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第351回 邪馬台国の会
卑弥呼がもらった鏡
『魏志倭人伝』に記されている「絹」について
英雄阿弖流為(あてるい)の栄光と悲惨


 

1.卑弥呼がもらった鏡

『魏志倭人伝』には、「238年(景初二年)・・・・あるいは239年(景初三年)の魏の皇帝の詔書 親魏倭王卑弥呼へ銅鏡百枚を送った」とある。この銅鏡について、ある人は方格規矩鏡と言い、ある人は内行花文鏡といい、ある人は画文帯神獣鏡と言い、またある人は三角縁神獣鏡と言う。いろいろな説がある。方格規矩鏡は中国では新の王莽時代から現れ始める。そして、その少し後に雲雷文内行花文鏡が現れ始める。(前回の講演で説明)

王莽の貨泉がある。これが日本で多く出てくるのは、中国の後漢時代である。つまり日本に伝わるのに200年くらいかかったと考えられる。流雲文縁方格規矩四神鏡(中国南方長江流域、鄂州市出土のもの([鄂州』銅鏡(鄂州市博物館、中国文学出版社、2002年刊)]がある。(写真1、写真2)

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方格規矩鏡は中国では博局鏡(はっきょくきょう)と言っている。博局はすごろくをする台のことである。
前回の講演では北中国から出た方格規矩鏡を説明した。今回の方格規矩鏡は流雲紋の方格規矩鏡で、鄂州市出土である。これは西晋時代のお墓から出ている。


・土器から見た平原王墓の築造年代 351-02
その築造の実年代は、副葬の漢鏡等から考えるべきであって、土器論からするのは本末転倒になるであろう。本墳墓の発掘から得られた土器の出土状態からは以上のように考えられる。
渡辺正気氏執筆、原田大六著『平原弥生古墳上巻』1991年刊所収。

これからみると、中国の方格規矩鏡は直径が13センチ程度だが、平原遺跡の方格規矩鏡は16センチ~23センチと大きい。

 

平原王墓出土銅鏡には、確実な舶載鏡(「長宜子孫」銘内行花文鏡・虺龍紋鏡)と仿製鏡の方格規矩四神鏡・「大宜子孫」銘内行花文鏡・超大型内行花文鏡が存在し、仿製鏡の三者に段階的な技術差が認められ、これらがわずかな時期差と倭人への技術伝授を証明している。
『平原遺跡』(前原市文化財調査報告書、第70集、前原市教育委員会、2000年刊)柳田康雄氏の執筆

雲雷文長宜子銘内行花文鏡の図を下に示す。 351-03


(1)「北中国」出土の「雲雷文内行花文鏡」
『洛鏡銅華』(中国・科学出版社2013年刊)
写真3:長宜子孫雲雷鏡
四葉紋鈕座、長宜子孫、洛陽市、東漢(後漢)中期墓出土

写真4:長宜子孫雲雷鏡
四葉文鈕座、長宜子孫、洛陽市、東漢(後漢)中晩期墓出土

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写真7:長宜子孫雲雷鏡
直径18.8センチ
四葉紋鈕座、長宜子孫、洛陽市東漢墓出土
写真8:子孫富貴雲雷鏡
直径21.4センチ
四葉紋鈕座、子孫富貴、偃師(えんし)市[洛陽市]、出土

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長宜子孫鏡

『西安文物精華 銅鏡』(西安市文物保護考古所編著 中国・世界図書出版西安公司2008年刊)
直径22.9センチ柿帯形鈕座、長宜子孫雲雷鏡

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(2)「南中国」出土の「雲雷文四葉座内行文鏡」
写真10:直径16センチ、東漢連弧文鏡、上廣市博物館蔵品1981年、上廣県横塘出土、
『浙江出土銅鏡』(中国・文物出版社2006年刊)
写真11:直径12.9センチ、柿帯座、『鄂城・漢三国六朝銅鏡』(中国・文物出版社1986年刊)

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中国の南からも雲雷文内行花文鏡が出土しているが、北中国よりも少ない。

(3)「日本」弥生時代の「雲雷文四葉座内行花文鏡」
写真12:『倭人と鏡』(埋蔵文化財研究会編集・発行、1994年刊)による。雲雷文内行花文鏡、甕棺から出土した珍しい例。多くは箱式石棺から出土する。
写真13:福岡県糸島市平原王墓出土「長宜子孫」銘「雲雷文四葉座内行花文鏡」柳田康雄氏によれば、舶載鏡(中国鏡)『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)

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写真14:福岡県糸島市平原王墓出土「大宜子孫」銘、「雲雷文四葉座内行花文鏡」、柳田康雄氏によれば、仿製鏡(国産鏡)、直径27.04~27.06センチ、『平原遺跡』による。
写真15:福岡県糸島市平原王墓出土、超大型「変形雲雷文八葉座内行花文鏡」、同種のものが5面出土している。直径46.1~46.5センチ、八葉が特徴で、直径が極端に大きい。
雲雷文が同心円となっている。これは日本で造られたものと考えられ、邪馬台国時代と考えられる。

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写真16(直径19.5センチ、「長生宜子」「壽如金石」銘内行花文鏡)、
写真17(直径12.3センチ、内行花文鏡)
福岡県田川郡香春町宮原の宮原遺跡出土、1903年~1904年に4基の箱式石棺のうち2基からから発見、雲雷文が付いているが、松葉形ではなく平行線となっている。これは後の時代である、邪馬台国時代であろう。351-10

(4)「日本」古墳時代出土の「雲雷文四葉内行花文鏡」
写真18:静岡県磐田市新貝の松林山(しょうりんざん)古墳(4世紀の古墳)から出土、直径22.7センチの長宜子銘内行花文鏡。その他では三角縁神獣鏡も出土している。
写真19:京都府椿井大塚山古墳出土。直径27.8センチの内行花文鏡。ここは三角縁神獣鏡が多数出土。
2面とも、『古鏡総覧(Ⅱ)』(学生社2006年刊)による。雲雷文が付いているが、松葉形ではなく平行線となっている。これは後の時代である、邪馬台国時代であろう。

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今回は魏の時代およびその前後の時代の鏡として、方格規矩鏡と雲雷文内行花文鏡の説明をした。

2.『魏志倭人伝』に記されている「絹」について

■「絹」について
『魏志倭人伝』には、「(倭人は、)養蚕をおこない、糸をつむぎ、細かな縑(けん)や緜(めん)を作っている」と記されている。
また、魏に献じた品物のなかに、「倭錦(わきん)、絳青縑(こうせいけん)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)」などがある。
絹が、用いられていたのである。

新聞各紙が出した記事だが、下記は『読売新聞』2007年10月3日(水)朝刊の記事である。

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このように、何かが発見されると、何でも無理やり邪馬台国畿内説に結び付ける。ベニバナと絹とは直接結びつくわけではない。

考古学者の森浩一氏は、その著『古代史の窓』(新潮文庫、1998年刊)のなかでのべている。
「ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)。
布目氏[布目順郎(ぬのめじゅんろう)、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館、1988年刊)がある。目次をみると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在等を探る』の項目がある。簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。」

朝日新聞社の柏原精一(かしわばらせいいち)氏もその著『図説・邪馬台国物産帳』(河出書房新社、1993年刊)のなかで。布目順郎氏の研究などを紹介したうえで、つぎのようにのべている。
「ここで、弥生時代から古墳時代前期までの絹を出土した遺跡の分布図を見てみよう。邪馬台国があった弥生時代後期までの絹は、すべて九州の遺跡からの出土である。近畿地方をはじめとした本州で絹が認められるのは、古墳時代に入ってからのことだ。
ほぼ同じ時代に日本に入ったとみられる稲作文化が、あっという間に東北地方の最北端まで広がったのとは、あまりの違いである。ヤマグワの分布は別に九州に限らないから、気候的な制約は考えにくい。

布目さんは次のような見解をもっている。
『中国がそうしたように、養蚕は九州の門外不出の技術だった。少なくともカイコが導入されてから数百年間は九州が日本の絹文化を独占していたのではないか』
倭人伝のいうとおりなら、邪馬台国はまさしく絹の国。出土品から見ても、少なくとも当時の九州にはかなり高度化した養蚕文化が存在したことには疑いがない。
『発掘調査の進んでいる本州、とくに近畿地方で今後、質的にも量的にも九州を上回るほどの弥生時代の絹が出土することは考えにくい』
そうした立場に立つなら、『絹からみた邪馬台国の所在地推定』の結論は自明ということになるだろう。」

京都大学の出身者は、伝統的に「邪馬台国=畿内説」をとる人が多いといわれる。しかし、ここに名のみえる柏原精一氏も、布目順郎氏も、京都大学の出身者である。ただ、柏原精一氏も、布目順郎氏も、理科系の学部の出身者である。
ものごとを、データに即してリアルにみる理科系の方の判断は、京都大学の出身の考古学者とは、また別ということであろうか。

布目順郎氏は『絹の東伝』のなかで、「絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地を探る」という見出しのもとに、邪馬台国の時代と、その前後の時代を通じての絹製品出土地をくわしく列記したうえでのべる。
これらを通観すると、弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。したがって、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいといえるであろう。
わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州の地で醸成された後、古墳時代前期には本州の近畿地方と日本海沿岸地方にも出現するが、それらは北九州地方から伝播したものと考えられる。(中略)
ここで考えられるのは、邪馬台国の東遷のことである。私は、邪馬台国の東遷はあったと思っている。」

■解釈の捏造
万葉集に下記の和歌がある。
松浦川 川の瀬速(はや)み紅(くれない)の裳の裾濡れて 鮎か釣るらむ
[松浦川の川の瀬が速いので、紅色の裳の裾を濡らして娘たちは鮎を釣っていることだろうか]
この和歌から、大和での紅の絹の裳を考える。

しかし、この場合の裳は絹である根拠はない。麻かもしれない。このように、ベニバナ→紅→絹と連想ゲームで解釈してしまう。

『読売新聞』の記者であったジャーナリストの矢沢高太郎(やざわこうたろう)氏はのべている。
「新聞やテレビで大きく報道されることによって社会的な関心が高まり、遺跡の生命が守られたケースは多い。しかし、同時に弊害もまたさまざまな形で発生した。学者にとっては、地味な論文を発表する以前にマスコミで大々的に取り上げられるほうが知名度も高まり、学界内部での地位も保証される傾向が強まった。一部の学者や行政の発掘担当者はそれに気づき、狡知にたけたマスコミ誘導を行ってくるケースが多々見られるようになってきた。その傾向は、藤村氏以外には、考古学の。”本場”である奈良県を中心とする関西地方に極端に多い。そして、発表という形をとられると、新聞各社の内部にも何をおいても書かざるをえないような自縄自縛(じじょうじばく)の状況が、いつの間にか出来上がってしまった。そんなマスコミの泣き所を突く誇大、過大な発表は、関西一帯では日常化してしまっている。藤村氏は『事実の捏造』だったが、私はそれらを『解釈の捏造』と呼びたい。」(「旧石器発掘捏造”共犯者”の責任を問う」[『中央公論』2002年12月号])

3.英雄阿弖流為(あてるい)の栄光と悲惨

『魏志倭人伝』に、倭人は「租賦を収む」と記されている。「租税をとる」というアイデアは、中国からきたものであろう。「租税をとる」ことによって、「国家」は、はじめて、部族国家の域を脱する。強力な「国家」といえるものとなる。「租税」によって、戦争にとくに適した屈強の若者たちを、「兵士」としてやというる。それらの「兵士」は、戦争だけに専念することができる。組織的な訓練をうけることとなる。「租税」によって、最新鋭の武器を購入することができる。最新鋭の武器をもち、組織的な訓練をうけた兵士によって、王朝を守らせることができる。支配地域を拡大させうる。
武力によって、支配地域の人民から、「租税」を収奪することができる。
また、一方、治水や灌漑などの土木工事をより大規模に行なうことができる。外国の新技術も導入し、農業生産力をあげることができる。
「租税」制度をもつ国家は、人々の生活を安定させ、より豊かにする。人口の自然増も大きくなる。支配地域そのものもひろげうる。
「租税」収入をより大きくし、武力を、すなわち、国家権力を、さらに大きくすることができる。

このようにして、国家権力の拡大再生産が可能となる。
アイヌは、最後まで、部族国家の域を脱しなかった。組織的な徴税システムをもたなかった。このような部族国家では、鮭(さけ)が川にのぼってくれば、戦争を放棄して、魚をとらなければならない。兵士は、日ごろは、生産に従事しており、戦争のプロではない。戦争のための組織的な訓練を、十分にうけているわけではない。
徴税システムをもつ「国家」と「部族国家」とが戦ったばあい、長い目でみると、「部族国家」に勝ち目はない。
大和朝廷は、徴税を行なうという、新機軸の国家システムによって、比較的短い期間で、日本列島を席巻していったとみられる。

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■紀朝臣古佐美(きのあそんこさみ)の征夷
征東副使であった紀朝臣古佐美(733年生まれ、紀麻呂の孫)は、781年に、陸奥守となり、征夷の中心となった。
今回の征夷計画は、786年に東海・東山の軍士を閲し、兵器の点検をはじめ、糧食三万五千斛(こく)、糒二万二千斛などを集積し、東国の歩騎五万二千八百人の集結が命じられた。
節刀をたまわり、副将軍などが法を軽んじ死罪をおかすことがあれば、身を拘禁し、軍監以下は、斬に処せとの詔をうけた。
大和朝廷としては、そうとうの決意で、征夷をこころみたのであった。

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786年3月、諸軍は、陸奥国多賀城に会した。
788年、紀古佐美は、征東将軍となった。
衣川(北上川水系の支流。岩手県平泉町)を渡って、三か所の軍営をおいたが、なかなか進めなかった。朝廷から督促をうけた。

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紀古佐美のまえに、大きく立ちふさがったのが、阿弖流為であった。阿弖流為は、陸奥国胆沢(いざわ)[のちの胆沢・江利両郡をあわせた広域地名。胆沢郡は、現在の岩手県胆沢郡と水沢市。江刺郡は、岩手県江刺市と水沢市の一部]地方の蝦夷の族長であった。
789年(延磨八年)、胆沢の蝦夷をひきい、巣伏村(水沢市羽田町付近、あるいは、江刺市愛宕付近にあてる説がある)付近を拠点として、征東将軍紀朝臣古佐美のひきいる軍兵に対抗した。
紀古佐美の軍のうち、四千(中・後軍)の征討軍は、衣川の北の地点にから、北上川東岸にわたり北にむかった。

三百ほどの蝦夷軍が迎え撃った。官軍の勢いがつよく、賊軍は引き退く。征討軍は、「かつ戦い、かつ焼き」つつ、阿弖流為の本拠巣伏村に至った。351-16
前軍は北上川を東にわたり巣伏村のあたりで、中・後軍と合流することになっていた。前軍の渡河を蝦夷軍がはばんでいるうちに、八百余の蝦夷軍が、中・後軍をおそった。征討軍が後退すると、さらに四百人ばかりの蝦夷軍がたちふさがり、退路をたった。征討軍は、北上川を西に渡って逃げようとする。
戦死するもの二十五人、矢にあたるもの二四五人、河で溺死するもの一〇三六人、はだかで泳いで帰るもの一二五七人という惨敗となった(『続日本紀』)。ゲリラ戦によるあざやかな蝦夷軍の勝利である。
ここで、注目すべきなのは、『続日本紀』が、「矢にあたるもの二四五人」と記している事実である。

『続日本紀』は、蝦夷軍が、毒矢を使ったことを、特に記していない。
もし、『三国志』の「挹婁(ゆうろう)伝」に記されているように、「矢には毒をほどこし、人にあたれば、みな死ぬ」というような情況であれば、さきの文の「矢にあたるもの二四五人」は、みな「戦死者」になったはずである。
つまり、阿弖流為のひきいた蝦夷軍は、毒矢の技術を、もっていないのではないか。
蝦夷軍は、あざやかな勝利をえたが、蝦夷がわの被害も、甚大であった。
蝦夷がわで斬首されたもの百人に近く、官軍は、十四か村、八百戸を焼いた。
789年の征討に惨敗し、政府は、翌年から準備をはじめ、794年には、十万の軍を動員して征夷する。

『日本紀略』の794年10月28日条の、征夷大将軍大伴弟麻呂の奏言によれば、
「四百五十七級を斬首し、百五十人を捕虜とし、八十五匹の馬をえ、巣落七十五処を焼いた。」という。

■征夷大将軍坂上田村麻呂
801年、征夷大将軍坂上田村麻呂が、十か国の四万人の軍をひきい、802年、胆沢城(いざわ)城[城跡は、岩手県水沢市佐倉河]を築きはじめた。田村麻呂は、その「薨伝」によれば、「赤面黄鬚(おうしゃ)[あごひげ]、勇力人に過ぐ。」という人物であった。
阿弖流為は、盤具公母礼(いわくのきみもれ)と五百余人をひきいて、坂上田村麻呂に投降した。
阿弖流為は、その根拠地胆沢地方に、官軍の城が築かれはじめ、さらに奥地まで、征夷軍に上る徹底的な焼土作戦がおしすすめられるなかで、降伏した。
802年7月、坂上田村麻呂は、阿弖流為と母礼をつれて、平安京にはいった。
田村麻呂は、「蝦夷の帰服を説得させたい」と助命を進言した。しかし、公卿らのいれるところとならなかった。阿弖流為らは、802年8月13日、河内国の杜山(もりやま)[大阪府枚方市か]で斬られた。

■俘囚蝦夷の悲劇
『日本紀略』は記している。
「夷(えびす)の大墓公(たものきみ)阿弖利為と、盤具公(いわくのきみ)母礼(もれ)らを斬る。この二虜は、ともに、奥地の賊首である。二虜を斬るとき、将軍らが、申していった。『この度は、願いのままにかえしてやり、その賊類を招かせたい。』しかし、公卿は、論をまげることなく言った。「野性獣心。反覆定めがない。たまたま朝威によって、この梟師をえた。たとえ、申し出によって、奥地に放還しても、いわゆる虎を養って、患(わずらい)をのこす、というものである。すなわち、二虜をとらえ、河内国杜山に斬る。」

『日本後紀』の、811年(弘仁二年)10月13日の条に、つぎのような記事かある。
「蝦夷は、中国(内地)に移配せよ。俘囚は、便宜をはからって、当土(現地)に安置し、つとめて、教喩を加え、騒ぎをおこさせないようにせよ。」            
ここで、「蝦夷」といっているのは、本来の蝦夷で、強硬な反抗分子をさすとみられる。「俘囚」は、「熟化した蝦夷」つまり「熟蝦夷(にぎえびす)」で、穏健分子をさすとみられる。
農民化政策で、内地に移配された蝦夷も、「俘囚」「夷俘」などとよばれたが、これらの人たちには、きびしい運命がまっていたとみられる。

『日本後紀』の805年の記事によれば、播磨国に移配された俘囚が、野心を改めないで、しばしば朝憲に違ったという理由で、多褹(たね)島[九州南部の種子島(たねがしま)]に配流されている。
『続日本後紀』の847年の記事には、日向国で、俘囚がほとんど死につくし、生存者の数がすくない、とある。
878年に、秋田城司の苛斂誅求によって、出羽国秋田郡の夷俘が大反乱をおこした「元慶(がんぎょう)の乱」(878~879)などがあった。夷俘は、秋田河(雄物川)以北の独立を要求した。官軍は、軍馬千五百を失なうなど、戦局は、しばしばまったく不利であった。

■アイヌの毒矢について
アイヌは毒矢を用いた。
アイヌの毒矢の作りかたについては、ジョン・バチラー著の『アイヌの伝承と民俗』(安田一郎訳、青土社、1995年刊)に、くわしくのべられている。
そのなかで、ジョン・バチラーは記す。
「猟をするとき、アイヌは矢に毒を塗った。そしてある種の毒は、トリカブトの根から作られた。」
「アイヌが狩猟で用いる矢は貧弱で弱い道具のように見える。しかし、非常に強力である。」1336年(延元元年)1月28日、足利尊氏が、長野県諏訪神社に寄進した『諏訪大明神絵詞』のなかに、北海道のアイヌの毒矢についてふれた文がある。
そこでは、つぎのようにのべられている。
「彼らが用いるところの箭(や)は、魚骨をやじりとして、毒薬をぬる。わずかに皮膚に触れれば、その人は倒れないということはない。」
『文化人類学事典』(弘文堂、1987年刊)では、世界の矢毒の分布を、地理的な分布と、用いられる植物の種類とから、四つにわけている。

その一つに、東北アジアから、アッサム・ヒマラヤにかけてにみられるトリカブト圈をあげる。そしてのべている。
「トリカブト圈において最もよく知られた例はアイヌであるが、彼らはトリカブト(キンポウゲ科)の根を粉にし、マツヤニをつけたやじりにその粉をつけて用いていた。」

毒物学の石川元助氏は、およそ、つぎのようにのべている。
「キンポウゲ科のアコニツム属植物を矢毒につかう伝統は、北海道と沿海州、樺太(サハリン)、アリューシヤン、アラスカ半島に、西南へは、中国大陸を通って、雲南、四川、さらに、ネパール、ブータンにのびる。毒矢文化の起源は、ヒマラヤとみられる。毒矢文化を、アイヌ祖先集団に伝えたのは、挹婁族であろう。」(『毒矢の文化』紀伊図屋書店、1962年刊。『毒薬』毎日新聞社、1965年刊)
  『後漢書』や『三国志』の「挹婁(ゆうろう)伝」には、つぎのように記されている。「弓の長さ四尺(約九十六センチ)。」(『後漢書』『三国志』同文)
「矢には毒をほどこし、人にあたればみな死ぬ。」(この文は、『三国志』による。『後漢書』は、「鏃には、みな毒をほどこし、人にあたれば、即死する。」とある。)
挹婁は、「いにしえの粛慎」とされている民族で、ツングース族の一種である。ロシアの沿海州[アムール川(黒竜江)下流域、ウラジヴォストークを中心とする地域]から、中国東北地方(旧満州)東部に住んでいた
(地図参照)。

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アイヌの弓矢文化が、短弓で毒矢をもつのに対し、倭人の弓矢が、長弓で毒矢を用いないことなど、弓矢については、文化の系統が異なるようにみえる。
弘法大師・空海(774~835)の著書『性霊集(しょうりょうしゅう)』のなかに、つぎの文がある。
「毛人や羽人などの蝦夷(えみし)は、境を接して住んでいる。猛虎や犲(やまいぬ)や狼(おおかみ)のように、ところどころに集っている。年とったカラスのような目をし、猪や鹿の皮ごろもをまとい、たばねた髪のなかに、骨製の毒の箭(や)を插(さ)してつけ、手もとには、つねに刀と矛とをとり、たがやさず、衣を織ることなく、麋(おおしか)や鹿を逐(お)っている。」(毛人羽人接境界、猛虎豺狼処々鳩、老鵶目、猪鹿裘。髻中挿著骨毒箭。手上毎執刀与矛。不田不衣逐麋鹿)(『三教指帰性霊集(さんごうしいきしょうりょうしゅう)』[日本古典文学大系、岩波書店、1965年刊]166ページによる)
この文は、古代の蝦夷が、毒矢を使用していたとする最初の文献である。
これによれば、九世紀の前半には、蝦夷は毒矢を使用していたことになる。アイヌとつながる文化をもっていたことになる。
私には「アテルイ」という名は、なんとなく、大和ことば的ではなく、アイヌ系の名のように思える。

■モンゴルの弓
騎馬によって、欧亜を席巻したことのあるのは、モンゴル族であった。
モンゴル族の弓も、写真にみられるように、短弓系の弓とみてよい。 351-18
また、図は、元寇の文永の役(1274年)のときの、蒙古軍の弓を描いたものである。
やはり、アーチェリータイプの短弓である。

モンゴル軍も、毒矢を用いた。
鎌倉時代末期の神道書で、岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の霊験記(れいげんき)を書いた『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』のなかに、つぎのような文章がある。
「(文永十一年[1274])11月21日、蒙古(軍)は、船よりおり、馬に乗り、旗をあげて攻めかかる。日本の大将は、少弐(しょうに)[資能(すけよし)]入道覚恵(かくえ)の孫の、わずかに十二、三歳のもの[少弐資時(すけとき)。十二歳で出陣)で、矢合わせ(開戦を通告する矢をはなつこと)のために、小さい鏑矢(かぶらや)を射たところ、蒙古軍は、一度に、どっとあざ笑った。(中略)蒙古軍の矢は、短いけれども、矢の根に毒を塗っているので、あたったものは毒気を負わないということがない。」(『寺社縁起』[日本思想大系、岩波書店、1975年刊]による)
これは、元寇のときの、文永の役のことをのべているのである。
大阪大学の黒田俊雄氏は、その著『蒙古襲来』(日本の歴史8、中央公論社、1965年刊)のなかで、つぎのように記している。

「蒙古軍は短弓で、矢も短かったが、すばらしくよく飛び、しかも矢じりに毒を塗っていたので、浅い矢傷でもひどく苦痛を与えた。」
矢が短いこと、毒矢であること、強い効力をもつことなど、アイヌの矢と共通している。


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