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Rev.3 2019.4.5

第374回 邪馬台国の会
「卑弥呼=天照大御神」説と「邪馬台国東遷説」
邪馬台国=福岡県朝倉市地域説


 

1.「卑弥呼=天照大御神」説と「邪馬台国東遷説」

卑弥呼の都は福岡県の朝倉市あたりにあったと思っているが、今回はその根拠を示したい。

たびたび紹介しているが、下図の右上のグラフは日本の天皇の平均在位年数を示したもので、400年ごとにまとめると、古い時代になるほど天皇の平均在位年数が短くなることが分かる。そして下の3つのグラフから、中国、西洋、更に世界の王の平均在位年数を示すと、日本の天皇の平均在位年数と同じような傾向があることが分かる。
374-01


この結果、古くなると王の在位年数は短くなることから1~4世紀の王の在位年数を推定すると、日本を除く世界の王の1~4世紀の平均在位年数は10.56年で、中国では10.05年となる 。 374-02

まとめると右のようになる。

 

これに対する批判に、400年ごとにまとめているが、100年、50年ごとにまとめると、規則性がなくなるというものがある。しかし統計はある程度データをまとめないと規則性が出てこない。それを細かく区切って規則性がないからダメだというのは統計が分かっていない主張である。

確実に存在したという天皇は31代用明天皇である。在位期間は3年なので活躍した時代は西暦586年とすることができる。そこで天皇の在位年数が中国と同じ10.05年とすると、神武天皇が活躍していた年代は西暦284.5年となり、明らかに卑弥呼の時代より後になる。

しかし『古事記』『日本書紀』に神武天皇より5代前に天照大御神という女神の神話がある。5代約50年さかのぼると、西暦250年となり、卑弥呼の時代と合致する。

横軸に天皇の代をとり、縦軸に天皇の没年(西暦)をとると下記のグラフになる。

(下図はクリックすると大きくなります)

 

 

374-03


卑弥呼=天照大御神であるとすると、この曲線の延長上にプロットできることが分かる。これまで、卑弥呼は神功皇后(じんぐうこうごう)や倭姫(やまとひめ)や倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)ではないかという説があった。
しかし卑弥呼=神功皇后説や、卑弥呼=倭姫説、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説は天皇没年グラフの延長上から離れる。これは誤差の幅を付けて信頼度99%に拡張しても届かない。

このように統計的な方法で卑弥呼=天照大御神とする前に、卑弥呼は天照大御神ではないかと唱えた学者は下記にように多い。

 

■白鳥庫吉の「卑弥呼=天照大御神」説
東洋史学者・白鳥庫吉(しらとりくらきち)[1865~1942]は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する史家であった。東洋史学の開拓者であり、数々の新研究を発表するとともに、多くの研究者を育成した 。 374-04

白鳥はまた、邪馬台国北九州説を説き、畿内大和説を主張する京都帝国大学(現在の京都大学)の内藤湖南(ないとうこなん)と白熱の論争を戦わせた。邪馬台国の位置をめぐる諸説は、それまでにも出されてはいた。しかし、現代まで長く尾を引く、いわゆる「邪馬台国論争」は、このときはじめて、激しい沸騰を見せたといってよい。

白鳥は、明治四十三年(1910)に発表した「倭女王卑弥呼考(わじょうおうひみここう)」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」に関する記事内容とを比較している。そしてその二つの記事内容について、「その状態の酷似すること、何人(なんびと)もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。

白鳥は、いまから百年以上前に『古事記』『日本書紀』の神話が伝える天照大御神は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の反映なのではないか。天照大御神がいたと伝えられる「高天の原(たかまのはら)」は、邪馬台国の反映なのではないかとする考えを示している。

 

■和辻哲郎の「卑弥呼=天照大御神」説
白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889~1960)であった。374-05

和辻は観察眼の広さと明晰な思考によって知られる。和辻は、ドイツの哲学者ニーチェやデンマークの哲学者キュルケゴールの研究から、さらに、日本文化の研究に進み、『日本古代文化』『古寺巡礼』『風土』などの数々の名著を著した。

和辻哲郎の「卑弥呼=天照大御神説」は、『日本古代文化』(岩波書店、1920年)のなかにみえる。『日本古代文化』は、和辻がまだ二十六歳という若さで著した著作である。
和辻が本書ではじめて「邪馬台国東遷説(とうせんせつ)」を明確な形で打ち出した。「邪馬台国東遷説」は、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷」になったとする説である。

和辻はその東遷説を展開する出発点として『古事記』『日本書紀』の神話と『魏志倭人伝』の記述との一致をやや詳しく指摘している。

「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に『魏志倭人伝』の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。
倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安の河原(あまのやすのかわら)においては八百万(やおよろず)の神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。
(・・・中略・・・)(『魏志』の記述と神代史が、)右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が全然国民の心から、消失していたとは思えない。」

和辻哲郎は、ついで、大和朝廷の国家統一が、どのように行われたと考えられるかについて述べる。大和朝廷は、邪馬台国の後継者であり、『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征(じんむとうせい)」の物語の 「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろうとする。

 

■黒板勝美(くろいたかつみ)の『国史の研究』
1932年に、日本古文書学を確立した東京大学の黒板勝美(1874~1946)の大著『国史の研究各説』の上巻が、岩波書店から刊行されている。これは、当時の官学アカデミーの中心に位置した黒板の代表的著作といってよい。374-06

『国史の研究』が刊行された当時、岩波書店は、この本を、「学界の権威として、洛陽の紙価を高からしめたる名著」とし、「最近まで各方面にわたりて学界に提出されし諸問題」を、「一一懇切詳密に提示論評し」、「その拠否を説明取捨し以て学界の指針たらしめ」「宛然(さながら)最近に於(お)ける国史学界進展の総決算たる観を呈して居る」、そして、「わが国史に就(つ)きての中正なる概念を教示する」もので、一般人士はもちろんのこと、「専門研究者も座右(ざゆう)に備ふるべき好伴侶(はんりょ)たるを失はない」とのべている。

黒板勝美は、『国史大系』などの編集者であり、他の説の批判や自説の主張においては、つねにその根拠を、くわしくのべている。岩波書店がのべていることは、当時にあっては、けっして誇大な宣伝ではなかったのである。その説は、学問的考究の上にたつ、穏健中正な見解とみられていたのである。

 

■国史の出発点は神代
黒板は、津田左右吉の日本神話作為説を、「大胆な前提」から出発した研究とし、それを「余りに独断に過ぎる嫌(きらい)がある」と批判する。そして、黒板は、神話伝説は、むしろ長い年月の間にだんだん作られて来たとする方が妥当であり、はじめはひとつのけし粒であっても、ついに金平糖になるようなものであり、しだいに立派な神話となり伝説となるところにやはり歴史が存在するのではあるまいか、とする。

黒板は、『国史の研究各説』上巻の冒頭で、およそつぎのようにのべて、「国史の出発点を所謂(いわゆる)神代まで、遡(さかのぼ)らしめ得る」と説く。
「史前時代と有史時代との境目を明瞭に区別しにくいことは、世界の古い国々みなそうである。その太古における物語は、霊異神怪や荒唐無稽(こうとうむけい)の話に富んでいて、神話や伝説などのなかに歴史がつつまれているといえる。
わが国の神話伝説のなかから、もしわが国のはじまりについての事がらを、おぼろげながらでも知ることができるのであれば、私たちは、国史の出発点を、いわゆる神代まで、さかのぼらしめ得るのであり、神代史の研究が、また重要な意義を占めることになるであろう。
もっとも、神武天皇が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称をもち、大和に都をひらいた第一代の天皇であるという古伝説にしたがって、あるいは、わが国の歴史の発展を、神武天皇から説明するにとどめようという人があるかも知れない。しかし、わが国のはじまりが、どのようであったかを、いくぶんでも知ることができるとするならば、従来神代といわれている時代に研究を進めることは、また緊要なことといわなければならない。」

 

■天照大御神は「なかば神話の神、なかば実在の人」
ついで、黒板は、天照大御神よりもまえの神々は、皇室の祖先として奉斎(ほうさい)されていないことなどから、実在性はみとめがたいが、天照大御神は、「半ば神話の神、半ば実在の御方」と説く。

「天照大御神は、最初から皇祖として仰がれた方であったからこそ、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を霊代(たましろ)として、やがて伊勢に奉斎され、今日まで引きつづき皇室の太廟として、とくに厚く崇祀(すうし)されているのである。
元来史話なるものは、截然(せつぜん)と神話に代るものではなく、その境界は、たがいにいりまじって、両者をはっきりと区別することがむずかしい。これが、天照大御神の半ば神話の神、半ば実在の方として古典に現れる理由である。神話がほどよく史的事象を包んでおり、史的事象がほどよく神話化されている。したがって、須佐の男(すさのお)の命に関する古典の記載なども同様であるが、天照大御神の御代に皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。」

 

■アカデミーの立場からの「高天の原=地上説」の評価
そして、黒板は、高天の原を、「地上の何処(どこ)かに之(これ)を擬すべきである」とし、それを、「九州の北部」と考える。

「天孫民族が大和や日向に入る以前、すなわち、いまだあい分れていない時の地が、いわゆる『高天の原』であるともいえよう。本居宣長が、これを天であると解釈しているのは、『古事記』のできたころ、わが国民が、そのように考えていたとする意味においては妥当であるが、もし、高天の原を、天孫民族の祖国と解すべきであるならば、地上のどこかにこれを擬すべきである。ところで、『旧事本紀』の天孫本紀が古伝であることは、学者の意見の一致しているものであるが、それには、天孫饒速日の命(にぎはやひのみこと)が、高天の原から大和に降臨したと記載されている。これは、のちに神武天皇が大和に入ったさいに、物部氏の祖饒速日の命が、天皇と同族である証拠を示したという『日本書紀』の記事とも一致するものである。このような大和降臨説話の存在は、すくなくとも高天の原をもって大和とする説にとって、大きな打撃であるといわなければならない。それで、高天の原を、海外に擬してもさしつかえないという説がでてきたのであるが、日本語がふきんの外国語とまったく系統を異にしている点から、天孫民族がわが国に移住してきたのは非常に太古であったろうといわれる白鳥博士の説をある点までみとめ、また、考古学的にもこの説を支持しうるならば、高天の原国内説は、よほど有力になってくるであろう。もっとも、本居宣長も、すでに『古事記伝』の大八州生成の条で、『すべて神代の故事は多く西になんありける』といっており、暗に九州の一部に高天の原を擬していたように思われる。『日本書紀』の景行天皇紀十二年、仲哀天皇八年の条に、九州の土豪が、三種の神器と同様の鏡、剣、玉の三種の神宝を船中の榊(さかき)の枝に取り掛けて、天皇を奉迎したことがある。神宝が主権者のしるしであり、三種の神器が天孫民族に特有なものであったとすれば、これらの土豪も、あるいは高天の原から分かれた天孫民族の一部であって、景行天皇や仲哀天皇の御代まで、なお九州の北部に存在していたものではあるまいか。」

さらに、黒板勝美は、『国史の研究総説』(1931年刊)で、「高天の原は、本島のなかの大和にはなかったとする説が有力であるように思われる。」とし、つぎのような点も指摘している。
「『古事記』『日本書紀』にみえる神々を研究し、『延喜式』神名帳を調べて、神代における神々として伝えられる方で、九州北部に鎮座するものの多いのをみれば、その地方が、天孫民族と深い関係をもつことだけは推測されうるように思う。」

 

■栗山周一のおよそ一千年延長説
昭和のはじめごろ、栗山周一(1892~1941)は、『日本書紀』に記されている年代には、約一千年の延長があるとのべた。栗山周一は、小学校の教員ののち、多くの著述を行なった人である。374-07

栗山周一は、『少年国史以前のお話』(大同館書店、1933年刊)の第二章「日本列島に渡って来た民族」の冒頭で、「日本の年代」についてのべる。

「わが国の古伝説によれば、神武天皇即位元年より現今(1932年)まで、二千五百余年と称せられるが、この紀元年数には、大いなる錯誤がある。このことは、すでに、歴史の専門家が認めている。今、従来の学説(安本註。那珂通世説)により、六百六十年の誤差があるとすれば、日本の紀元は、約西暦紀元と一致することになる。しかし、支那、朝鮮の関係史料と比較すれば、日本の年代と支那、朝鮮の年代とは一致しない。よく調べてみると、朝鮮と支那とはほぼ一致するが、日本と支那、日本と朝鮮とが一致しない。いずれかの年代が誤っているということになる。大局よりみて、日本の紀元は、従来史家の、六、七百年ではなく、約一千年以上の錯誤のあることがわかる。
故実的、骨董的国史研究の型を破り、科学的合理的な研究よりすれば、日本の紀元は、約一千年以上ものびている。」

 

また、栗山周一は、『日本欠史時代の研究』(大同館書店、1933年刊)で、みずからの年代論の根拠について、ややくわしくのべている。374-08

栗山周一は、自説の根拠として、天皇の一代平均在位年数にもとづく年代論を展開する。「国史の年代が、書紀において、約一千年以上ひきのばされていることは、古い時代の歴代天皇の在位年数を調査すればよくわかる。いま、これを、最初『古事記』の年数によってみると、次のようになる。
すなわち、『古事記』によれば、在位年数は、顕宗8年、武烈8年、敏達14年、用明3年、崇峻4年、推古37年の6天皇だけ明瞭で、他の27帝は、在位年数が、まったく記されていない。それで、在位年数を、この6帝によってみると、1帝在位平均約12年弱となる。これを、第33代推古天皇より逆算すれば、神武天皇は、推古帝より、約400年まえとなる。すなわち、天皇の代数を正しいものと仮定して、『古事記』の年代によってみても、8から900年の誤差が、あらわれてくる。また、履中天皇以後今上(昭和)天皇まで108代、1540年であるから、1540年を、代数108で割ってみると、1天皇在位14年強となる。『古事記』の推古前1天皇在位12年と、近接してくる。

上掲1天皇平均14年と、『古事記』により算出の12年とを平均して、在位年数1天皇平均13と仮定すれば、今上天皇より神武天皇まで124代の年数は、1612年となる。日本紀元2600百年に足らざること約一千年であるから、この計算よりすれば、約一千年の誤差があらわれている。」

 

■神話伝説の中の史実
栗山周一はいう。
「神話伝説は、もとより歴史ではない。けれども、神話の中には、なにかの伝説などにヒントを得たものもないとは限らぬ。そして、卑弥呼の伝説が神代の事跡として考えると、天照大御神の神話である。
天照大御神は、女神であり、統治者であり、女王であり、君主であるから、天照大御神神話は、倭国卑弥呼の事実を伝えたものではないか。卑弥呼は、年已(すで)に長じて夫壻(おっと)なく云々とあるが、女神たる天照大御神にも夫壻(おっと)なる神がない。男弟ありて治国を助くとあるのは、素戔鳴(すさのう)の尊または月読の命の男弟の初伝とみれば、正(まさ)しく一致するではないか。そして、天下を統治し、女王であったから、立派な宮殿にもすみ、侍女をたくさんはべらしていた。

卑弥呼をヒミコいとよむべきか、ヒメコとよむべきかは明らかでないが、支那文字をもって日本の音を表したものである。天照大御神は、日の御子(ひのみこ)と伝え、『オホヒルメムチノミコト』という。ヒルメノミコトすなわち姫尊(ひめみこ)である。ヒメコ、ヒミコと音通ではないか。卑弥呼に、日の御子(ひのみこ)、姫御子(ひめみこ)[姫尊(ひめみこ)]、または日の巫女(ひのみこ)の意があるとすれば、正しく日本の神話にでてくる神々の名と思われる。

卑弥呼は、よく鬼道に通ずというが、未開時代においては、大衆をおさめ支配するに魔術が、ぜひ必要であった。現今でも、野蛮人においては、魔術師が、一番尊ばれるのである。そこで、鬼道とか巫道とか、またはふしぎな霊を祭るのである。神を祭り、神のお告げを聞くという原始的な宗教である。
以上のような考えから、卑弥呼は、天照大御神の事績を伝えたものではなかろうか。年代的に、卑弥呼女王を神話として伝えていたことが首肯される。

文学博士内藤湖南先生は、卑弥呼をもって倭姫の命(やまとひめのみこと)とせられており、笠井新也先生は倭迹迹日百襲姫の尊(やまとととひももそひめのみこと)とせられているが、私は、いずれも首肯しがたい。女王卑弥呼は、倭姫の命や神功皇后初伝を生んだ根拠ではなく、天照大御神神話を生んだ根拠をなすものであることは、大体想像がつくのである。

『魏志』が日本の事実を誤り伝えたというよりも、『魏志』こそ事実であって、『古事記』『日本書紀』が、卑弥呼の口碑伝説などを、それとは知らずに誤り伝え、美化しているのではないかと私は思うのである。
日本欠史時代の年代は、一に『魏志倭人伝』にその秘密の鍵がかくされており、卑弥呼の伝説こそ、日本神話の根本をなすものではあるまいか。」

 

■邪馬台国は北九州
栗山周一は、さらに、卑弥呼の治めていた倭国の位置が、北九州にあったことを論ずる。
『魏志倭人伝』にあらわれる地名を分析したのち、つぎのようにのべる。
「地名の記載は、音に漢字をあてはめたので、正確にはわからない場合が多い。今でも外国の地名に漢字をあてはめるが、一千年もあとの人がみたならば、ずいぶん面白いものもあろう。しかし、右にあげた地名でみると、だいたいはわかる。そして、主として九州北部の地名であることは確かである。そうすると、倭国は、九州北部の一大王国であったということは、だいたいにおいて承知できる。各々の国の間隔や広さなどは、現今の郡の面積ていどであるから、たとえ三十ヵ国としても、北九州に求むべく十分である。」
「邪馬台国は、大和地方とも考えられ、九州北部とも考えられるが、倭人の東遷という仮説の上からは、どうしても、九州でなくては、意味がわからなくなる。かかる倭国倭人の事実や卑弥呼の初伝を本筋とし、これに、種々の口碑伝説が混合混在し、原始宗教の影響をうけて美化されて伝えられたのが、『古事記』神話である。」

 

■栗山周一の「邪馬台国東遷説」
栗山周一は、きわめて明快に「邪馬台国東遷説」を説く。いうべきことをのべている人は、いつの時代でもいるものである。
「結果論からいっても、九州北部に、あれだけの文化の進んだ民族が、原始的にせよ国家を作り、大陸と交通して、その文化を輸入していたことを見れば、それらの民族が煙のごとく消え去って、文化の非常に進んだ大和朝廷が、忽然と起こるというようなことは考えられない。むしろ、大陸文化をさかんにとり入れていた倭国人が、大挙瀬戸内海を東遷し、大和の地に移り、強力な国家を作ったと見るのが、理論上正しいのではないかと思う。今までの種々の倭国に対する考証は、倭人の大挙東遷という事実を仮定すれば、すべて解決がつく問題である。彼の銅鐸民族のごときも、倭人の近畿侵入のために、あるいは全滅し、あるいは逃走し、あるいは屈服し、あるいは同化混血した民族で、倭人の大和政府の成立するころには、全く同化混血してしまった民族と解することができよう。九州北部に一種特別なる墓制がある。すなわち、甕棺を用いるものである。しかも、遺物としては、銅剣と銅鉾がある。この分布は、はなはだ密である。九州北部には、多くの支那輸入の遺物が発見されている。支那古代の鏡のごときも、そうとうに多い。しかるに、漢末より三国時代に到っては、かかる九州北部の特殊文化はほとんど跡をたち、墓制のごときも、近畿と大差なきに至っている。また、その副葬品においても、ほとんど一致している。近畿地方を中心として、魏時代の鏡が、多数発見せられる。この事実は、倭人の大挙東遷の仮定によって氷解せられるであろう。倭人の東遷を、三国時代を中心として、前漢末、または西晋ごろと仮定すれば、九州北部の文化が漸東して、それ以前の近畿文化と融合したことを確めうると同時に、北部九州文化に特殊性がなくなったことも理解されるのである。
倭人の奈良盆地方面に東遷する時代まで、倭人の勢力は、九州北部にそうとう強大であったと考えられる。してみると、近畿地方の大古墳は、倭人が東遷して、大和に一大勢力を有するに至ってからのものである。」

「倭人の大和東遷は、卑弥呼の死後である。神武天皇の東征の神話のごとき、まさにこの方面の消息を伝えたものとみられる 卑弥呼の血族または関係の民族が、大挙して大和地方にうつり、九州の倭国の名をそのまま称して『大和』といった。奈良県の古名大和(倭)は、倭人が九州より移住東遷して、邪馬台の旧名を襲用して大和に永住したので、国名は改めなかったと解すべきである。『邪馬台』は、『大和』を誤り伝えたものではなく、『邪馬台』の倭人が、大挙東遷して、ここに『ヤマト』の名を称したものであろう。日本をヤマトと称するは、奈良県大和に出ずること申すまでもないが、奈良県大和の古名は、九州の邪馬台に出で、倭人も魏人も、これをヤマトと称したのである。なぜに旧地の国名を称したのか。当時支那大陸との交通上、その信用とか便利とか、国家統治の方策などから、依然として邪馬台と称したのであろう。大和政府の原始は、倭国に求めねばならぬ。彼等倭人は、さかんに支那文化を輸入し、大挙大和方面に渡渉移住し、一部は瀬戸内海方面に分布し、淀川平野より大和に侵入した倭人は、もっとも強力であった。」

 

■邪馬台国の風俗、習慣
栗山周一は、さらに、風俗、習慣について論ずる。
年代論から、風俗、風習についての議論まで、「邪馬台国東遷説」の主要な問題を、ほぼすべてとりあげているといえる。
栗山周一はいう。

「『魏志』と日本神話とを比較すれば、ここに、面白い一致点の多々あるを見出す。『魏志』にでているくわしい記事をみると、その風俗習慣や、社会の状態は、まったく日本の上古、すなわち、『古事記』神話にでているものと、なんら異ならない。
今、倭国人の風俗習慣などを『魏志』によって調べてみる。第一に面白いのは、鯨面文身ということである。鯨面文身とは、入墨(いれずみ)をすることである。今でも日本人で入墨している人がある。アイヌも近年までは入墨をしていた。国史を調べてみると、猪甘部(いかんべ)、鳥養部(とりかいべ)、久米部(くめべ)、飼部(かいべ)、隼人(はやと)などは入墨をしていた。これはわが国共通の風俗ではないが、上古にこの風俗が多数あったことは、古記録に見える。埴輪土偶を見ると、入墨をしているさまを模している。また、顔には丹朱を塗ったことも古書に見えるから、上古一般に広く行なわれた風習である。喜田貞吉博士は、丹朱を塗付する風俗を、『日本書紀』神代の巻、火闌降の命(ほのすそりのみこと)の物語と対比し、かつ、埴輪土偶に朱を塗ったものに徴して、当時、朝廷の近習に隼人の多かりしことを説いている。次に服飾の方面を考察すると、男子は無帽で髪を結ったが、女子は垂髪または結髪したという。これもわが上古の風である。それから衣服は、男子は袈裟掛(けさがけ)式、女子は貫頭衣(かづき)式であったというが、これは埴輪においてみると、ともに、わが国の古風である。彼等は農耕に従事していたというから遊牧の民ではなく、一定の土地に定住して、立派に生産に従事していたことは明らかである。ことに、九州北部や筑後川の流域は土地肥え、五穀もよく実ったであろうから、この処(ところ)に太古人の定住農耕したのも当然ではないか。今日でも福岡県は、日本全国の府県中で、市制を行なわれるところが一番多く、福岡県下には八市あるをもって見ても、この地方がいかに太古人の生活に都合がよかったかは、およそ想像がつく。また、彼等の武器は、矛、楯、弓、矢であり、矢尻(やじり)は鉄や骨でつくり、矢柄(やがら)は竹で作ったとあるから、これもわが太古のままである。また、彼等は、はだしであるき、主として野菜を食い、家を建て、父母兄弟別居するもの多く、食事は篷豆(へんとう)のごとき器物に入れて、手で食した。
これも、わが国上古の風である。葬式はどうかというと、棺に死体をいれ、土を盛って塚をつくった。
十日あまりは、哀(あい)を表し、肉を食(くら)わなかった。他人はここで歌舞飲酒した。これは宗教上の儀式であるが、わが上古に大体一致する風俗である。貴人の死には、墳丘をつくり、多くの近侍が殉死した。また、葬式のすんだ後は、水中にはいって身を清めた。これは、日本の太古に行なわれ、奈良朝より平安朝ごろまでも行なわれていたもので、しかも、今日もなお神事として行なわれるミソギのことである。これは、じつによくわが国上代の風俗と一致するというよりもよく写している。彼等の内には、巫覡(ふげき)の風がある。巫覡は、神にいのり、一種の卜占(うらない)をすることで、日本の太古神話には、このことはしばしばでてくる。吉凶を占うには、骨を灼(や)いたとある。が、これは、亀卜(きぼく)または鹿卜(ろくぼく)といって、亀の甲や鹿の肩骨を、ハハカという桜の一種の木をもやし、その上で焼き、その割れ目の方向により、または、深浅大小により、ウラナイをしたので、日本の古風であり、いまも、即位式の大嘗祭(だいじょうさい)に行なわれる。大人に対しては、賎者は極めてつつしみ深く、婚姻は一夫多妻であった。これは、全部わが国の古風である。以上『魏志』に説ける倭国人の風俗は、全然日本の古風そのままである。よくもこれだけ詳細に調べたと思うほどに正しく書かれている。」

「これら風俗や習慣は、その文化は、『古事記』『日本書紀』初伝の原始をなすもので、日本太古の風俗習慣こそ、倭国倭人にその原始があると考えられるのである。もちろん、かかる太古の時代において、わが日本列島の事情が、すこしの誤謬もなく、支那の文書記録に伝えられているとは考えられない。それは、太古にあらざる現今においてすらも、外国の事情が、誤りなくわれらに伝えられているかというと、実は、日々の新聞紙の報道すら、ときにはほとんど信用のできぬことがある。かかる太古において、かくばかり多数の一致点を見出しうることこそ、じつにふしぎというべきである。」

 

■岩戸がくれは、天照大御神の死を意味する
栗山周一は、以上のような議論のほかにも、いくつかの鋭いと思われる見解を示している。
たとえば、栗山周一は、つぎのようにのべる。
「天照大御神の岩戸がくれというのは、大神の崩御になって、岩戸に入りたまいしことであろう。」
すでにのべたように、和辻哲郎は、天の岩戸以前の天照大御神を、『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼に比し、天の岩戸からあとの天照大御神を、卑弥呼の宗女(世つぎの娘)台与に比している。
この考えにしたがえば、『古事記』『日本書紀』に記されている天照大御神は、卑弥呼と台与という二人の人物を反映していることになる。そして、天の岩戸事件は、卑弥呼の死を暗示していることになる。

和辻哲郎が、暗示的にのべていることを、栗山周一は、ずばり、「大神の崩御」とのべるのである。
栗山周一は、みずからの「邪馬台国東遷説」を、つぎのようにまとめている。

「とにかく、倭国人は、九州北部に一国家を作った民族で、文化の程度も高かった。その民族が、人口の増加とともに、大挙して近畿地方に移り、ここに今日の日本を作ったものとすれば、国史の解決はつくのである。邪馬台国の延長としての大和政府を考えるならば、すべて解決がつくのである。神話のうちに現れているところをみると、日本神話は、南方から北方へ進んできている。すなわち、高千穂の宮とか日向とかいう名があらわれている。つまり、倭人は南方民族であって、のち瀬戸内海より東進して大和に入ったのであるから、神武天皇の東征の神話のごときも、この辺の消息をよく物語っているものであろう。」

 

■また、学習院大学の教授であった飯島忠夫はその著『日本上古史論』(中文館書店、1947年)のなかで、およそつぎのようなことを述べている。
(1)天照大御神の時代は、卑弥呼の時代にあたる。
(2)九州の邪馬台国が、本州の大和に移動した。
(3)その移動の時期は西暦300年前後である(日本建国の年代は『日本書紀』に記されている年代から、約千年ほど、後世に引き下げて考えるべきである)。
(4)その移動の記憶が、神武天皇東征伝承であると考えられる。

 

■第二次大戦後も「邪馬台国東遷説」の立場をとった学者はけっしてすくなくない。
東大で教鞭をとった東洋史学者、和田清博士(右下写真)は『東洋史上より観たる古代の日本』(1956年、ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会刊)のなかで、次のように述べている。374-09

「(前略)端的に申しますと、私は卑弥呼の国が東征して、大和朝廷の基を開いたと思うのであります。もちろん、卑弥呼はとうに死んでおりますし、その子孫はありませんが、その勢力をついだものが東征したろうというのであります。(中略)神武天皇御東征の話がどれだけ歴史的事実を伝えたものか解りませんが、すくなくともその話の筋の中には北九州の勢力が大和へうち入った記憶だけは留めているのではないでしょうか。」
そして、和田博士は、「大胆不敵な話ですが」として、卑弥呼のことが、天照大御神の伝説になったのではないかとする見解を述べている。

 

■東京大学の日本史家、井上光貞は、その著『日本の歴史1 神話から歴史』(中央公論社、1965年刊)のなかでのべる。
「わたくしはこう考える。邪馬台国九州説をより妥当とみなしているわたくしにとっては、中山氏の奴(な)国東遷説には従いがたい。また、倭国の大乱(二世紀後葉)のさいに倭人が東遷したというのも、銅鐸が消滅した時期からみて旱すぎるようである。また投馬国東遷説は、皇室の日向発祥を説明し得る点に妙があるが、投馬国東遷の必然性が充分に説明されえない。こうみると、もっとも自然なのは、邪馬台国東遷なのである。

もちろん邪馬台国東遷説も、可能性のある一つの仮説にすぎないが、「北九州の弥生式文化と大和の古墳文化との連続性」、また「大和の弥生式文化を代表する銅鐸と古墳文化の非連続性」という中山氏や和辻氏の提起した問題は、依然として説得力をもつと考えられる。また、邪馬台国は、その女王壱与(いよ)が266年に晋(しん)に遣使した後、歴史の上から姿を消してしまった。いっぽう畿内の銅鐸も、二、三世紀の弥生後期にもっとも盛大となり、しかも突如としてその伝統を絶った そして三世紀末、おそくとも四世紀はじめごろから古墳文化が畿内に発達して全国をおおっていくのである。邪馬台国東遷説は、この時間的な関係からみても、きわめて有力であるといってよいであろう。」

 

■以上に紹介したもののほか、東洋大学の教授であった日本史家、市村其三郎(1902~1983)はその著『民族日本史』(刀江書院、1954年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「『古事記』『日本書紀』の古伝説のなかに、ヒミコ女王の該当者を求めるとすれば、ヒルメノミコト女王の他はないのです。『日本書紀』によると、日本最初の国王は、天皇家の祖先にあたるヒルメノミコト女王であったと伝えられています。ただ『日本書紀』は、これを神話的にとりあつかってしまったので、女王の実在を疑う学者もこれまではあったようですが、これがヒミコ女王と同一人であるということになれば、ヒルメノミコト女王は実在の方となり、一切の疑問は氷解されることでしょう。」

「『古事記』『日本書紀』は、いずれも、日本国の主都が、九州から大和地方に移動したことを伝えています。いわゆる神武天皇の東征です。これは、かならずしも、根拠のない話ではなさそうです。ただ、これが事実であったとすると、すでに述べたように、ヒミコ女王の国の他には、正統日本国というものが考えられないのですから、神武天皇はどうみても、ヒミコ女王の何代目かの子孫ということになりましょう。『日本書紀』にのっている神武天皇の東征の詔(みことのり)というのをみると、神武天皇は、ヒルメノミコト女王の子孫だと明記してあるのです。ヒルメノミコト女王とはなんでありましょうか。九州地方にそのような名の女王があられたとしたら、それはまぎれもなくヒミコ女王のことでなければならないでしょう。ヒミコとヒルメノミコドとをくらべると、語音もまったく似ているでしょう。似ているというよりは、一致しているといってよいでしょう。」

「こればかりではありません。ヒミコ女王下の日本国も、神武天皇にはじまる日本国も、正式の国号は、ともに倭国であって、奈良時代になって初めて、倭国は日本という国号に改められています。神武天皇は、すくなくとも、ヒミコ女王の後継者であって、ヒミコ女王と無縁の方では、けっしてなかったろうと思われるのです。」

 

■以上のようにみてくると、「邪馬台国東遷説」はこれまで、おもに白鳥庫吉、和辻哲郎、黒板勝美、和田清、井上光貞(以上はいずれも東大教授)、飯島忠夫、市村其三郎など、東大系の学者たちにより、示唆され、主張され、発展させられ、支持されてきた、といえるであろう。
また、『邪馬台国の東遷説』について、もっとも詳細な根拠をのべたのは栗山周一といえよう。
私は統計的年代論の立場などから、「邪馬台国東遷説」に、根拠を与えようとした。

 

2.邪馬台国=福岡県朝倉市地域説

卑弥呼のことを伝承したことが天照大御神だとすれば、374-10
卑弥呼のいた場所が天照大御神がいた場所であり、
卑弥呼のいた場所が邪馬台国であり、
天照大御神のいた場所は高天の原であるとされている。

このアプローチから記紀の神話をみるため『古事記』神話から地名の統計を取ってみると右のようになる。

 

九州と山陰地方の地名が圧倒的に多いことが分かる。
『古事記』の神話の主要なモチーフは出雲の国譲りとなっている。

『古事記』は、出雲との国譲りの交渉を、つぎのようにのべている。


「建御雷(たけみかずち)の神と天の鳥船(あめのとりふね)の神の二はしらの神は、出雲の国の伊那佐(いなさ)の小浜(こはま)にくだり到着して、十掬(とつか)の剣を抜いて、さかさまに浪(なみ)のさきに剌(さ)したて、その剣のきっさきに足をくんですわって、大国主の神にたずねてのべられた。

 

古文[・・・この二(ふた)はしらの神、出雲の国の伊那佐の小浜に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大国主神(おおくにぬしのかみ)に問ひて言(の)りたまひしく・・・]」

このことは、高天原から出雲へ行くには天の鳥船などあるから船を使ったことが分かる。374-11

伊那佐は「稲佐」で出雲大社の西側の浜辺だと考えられる。

これらから、高天原は北九州と考えた方が妥当であり、奈良であれば船を使う必要がない。

 

■距離
また、邪馬台国を『魏志倭人伝』から推定すると、

技術者の藤井滋氏は、『東アジアの古代文化』1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)にのせられた論文「『魏志』倭人伝の科学」のなかで、およそ、次のようにのべている。
「帯方郡から狗邪韓国までの七千余里、狗邪韓国から末盧国までの三千余里を合計すると、一万余里となる。したがって、末盧国から邪馬台国までは、一万二千余里から一万余里を引いて、二千里ほどとなる。
末盧国から邪馬台国までは、約千五百里から二千五百里の範囲にあることになる。
邪馬台国は、末盧国から一大国(壱岐)までの距離よりは遠く、狗邪韓国よりは近い所にあることになる。これを図示すれば下の地図のようになる。374-12

 

地図は、帯方郡から邪馬台国までの一万二千余里のもっとも単純、明快な解答である。
それゆえ、地図の範囲外に、邪馬台国を比定する論者は、その正当な理由を、明示する必要があると思う。」
その通りである。

 

■安河(夜須川)
『古事記』には誓約(うけい)や八百万(やおよろず)の神の集まりで天(あま)の安河(やすかわ)の話が出てくる。
この安河について、

ヨーロッパの地名研究を行なって、先史時代の民族の分布を明らかにしたドイツのファスマーはのべている。

「古代住民についてなにもわかっていない地方では、地名研究は水名からはじめるのが方法として正しいと思う。経験からみて、居住地名より意味がはるかに単純なので、水名は解釈しやすいからである。その上、水名は変わりにくく、住民が変わっても水名は変わらないことが多い。」374-13

北海道の地名稚内(わっかない)・幌内(ほろない)などの「ない」は、アイヌ語で、「川」の意味であるという。北海道の言語がアイヌ語から日本語に変っても、川の名は、もとのまま残っている。

 

■今も流れる北九州の安川
「夜須町」の「夜須」は『日本書紀』の「神功皇后紀」に、「安」と記されている。『万葉集』に「安野(やすの)」としてでてくる「安」も。「夜須」の地をさす。

北九州の真ん中に夜須川が残っている。

明治・大正時代の大地名学者・吉田東伍はその著『大日本地名辞典』(冨山房刊)のなかで、つぎのようにのべている(原文は文語文)。
「小石原 今小石原村という。秋月の東四里(十六キロ)、両豊(豊前、豊後)の州界(くにざかい)に接近し、夜須川の渡りである。この川を一名小石原川という。秋月に至り、南方に折れ、甘木(現在の朝倉地方の地)を過ぎ、ついに筑後川に入る。長さ九里(36キロ)。」
「続風土記にいう。夜須川(一名小石原川。これは吉田東伍の註)は、夏月蛍が多い。楢原(ならばる)の林中に薬師堂かある。東光院と言う。長谷山には昔千手観音堂があって、和州(大和)の長谷になぞらえたが、天正十五年(1587)、秋月家が本郷(朝倉郡)を去り、日州(日向の国)におもむいたとき、その仏像をも、たずさえていったということである。」

「夫婦石 秋月と弥長(いやなが)村との間の夜須河辺にある。大石二つが、あい対している。夏月このあたりは、蛍が多い。」

 

■九州と大和の地名の一致
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。すなわち、表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、
(1)ヤマトを中心としている。
(2)海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、
           伊勢(いせ)→志摩(しま)[近畿]
となっている。
(3)山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、
           美濃(みの) →飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]
となっている。
(下図はクリックすると大きくなります)374-14

これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。

これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への大きな集団の移住があったことを思わせる。」

朝倉や雲梯(うなで)の地名を中心として詳細なものが下記であり、地名の出典も書いてある。
(下図はクリックすると大きくなります)374-15

 

北九州での大きい川は筑後川で、畿内では大和川である。筑後川上流で三輪、朝倉、香山があり、大和川の上流に三輪、朝倉、香具山がある。このように川の上流の同じような場所に同じような地名がある。
(下図はクリックすると大きくなります)374-16

畿内では「柳本古墳群」(第10代崇神天皇など)や「古市古墳群」(第15代応神天皇など)や「百舌鳥(もず)古墳群」(第16代仁徳天皇など)があるが、これらの古墳群は時代が古い時代に川の上流にあり、時代が新しくなると川の下流に移って来た。その中で一番古い「柳本古墳群」の近くに三輪、朝倉、香具山の地名がある。これはしだいに、治水が進んだことによると思われるが、古くに住み着いた人々が三輪、朝倉、香具山付けた地名であると考えることができる。このように、九州から移って来たことが推定できるのではないか。

 

■箱式石棺
北九州では墓制が甕棺から箱式石棺に移ってきた。

宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者の奥野正男氏は、つぎのようにのべている。
(以下、傍線をほどこしたのは安本)
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに上墳墓、石蓋上墳墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」(『邪馬台国発掘』PHP研究所刊)

「前代の甕棺墓が衰微し、箱式石棺墓と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく・・・・。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)

「邪馬台国=畿内説」の考古学者の白石太一郎氏(当時国立歴史民俗博物館。現、大阪府立近つ飛鳥博物館長)ものべている。

「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」

茂木雅博(もぎまさひろ)氏の大著『箱式石棺』
茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の『箱式石棺(付、全国箱式石棺集成表)』 (同成社2015年刊)価格は、二万円プラス税で、かなり高価な本である。
ここに、弥生時代後期の県別の箱式石棺の出土数比較がある。

374-17

これにようると、福岡県がトップであるが、次は広島県である。
また、最末期の銅鐸が出てくるところでは箱式石棺が出てこない。
銅鐸が行われて地域と箱式石棺の地域とは住み分けしていたように見える。

北九州における箱式石棺の出土分布は下記のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)374-18

 

朝倉市がトップであるが、古墳時代になると熊本市が増えてくる。これは邪馬台国は朝倉を中心とする地域で、狗奴国があった熊本県を配下に置いたので、熊本県でも箱式石棺が増えたのではないかとも思える。

また朝倉市は箱式石棺の材料になる緑泥石片岩(りょくでいせきへんがん)の産地でもあるので、箱式石棺が多いかもしれない。

朝倉市の箱式石棺の出土状況は下記である。

374-19

工場団地を作った時に、遺跡が出ると工場団地の造成がストップするのを恐れて、遺跡が出そうな高台を避けて造成したが、平塚川添遺跡が発掘された。
(下図はクリックすると大きくなります)374-20

■平塚川添遺跡の出現--吉野ヶ里よりも大きな環濠集落--
1992年の12月に、朝倉市の夜須川(安川、小石原川)の近くの平塚川添遺跡が、弥生時代後期の大環濠集落址として発掘された。全国ではじめての、六重(場所によっては七重)の環濠をもつ遺跡であった(静岡県の伊場遺跡で、三重環濠がみいだされているが、これまで、四重以上の環濠は、みいだされていない)。
福岡県教育庁文化課の柳田康雄文化財保護室長は、東側の一ツ木(ひとつぎ)・小田台地に、同時代の集落がいくつもあることを強調し、全体的には「吉野ヶ里よりも大きな集落群」とのべている。

「五重環濠(のちに、六重環濠であることが判明)のうち一番内側は、この中規模集落を囲んでいるが、外側の環濠は規模から見て、他の集落も含めて取り囲み、共同防御の役割を担っていたのではないか。拠点集落は別だと思うが、全体としては吉野ヶ里よりもずっと大きな集落群とみるべきだ。」

当時国立歴史民俗博物館館長であった佐原真は、「学術的には吉野ヶ里に匹敵する遺跡。」とのべ、九州大学の西谷正教授も、「吉野ヶ里遺跡と同列の発見。」とのべる(以上、いずれも、『朝日新聞』による)。

東京の諸新聞にも、一面で報じられたが、とくに、九州では、連日詳報がのせられた。
かねて、この地を邪馬台国の地と主張してきた私は、見よ! といいたいところである。しかし、・・・。
遺跡の出土にも、運、不運がある。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、ある意味では、幸運な遺跡であったといえる。
その理由を、以下にのべよう。

吉野ヶ里遺跡は、つぎのような点で、幸運であった。
(1)遺跡の存在することが、あらかじめ予想される場所に、広い面積にわたり、工業団地が造成されることになった。
(2)そのため、あるていどの時間をかけて慎重な発掘が行なわれた。その結果、つぎつぎに、新しい遺跡・遺物が出現した。
(3)九州ではじめての、大環濠集落遺跡であったので、新聞・テレビなどの報道にも、熱がはいっていた。

これに対し、朝倉市の平塚川添遺跡は、つぎのような点で、やや不運であった。
(1)弥生時代の遺跡は、丘陵や台地部に存在することが多い。そのため、朝倉市では(当時は甘木市といった)はじめての工業団地の造成にあたって、遺跡が出現して騒動になり、調査のために工期が遅れることをおそれ、あらかじめ、台地部をさけ、台地部に隣接する平地部を買収し、造成しようとしたのであった。ところが、その平地部から、予想外にも、六重の大環濠集落址が、出現した。隣接の台地部からは、これまでにも、多くの貴重な出土物がみられている。隣接の広い台地部を、全面的にくわしく発掘すれば、つぎつぎに新発見があるであろうが、台地部は、工業団地の予定地にははいっていない。そのため、大規模に発掘される予定もない。
(2)吉野ケ里遺跡の報道のあとでは、二番せんじの印象を与え、新聞、テレビの、とくに東京での報道は、吉野ケ里遺跡のばあいほど、熱がはいっていないように思えた。

 

■新聞報道
当時の新聞報道の例をみてみよう。
たとえば、『読売新聞』は、1992年12月15日づけの朝刊の一面で、写真をかかげ、つぎのように報じている。
(下図はクリックすると大きくなります)374-21

 

この報道は、くわしく、かつ要を得ているが、つぎのことを補足しておこう。
(1)この報道の時点では、五番目までの環濠が発掘されていた。そのあと、六番目(場所により七番目)の環濠が発掘された。
(2)この報道のなかの、青銅器七点というのは、「長宜子孫」銘内行花文鏡片が一つ、小形仿製鏡(中国の鏡をまねてつくった小形の鏡)が二面、銅鏃三点、銅の矛の耳の部分一片である。これらのうち、三つの鏡は、かなり重要な意味をもつ。これら三面の鏡は、まさに邪馬台国時代のものである(拙著『日本誕生記2』PHP研究所刊、参照)。
(3)このあと、平塚川添遺跡のすぐ北から弥生時代後期後半から終末期にかけての集落、山の上遺跡がみいだされた。

江戸時代前期の儒者、貝原益軒は、『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』のなかで、当時の「甘木町(現在の朝倉市)」、および、博多から甘木にむかう道(朝倉街道)について、およそ、つぎのようにのべている。
「筑前の国の中で、民家の多いこと、甘木は、早良(さわら)郡の姪浜(めいのはま)につぐ。古くから、毎月九度、ここで市がたつ。それは、今も続いている(『明治十五年字小名調』〔福岡県史資料第七輯〕によるとき、甘木の字(あざ)の名に、「二日町」「四日町」「七日町」「八日町」「つばき」などがあるのは、市のたったなごりと思われる)。筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の六ヵ国の人がより集まる所で、諸国に通ずる要路である。多くの商人が集まり交易して、その利を得ている。
博多から甘木の間、人馬の往来がつねにたえない。東海道を除いては、この道のように人馬の往来の多い道はない。信濃路、播磨路などは、とうていこれにはおよばない。」

 

この平塚川添遺跡のある朝倉市と岡山県の倉敷市と奈良県の桜井市を出土状況を比較すると下記となる。

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このように、『魏志倭人伝』記述の出土物は東へ行くほど少なくなるのである。桜井市の纏向遺跡が邪馬台国時代の中心であったとは考えられない。

以上、ここまで説明したように邪馬台国は朝倉市にあった可能性が高いのである。

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