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第334回 邪馬台国の会
北部九州における神功皇后伝承
神功皇后と邪馬台国論争
河村先生・安本先生対談


 

1.北部九州における神功皇后伝承(河村哲夫先生)

■講師:河村哲夫先生略歴334-01P
九州大学法学部卒、立花壱岐研究会会員、日本ペンクラブ会員、福岡県文化団体連合参与、全国邪馬台国連絡協議会九州支部副代表、福岡県朝倉郡筑前町在住、他講師及び著書多数。

奴国の中心地や甘木朝倉地方を中心とした神功皇后伝承の話。

(1)博多は古代の奴国
■博多の地図
福岡付近の地形を見ると、金印出土の志賀島に、志賀海神社があり、御笠川と那珂川に挟まれたところに、住吉を祭る住吉神社がある。志賀海神社と住吉神社の間の多々良川付近に神功皇后の本拠の香椎宮がある。その北東に立花山がありイザナギ、イザナミを祭っている。
御笠川は大宰府まで通じており、那珂川の流域が奴国の地域である。
このように、現在では埋め立てが進んでいるため、少し内陸に入っている住吉神社は博多古図で、入江の突端にあったことが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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■『新唐書』日本伝の冒頭の記事
空海をはじめ、日本側の者の情報を集め、作ったと思われる『新唐書』が参考になる。
①『新唐書』は中国唐代の正史で、北宋の欧陽脩(おうよう しゅう)らが編纂。嘉祐(かゆう)6年(1060年)成立
②『魏志倭人伝』など中国側の過去の情報と遣隋使・遣唐使の情報を統合
・遣隋使・・600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に6回派遣
・遣唐使・・630年(舒明2年)~894年(寛平6)までの264年間に13回派遣

■『新唐書』日本伝から読み取れることは
①日本のルーツは、「古(いにしえ)の倭の奴」という認識・・奴国は博多湾岸にあり
②初代の王は「天御中主(あめのみなかぬし)」という認識
③九州の「筑紫城」を拠点としていたという認識
④神武天皇が九州から「大和州に徒(うつ)した」という認識
『新唐書』では日本のルーツは、「古の倭の奴」という認識があったし、九州説であったことが分かる。

■記紀から
712年に成立した『古事記』から読み取れること
①高天原の初代の神は、「天御中主(あめのみなかぬし)命」という認識
・伊耶那岐神(イザナギノミコト)は天御中主命の末裔である。
②神々の故郷は「高天原」という認識
・イザナギや天照大神がいた場所
・イザナギが天照大神に高天原を治めよと命じた。
③奴国の記憶
奴(nag)の王→那珂(なか)の王→中(なか)の王→天御中主(なかぬし)神?

このように、奴国から発展していったと考えられる。


(2)伊耶那岐神(イザナギノミコト)の禊によって生まれた神々について
■禊の場所
・『古事記』 ・・「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
・『日本書紀』・・「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」

■禊に至った経緯
・イザナギはイザナミを追って黄泉の国へ行く。
・そして、蛆のわいたイザナミの死体を見たため、イザナミに追いかけられる。イザナギは筑紫に逃げ帰ったあと禊を行った。

■禊によって生まれた神々
①住吉三神
「底筒の男の命」「中筒の男の命」「上筒の男の命」⇒住吉神社の祭神
②ワタツミ三神
「底津綿津見の神」「中津綿津見の神」「上津綿津見の神」は「阿曇(あずみ)の連(むらじ)」の祖先神 ⇒志賀海神社の祭神

■「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」はどこか
第1説・・福岡市博多区住吉の住吉神社付近(博多湾岸説)
第2説・・宮崎県大字塩路の住吉神社付近(宮崎説)
第3説・・鹿児島県末吉の住吉神社付近(鹿児島説)

(参考)貝原益軒は福岡市博住吉神社の地とする(『筑前国続風土記』)
貝原益軒(1630~1714)は「筑前の国のなかで、小戸は姪浜にある。立花(橘)は糟屋郡および怡土(いと)郡にある。阿波岐原という地名が志摩郡と筵田(むしろだ)郡にある」(『筑前国続風土記』)とし、本居宣長もこの説に賛同している。


(3)戦後史学の基本的潮流
■日本古代史の外国人向け情報
『英語で話す「日本」(Talking About Japan)』(講談社)による外国人への日本紹介で、「・・・『古事記』『日本書紀』という日本の古代歴史を記録した本によりますと、日本の初代の天皇は神武天皇となっています。紀元前660年のこととされています。しかし、事実として証明されたことではなく、『古事記』『日本書紀』共に8世紀になってから編纂されたものですから、神話として作られたものという説が有力です。実在した可能性があるのは、第10代の崇神天皇からと言われていますが、記録が残っているのは、592年から628年まで実在した第33代推古天皇からです。・・・」と書かれている。
これを外国人が読んだらどう思うか、存在しないと証明されていないのに、古代の天皇を抹殺している。

■太平洋戦争の終結による教育転換
わが国は米軍を主力とする連合軍の占領下に置かれ、天皇の絶対的権威と戦前・戦中の歴史教育のいっさいが否定された。

■『古事記』『日本書紀』神話の追放
日本の神話についても、天皇の支配者としての地位を正当化するために大和朝廷の役人が机上でつくりあげたものであるとされ、『古事記』『日本書紀』は教科書から追放されてしまった。

■唯物史観史学や考古学の盛行
唯物史観史学や「モノ」に語らしめる考古学の研究が盛んになり、記紀神話が徹底的に否定され、記紀神話を虚構とみる説は、現在ではほぼ常識となっている。

■古代天皇の否定・抹殺
このような風潮のなかで、初代神武天皇はもちろん、多くの古代天皇の実在が否定され、「高天原論争」や「高千穂論争」など、戦前大いに議論されていた問題も無意味なものとされ、神功皇后についても、想像上の人物であるとする説が学界の多数説を占めるようになった。


(4)神功皇后について
■『岩波日本史辞典』に書かれた神功皇后
神功皇后の紹介で、「説話的要素が多く創作上の人物ともされている」として、「らしい」、「言われている」とあいまいな言い方で、神功皇后を抹殺している。

また、「朝鮮半島に関する記述は、干支二運(120年)引き下げると史実にあう部分も存在する。『日本書紀』は『魏志倭人伝』を引用し、卑弥呼を神功皇后と比定する」としている。

この『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后と比定していることは、明らかに時代が合わない。

■神功皇后が活躍した時代
①『日本書紀』による神功皇后の生没年は西暦170年~269年(享年100歳)
②卑弥呼の活躍年代は、西暦180年ごろから247年ごろ
・『日本書紀』の編者は「神功皇后=卑弥呼」とみている。
③安本美典先生の「統計的年代論」
・『日本書紀』は年代を誤っているのではないか。
・神武天皇が紀元前660年に即位したとする記事がその代表例。その当時、はいまだ縄文時代。中央集権的な国家をつくれる段階には到達していない。
④「統計的年代論」によれば、次のとおり。


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これからみると、神功皇后の活躍年代はおおよそ390~410年で、4世紀後半から5世紀初頭の人物であったと推定される。広開土太王碑の碑文にもあう。もちろん卑弥呼ではない。


(5)北部九州にのこされた膨大な神功皇后伝承
神功皇后伝承地は北部九州で3000ヶ所、福岡県だけで750ヶ所となる。

一番南は日向の都農神社で、北は対馬の突端部である。334-.03


(6)神功皇后が福岡に至るルート
本州から来て豊浦宮に滞在する。関門海峡から風師山、小森江、小倉を経て皿倉山、帆柱山に登っている。山鹿島の江川を経て遠賀川河口に至る。

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岡湊から西川を経て、香椎宮へ行き、福岡では香椎宮(福岡市東区香椎)を拠点とする。

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この香椎宮で仲哀天皇が亡くなる。334-06

(7)香椎・甘木朝倉コース
香椎宮から大己貴神社に行く。

■『日本書紀』の記事
神功皇后は宝満山の近く層増岐野(そそぎの)で羽白熊鷲(はしろくまわし)を討つ。その時、「熊鷲を取り得(え)つ。我が心則(すなは)ち安(やす)し」と言った。そこで名付けて「安(やす)」といったと伝えられている。

この付近は山岳地帯となる。ルートは宝満山から砥上岳の近くを通り小石川に至るわけで、山岳地帯を通ったことになる。
実際、神功皇后伝承は尾根伝いにある。

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■甘木朝倉地域の神功皇后伝承
砥上から来る。

・砥上岳(筑前町)
中腹の「ひずめ石」・・神功皇后が乗った馬のひずめの跡がついた岩であるという。
七合目付近の「みそぎのはる」・・そこで禊をしてから上に登らなければならない。
八合目付近の「さやん神」(「塞の神」)・・小石をピラミッドのように積み上げた塚らしきものがある。
九合目付近の「かぶと石」・・神功皇后が着用したといわれる大岩がある。
山頂の「武宮(たけのみや)」・・祭神は武甕槌(たけみかづち)神で、神功皇后によって祀られたと伝えられている。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)や春日大社(奈良県奈良市春日野町)の祭神とされているこの神は、古来、武神として崇められてきた。

・陣ノ内(筑前町三並)・・神功皇后の陣所が置かれた。

・栗田八幡宮(筑前町)=松峡宮
三神を祭っており、東(向かって右)が神功皇后、中央が八幡大神、すなわち応神天皇、西(向かって左)が住吉大神である。『日本書紀』の「松峡宮」とされる。

・目配山(筑前町)
山頂に一辺が一間(一・八メートル)ほどの四角い石がある。この石に神功皇后が座り、四方を眺めまわしたところから、目配山というようになったという。

・大己貴(おおなむち)神社(筑前町弥永)
『日本書紀』は、「秋九月十日、諸国に令して船舶を集め、兵を訓練された。ときに軍卒が集まりにくかった。皇后がいわれるには『これは神のお心なのだろう』と大三輪の神社を建て、刀と矛を奉納なされた。すると軍兵が自然に集まった」と書いている。
『筑前国風土記』逸文には、「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)が新羅を討とうと思って兵士を整備して出発されたときに、道の途中で兵士が逃亡してしまった。そのわけを占ってたずね求められると、すなわち祟っている神があった。名を大三輪の神といった。それでこの神の社を建てて、ついに新羅を征服なされた」とある。代々の宮司は、神功皇后に随行していた三輪大友主命君(おおみわのおおともぬしのきみ)の末裔である大神氏であった。

・増岐野(そそきの)――すすき原(朝倉市)
『日本書紀』によると、神功皇后は三月十七日に熊鷲を討つため、香椎宮から松峡宮に移ったが、「(三月)二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵を挙げて羽白熊鷲を殺した。そばにいた人に、『熊鷲を討って心安らかになった』といわれた。それで、そこを名づけて安(やす)という」とある。
層増岐野という地名については、夜須(安)地方のことではなく、怡土郡の雷山(らいざん)(福岡県糸島市・佐賀県佐賀市富士町)という説がある。『日本書紀通証』は、「ある人がいうには、怡土郡の雷山山中に層増岐野嶽というところ」と書いている。

・熊鷲塚(朝倉市)
矢野竹村に熊鷲塚があったが、寺内ダム建設に伴い、「あまぎ水の文化村」の敷地内に移されている。


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(8)斉明天皇と朝倉宮
■朝倉橘広庭宮(朝倉宮)を置く
『日本書紀』によると、斉明7(661)年、百済再興支援の要請を受けた斉明天皇は、皇太子の中大兄皇子以下を率いて九州へ向かった。3月25日に博多の那の津に到着し、5月9日に那珂川中流域の「磐瀬の宮」(福岡市南区三宅付近と推定されている)から「朝倉宮」に遷った。そのとき、「朝倉の社」の木を切り払って宮殿を造ったため、神の祟りを受け、宮殿は破壊された。宮中に鬼火が現われ、大舎人など近侍者に多くの病死者が出たという。そして、7月24日には斉明天皇自身が朝倉宮において68歳で亡くなった。8月1日に中大兄皇子は天皇の遺体を「磐瀬の宮」に移したが、この日朝倉山の上に鬼が現われ、大笠をつけて葬儀を見つめたので、人々はこれを怪しんだという。

■恵蘇八幡宮(朝倉市山田)
「朝倉宮」は「木の丸殿」とも呼ばれたともいい、その所在地について、従来は「朝倉町須川説」(旧宮野村下須川)が最も有力であったが、九州歴史資料館の発掘調査にもかかわらず発見されず、昭和51年3月に「朝倉町須川説」は一応否定され、現在では、「朝倉町山田説」に従い、「恵蘇八幡宮」境内に「朝倉木之丸殿旧蹟碑」が建てられている。

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(9)神功皇后と斉明天皇の行動の意味
■何ゆえに神功皇后は甘木朝倉を征討したのか
「卑弥呼=天照大神」であり、「邪馬台国=高天の原=甘木・朝倉」という安本美典先生の結論を前提に考えると、神功皇后の行動は「聖地奪還」ともいえる行動である。

■何ゆえに斉明天皇は朝倉宮を置いたのか
斉明天皇の行動は、大和政権発祥の地への「里帰り」ともいえる行動である。
「邪馬台」という発音は「山田」にも通じるともいわれている。安本美典先生も、「山田という地名と邪馬台との音の近似も、気になるところである」と述べられている(『邪馬台国への道』梓書院)。

 

(10)宝満川・筑後川・有明海コース
甘木朝倉地方で熊鷲を討伐したのち、神功皇后は筑後方面に軍団を移動しているが、その際にも宝満川を下り、筑後川に出ている。

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・蜘蛛塚(瀬高町大塚の老松神社)――田油津媛の墓と伝えられている。
女山に神護石があり近くに蜘蛛塚がある。

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(11)有明海・佐賀の嘉瀬川・唐津の玉島川コース
・堀江神社(佐賀市神野西二丁目)
  『肥後古跡縁起』によると、神功皇后の御座船が掘江に入港したという。

・與止日女(よどひめ)神社(佐賀県佐賀郡大和町大字川上)。
嘉瀬川(川上川)上流にあり。延喜式内社、旧県社であり、河上神社とも称し、淀姫神社とも書く。祭神は「與止日女神」であり、神武天皇の祖母の豊玉姫とする説と神功皇后の妹とする説が伝えられている。

・「玉島神社」(唐津市)
この神社の近くの公園に「皇后石」が陳列されており、神功皇后がこの岩石に立って鮎を釣ったという伝承が残されている。この石は「垂綸(すいりん)石」とも「紫台(しだい)石」とも呼ばれている。
神功皇后の玉島川での鮎釣りの故事にちなみ、実に明治初期まで男たちは玉島川での鮎釣りが御法度となり、女性だけしか鮎釣りをおこなうことができなくなった。

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(12)奴国の裂田溝(さくたのうなで)((筑紫郡那珂川町)
唐津の玉島川の方からスタートの香椎宮に戻る途中に山田というところに安徳台がある。ここに、神功皇后伝承と遺跡が一致するところがある。

■『日本書紀』の記事
「そこで神田(みとしろ)を定められた。儺の河(那珂川)の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。迹驚岡(とどろきのおか)に及んで大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ、溝を通すことを求めた。そのとき雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。時の人はそれを名づけて裂田溝(さくたのうなで)といった」(『日本書紀』)

①「迹驚岡」=「安徳台」
広さ23ヘクタールの広大な台地で、およそ50万年前に阿蘇山の噴火による火山灰が堆積してできた台地といわれている。平成13年、那珂川町教育委員会による発掘調査がおこなわれ、製鉄工房跡や日本最大級の建築物を含め130軒を超える住居跡が発見された。甕棺墓から出土した鉄矛・鉄戈・ガラス製管玉・塞杆状ガラス製品・ゴホウラ貝腕輪など王墓級の遺物も出土。

②「裂田溝」
「裂田溝」についても、那珂川町教育委員会による発掘調査がおこなわれ、「裂田神社」近くの水路の底から、花崗岩の固い岩盤が発見され、加工痕も確認され、『日本書紀』の信憑性が著しく高まった。

③神功皇后の実在を証明する遺跡
伝承と遺跡が一致する裂田溝は、神功皇后の実在を証明する最も重要で核心的な遺跡である。

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■裂田神社を迂回する裂田溝(B)

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■人為的に削られた花崗岩
・裂田溝と安徳台(迹驚岡)は、伝承と遺跡が一致し、神功皇后の実在を証明する最も重要で核心的な遺跡である。

■奴国の神々への献納
①神々に献納された神田
・神功皇后は何ゆえにこの地に水路を拓き、「神田」を作ろうとしたのか。
・その神とは一体何者なのか。神功皇后にとって、那珂川は、一体いかなる意味を有していたのか。
・そして、那珂川の氏神ともいえる「住吉三神」を、神功皇后は何ゆえことさら信奉したのか。

②奴国の記憶
・那珂川流域にはかつて栄えた「奴国」が存在していた。
・『新唐書』日本伝によれば、「日本は古(いにしえ)の奴」であり、奴国は日本のルーツとされている。
・那珂川流域は、イザナギの禊伝説の残る日本創生神話の舞台である。
・神功皇后は、このような歴史を熟知していたのではないか。
・であるがゆえに、神功皇后は難工事の末に水路を穿ち、「神田」を開墾して神々に献納したのではないか。

 

(13)神功皇后伝承の意義
■民衆が伝えた神功皇后伝承
①民衆-------名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。

②大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。

③地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。

④広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州の広い範囲で相互に連絡を取り合って神功皇后伝承を創作することは不可能である。

■先人への敬意を持つべき
『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』などの古代文献、氏族伝承、地域伝承、社伝、遺跡・遺物などに対して、謙虚にして真摯な姿勢で向き合わないかぎり、歴史の真相が見えてくるはずもない。
津田左右吉説およびその信奉者に盲従し、あるいは迎合して、記紀の編者を愚弄し、記紀の記事をもてあそび、ひねりまわして解釈し、複雑でゆがんだ観念論を紡ぎ出したとしても、歴史の真相が見えてくるはずもない。

2.神功皇后と邪馬台国論争 (安本美典先生)

(1)『日本書紀』の年代 334-16
神功皇后摂政元年は西暦201年にあたり、神功皇后摂政69年は西暦269年にあたる。
『日本書紀』神功皇后紀に、
「三十九年(西暦239年)。是年(ことし)、太歳己未(つちのとひつじ)。魏志(ぎし)に云(い)はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭の女王、大夫(たいふ)難斗米等(ら)を遣(つかは)して、郡(こおり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求(もと)めて朝獻(てぅけん)す。太守鄧夏、吏(り)を遣わして将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ。」とある。

■「升」と「斗」
『魏志倭人伝』に「難升米」とあるものが、『日本書紀』で「難斗米」となっているのは、『日本名跡大字典』(北川博邦編、角川書店、1981年)から、漢字の崩した文字が「升」と「斗」が似ていることが分かるので、写本の時に間違ったのではないかと考えられる。

■「景初3年」と「景初2年」
『日本書紀』は景初3年とあり、9世紀のものである『翰苑』も景初3年としているが、『魏志』の紹興本は景初2年とある。

『日本書紀』は『魏志倭人伝』を参考にしたとある。『続日本書紀(しょくにほんぎ)』称徳天皇神護景雲三年(769年)十月の条に下記がある。
「大宰府が[つぎのように]言上した。
この府は人間や物が多くにぎやかで、天下有数の都会であります。青年には学問をしようとする者が多いのですが、府の蔵には五経(周易・毛岼・尚書・春秋・礼記)があるだけで、三史・・・の正本がなく、 〔本を〕よみあさる人でも、広く学ぶ道がありません。そこでつつしんで申請します。歴代の史書をそれぞれ一部賜わり、それを管内で学習させ、学業を興隆させようと思います。
〔天皇は〕詔して、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』をそれぞれ一部賜わった。」
このように、奈良時代の日本には『三国志』(『魏志倭人伝』)があったことが分かる。

また、『翰苑』(竹内理三校訂解説 吉川弘文館1977年刊)は下記としている。
「『翰苑』は、現在、福岡県筑紫郡太宰府町、太宰府天満宮に伝来する、天下の孤本である。その書写の年代は、平安初期、即ち九世紀を下らず、・・・
従って本書は、九世紀に書写されたそのまま今日に伝来したものである。」

そして、井上幹夫「『三国志』の成立とそのテキストについて」(『季刊邪馬台国』18号、1983年刊)によると、
「『三国志』のテキストで注意すべきことは、現行の刊本は南朝宋の裴松之(はいしょうし)(372年~451年)の注によるものしか伝わらず、陳寿の原本系統の写本は現存しない。「南宋の紹興年間(1131年~1162年)に紹興本が刊行された。今日『魏志』三十巻を残すのみであるが、『魏志』としては現存する最古の刊本である。
さらに南宋の紹熙年間(1190年~1194年)に紹熙本が発行された。紹熙本原本は伝わらないが、慶元年間(1195年~1200年)に紹熙本を改修して刊行されたものが宮内庁書陵部所蔵の慶元版本である。
慶元本は紹熙本発行後十年以内に印刷されたもので、紹熙本の重版と推測される。中国の考証学者の多くも書陵部宋本を紹熙本と内容的に同質のものとみなしている。紹興本は縦を一九字、横を十行とし割注を小字で二行に記し、書陵部慶元本もこれにならつている。両書間の記述内容は細部を除いて基本的な相違は認められない。」
とある。

また、尾崎康(やすし)「『三国志』の宋元刊本について」(『季刊邪馬台国』18号~24号)から、
「いわゆる「紹煕本」は、福州建安での坊刻本(民間で刊行された本)である。建安の坊刻本は、営利出版であり、北宋初に統一国家・文治主義の権威にかけて厳密な校訂を施し、写本を初めて刊刻した官刻本にくらべて、本文が著しく劣る。いわゆる「紹煕本」は、刊記や校正者の名もみえないため、刊刻の事情を詳らかにしない。「紹煕本」と称されるが、紹煕(1190~1194)年間に刊行されたとみるのは、避諱(ひい)欠筆からみて誤りであることは明白である。」としている。

このようなことから、『翰苑』のように古くからある文献に記載されている「景初3年」の方が正しいのではないか。

■神功皇后は「卑弥呼」と「壱与」を兼ねている334-02P
『日本書紀』神功皇后紀の66年年に、
「六十六年。是年(ことし)、晉(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年なり。晉の起居(ききょ)の注に云(い)はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯(をさ)を重(か)さねて貢献(こうけん)せしむといふ。
・・・・
六十九年の夏四月(うづき)の辛酉(かのとのとり)の朔(ついたち)丁丑(ひのとのうしのひ)に、皇太后、稚櫻宮(わかさくらのみや)に崩(かむあが)りましぬ。時に年(みとし)一百歳(ももとせ)。・・・」
とある。
武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年は西暦266年で壱与の時代である。

このように神功皇后は神功皇后39年の記述の卑弥呼の時代と66年記述の壱与の時代とで、卑弥呼・壱与二代を当てはめている。

■神功皇后の在位年数
ここで、起居の注について下記がある。
起居注は、中国で天子の言行ならびに勲功を記した、日記体の政治上の記録。従って歴朝こ起居注があった。隋書、経籍志には晋代についても晋泰始起居注二十巻(李軌撰)ほか二十一部をあげ、日本国見在書目録の起居注家には晋起居注三十巻をあげている。なお晋書にも類似の記事はあり、武帝紀には「泰始二年(266)、十一月己卯、倭人来献万物」といい、同四夷伝の倭人条にも「泰始初遣使重訳入貢」としるしてある。三種を比べて、入貢の主体を倭女王とするのは本条だけであるが、この倭女王は、おそらく、魏志、倭人伝に、卑弥呼が死亡の後、一たん立てた男王が廃され、ついで立った「卑弥呼宗女壹(臺の誤りか)与、年十三」にあたると考えられている。ただ書紀は、この倭女王も卑弥呼その人と考えたのであろうとおもわれ、そこで、卑弥呼すなわち神功皇后とみなしていた書紀は、皇后の死をこの年のあとにおくこととしたのであろう。

このように、『日本書紀』神功皇后が在位69年で100歳で崩御したとしている。

世界で長く在位した王はルイ14世73年、ヴィクトリア女王65年であり、神功皇后の在位年数は長く、年代設定が疑わしい。

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また、『古事記』の記す天皇の没年と『日本書紀』の記す天皇の没年の差を見ると、古い天皇の時代になると差が大きくなる。仲哀天皇は162年も差がある。古い天皇ほど、年代設定に問題があることが分かる。

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(2)神功皇后の陵墓と鉄梃
■神功皇后の陵墓の所在地
『古事記』………狭城(さき)の楯列(たてなみ)の陵(みささぎ)
『日本書紀』……狭城の楯列の陵
『延喜式』………狭城の楯列池上陵

大和6号墳
奈良県奈良市佐紀町にある。佐紀盾列古墳群を構成する巨大前方後円墳のウワナベ古墳の陪塚にあたる。終戦後この地に駐屯した米軍の施設建設のために破壊されることになり、1945年(昭和20) 12月末から翌年の1月に急拠発掘された。径25mの円墳であり、墳丘裾に円筒埴輪が配列され、その内側で家形・きぬがさ形埴輪が出土し墳丘中央に粘土槨1基が築かれていた。大小の鉄鋋872枚が棺に直交ないしは平行して縦横に並べられ、鎌134 ・ 鍬139 ・ 鉄斧102 ・ 鉄鏃9・刀子284という多量の鉄製農工具と武器が出土した。また鎌6・斧1の石製模造品も伴出している。出土状態から、遺骸の埋葬されない副葬品槨と推定されている。注目すべきは大量の鉄鋋の副葬品である。慶州の皇南大塚南墳の1332枚に匹敵するものである。小形鉄鋋の長さの平均値は14.2cm、最小幅1.4cm、重さ20.8gで、大形鉄鋋は長さ36.3cm、最小幅6.8cm、重さ428.3gである。一定の法量をもつことが明らかにされており、小形鉄鋋の重さは漢いらいの1斤= 22.2gに近似する。鉄鋋の用途は鉄素材であるとともに、交換価値をもつ貨幣として流通していたものと推定される。そのことごとくは新羅・枷耶・百済からもたらされたものである。権力の象徴というべき鉄素材を保有したウワナベ古墳の被葬者は、王クラスであったことは疑いない。古墳の年代は副葬品から5世紀中葉から後半代に位置づけられる。6号墳の遺物は宮内庁書陵部で保管されている。なお同時に調査された5号墳は今日自衛隊の基地内に遺存している。


334-19

■鉄鋋
このように、神功皇后の陵墓の近くの佐紀盾列古墳群大和6号墳から鉄鋋が出土している。
また、『日本書紀』で、鉄鋋記事があるのは
①神功皇后紀46年条に鉄鋋40枚
②皇極天皇紀元年条(642年)鉄二十鋋
この2件だけであり、但し②の皇極天皇は古墳時代ではない。このことから古墳時代の神功皇后が鉄鋋を入手していたことは目立つ。

森浩一氏は、つぎのようにのべている(「古墳文化に現われた地域社会・畿内」『日本考古学講座』5〈古墳文化〉、河出書房刊)。
「大和六号墳は、単に陪塚の内容究明に役立ったばかりではない。われわれの興味をひくのは、鉄板の形状と鉄の埋蔵量が小古墳としては予想を飛びこえて多いことである。この鉄素材(鉄鋋)の形と大きさは、古代の著名な鉄産地であった南鮮新羅の主要な古墳から出土する鉄素材と類似し、五世紀代には大量の鉄が、素材のままで南鮮から輸入されたことがあるという推測が生じる。文献の研究成果からいっても四世紀後半から五世紀にかけては大和朝廷が南鮮侵略に成功していた時期であるから、大量の鉄素材の輸入も充分可能であったわけであり、この現象によって説明困難な大和朝廷の南鮮侵略の目的そのもののうちに鉄素材の獲得があったとも考えられる。鉄素材に限らず鉄製武器、工具が畿内中心部では四世紀から五世紀中頃にかけて、巨大な古墳には突然変化的に埋蔵量が増大している。実例は省略するが、このことは大和朝廷を中心とする有力な豪族が南鮮侵略によって多量の鉄を独占する方法を確保したことを示しており、彼らはおびただしい武器や農工具をこしらえ、武力においても生産力においても他地方の豪族達を圧倒し、やがては、この鉄の確保が彼らを支配する原動力となっていったのであろう。」

■大和朝廷と朝鮮半島
鉄鋋は、新羅の故郷、慶州の金冠塚などからも、多量に出土している。森浩一・石部正志(いしべまさとし)両氏は、この鉄鋋について、つぎのようにのべている(「古墳文化の地域的特色 5畿内およびその周辺」『日本の考古学Ⅳ―古墳時代』〈上〉所収、河出書房新社刊)。
「五世紀初頭を中心にした約一世紀間に構築された畿内の大古墳のうちで、多数の鉄製武器類を副葬する例は、河内の古市誉田(ふるいちこんだ)古墳群、和泉(いずみ)の百舌鳥(もず)古墳群がとくに顕著である。大和では、河内・和泉ほどではないが、おなじ傾向がこの佐紀古墳群と馬見(うまみ)古墳群にあらわれている。南朝鮮に鉄の産地があったことは『魏志』の東夷伝弁辰の条(「国鉄を出す。韓・濊・倭みな従ってこれを取る、・・・・・」)にうかがうことができるので、大和勢力の南鮮出兵の盛衰が古墳に副葬された鉄素材や鉄製品の増加や減少の傾向に関係があるとすれば、奈良盆地の古墳群のうちでも、この佐紀古墳群は南鮮出兵に関与したか、出兵の影響を直接につよくうける集団の古墳群と想定したい。」

このように、四世紀後半から五世紀にかけての大和朝廷の南朝鮮侵略を裏づける考古学的資料が、多数存在している。このような事実をみると。神功皇后の征韓伝承が、七、八世紀ごろに創作されたとする直木孝次郎氏や前田晴人(はると)氏(『神功皇后伝説の誕生』[大和書房])らの見解には、きわめて大きな疑問符を打たざるをえない。神功皇后伝承の核心的部分には、四、五世紀における大和朝廷の南朝鮮侵略の史的事実が、存在しているとみられる。

応神天皇陵や、仁徳天皇陵などは巨大な古墳である。それが突然現れる訳がない。崇神天皇陵や、景行天皇陵などを経てできたとみるべきで、応神天皇の前の天皇の存在を考えるべきである。

また、三韓時代は古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の時代で、それぞれが数十の部族国家に分れていた。
また、三国時代は朝鮮で、四世紀から七世紀にかけて、新羅・高句麗・百済の三国が鼎立した時代である。
『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后に当てはめているが、卑弥呼は三韓時代であり、神功皇后は三国時代である。時代的に合わないことが分かる。


■記紀の地名と『魏志倭人伝』の地名334-20
『日本書紀』の編纂者は、『魏志倭人伝』を、くわしく検討したはずである。
そして、魏の使が、邪馬台国へ来たルートを考え、ごく大まかにいって、そのルートを逆にたどるような形で、神功皇后が、朝鮮半島に出兵した形に描いているようにみえる。
そのため、『日本書紀』の「神功皇后紀」には、『魏志倭人伝』にみられる国名にあるていど対応する地名が、系統的にあらわれているようにみえる。

右の表のとおりである。
そして、『日本書紀』は、「山門(やまと)の県(あがた)」で、土蜘蛛(つちぐも)の田油津媛(たぶらつひめ)を誅したことなどを記す。また、すぐそのまえのところで、「安」(筑前の国夜須郡)にいたったことや、荷持田(のとりた)の村(ふれ)(筑前国夜須郡野鳥村[福岡県朝倉市秋月町野鳥の地]とみられる)の、羽白熊鷲(はしろくまわし)をほろぼしたことなどを記している。

現在の朝倉郡(甘木・朝倉地方)はまた、のちに、斉明天皇が、新羅とたたかうために、大本営をもうけた場所である。
この地は、斉明天皇、神功皇后、田油津媛(たぶらつひめ)、さらには、天照大御神や卑弥呼などの、何人もの女性のイメージが、重なりあって、揺曳(ようえい)する場所である。


(3)熊襲偽僣説とその説の発展
・本居宣長の「熊襲偽僣説」
「魏へ使いをつかわしたのは、みな、大和朝廷の使いではない。筑紫の南のほうで勢力をもつ、熊襲等の類であったものが、女王(神功皇后)の名前が諸外国にまでなりひびいているので、その使いであるといつわって、かってにつかわした使いである。大和の都にきたのであるとすれば、道程があわない。女王の都は、筑紫のうちにあったのである。」

・鶴峯戌申(しげのぶ)の『襲国偽僣考』
「昔、呉の流れをひく者がわが国の西辺に逃げて来て、その子孫が強大になり、錦のぬいとりのある絹織物を身につけ、城郭を築き、古くから漢字を用い、みずから王と称し、国号をたて、中国と通じ、あるいは新羅と通婚し、もし、意に合わぬときは、ふれ文をして侵略を行い、暦をつくり、年ごとの歴史を記し、寺を建て、銭貨を鋳造し、すべて中国のまねをして異ならなかった。」

・星野恒(ひさし)の「邪馬台国=山門県説」
東京大学の教授であった星野恒(1839~1917年)は、1982(明治25)年5月、『史学雑誌』第三〇号に、論文「日本国号考」を発表した。そのなかで、星野恒は、およそ、つぎのようにいう。
「卑弥呼は、西埵(せいすい)[西のほとり]の一女酋である。しからば、卑弥呼はだれか。『日本書紀』の「神功紀」にあらわれる土蜘蛛田油津媛(つちぐもたぶらつひめ)の先代であろうと考える。『神功紀』によれば、田油津媛は、山門県(筑紫の国)にいた。すなわち、邪馬台国である。卑弥呼の後をついだ壱与が、田油津媛らしい。」
(「日本国号考」『史学雑誌』第三〇号、1982年5月、『史学叢説』第一集所収)

・古田武彦氏の「九州王朝説」
なくなった井上光貞なども、論文「鉄剣の銘文-五世紀の日本を読む-」(「諸君」昭和53年12月号)のなかで、つぎのようにのべ、本居宣長の説と古田武彦の説との連続性を指摘している。
「古田氏は、倭王武の上表文は大和政権のではなく九州王朝のそれだとして、宣長ばりの所論を展開し、・・・」

古田説では、卑弥呼は甕衣姫(みかよりひめ)。甕衣姫は「筑紫国風土記」逸文では、筑紫君の祖となっている。筑紫の君磐井(いわい)は『日本書紀』に筑紫国造である。筑紫国造は『日本書紀』「孝元天皇紀」『旧事記』「国造本紀」などに、大彦の命の子孫となっており、大彦命を卑弥呼よりもまえの時代にもって行かなければ、甕衣姫は成り立たない。

佐伯有清編『日本古代氏族事典』(雄山閣 1994年刊)につぎのようにある。(「筑紫」の項)
「(筑紫の君は)筑後平野を本拠地とした豪族。筑紫国造の後裔氏族と考えられる。筑紫国造は孝元天皇の皇子大彦命を祖とし、継体朝に反乱して敗れた筑紫君磐井は『日本書紀』に筑紫国造とみえるが、筑紫君氏の国造就任は磐井の乱後のことであろう。そして乱後も、一族は七世紀後半に至るまで在地の代表的首長として存続したらしく、その墳墓として八女市の八女古墳群が比定されている。」

3.河村先生・安本先生対談

安本:
神功皇后の話は記紀をはじめ『万葉集』『風土記』『続日本紀』など全部の古文献に出てくる。それなのに存在を否定する人がいる。

河村:
前田晴人氏の本を読むと、実際に調査をしてないようだ。現地調査をしない、考古学的な調査をしない、全て近畿中心といった感じである。

安本:
直木孝次郎氏や前田晴人氏は確実に存在した証拠が無いから、存在しないとしている。しかし確実に存在した証拠がないということは存在しないということの証明にはならない。分からないということである。存在するという例は多くあるが、それを無視している。このような考え方は嘆かわしいことである。

河村:
イギリスには経験法があり、判例に基づいた法律である。誰が言い出したか分からない、誰が伝えたか分からない伝承はとりあえず信用しましょうといのが経験法の基礎である。
それが、日本人はいろいろな伝統、神社の信仰など、これまで持っていたものはつまらないものだとする。だから、安本先生が『日本書紀』『古事記』を引用するだけで、昔の亡霊だとする人達がいる。戦後の価値観の急展開が根底あり、それにこだわって、あるか無いか分からないものは始めから無いとするように思われる。

安本:
考古学は慶応から始まったが、それはギリシャの考古学とか聖書の考古学から始まった。いわば神話・伝承に導かれて始まった。
しかし、今の日本では神話・伝承を一切否定して考古学をやろうとしているから非常に無理がある。年代を古い方へもって行こうとしているが根拠がない。それほど古く持って行ける訳がない。
また、今の日本の考古学は統一理論を目指していない。
いろいろな現象を統一的に説明できる理論がより本当に近い理論であるとすることである。日本の古代史で言えば、日本の古典も説明できる。考古学も説明できる。中国の文献も説明できるなどである。
ところが、統一理論を目指さず、ただ目の前のものだけを見て、そこから考古学的にはこれが正しいとして、一つ、二つのものから想像をはたかせて、これが正しいとする。

まだ話は続きますが、ホームページではこのあたりで終了します。


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