしたと記している。いわゆる「四道将軍」派遺の話の一部である。
そして、あとでややくわしくのべるが、岡山県の「吉備の中山」に、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳がある。この中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と平面図がほとんど相似形である。墳丘全長、後円部径などの測定値が、中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳の、ほぼ正確に二分の一である。つまり、古墳の形式は、その古墳のつくられた時期によってかなり異なるが、古墳の形式からいって、崇神天皇陵古墳は、中山茶臼山古墳と、同時期のものであることが推定される。

また、京都府の竹野郡丹後町には、神明山(しんめいやま)古墳といわれる前方後円墳がある。日本海側で、一、二の規模を誇る古墳である。この古墳も、崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほとんど相似形である。私は神明山古墳は、丹波の道主の命の墓である可能性もあると思う。
現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。

このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳は共通性があり、現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。
このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳の三つは、古墳の形式でも、『日本書紀』の記述でも、たがいにつながることとなる。

『陵墓要覧』は、宮内省諸陵寮の職員の執務の便のために編纂されたものである。
大正4年(1915年)10月調べのものが、12月28日に印刷されている。それが最初のもので、以後、地名の変更などにともない、数回にわたる改訂版がだされている。



4.『魏志倭人伝』を読む

次回と一緒にまとめる予定。


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