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第339回 邪馬台国の会
巨大古墳の被葬者をめぐって
『魏志倭人伝』を徹底的に読む


 

1.巨大古墳の被葬者をめぐって

■年号鏡と古墳
・三角縁神獣鏡が出土する古墳は4世紀以降である
天皇一代10年説で、崇神天皇の時代を推定すると、360年頃となる。
同じように、前方後円墳の年代を考える方法として、前方部幅墳丘全長比(Y軸)と前方部幅後円部直径比(X軸)の分布から推定すると下図のようになり、更に前方後円墳から出土する円筒埴輪の編年からも推定できる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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考古学の分野で、画期的な業績とされている円筒埴輪による編年を示された筑波大学の川西宏幸名誉教授は、崇神天皇陵古墳の築造年代を、「360年~400年」ごろとしておられる(川西宏幸著『古墳時代政治史序説』[塙書房、2012年刊]37ページ)。 339-02

2013年に104歳でなくなった東京大学教授であった考古学者、斎藤忠氏も、つぎのようにのべている。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)

 

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さらに、考古学者の森浩一・大塚初重両氏も、崇神天皇陵古墳を、「四世紀の中ごろまたはそれをやや下るもの」としている(『シンポジウム古墳時代め考古学』学生社、1970年刊)。
橿原考古学研究所の所員であった考古学者、関川尚功(せきかわひさよし)氏も、崇神天皇陵古墳の築造年代を四世紀後半~五世紀初頭とする(『季刊邪馬台国』42号、1990年刊)。

箸墓古墳の築造年代について
箸墓については、考古学者の斎藤忠氏がつぎのように主張しておられることも、主張の根拠が示されているので留意する必要がある。
「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体のうえからいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」
「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代』13巻1号)

このように、箸墓古墳は崇神天皇陵より新しいとしている学者もいる。

[崇神天皇陵古墳の築造年代は、古墳の築造年代推定の、一つの基準になりうる]
崇神天皇陵古墳は、円筒埴輪の編年からいっても、天皇の一代平均在位年数による年代論からいっても、西暦360年以後ごろと考えられる。信頼性が高いとみられる考古学的編年と、文献学的年代とが、ほぼ一致している。
崇神天皇陵古墳360年以後(360年近く)築造説は、諸古墳の築造年代考察の、一つの基準たりうる。

そして、三角縁神獣鏡が出土している古墳は4世紀以降であると考えられる。
ここに三角縁神獣鏡の紀年銘の年代と大きくずれることになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
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・日本出土の紀年銘鏡
日本出土の紀年銘鏡を年号順に並べた一覧表がある。
(下図はクリックすると大きくなります)
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この表こにおける⑤の景初三年の銘文について、下垣仁志(しもがきひとし)氏『三角縁神獣鏡研究辞典』(吉川弘文館)で読み下し文にしている。
原文:「景初三年 陳是作鏡 自有経述 本是京師 杜地(命)出 吏人詺之 位至三公 母人詺之 保子宜孫 壽如金石 兮」

「景初三年。陳氏鏡を作るに、自づから経術有り。本は是れ鏡師にして、杜地に(命)出す。吏人之を買はば、位は三公に至らん。母人之を買はば、子を保ち、孫に宜しかん。壽ひは金石の如からん。」

しかし「経述」は儒教の書を意味し、四書五経に通じていたと解釈すべき。
次に、「京師」を「鏡師」として、京を鏡に置き換えているが、この京は都で洛陽にいた人を表したものではないか。次に、「吏人之を買はば」としている、この「詺」を「めい」と「まい」は同じであろうとして、買うとしている。しかし「この鏡に名を付けて愛用すれば」の方が良いのではないか。また、「壽(さいわい)ひ」は「命ながし」の方が良く、「長生きします」とした方がよい。

このように鏡の銘文に意味がある。しかし意味が分からない銘文もある。
表⑥の黄金塚古墳の景初三年の鏡は「景初三年陳是作詺詺之保子宜孫」とあり、漢文として意味をなしていないところがある。これは漢文を理解できないものが景初三年もしくは景初四年銘の鏡の銘文の一部を拾い上げて並べたためと考えられる。
明らかに、同じ景初三年鏡の鏡とは違っている。この黄金塚古墳の鏡は他の景初三年の鏡と違うことから、景初三年に製作されたものとは思えない。

・景初三年の鏡は景初三年に作られたものであろうか?
森浩一氏は景初三年に作られたことに疑問をもっておられる。

森浩一著『古代史おさらい帖』(筑摩書房、2007年刊)
「『和泉黄金(いずみこがねづか)塚』の発行は、京都の綜芸舎(しゅげいしゃ)が担当した。綜芸舎の舎主は東洋史に明る 藪田嘉一郎で、1947年には『日本上代金石叢考』を出しておられた。綜芸舎との連絡は、京都に縁のあったぼくが当り、入稿や校正を進めることになり、藪田さんとお会いする機会が増え、中国の関係史料を拝見したこともあった。藪田さんは、景初三年銘の鏡を中国鏡とすることに疑問をもっておられた。そうは感じたものの、そのころのぼくには理解する力はまだなかった。藪田さんはかなり後になって「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」を『日本上古史研究』(1952年)に発表され、自説を披露された。要旨は、和泉黄金塚出土の鏡は中国鏡まして魏鏡ではなく、”歴史的に由緒のある年号を使って後になって河内地方の支配者が日本で作った”と考えられた。」
「藪田説は、「景初三年」の年号があるだけで本場の中国鏡だとして一抹の疑問も感じない人々が大勢を占めていた当時は、さしたる反応はなかった。だが、1978年になって『大阪府史』(第一巻、古代篇1)でぼくが「景初三年をめぐる問題」のなかで。”十分検討すべき説”として解説した。このころには、後に述べるように和泉黄金塚を含む前期古墳そのものの年代を四世紀にまで下げて考えることが考古学界の主流になりだしたことからも、ぼくは藪田説に賛成するようになったのである。」

森浩一著『魂の考古学』(五月書房、2003年刊)
「僕は倭国にとって歴史的由緒ある年号をつけた銅鏡を、古墳時代になって日本で製作したとする仮説をもっている」

森浩一著『ぼくの考古古代学』(日本放送出版協会、2005年刊)
「また、三角縁神獣鏡には年号鏡が多いという特徴がある。多いといっても全体で五面だが、この年号鏡で使われている年号は、「景初」と「正始」である。どちらも『日本書紀』で知られている年号で、神功皇后のときに中国と交渉があった景初三年を神功皇后の三十九年とし正始元年を四十年として書かれている。したがって、三角縁神獣鏡に年号があるのは間違いないが、その年号どおりの古墳の年代ではないように思う。景初と正始は記憶されてよい歴史的年号だったのである。
ぼくが掘った景初三年銘の神獣鏡の出た和泉黄金塚古墳も、鏡の年号は239年だが、そんなに古い古墳ではなく、どう考えても四世紀の終わりぐらいの古墳である。場合によっては五世紀はじめで、年号との間には百年あまりのずれがある。」

森浩一著『古代史おさらい帖』(筑摩書房、2007年刊)
「ぼくの若いころ、日本にあるたいていの中華食堂でラーメン類を注文すると、龍の文様で飾った鉢がでてきた。それらの鉢の底部には、「乾隆(けんりゅう)年製」とか「大清乾隆年製」の句がついているのが普通だった。このことはたかがラーメンの鉢として軽視はできない。ではこれらの鉢は、清の乾隆年間(1736-95)に、しかも中国で作られたものであろうか。どう見てもそれらの鉢は安物で、乾隆年製ではない。」

「ところで岐阜県の多治見市、土岐市、瑞浪市(みずなみし)は、美濃焼とよばれる陶磁器生産の盛んな土地である。瑞浪市に荻(おぎ)の島(しま)窯址があって、明治時代の初年から明治二十二年の間に操業し、その間に近代産業としての電信用に必要な碍子をも焼いていた。碍子ばかりを焼いていたのではなく、日常生活用の鉢や茶碗も大量に作っていたが、窯にのこされた失敗品の底部には、大明年製、洪武年製、成化年製、道光年製などの製作年についての句がつけられていた。洪武は一四世紀、成化は一五世紀でどちらも明の時代、道光は清の時代の一九世紀前半のいずれも中国の元号。それらの元号を荻の島の陶工が明治になってから使っていたのである。
ぼくが以上のことを『アサヒグブフ』に書いて間もなく、多治見市にお住まいの現代の陶工から手紙をもらった。それによると、当時のスーパーの開店などで配る安価な陶磁器用にも「乾隆年製」の句を慣習としてつけたとのことであった。」

「そのころから、勤務先の大学の建物を新築することがつづき、その機会に校地の地下を調査する組織をつくった。大学は禅の名刹(めいさつ)の相国寺(しょうこくじ)の南、京都御所の北にあるのだから、近世には公家屋敷が並んでいた。これらの土地が古代や中世にも、さまざまに利用されていた様子もわかった。
そこからの出土遺物には、近世の陶磁器が多く、そのなかに伊万里焼の茶碗がたくさんある。それらの茶碗の底部には、たいてい「大明年製」の字がつけられていた。それらを集めてみるとすぐに百点ほどになった。そのなかに本当に明の年代に明の土地で作られた中国の陶磁器があるのかを陶磁器に明るい人に調べてもらったところ、大部分が日本の伊万里の製品であることがわかり、がっかりしたが、なるほどと感じた。」

・中国の文献は意外と速く伝播
紀年銘鏡が生まれた背景について考えてみる。
邪馬台国時代の中国での王朝は、
魏→西晋→東晋と続く、
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・『晋書』
井上秀雄訳注『東アジア民族史2』(東洋文庫 平凡社1976年刊)
『晋書』は、唐の太宗の勅命によって、644年または646年に編纂された。金春秋が唐の太宗に会ったのは、『晋書』編纂の4年ないし2年後のことである。それゆえ、とくに新撰と書かれたのであろう。」とある

そして、藤堂明保編『学研漢和大辞典』では648年に成るとあり、晋書の成立は644年、646年、648年の説があることになる。

『三国史記』「新羅本紀」に『晋書』のことが記されている。
二年(648)正月、唐に使臣を遣わして朝貢した。
王(28代真徳王)は伊飡の金春秋とその子、文王を唐に入朝させた。(唐の)太宗は光禄卿の柳亨に命じ、郊外で春秋をねぎらわせた。春秋が到着すると、太宗は春秋の儀表(外見)が英偉であるのをみて厚く持てなした。春秋が国学(国子監)にいって釈奠(学校で取り行なう先聖・先師の祭祀)と講論の参観を申し出ると、太宗はそれを許し、それから自分が書いた温湯碑・晋祠碑と新しく編纂した『晋書』(唐の房喬らが撰した東晋の正史。百三十巻。その中の宣武紀と陸機・王義之二人の伝論は唐の太宗の撰である)を賜った

『旧唐書』「新羅伝」
〔貞覬〕二十二年(648)〔新羅の〕真徳王は、王弟で宰相の伊賛干金春秋(いさんかんきんしゅんじゅう)およびその子文王を派遣し、来朝させた。太宗は詔して〔金〕春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授けた。〔金〕春秋は国学に行き、釈奠の儀礼と〔経典の〕論義を見たいと願いでた。太宗は〔これを許可し、さらにこれを〕記念して太宗の親撰の温湯碑・晋祠碑および新撰の『晋書』を賜わった。〔金春秋らが〕いよいよ帰国するにあたって、〔太宗は〕三品以上のもの包貶めて餞別の宴をはった。

このように、『晋書』は成立してから、648年成立ならその年、644年成立なら4年後に唐から新羅に伝わったことになる。

金春秋については、『日本書紀』にも記されている。
『日本書紀』「孝徳天皇紀」大化三年(647)
新羅(しらき)、上臣大阿(まかりだろだいあ)飡金春秋(さんこむしゆんしぅ)等(ら)を遣(まだ)して、博士小徳高向黒麻呂(はかせせうとくたかむくのくろまろ)・小山中中臣連押熊(せうせんちぅなかとみのむらじおしくま)を送(おく)りて、來(きた)りて孔雀(くさく)一隻(ひとつ)、鸚鵡(あうむ)一隻を献(たてまつ)る。仍(よ)りて春秋を以て質(むかはり)とす。春秋は、姿顔(かお)美(よ)くして善(この)みて談笑(ほたきこと)す。

この金春秋は後の武烈王で朝鮮半島を統一に向かう。
武烈王(ぶれつおう) 新羅第29代の王(在位654~661)、諱は春秋、諡は太宗。即位前に高句麗・日本・唐に使し、外交上の成功をおさめ金庚信と結び国軍の整備を計る。660年唐とともに百済を滅ぼして統一の基を築いた。

このように、文献の伝播が早いとすると、東晋の工人が日本に来て、鏡を作ったとして、『三国史』は成立しており、日本に持ち込まれていたと考えられる。景初三年とか、正始元年が特別の年号であることをも知っており、鏡に鋳込んだものと思われる。

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・日中の神獣鏡の出土数
右の表のように、神獣鏡では日本の方が数量は多いのである。当時、日本では鏡のニーズがあったので、日本へ中国(呉)の工人が来ることは考えられることである。

■三角縁神獣鏡の伝承と関係する古墳
・三角縁神獣鏡と伝承 12の例
伝承などを分析するとき、第十代崇神天皇の時代に、三角縁神獣鏡が作られたといえることになる。
三角縁神獣鏡と結びつくかとみられる伝承は、12例ぐらいはあげることができる。
それらの事例は、いずれも、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に集中している。
このことは、前の、「三角縁神獣鏡出土古墳群と造出しのある古墳群」をみれば、三角縁神獣鏡を出土した諸古墳の形態が、崇神天皇陵古墳の形態と垂仁天皇陵古墳の形態の前後に集中していることと合致している。
また、三角縁神獣鏡と結びつくかとみられる地の近くからは、銅鐸が出土していることが多い。
この二つは、重要なことと思える
すなわち、三角縁神獣鏡と結びつくかとみられる伝承について、
(1)その伝承は、第十代崇神天皇の時代から、第十二代景行天皇の時代までのあいたに巣中している。
(2)伝承地の近くから、銅鐸が出土していることが多い。

以上で、諸伝承を、ややくわしくのべるが、まず、の事例の伝承地だけを列挙しておこう。
①鏡作坐天照御魂神社[奈良県磯城(しき)郡田原本町八尾字ドウズ]
神宝が三角縁神獣鏡。近くの唐古・鍵遺跡から、銅鐸(近畿式銅鐸)の鋳型が出土。(第330回邪馬台国の会2014年6月22日)

②大岩山古墳群[滋賀県野洲郡野洲町冨波(とば)・小篠原・辻町]三角縁神獣鏡が出土。大量の銅鐸も出土している。御上神社の近く。

③森尾古墳(兵庫県豊岡市森尾市尾)正始元年銘三角縁神獣鏡が出土。近くに出石(いずし)神社がある。気比(けひ)銅鐸の出土地に近い。(第324回邪馬台国の会2013年11月24日)

④太田南5号墳[京都府竹野郡弥栄(やさか)町と中郡峰山町との境]青竜三年銘方格規矩四神鏡[日鏡(ひのかがみ)]が出土。崇神天皇時代の四道将軍の一人、丹波(たには)の道主(ちぬし)の命(みこと)の居地の伝承地の近く。(第328回邪馬台国の会2014年4月20日)

⑤椿井大塚山古墳[京都府相楽(そうらく)郡山城町椿井]32面の三角縁神獣鏡が出土。崇神天皇の時代に反乱をおこした武埴安彦(たけはにやすひこ)(第八代孝元天皇の子)の反乱伝承地の近く。(第329回邪馬台国の会2014年5月25日)

⑥黒塚古墳(奈良県天理市柳本町)三十三面三角縁神獣鏡が出土。奈良大学の水野正好氏は、近くに大海という地名のあるところから、黒塚古墳の被葬者として、崇神天皇の妃(みめ)の尾張大海媛(おはりのおほしあまひめ)か、尾張大海媛の生んだ皇子と考える。(第329回邪馬台国の会22014年5月25日)

⑦日岡(ひおか)古墳郡(兵庫県加古川市加古川町大野)1915年(大正4年)刊の『陵墓要覧』は、この地の日岡陵を、景行天皇皇后の、播磨稲日大郎媛(はりまのいなびのおほいらつめ)御陵とする。この地の南大塚古墳から、三角縁神獣鏡が出土している。

⑧備前車塚古墳[岡山県岡山市湯迫(ゆば)・四御神(しのごぜ)の境界]三角縁神獣鏡が11面出土。この古墳から出土した三角縁神獣鏡のうち5面の同型鏡が、静岡県の上平川大塚古墳、神奈川県の大塚山古墳、山梨県の甲斐銚子山古墳、群馬県の北山茶臼山古墳、三本木古墳などから出土している。これらは、いずれも、景行天皇時代の、日本武の尊と吉備の武彦の東征経路上にある。また、赤鳥三年銘鏡のでた山梨県の狐塚古墳、正始元年銘三角縁神獣鏡のでた群馬県の柴崎古墳なども、日本武の尊と吉備の武彦の東征経路上にある。伝承上も、三角縁神獣鏡も、吉備と関東とが結ばれている。(第328回邪馬台国の会2014年4月20日)

⑨会津大塚山古墳(福島県会津若松市一箕町大字八幡字大塚)仿製三角縁神獣鏡が出土している。崇神天皇の時代に、四道将軍として北陸につかわされた大彦(おおびこ)の命と、東海につかわさ武渟川別(たけぬなかわ)とは、相津(あいつ)[会津]で行きあった、という。(第328回邪馬台国の会2014年4月20日)

⑩宮山古墳(奈良県御所市大字室宮山)三角縁神獣鏡が出土している。この古墳は、古代政界の大立者であった武内(たけうち)の宿禰(すくね)の墓といわれている。武内の宿禰は、『日本書紀』によれば、景行天皇から仁徳天皇にわたる各朝に活躍したという。

⑪桜井茶臼山古墳[奈良県桜井市外山(とび)] 81面の鏡を出土。(第328回邪馬台国の会2014年4月20日)

⑫神原神社(かんばらじんじゃ)古墳(島根県大原郡加茂町神原) 景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土。

・崇神陵と景行陵
江戸時代には、崇神陵と景行陵とが、逆に考えられていたことがあった
崇神天皇陵について、『古事記』『日本書紀』は、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺の道(やまのべのみち)の勾(まがり)の岡の上にあり。」(『古事記』)
「山辺の道の上の陵に葬りまつる。」(『日本書紀』)
現在、崇神天皇陵古墳は、たしかに、奈良県の山辺の道のほとりの、岡のうえにある。自然の丘陵地形をよく利用してつくられている。
現在の崇神天皇陵古墳の存在する場所は、『古事記』『日本書紀』の記述とよくあっている。
しかし、江戸時代には、現在の崇神天皇陵古墳[行燈(あんどん)山古墳、ニサンザイ古墳ともいう。ニサンザイは、ミサザキがなまったものとみられる]が「景行天皇陵」とされ、現在の景行天皇陵古墳[渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳]が「崇神天皇陵」とされたことがあった。
つまり、崇神天皇陵と景行天皇陵とが、いれかえて認識されていたことがあった。
景行天皇陵について、『古事記』『日本書紀』はつぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の上にあり。(『古事記』)
「大足彦天皇(おほたらしひこのすめらみこと)(景行天皇)を倭国の山辺の道の上の陵に葬りまつる。」(『日本書紀』)
つまり、文献上は崇神天皇陵についての記述も、景行天皇陵についての記述も、ほとんど同じであって、区別がつかない。
「崇神天皇陵古墳」は、奈良県の柳本古墳群の北のほうに位置している。「景行天皇陵古墳」は、柳本古墳群の南のほうに位置している。二つの古墳のあいだの距離は、約600メートルである。
崇神天皇陵古墳も景行天皇陵古墳も、ともに谷をせきとめたいくつかの溜池を墳丘のふもとにめぐらせている。定形化する以前の初源的な周濠をもつ。

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さて、私は、現在の崇神天皇陵古墳は、ほぼ確実に、崇神天皇陵とみてよいと考える。その理由は、つぎのとおりである。
①最初の図の「前方後円墳築造時期推定図」をみれば、崇神天皇陵古墳は、景行天皇陵古墳よりも、あきらかに、古い形式をしている。崇神天皇陵古墳を景行天皇陵にし、景行天皇陵古墳を崇神天皇陵にすれば、第十代の天皇で古い時代の崇神天皇の古墳が新しい形式をもち、第十二代の天皇で新しい時代の景行天皇の古墳が古い形式をもつことになってしまう。このことは、「前方後円墳築造時期推定図」をみれば一目瞭然である。

②『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、吉備津彦を西の道(のちの山陽道)につかわし、丹波(たにわ)の道主(みちぬし)の命(みこと)を、丹波(後の丹波・丹後。大部分は現京都府)につかわしたと記している。いわゆる「四道将軍」派遣の話の一部である。
そして、あとでややくわしくのべるが、岡山県の「吉備の中山」に、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳がある。この中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と平面図がほとんど相似形である。墳丘全長、後円部径などの測定値が、中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳の、ほぼ正確に二分の一である。つまり、古墳の形式は、その古墳のつくられた時期によってかなり異なるが、古墳の形式からいって、崇神天皇陵古墳は、中山茶臼山古墳と、同時期のものであることが推定される。

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また、京都府の竹野郡丹後町には、神明山古墳といわれる前方後円墳がある。日本海側で、一、ニの規模を誇る古墳である。この古墳も、崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほとんど相似形である。私は神明山古墳は、丹波の道主の命の墓である可能性もあると思う。現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。
このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳の三つは、古墳の形式でも、『日本書紀』の記述でも、たがいにつながることとなる。

③崇神天皇陵の候補としては、崇神天皇陵古墳(行燈山古墳、ニサンザイ古墳)と、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の二つ以外には考えられないことについては、斎藤忠氏のくわしい考察がある(「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。
すなわち、斎藤忠氏は、つぎのようにのべる。
「現存する大和の古墳の上から見ると、古の城下(しきのしも)郡になり、山辺道の上にあって壮大な墳丘をもち、しかも最も古い時期におかれるものは、ミサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)と向山古墳(景行天皇陵古墳)との二つしかないのであり、この二つの古墳の被葬者をもって、記紀や『延喜式』に見られる葬地と照合することによって、崇神天皇陵・景行天皇陵とすることは最も適当とするところなのである。」

 

・黒塚古墳
黒塚古墳にも棺と槨とがある
崇神天皇陵古墳・景行天皇陵古墳・纒向緒古墳の位置の地図をみればわかるように、崇神天皇陵古墳や、纏向古墳群の近くに、黒塚古墳がある(奈良県天理市柳本町クロツカに所在)。
黒塚古墳からは、竪穴式石室と割竹形木棺が出土した。そして、三十四面の鏡(画文帯神獣鏡1、三角縁神獣鏡33)、鉄刀、鉄剣、鉄槍などが出土している。
奈良大学の考古学者、水野正好氏は、黒塚古墳のすぐ南西、JR柳本駅に接して、「大海」という地名のある(前述の地図参照)ことから、黒塚古墳の被葬者の候補として、崇神天皇の妃(みめ)の、大海媛(おほしあまひめ)と、その子の八坂入彦(やさかいりひこ)の命、大人杵(おほいりき)の命などの名をあげる(『サンデー毎日』臨時増刊1998年3月4日。なお、系図 参照)。
崇神天皇の時代をやや下るという意味で、時代的には、大略合致しているといえるだろう。
大海媛の子の淳名城入姫(ぬなきいりひめ)の命も、候補のなかにいれられるかもしれない。『日本書紀』によれば、淳名城人姫の命は、日本(やまと)の大国魂(おほくにたま)の神(かみ)を、穴磯(あなし)[穴師兵主(あなしひょうず)神社のあるところ]や、大市(おほち)(箸墓のあるところ)にまつったという。淳名城入姫の命の「淳(ぬ)」は、「沼(ぬ)」の意味に解釈されうる余地があり、「黒玉(ぬばたま)」の語源説に、「沼-泥-黒」の意味変化を想定するものかある。「黒塚」の「黒」と結びつくかもしれない。
崇神天皇陵古墳のまわりの諸古墳を、崇神天皇の近親者の墓とみるのは、有力な仮説といえよう。
崇神天皇陵古墳の近くに、景行天皇陵古墳があるが、景行天皇は、崇神天皇の孫であり、景行天皇の皇后は、八坂(やさか)の入媛(いりひめ)である。八坂の入媛は、崇神天皇と大海媛とのあいだに生まれた八坂入彦の命の娘である。
黒塚古墳を、崇神天皇の妃の大海媛(おほしあまひめ)や、その子の淳名城入姫(ぬなきいりひめ)などの墓とみるのは、比較的自然な考えかたといえよう。

 

・桜井茶臼山古墳
桜井茶臼山古墳は、奈良県桜井市外山(とび)にある。81面の鏡などを出土している(『日本考古学』第34号、[日本考古学協会、2012年10月刊]参照)。
桜井茶臼山古墳の被葬者については、崇神天皇の時代に活躍した四道将軍の一人、大彦(おおびこ)の命その人にあてる説[塚口義信(つかぐちよしのぶ)氏。『季刊邪馬台国』108号参照]や、崇神天皇の皇后で、大彦の命の娘の御間城姫(みまきひめ)にあてる説(志村裕子氏。『季刊邪馬台国』108号参照)などがある。
桜井茶臼山古墳からは、正始元年銘三角縁神獣鏡が出土している。
桜井茶臼山古墳も、竪穴式石室とコウヤマキ製の木棺(割竹形木棺とみられる)が、出土している。

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・神原神社古墳
島根県にあり、「景初三年」の銘のある三角縁神獣鏡が出土したことでしられる「神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)」をとりあげよう。

崇神天皇の時代におきたとされる奇妙な事件から、話をはじめよう。
『古事記』『日本書紀』によれば、大国主の命は、国譲りをし、高天の原から天下った天(あま)の穂日(ほひ)の命が、出雲の国造(くにのみやつこ)の祖先となった。つまり、天の穂日の命の系譜の人が、出雲を治めることになった。
『日本書紀』の「崇神天皇紀」に、つぎのような話がのっている。
「崇神天皇は、群臣たちにのべられた。
『天の穂日の命の子の武日照(たけひなてる)の命が、高天の原からもってきた神宝(かむたから)が、出雲の大神(おおかみ)の宮[杵築(きづき)大社(出雲大社)、または、熊野大社]におさめられている。
朕は、それを見たいと思う。』
そこで、饒速日(にぎはやひ)の命の子孫の武諸隅(たけもろすみ)というものを出雲につかわして、神宝をたてまつらせた。
このとき、出雲の臣(出雲の国造家)の遠祖の出雲の振根(ふるね)が、神宝をつかさどっていた。その出雲の振根は、たまたま、筑紫の国(北九州)にでかけていて、武諸隅に会うことがなかった。
そこで、出雲の辰根の弟の飯入根(いいいりね)が天皇の御命令をうけたまわって、神宝を、弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と、飯入根の子ども 鸕濡渟(うかずくぬ)にさずけて、武諸隅を通じて、献上した(系図参照)。

ところが、出雲振根は、筑紫から帰ってきて、話を聞き、弟の飯入根を責めた。
『なぜ、数日待てなかったのか。何をおそれて、出雲の支配権の象徴である神宝をわたしてしまったのか。』
出雲振根は、年月をへても、飯入根に対するうらみがおさまらなかった。結局飯入根をだましうちにして殺してしまう。
そこで、飯入根の弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と、飯入根の子どもの鸕濡渟(うかずくぬ)とが、朝廷にでかけ、くわしく状況を奏上した。
そこで、朝廷では、吉備津彦(きびつひこ)と武渟河別(たけぬなかわわけ)の二人の将軍をつかわして、出雲振根を殺した。
出雲の臣たちは、このことをおそれて、しばらくのあいだ、出雲の大神を祭らなかった。このとき、丹波の国の氷上(ひかみ)の地の氷香戸部(ひかとべ)というひとが、皇太子の活目(いくめ)の尊(みこと)(のちの垂仁天皇)に、つぎのように申しでた。
『わたしに、小さな子がいます。その子が、ひとりでに申しました。
玉のような水草のなかに沈んでいる石。出雲の人が祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く、活力を振う立派な神の鏡。水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御魂(みたま)・沈んでかかっている立派な神の鏡。水底の宝、宝の主。
これは、小さな子どもが言うことばとは思えません。あるいは、神がついて言っていることばでしょうか。』
そこで、皇太子は、このことを、天皇に申しあげた。そこで、天皇は、みことのりを下して、祭らせた。」
この文の最後に、「(崇神天皇が、)みことのりを下して、祭らせた。」とある。

この文は、どう理解すべきか。
さきの文の神のことばめいた子どものことばのなかに、「鏡」がでてくる。
武日照(たけひなてる)の命が、「高天の原」からもってきた「神宝」とは、「鏡」だったのだろうか。
その「神宝」とは別に、出雲の人が祭る鏡があったのだろうか。
「崇神天皇が、みことのりを下して、祭らせた」とき、朝廷は、「神宝」を出雲の臣らに返却したようにもみえる。というのは、崇神天皇の時代のあとの、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」の二十六年八月条に、垂仁天皇は、物部の十干根の大連を、出雲の国につかわして、「神宝」を点検させているからである。
やはり、「神宝」を返却して、出雲の臣たちに祭らせたのであろう。
菅原道真(すがわらみちざね)編の『類聚国史(るいじゅうこくし)』の巻十九、「国造(くににみやつこ)」の項の天長7年(830)4月2日の条に、つぎのような文がある。
「淳和(じゅんな)天皇は、大極殿におられて、出雲の国の国造の出雲の臣・豊持のたてまつった五種の神宝と、あわせて、出雲の国で産出した雑物とをご覧になった。」
この文だと、「神宝」は、五種となっている。
さきのこどものことばのなかに、「玉のような水草のなかに沈んでいる石[原文は、玉萎鎮石(たまものしずし)]」とあるから、「神宝」のなかには、「玉」もふくまれていたのであろうか。
かれこれ考えあわせると、出雲の大神の宮におさめられていた「神宝」のなかに、「鏡」がふくまれていたようにみえる。

「神宝(かむたから)」と神原神社古墳
江戸時代に、出雲松江藩士の黒沢長示(ながひさ)(?~1737)のあらわした『雲陽誌(うんようし)』という本がある。
神原神社古墳は、現在、島根県雲南(うんなん)市加茂町の「神原」にある。この「神原」の地のことが、『雲陽誌』に記されている。
すなわち、『雲陽誌』の大原郡「神原(かむはら)」の条に、つぎのようにある。
「兄塚(あにづか) (出雲)振根の墓である。塚のうえに古木がある。
すくも塚 (飯)入根の墓である。松の老樹がある。
大舎押(おおちゃうす) 神原中の高山である。むかし、振根がかくれたところである。」

そして、現地では、円墳の宿米塚(すくもづか)古墳を、飯入根の墓と伝えている。
「兄塚(あにづか)」と伝えられているものは、発掘の結果、経塚[経典をながく後世に伝えるために、筒(つつ)などにいれて、地中にうずめ、塚を築いたもの]であって、古墳ではなかったという。あるいは、伝承の過程で、誤りを生じたもので、最初三年銘の三角縁神獣鏡が出土したことでよく知られる「神原神社古墳」が、出雲振根の墓である可能性もあるのではないか。
「経塚(きょうづか)が、音から、「兄塚(けいづか)と誤られ、「兄塚」になったか。

「神原神社古墳」について、大塚初重氏ら編集の、『日本古墳大辞典』(東京堂刊)は、つぎのように記す。
(ただし、傍線は安本。)
「神原神社(かんばらじんじゃ)古墳
島根県大原郡加茂町神原(かんばら)にあり、斐伊川(ひいがわ)の支流、赤川左岸の微高地の先端部に立地していた。一辺25×29メートルの方墳で、一部に周掘が認められ、高さは5メートル以上あったと推定されている。
赤川の川幅拡張工事のため1972年(昭和47)に調査され、長さ5.8メートル、幅約1メートルの割石小口積みの竪穴式石室が発見された。石室内には割竹形木棺の痕跡があり、副葬品には景初三年銘の三角縁神獣鏡1をはじめ、素環頭大刀・鉄剣・鉄鏃・鉄鍬・鉄鎌・鉄斧・鑿(のみ)・錐(きり)・鉇(やりがんな)・針などがある。また、石室外の墓壙内からは、壺5と朱魂を埋納したピット[くぼみ。立て抗(あな)]が発見された。
さらに石室の蓋石上部からも多数の壺と器台形の土器が出土し、葬送にかかわる供献土器群とみられる。
出雲地方最古の古墳の一つであり、景初三年の紀年銘を有する神獣鏡出土古墳として、大阪府黄金塚古墳とともに重要視される。本古墳は調査後消滅したが、石室のみは隣接地に移築復原された。[文献] 前島己基・松本岩雄「島根県神原神社古墳出土の土器」考古学雑誌62-3、1976。蓮岡法暲「古代」加茂町誌、1984。」

神原神社古墳は、竪穴式石室の見出されていることなどから、ほぼ四世紀代に築造された古墳とみられ、崇神天皇陵古墳の築造年代に近いものとみられる。
そもそも、三角縁神獣鏡は、四世紀代を中心とする古墳から多数出土している。
「神原神社古墳」については、瀧音能之(たきおとよしゆき)著の『古代の出雲事典』(新人物往来社刊)に、つぎのように記されている。
神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)
大原郡加茂町神原。昭和47年(1972年)に斐伊川の支流・赤川の改修工事が行なわれ、川岸の神原神社が移転されることになり、その真下の古墳が調査された。これが神原神社古墳であり、復元規模29×25メートルの方墳で、高さは5メートルほどであったと推定されている。前期の古墳で、島根県では最も古い古墳の一つと考えられている。

この古墳を有名にしたのは、竪穴式石室から出土した景初三(239)年の銘をもつ三角縁神獣鏡である。239年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏へ使を送った年とされることから、卑弥呼に授けられた100枚の鏡のうちの一枚にあたると注目を浴びることになった。また、この地域は、『出雲国風土記』の大原郡神原郷にあたっており、大穴持命が神宝を積み置いたという伝承が記されていて、神宝とはこの鏡のことであるという説も出された。景初三年銘銅鏡や神宝の問題については、より慎重な検討が必要であろう。現在、神原神社は旧位置から南西50メートルほどのところに移されており、その横に神原神社古墳の竪穴式石室が移築されていて、見学できるようになっている。また、景初三年銘鏡をはじめとする大刀・剣・斧・鎌などの大量の副葬品は、一括して国の重要文化財に指定されている。
神原神社から赤川を渡り、北へ1.5五キロほど行くと加茂岩倉遺跡かおり、その北西約4キロには荒神谷遺跡かある。」
なお、比較的近くの、土井・砂遺跡の一号墳から、内行花文鏡の破鏡が一面出土している。土井・砂遺跡一号墳の築造年代は、出土土器の形式から、神原神社古墳よりも、やや古いかともいわれている。

さきに、出雲の国造(くにのみやつこ)家の系図を示した。
出雲振根や飯入根は垂仁天皇の時代に、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲(すもう)をとったことなどでしられる野見宿禰(のみのすくね)の伯父である。
『新撰姓氏録』は、「摂津国神別」のところで、さきの『日本書紀』の文にみえる「飯入根(いいいりね)の命」を、「天の穂日の命の十二世の孫」と記している。
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』の「国造本紀」では、飯入根の子の鸕濡渟(うかずくね)を、天の穂日の命の十一世の孫としでいる。
すなわち、「出雲国造」の条でつぎのように記す。

「瑞籬(みずがき)の朝(みかど)の御世(みよ)(崇神天皇の時代)に、天(あま)の穂日(ほひ)の命の十一世の孫の宇迦都久怒(うかつくぬ)の命を国造に定賜う。」

339-11天の穂日の命の何代目の子孫かという点では、文献によって、多少の異同がある。しかし、飯入根の命が、崇神天皇の前後の人であることは、『日本書紀』以外の文献でも、うかがえる。
神原神社古墳のある「神原」の地は、崇神天皇の時代の出雲地方を支配していた豪族家(国造家)の墓のあったところであると、『雲陽志』は、記している。
そして、この地の神原神社古墳から、1972年(昭和47)に、「景初三年」銘の「三角縁神獣鏡」が出土している。
『日本書紀』に記されている「神宝」が、この鏡のことではないか、と疑われる余地は、かなりある。
そして、「神原神社古墳」も、さきの『日本古墳大辞典』の文にあるように、「竪穴式石室(石槨)」と、「割竹形木棺」とをもっているのである。
すなわち、「棺と槨」とをもっているのである。


・森尾古墳
三角縁神獣鏡と結びつくかとみられる諸伝承十二の事例のうちの、③の「森尾古墳」をとりあげよう。
『日本書紀』の「垂仁天皇紀」の三年三月の条に、新羅の王子の天(あめ)の日槍(ひほこ)が、近江の国の吾名(あな)の邑(むら)に住んだのち、近江から若狭(わかさ)の国(福井県の西部)をへて、西の但馬の国(兵庫県の北部)にいたって住むところを定めたことが記されている。
天の日槍は、そこで、但馬の国の出嶋(いずし)(出石)の人である太耳(ふとみみ)[前津耳(まえつみみ)または前津見(まえつみ)ともいう]のむすめの麻多烏(またお)と結婚し、但馬諸助(もろすく)を生む。諸助は、但馬日楢杵(ひならき)を生み、日楢杵は、清彦(きよひこ)を生む。清彦は、田道間守(たじまもり)を生んだという。天の日槍の子孫は、代々但馬にいたようである。
また、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」八十八年七月の条に、天の日槍がもってきた神宝は、但馬の国にある、と記されている。
『古事記』では、天の日矛(ひぼこ)が持ってきたのは、八種の宝で、その八種の宝は、「伊豆志(いづし)の八前(やまえ)の大神(おおかみ)[伊豆志は、但馬(たじま)の国出石(いずし)郡)](つまり、八種の宝が、神社の神体)と記している。

『日本の神々 神社と聖地7 山陰』(谷川健一編、白水社刊)の「出石神社(兵庫県出石郡出石町宮内字芝地)」の項には、つぎのように記されている。
「豊岡市・出石町を中心とする北但馬(たじま)の地域には、新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)とその一族および従神を祀る古社が分布する。当社はその中核に位置し、式内名神大社、但馬一の宮として古代から崇敬を集めてきた。『延喜式』神名帳の但馬国出石郡二十三座(大社九座・小社十四座)の筆頭に『伊豆志坐(いずしにます)神社八座』とあり、天日槍が将来したという八種(やくさ)の神宝(かんだから)(『古事記』のいう珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・振風(かぜふる)比礼・切風(かぜきる)比礼・奥津(おきつ)鏡。辺津(へつ)鏡。ただし『日本書紀』本文は羽太玉(はふとのたま)一個・足高(あしだか)玉一個・鵜鹿鹿赤石(うかかのあかし)玉一個・出石小刀(いづしのかたな)一口・出石桙(いづしのほこ)一枝・日鏡(ひのかがみ)一面・熊野籬(くまのひもろき)の七種とし、一(ある)に云(いわ)くとして葉細珠(はほそのたま)・足高(あしたか)玉・鵜鹿鹿赤石珠・出石刀子・出石槍(ほこ)・日鏡・熊野籬・胆狭浅大刀(いささのたち)の八種とする)を祭神『出石八前(やまえ)大神』とし、天日槍の御霊(みたま)を併せ祀っている。」
このように、この神社の祭神は、天の日槍と八種の神宝である。

出石神社は、中世から、但馬の国の一の宮(各国の、由緒があり信仰のあつい神社で、その国第一位のもの)とされている。
室町時代の古図には、本殿を六角か八画かと思われる特殊な形式に描き、両側に七社ずつの末社を、かたわらに天日槍廟所と伝称する塚を描く。社殿は、永正元年(1504)に兵乱で焼けてからは、旧観を失ったという。
奈良時代に、すでに、但馬の国最大の神社であった。
さて、地図をみればわかるように、出石神社の近くに、森尾古墳(兵庫県豊岡市森尾市尾)がある。
森尾古墳は、円墳である。径約9メートル、高さ2メートルほど。
森尾古墳からは、「正始元年」銘の三角縁神獣鏡のほか、もう一面の三角縁神獣鏡と、方格規矩鏡とが出土している(計3面)。
森尾古墳からは、堅穴式石室が見いだされている。大塚初重氏らの『日本古墳大辞典』は、森尾古墳の築造年代について、「年代の決め手に欠けるが、四世紀末から五世紀初頭の年代を与えておきたい。」とする。
森尾古墳のすぐ近くに、中嶋神社がある(地図参照)。『延喜式』の神名帳にのっている神社である。
この神社の祭社は、田道間守(たじまもり)である。天の日槍の子孫である。

森尾古墳は、おそらく、天の日槍の系列の人の墓であろう。
出石神社や森尾古墳の北方、日本海の近くに、気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市気比字鷲崎)がある。ここからは、4個の。銅鐸が出土している。
森尾古墳のばあい、つぎのような点において、大岩山古墳群のばあいと共通している。
①天の日槍に関連した伝承地が近くにある。
②重要な三角縁神獣鏡が出土している。
大岩山古墳群のばあいは、わが国でもっとも古いかとみられる三角縁神獣鏡が出土している。
森尾古墳のばあいは、「正始元年」銘の年号鏡が出土している。
③近くから銅鐸が出土している。

339-12


 

2.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

■「黄幢(こうどう)」について
・『魏志倭人伝』の記述
46 正始六年難升米に黄幢
其六年詔賜倭難升米黄憧付郡假授

その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄憧(黄色いはた、高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮綬せしめた。

47 卑弥呼と卑弥弓呼との不和
其八年太守王頑到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯鳥越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告愉之

その八年(正始八、247)、(帯方郡の)太守王頑(おうき)が、(魏国の)官(庁)に到着した(そして、以下のことを報告した)。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。倭(国)では、載斯(きし)・鳥越(あお)などを(帯方郡に)つかわした。(使者たちは)(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。(郡は)塞(さい)の曹掾史(そうえんし)(国境守備の属官)の張政(ちょうせい)らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)檄(げき)(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。

『魏志倭人伝』によれば、正始六年(245年)、魏の皇帝は、倭の難升米(なしめ)に、帯方郡の太守を通じて、「黄幢(こうどう)」を与えたという。
正始8年(247年)に、帯方郡の塞(さい)の曹橡史(そうえんし)[国境守備の属官]の張政は、皇帝の詔書と黄幢を倭の地にもたらし、難升米にうけとらせた。

・烏形幢(うけいのはた)、日像幢(にちぞうどう)、月像幢(げつぞうどう)
ここで、「幢」の字は、『古事記』、『日本書紀』には使用例がない。しかし、『続日本紀(しょくにほんぎ)』や、律令の施行細則である『延喜式』、さらに、『文安御即位調度図(ぶんあんごそくいちょうどず)』などに使用例がある。
『続日本紀』では、「烏形(うけい)の幢(はた)」[巻第二、文武天皇、大宝元年(701年)春正月]のように、「憧(はた)」と訓(よ)んでいる。
岩波書店刊の新日本古典文学大系本の『続日本紀一』にはこの「鳥形の憧」などについて、つぎのように説明している。

339-13烏形幢
金盤の上に蓮花の台をとりつけ、その上に翼をひろげ頭をのばした金銅製の三本足の烏の像をすえる。その高さは三尺五寸。台の四か所から纓絡(ようらく)を飾りさげる。竿の長さは三丈。烏を北に向けてたてる。

日像幢
径三尺の銅の鋳物の円板に金薄を貼り、これに朱色で二本足の烏をえがき、長さ三丈の旗竿の先端にとりつける。竿には九輪を配する。

月像幢
径三尺の銅の鋳物の円板に金薄を貼り、これに月桂樹・蟾蜍(ひきがえる)・菟(うさぎ)等をえがき、長さ三丈の旗竿の先端にとりつける。竿には九輪を配する。月形の中にはひきがえるをえがくのが本来のもの。」
この説明のなかに、「三本足の烏」や、「ひきがえる」のことがでてくる。

『日本の神々 神社と聖地4 大和』(白水社刊)の、「鏡作坐天照御魂神社」の項(大和岩雄氏執筆)に、つぎのようなことがのべられている。
『磯城(しき)郡誌』には、つぎのように記されている。
「社伝に、本社は三座にして中座は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御魂(みたま)なり。伝へ言ふ。崇神天皇六年九月三日、此地に於(おい)て日御象(ひのみかた)の鏡を改鋳し、天照大神の御魂(みたま)となす。今の内侍所(ないしどころ)の神鏡是(これ)なり。本社は其像鏡(そのみかたかがみ)を、祭れるものにして、此地を号して鏡作(かがみつくり)と言ふ。佐座は麻気神即(すなわち)ち天糠戸神(あまのぬかとのかみ)なり。此神日(ひ)の御像(みかた)を作る。今の伊勢の大神是(日の御像)なり。右座は伊多神即ち石凝姥(いしこりどめ)なり。此神日像の鏡を作る。今の紀伊国日前(ひのくま)神社是なり。」
『古語拾遺』に、石凝姥の神に、天の香山の銅(かね)をとらせて、「日の像(みかた)の鏡」を鋳らせた、という記事がある。また、『日本書紀』の一書(ひとふみ)の第一に、「(天照大神の)象(みかた)を図(あらわ)し造りて」とある。

このように日の像(みかた)の鏡が日像幢と関係しているのではないか、日像幢が鏡の模様に入っていると考えられる。

・「天王日月」銘
わが国で前方後円墳が作られ、三角縁神獣教が埋納された時代、すなわち、崇神天皇~景行天皇のころ、中国の華南に、東晋(317~420)が存在した。
このころ、華北は、ほぼ、五胡十六国の時代であった。
ここで注目すべきことは、五胡十六国では、「天王」号がさかんに用いられていた。

さて、「天皇」のことを、「天王」とも記したことは、古く『日本書紀』に見える。
すなわち、「雄略天皇紀」につぎのような文がある。
①「百済新撰(くだらしんせん)に云はく、辛丑年(かのとのうしのとし)に、蓋歯王(かふろわう)(在位455~475)、弟(いろど)昆支君(こにききし)を遣(まだ)して、天王(すめらみこと)に侍(つかへまつ)らしむ。」(五年七月条)
②「二十三年の夏四月(うづき)に、百済の文斤王(もんこんわう)(在位四七九)、薨(みう)せぬ。天王(すめらみこと)、昆支王(こんきわう)の五(いつとり)の子の中に、第二末多王(ふたりにあたるまたわう)の、幼年(わか)くして聡明(さと)きを以て、勅(みことのり)して内裏(おほうち)に喚(め)す。」
いずれも、対外関係記事のなかにあらわれる。『百済新撰』などは、現在は、ほろびて存在しない。
『日本書紀』にのみ引用されている。

339-15

考古学者原田大六氏の考察
ここで思い出されるのは、考古学者原田大六氏(1917~1985)の、つぎのような発言である。
「『天王日月』の銘をもつ三角縁神獣鏡の背面にレリーフされている神像が、天帝である日月をあらわしているということは、東京国立博物館の原田淑人(よしと)(1885~1915)が早く説いているところである(「漢画象石に見ゆる怪物の意義に就いて」『考古学雑誌』五ノ一二 1915)。
福岡県沖ノ島祭祀遺跡や、山口県都濃(つの)郡宮州から出土している三角縁神獣鏡は、いうところの同笵鏡(どうはんきょう)である。この鏡にも『天王日月』の銘があるが、原田淑人の説をみごとに裏付けする構図からなっている。
その鏡の銘文『日月』の『日』は玄武(北)の方向に彫られた有翼の神獣に近く、『月』は朱雀(南)の方向に彫られた。これも有翼の神像側に近く書かれているだけでなく、 両神像と脇侍(きょうじ)との中間に描かれている笠松の下には、『日』の方向に烏、『月』の方向に『ひきがえる』を配している。 出土地は不明であるが、呉の天紀二年(278)の銘のある重列式神獣鏡の上方に三本脚の烏と『ひきがえる』がそれぞれ円環の中に描かれているのがある。また、これは高句麗の壁画古墳にも見られるものであって、三本脚の烏が『日』を、『ひきがえる』が『月』をあらわしているのは御存知であろう。また、『日月』という場合には、『日』は『月』の上位に立つものであるから、『日』は天子の御坐の方向である北に、『月』は南に坐しているのも争われない。

もちろん、烏側か日神、ひきがえる側か月神をあらわしている。天王といい日神月神といい、日本神話との関係を考えて、三角縁神獣鏡をすべて日本製でないかと考える人が出ただけに、どうも日本古代史とは切り離して考えられない問題を抱えている。」(『邪馬台国論争上』三一書房、1975年刊)

中国の神話では、太陽のなかにカラスがいるとされ、月のなかにヒキガエルがいるとされている。

小林行雄氏(京都大学・考古学者)
「(三角縁神獣鏡のなかには、)〈天王日月〉という四字句を、数力所くりかえしてあらわしたものがある。天王といい、日月といえば、日神月神を祖先とする天皇が統治者になるという、日本の神話に関係がありそうである。」(『古鏡』)

三角縁神獣鏡の「天王日月」が多いのはこのようなことが関係しているのかもしれない。
三角縁神獣鏡の銘などによる分類では「天王日月」86/375=23%で「文帯」の40%に続いて2番目に多い。

・笠松模様
「元日および即位には、宝幢をかまえ建てる。鳥像幢を建て、左に日像幢。右に月像幢。」
また、『文安御即位調度図』は、有職故実書(ゆそくこじつしょ)(礼式などの古来のきまりを述べた本)である。

339-16文安は、1444年~1449年の年号である。『文安御即位調度図』では、日像幢、月像幢などの大きさ、材質、色などについて、さらにくわしくのべている。

元宮崎公立大学教授の奥野正男氏はのべている。
「幢幡紋は、日本の考古学界では『傘松形図形』とよばれてきたものである。また、人によっては『松笠文様』などともよんでいる。この種の図形が三角縁神獣鏡のように内区主紋の神像や獣形の間に一個から五個にわたって配置されている例は、中国出土鏡のどの鏡式にも見ることができない。」
「日本にのみ出土する三角縁神獣鏡という鏡式にだけ狂い咲きのように盛行する事実の社会的契機もまた考えなければならない。」(『邪馬台国の鏡』新人物往来社刊)

三角縁神獣鏡の「笠松」は、日像幢や月像幢を描いたものであることを示しているのではないか。
奥野正男氏は、「笠松」文様は、卑弥呼に与えられた「黄幢(こうどう)」を描いたものであろうとする。

・黄幢について
「幢」は、中国で刊行されている『漢語大詞典』を引くと、つぎのようにある。
「一種の旌旗(せいき)[はた、のぼり]。垂れた筒形。飾として、羽毛がある。綿の繍(ぬいとり)がある。古代ではつねに、軍事の指揮、儀杖の行列、舞踏(ぶとう)の演じられるときに使用された。」(原文は、中国文)

なぜ、「黄色い」幢(はた)なのか
『魏志倭人伝』によれば、魏の皇帝は、倭国に、「黄幢」を与えた。
なぜ、「黄色い」幢を与えたのであろうか。
これも、いくつもの可能性が考えられる。
①三国時代、魏の国の帝位を、「黄祚(こうそ)」といった。魏は、五行思想で、土徳にあたるとされ、黄は、土の色とされた。すなわち、「黄」が、魏の国のシンボルカラーであった。
邪馬台国は、その南方の狗奴国と対立抗争していたので、魏は、「錦の御旗」的なものとして、「黄幢」を与えたと考える。『宋史』に、「幢は、方(くに)の色に随(したがう)う」とある。
なお、漢は火徳で、「赤」が漢の国のシンボルカラーであった。

②「黄」は、天子の服の色であった。「黄蓋(こうがい)」「黄屋(こうおく)」といえば、天子の車のきぬがさであった。「黄蓋」は、皇帝の車駕をもさした。
「黄旗(こうき)」は、天子の旗であった。
「黄麾(こうき)」は、天子ののる車の装飾品であった。『漢書』の顔師古(がんしこ)[唐の学者]の注に、「憧は、麾(き)なり」とある。「黄傘」も、皇帝の儀杖の一つであった。「黄鉞(こうえつ)」は、黄金で飾ったまさかりであるが、天子が征伐に出かけるときのしるしとして用いた。「黄門」は、「宮門」であった。
すなわち、「黄」は、皇帝そのもののシンボルカラーであった。
「黄幢」は、皇帝の権威を示す「錦の御旗」、「威信財」として与えられた。

③「黄幢」といえば、古代中国で、軍中において用いられた旗であった。諸橋轍次編の『大漢和辞典』の「幢」の説明に、「軍の指揮に用いるはた」とある。
『魏志倭人伝』によれば、「黄幢」は、直接的には、女王国の難升米に与えられている。難升米は、魏から、率善中郎将に任命されていた。中郎将は、宮殿警備の武官である。「黄幢」は、将軍旗として与えられたものと考える。諸橋轍次編の『大漢和辞典』に、「幢将(とうしょう)」の説明に、「禁衛の軍隊を統べるもの。幢は、百人の部隊をいう」とあり、「幢主(とうしゅ)」の説明に、「はたかしら」「一軍の司令官」とある。
「黄憧=将軍旗説」は、早稲田大学の教授であった水野祐(みずのゆう)氏が、『評釈魏志倭人伝』(雄山閣出版刊)のなかでのべている。


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