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第396回 邪馬台国の会
倭の五王の謎
応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳


 

1.倭の五王の謎

■はじめに
倭の五王の中国文献について、そのすべてである『晋書』から『南史』までを列挙すると下記のようになる。下線はポイントになるところを示している。
(下図はクリックすると大きくなります)396-01
(下図はクリックすると大きくなります)
396-02

また、参考に、これらの中国文献とその撰者を下の表に示す。
396-20
そして、倭の五王は『晋書』による西暦413年の記載から始まる。この413年の倭王は、その次の『南史』の記載から、倭王讃であると考えられる。このようにして、倭王武までを日本の天皇の誰に比定するか、古くから多くの説がある。その説をまとめると上の表になる。

A説の方は天皇を新しく見積もっているが、E説の方は天皇を古く見積もっている。共通なのは倭王武が雄略天皇と比定していることである。この各説の要点は讃と珍をどの天皇にあてはめるかである。
そして、これらの中国の文献の記載と『日本書紀』の記載を天皇1代10年説で読み解いたものは、矛盾がないようにみえる。これをベースに倭の五王の説明をすすめる。


■倭王讃=応神天皇説
(1)すでに述べたように、神功皇后の活躍年代が、402年ごろである。とすると、413年ごろに活動している倭王讃は、神功皇后のすぐつぎの天皇の時代と考えるべきである。倭王讃に、応神天皇があてられることになる。

(2)上の表にみられるように、『南史』や『梁書』は、東晋の安帝(在位、396~418)のとき、「倭王讃があった。使いをつかわして朝貢した。」とある。そして、『晋書』の「安帝紀」には、413年にあたる年(義熙九年)に、「高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、ともに方物を献じた。」とある。とすると、倭王讃が、東晋の安帝に使いをつかわした年は、西暦413年とみられる。

いっぽう、同じく東晋の安帝の時代の、416年(義熙十二年)に、百済の直支王(ときおう)が、「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」の爵号を与えられている。『三国史記』の「百済本紀」によれば、直支王の在位期間は、「405年~420年」である。
倭王讃と、百済の直支王とは、同時代の人とみられる。
そして、直支王のことは、『日本書紀』の「応神天皇紀」に記されている。
すなわち、「応神天皇紀」には、直支王が、わが国の人質になっていたこと、父王の阿花王がなくなったあと、百済王になったこと、そして、応神天皇の二十五年に、直支王がなくなったことが記されている。

すなわち、直支王と応神天皇とが、同時代の人であったことを記す。
とすれば、倭王讃は、応神天皇であったことになる。
「応神天皇紀」のあとの、「仁徳天皇紀」や「履中天皇紀」には、直支王の名は、あらわれない。仁徳天皇や履中天皇を、倭王讃にあてる説があるが、そのばあいには、応神天皇を、倭王讃の時代よりも古い時代の人にみつもることになる。
すると、応神天皇の活躍年代が神功皇后の活躍年代と重なってしまう。 396-03

(3)『日本書紀』の「応神天皇紀」の三十七年には、阿知(あち)の使主(おみ)を呉(くれ)の国に遣わしたことが記されている。この呉の国は、中国江南の南朝の宋をさす。すなわち、『宋書』に記されている宋である。
倭王讃は、425年に、宋に、司馬曹達を遣わしている。「応神天皇紀」の阿知の使主派遣記事と符合している。
このように『日本書紀』の「応神天皇紀」に、中国に使いを出した記事がある。

注:中国の国名に宋(そう)が多くある。「応神天皇紀」の宋は下記の②である。
①周代の一国。殷の宗族微子啓が封ぜられ、商丘(河南省商丘県)に都した。三二世で斉・魏・楚三国に滅ぼされた。(~前286)春秋時代の宋。
②南朝の一。東晋の将軍劉裕(武帝)が建てた国。都は建康(南京)。八世で斉王蕭道成に帝位を譲った。劉宋。(420~479)南北朝時代の宋。
③後周の将軍趙匡胤が建てた王朝。汴(べん)[開封]に都し、文治主義による官僚政治を樹立したが、外は遼・西夏の侵入に悩まされ、内は財政の窮迫に苦しみ、1127年金の侵入により九代で江南に逃れた。これまでを北宋といい、以後、臨安(杭州)に都して、九代で元に滅ぼされるまでを南宋という。(980~1279)唐・宋・元・明・清の宋。

(4)応神天皇の和風謚号(しごう)は、「ホムタワケのミコト」である(『古事記』は品陀和気命(ほむだわけのみこと)、『日本書紀』は誉田別尊(ほむたわけのみこと)。「ホム」という言葉は、古くから、賛美の意味で使われている。賛美の意味の「ホム」は、『日本書紀』の「神代紀」にも、『万葉集』にも見えている。倭王「讃」の、「讃」という名称は、応神天皇の名の「ホム」を、漢訳したものであろう。これは、雄略天皇の「ワカタケル」の「タケル」を、漢訳して「武」としたのと同一である。


■「神功皇后紀」の「摂政(せっしょう)」について
『日本書紀』の「神功皇后紀」は、神功皇后が、「摂政(せっしょう)」であったことを記す。
すなわち、神功皇后の摂政元年の条の最後に、辛巳(かのとみ)の年を、神功皇后の「摂政(まつりごとふさねをさめたまふ)元年」とする、と記している。辛巳の年は、西暦201年にあたる年である。ここでは、神功皇后を、実際の活躍年代の402年ごろよりも、200年以上古くみつもっているのである。

ここで、「摂政」ということばの意味を考えてみよう。
『国史大辞典8』(吉川弘文館刊)で、『摂政』という語を引くと、つぎのような説明がのっている。
「天皇に代わって万機を摂り行う者、または摂り行うことをいう。」
「摂政の語は中国・朝鮮の文献にみえるが、『史記』などにみえる中国の例は、皇帝は在位するが老齢・幼少などのため統治能力のない場合、皇帝に代わって統治する者をさし、朝鮮の例は『三国史記』などによると、王が幼少のため統治能力を欠く場合、母后である皇太后・太皇太后が王に代わって大政を執ることをいい、わが国の称制に相当するものといえる。摂政をその出自により大別すると、皇族摂政と人臣摂政に分けられる。『日本書紀』によると、仲哀天皇の崩御後、神功皇后が摂政になったとあるのをわが国の摂政の初例とするが、皇后の統治は摂政というよりも称制にもとづいていたと考えられる(中略)。」

ここに、「称制」という語があらわれる。そこで、『国史大辞典7』によって、「称制」という語を引くと、つぎのようにある。
皇太子あるいは皇后が天皇の崩後に、即位せずに国政を掌ること。
『日本書紀』の記述や、中国文献などを参考にすると、神功皇后の「摂政」は、『史記』や『三国史記』にみられるように、つぎの意味に理解してよいのではないか。
皇帝は在位しているが、老齢・幼少などのため統治能力のない場合、皇帝に代わって統治する者
王が幼少のため統治能力を欠く場合、母后である皇太后・太皇太后などが王に代わって大政を執ること
第十四代仲哀天皇のあとの、第十五代の天皇は、応神天皇(=倭王讃)であった。ただ、倭王讃が、413年に、東晋の安帝に使いをつかわしたころ、応神天皇=倭王讃は、なお、幼少であった。そのため、母后の神功皇后が、摂政の位置にあった。ただ、中国との国交のばあいは、母后の神功皇后の名ではなく、「倭王讃=応神天皇」の名で行なった。
425年に、倭王讃が、中国の宋に使いをつかわしたころには、おそらくは、神功皇后摂政の時代ではなく、応神天皇の親政の時代であったであろう。
「摂政」というと、わが国の、のちの時代の、推古天皇の時代の聖徳太子の摂政や、のちの藤原氏の一族が独占した摂政・関白などの職の摂政を、思い出しがちである。これらは成人している天皇を、摂政が補佐する形のものである。しかし、神功皇后の摂政は、『史記』や『三国史記』にみられる摂政の意味に近いとみられる。

 

■『三国史記』や『晋書』にみえる「摂政」
新羅の第二十四代の王(在位540~576)の真興王は、対外戦争を行い、領土をいちじるしく拡大させた。新羅の国力を、飛躍的に拡張させた。
真興王は、七歳で即位した。即位直後は、王母が摂政であった。ひとり立ちしたのは、十七歳のころという。
また、高句麗の第六代の大祖大王(在位53~146)は、やはり七歳で即位した。王母が摂政をしたという。

大祖大王も、外征と領土拡張を行なった。『後漢書』の「高句麗伝」に、大祖大王について、「長ずるに及んで勇壮にして、しばしば辺境をおかした。」とあるから、実在の人物である。ただ、『三国史記』に、大祖大王が位をゆずったとき、年齢が百歳で、在位は九十四年とある。日本の古い天皇のばあいと同じく、年代が、なんらかの形で、ひき伸ばされている可能性がある。

中国の例では、『晋書』に、晋の第九代穆帝聃(ぼくていたん)(在位344~361)は、二歳で即位し、皇太后が、「臨朝摂政」したとある。
『晋書』では、第七代の成帝衍(せいていえん)(在位325~342)は、五歳で即位、皇太后が、「臨朝称制」したとある。

396-04

『日本書紀』の「神功皇后紀」の「摂政」ということばは、これらの事例と、大略同じ意味で用いられているようである。

 

■倭の五王の比定
「倭王讃=応神天皇」としてみよう。

『宋書』によれば、倭王讃は、西暦425年に、「(宋に)司馬曹達を遣わして、表をたてまつり、方物(土地の産物)を献じた。」とある。そして、430年前後かとみられるころに、「讃が死んで、弟の珍か立った。」という記事がある(最初に表示の表の番号8の項参照)。
「倭王讃=応神天皇」であるとすると、応神天皇は、425年、ばあいによっては、430年ごろまで在位していたことになる。
『三国史記』の「百済本紀」によれば、百済の直支王がなくなったのは、420年である。そして、『日本書紀』の「応神天皇紀」によれば、直支王がなくなったのは、応神天皇の時代である。話のつじつまは、あっているといえる。 396-05

「倭王讃=応神天皇」とすれば、右図にみられるように、438年に宋に貢献した倭王珍は、仁徳天皇であることになる。443年に宋に貢献し、451年に宋から称号を与えられている倭王済は、允恭天皇であることになる。世子興は、安康天皇であり、倭王武は雄略天皇であることになる。

倭王讃を仁徳天皇にあてる説があるが、「倭王讃=仁徳天皇説」についての検討は、拙著『神功皇后と広開土王の激闘』(勉誠出版刊)にくわしい。

 

■倭の五王の系譜
倭の五王を、古代の諸天皇などに比定するばあい、手がかりにされてきたのは、これまで、おもに、次の三つであった。 396-09

(a)系譜の一致または類似。
(b)名前の音または意味の、類似または一致。
(c)年代の一致。

このうち、(a)と(b)とは、傍証にはなりえても、決め手には、なりにくい。
まず、(a)の系譜について考えよう。
系譜という手がかりには、つぎのような問題がある。

(1)系譜は、もともと、親子か、兄弟関係からなりたっている。似たような系譜は、しばしばありうる。

(2)系譜が合致しても、時代があわない比定は、当然、成立しない。たとえば、下の系図をごらんいただきたい。
讃=履中天皇、珍(彌)=反正天皇、済=市辺押磐皇子(いちのへのおしわけのみこ)、興=仁賢(にんけん)天皇、武=顕宗(けんぞう)天皇と考えれば、
『宋書』の伝える系譜と、日本がわ資料の伝える系譜とが一致する。事実、ここで示したような比定説をとる人もいる。 396-10

しかし、この説が、かならずしも多数の賛同を得られないのは、倭の五王の時代と、履中天皇~顕宗天皇の時代とでは、時代があわないと考えられる根拠が、いろいろあるからである。

(3)中国文献の記す外国の王の系譜記事は、一般に、かなり粗雑である。たとえば、『宋書』(485年成立)、『梁書』(629年成立)よりも、ずっとのちに成立した『新唐書』(1060年成立)をとりあげてみょう。
中国の文献の記す天皇の系図と、わが国の史書の記す系図とを、かなりなていど対照できるのは、『新唐書』である。
『新唐書』も、『宋書』『梁書』と同じく奏勅撰書であるが、『新唐書』の記す天皇の系譜は、誤りだらけといってよい。
『新唐書』は、「天智死して、子の天武立つ。」と記す。誤りである。天武天皇は、天智天皇の弟である。
『新唐書』は、推古天皇を、「欽明の孫女(まごむすめ)」と記す。誤りである。推古天皇は、欽明天皇の子である。
『新唐書』は、神功皇后を、開化天皇の「曾孫女(ひまごむすめ)」とする。誤りである。神功皇后は、開化天皇の五世の孫である。
『新唐書』は、文武天皇が死ぬと、「子の阿用立つ。」と記す。まったくの誤りである。文武天皇のつぎに立ったのは、天智天皇の子の元明天皇[名は、阿閉(あべ)]である。
『新唐書』は、元明天皇が死ぬと、「子の聖武立つ。」とある。誤りである。元明天皇のつぎは、「子の元正天皇」である。聖武天皇は、元明天皇の孫である。

朝鮮の歴史書、『三国史記』の「新羅本紀」も、中国文献の誤りをわざわざ記している。「第29代武烈王は、第25代真智王の孫である。『唐書』に、第28代真徳王の弟としてあるのは誤りである。」武烈王は、かなり時代がくだり、654年に即位した人である。

(4)その『三国史記』の記す朝鮮の王の系譜も、『日本書紀』の記す系譜と、かなりあわない。
『日本書紀』に記されている百済王の系譜と、『三国史記』に記されている百済王の系譜は、どの王のつぎがどの王であるかなど、百済王の代の数は、『日本書紀』と『三国史記』とで合致している。しかし、親子関係や兄弟関係などの続柄は、かなり異なる。
たとえば、第21代蓋鹵王(こうろおう)と第22代文周王(もんすおう)との関係は、『日本書紀』では、兄弟関係になっている。しかし、『三国史記』では、親子関係になっている。そして、どちらのほうが、より信頼できるかについてのキメテがない。

『日本書紀』の成立は、720年である。『三国史記』の成立は、1145年である。『日本書紀』のほうが、『三国史記』よりも、400年以上はやく成立している。すなわち、古い情報をとどめている可能性が大きい。先に成立した文献を尊重すべきであるという立場をとれば、『日本書紀』のほうの情報をとることになる。
いっぽう、『三国史記』は、地元の朝鮮で成立した文献である。外国の史書『日本書紀』の記事よりも、伝聞的要素が少ないはずである、ということになる。
系譜記事については、中国文献も、日本文献も、ともに、伝え誤りを含む可能性がある。
倭の五王についても、どの王が時代的に先で、どの王が時代的にあとであるか、を重要な情報とみなし、系譜記事は、参考程度にしたほうがよさそうである。

「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説を、最初にとなえたことで知られる考古学者、笠井新也は、つぎのようなことをのべている。
「わが国の古代における皇位継承の状態を観察すると、神武天皇から仁徳天皇にいたるまでの十六代の間は、ほとんど全部父から子へ、子から孫へと垂直的に継承されたことになっている。しかし、このようなことは、私の大いに疑問とするところである。なぜならば、わが国において史実が正確に記載し始められた仁徳以後の歴史、とくに奈良朝以前の時代においては、皇位は、多くのばあい、兄から弟へ、弟からつぎの弟へと、水平的に伝えられているからである、かの仁徳天皇の三皇子が、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)と順次水平に皇位を伝え、継体天皇の三皇子が、安閑(あんかん)宣化(せんか)・欽明(きんめい)と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・一皇女の四兄弟妹が、敏逹(びたつ)・用明・崇峻(すしゅん)・推古と同じく水平に伝えたがごときは、その著しい例である。したがって、この事実を基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が、単純に、ほとんど一直線に垂下したものとは、容易に信じがたいのである。

山路愛山(やまじあいざん)は、その力作『日本国史草稿』において、このことに論及し、『直系の親子が縦の線のごとく相次いで世をうけるのは、中国式であって、古(いにしえ)の日本式ではない』。それは、『信ずべき歴史が日本に始まった履中天皇以後の皇位継承の例を見ればすぐわかる』『仁徳天皇から天武天皇まで通計二十三例のあいだに、父から子、子から孫と三代のあいだ、直系で縦線に皇位の伝った中国式のものは一つもなく、たいてい同母の兄弟、時としては異母の兄弟のあいたに横線に伝わって行く』『もし父子あいつづいて縦に世系の伝って行く中国式が古(いにしえ)の皇位継承の例ならば、信ずべき歴史が始まってからの二十三帝が、ことごとくその様式に従わないのは、誠に異常なことと言わなければならない。ゆえに私達は、信ずべき歴史の始まらないまえの諸帝も、やはり歴史後と同じく、多くは同母兄弟をもって皇位を継承したであろうと信ずる』と喝破(かっぱ)しているのは傾聴すべきである。」(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」『考古学雑誌』第十四巻、第七号1924年「大正十三年」4月、所収)

さらに、つぎのような事例もある。
『三国志』の『魏志』の「三少帝紀」に、つぎのようなことが書かれている。
卑弥呼が外交関係をもった魏の明帝がなくなり、そのあと、斉王(せいおう)の芳(ほう)が、帝王の位につく。
そこに、つぎのような文がある。
「明帝は子がなかったため、斉王と秦(しん)王の詢(じゅん)とを養育していた。宮中の事がらは、秘密に属するから、だれも、彼らの経歴を知るものはなかった。」
ここには、はっきり、「明帝は子がなかった」「彼らの経歴を知るものはなかった」と記されている。
しかし、たとえば、『新編 東洋史辞典』(東京創元社刊)の巻末に示されている「中国歴代世系表」に見られる系図では、斉王芳は、明帝の子である形になっている。なお、裴松之の注では、『魏志春秋』を引き、「(斉王芳は、)任城(じんじょう)王の曹楷(そうかい)の子であるという。」とある。曹楷は、明帝のいとこである。斉王芳は、明帝のいとこの子であることになる。明帝と曹楷のおじいさんは曹操で、おばあさんは、曹操の正夫人卞(べん)皇后である(『三国志』には、「曹楷」という名の人が、二人あらわれるが同名異人であることに留意)。明帝にとって、斉王芳は、心情的にはわが子に近いものであったかもしれない。しかし、直接血をわけた子ではない。
宮廷内でおきたことで、血縁関係がやや遠いばあい、その関係は、正確には、伝わりにくくなるとみられる。

 

2.応神天皇陵古墳・仁徳天皇陵古墳

■「応神天皇陵古墳」の築造年代
私は、「讃=応神天皇」の陵墓は、「応神天皇陵古墳=誉田御廟山古墳」でよいものと考える。

その理由は、つぎのとおりである。
(1)応神天皇の年代を古くみつもり、「倭王讃=仁徳天皇」説をとると、天皇の在位の時期と、応神天皇陵古墳の推定築造時期とが、あわなくなる。

しかし、応神天皇を、すでにのべたように、西暦430年ごろまで在位した人であるとすれば、応神天皇の年代と、応神天皇陵古墳の推定築造時期とはあう。たとえば、筑波大学名誉教授の川西宏幸(かわにしひろゆき)氏は、円筒埴輪についての精緻な編年にもとづき、古墳の年代推定を行なっておられる。
川西宏幸氏の著書『古墳時代政治史序説』(塙書房、2012年刊)によれば、大型古墳の時期の実年代推定値は下の表のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)396-06

この表によれば「応神天皇陵古墳(表に応神陵とあるもの)」「仁徳天皇陵古墳(表に仁徳陵とあるもの)」の実年代推定値は、「430年~500年」とある。
応神天皇の在位を430年ごろまでとすれば、ほぼ、年代はあっている。

(2)応神天皇陵については、『古事記』は、「川内(かわち)の恵賀(えが)の裳伏(もふし)の崗(おか)にあり」と記す。「恵賀」の地は、「餌香(えが)の市(いち)」のあったところである。現在の「古市古墳群(ふるいちこふんぐん)」のある場所である。
927年に撰進された『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」に、応神天皇陵は、「河内の国志紀郡にあり。」と記しているのも、『古事記』の記述とあう。また、『延喜式』は、応神天皇の陵の兆域について「東西五町、南北五町」と記す。
ここに記される「町」は、どれぐらいの大きさを示すのであろうか。
ふっうは、1町は109メートルほどと考えられている。

ただ、平城京や平安京においては、1町を、121メートルとする長さの単位が用いられていた(『日本国語大辞典』[小学館刊])。たとえば、藤田元春著『尺度綜攷(しゃくどそうこう)(考)』(刀江書院、1929年刊)に、ただ、平城京や平安京においては、1町を、121メートルとする長さの単位が用いられていた(『日本国語大辞典』「小学館刊」)。たとえば、藤田元春著『尺度綜攷(考)』に、『九院仏閣抄』という文献が紹介されている。そこに、平安時代前期の僧の伝教大師(最澄)の言として、「四十丈が一町をなす」と記されているという。「四十丈が一町」なら、一町は121メートルほどである。

応神天皇陵の五町四方は、
・1町を109メートルとみれば、545メートル四方。
・1町を121メートルとみれば、605メートル四方である。この兆域はかなり大きい。

一方、応神天皇陵古墳の墳丘全長は、『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)に、425メートルとある。
応神天皇陵古墳は、『延喜式』に記されている兆域内に、おさまることになる。
いっぽう、古市古墳群には、多くの天皇陵古墳がある。『延喜式』に記されているそれらの天皇陵古墳の兆域は、つぎのようになっている。
・第十四代、仲哀天皇陵古墳 東西二町南北二町
・第二十二代、清寧天皇陵古墳 東西二町南北二町
・第二十四代、仁賢天皇陵古墳 東西二町南北二町
・第二十七代、安閑天皇陵古墳 東西一町南北一町
このように、たとえば「東西二町南北二町」の範囲では、応神天皇陵古墳は、兆域内には、はいりきれない。
(下図はクリックすると大きくなります)396-07

応神天皇陵古墳は、古市古填群のなかでは、最大の古墳である。『延喜式』の記す「東西五町南北五町」の兆域にふさわしいのは、応神天皇陵古墳である。
1915年に宮内省諸陵寮の職員の執務の便のために編纂された『陵墓要覧』も、応神天皇陵古墳を応神天皇の陵とする。
現在の『宮内庁治定陵墓の一覧』でも、応神天皇陵古墳を、応神天皇の陵としている。
かつ、応神天皇の皇后の仲姫命(なかつひめのみこと)の仲津姫命陵古墳(なかつひめのみことりょうこふん)も、応神天皇陵古墳のすぐ近くにある。
応神天皇陵古墳は、応神天皇の陵の本命(ほんめい)とみてよい古墳である。

(3)『日本書紀』の「雄略天皇紀」の九年七月の条に、つぎのような話がのっている。
「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)[現羽曳野(はびきの)市の飛鳥から柏原(かしはら)市国分にかけての地]の人である田辺史伯孫(たなべのふびとはくそん)の娘は、古市郡[現羽曳野(はびきの)市古市(ふるいち)付近]の人である書首加竜(ふみのおびとかりょう)の妻である。伯孫は、その娘が、男の子を生んだと聞いて、聟の家にお祝いに行き、月夜に帰途についた。蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田(ほんだ)陵[応神天皇陵]の下で、赤馬に乗った人に出あった。その馬は、そのときうねるように行き、竜のごとくに首をもたげた。急に高く跳びあがって、鴻(おおとり)のように驚いた。その異(あや)しい体が、峰のようになり、あやしい形相がきわだっていた。伯孫は近づいてみて、心の中で、手に入れたいと思った。乗っていた葦毛の馬に鞭(むち)うって、轡(くつわ)を並べた。赤馬がおどりあがるさまは、塵埃のようで、さっとあがっては消え、走りまわる速さは、滅没するよりももっと速かった。
葦毛の馬は、遅くて追いつくことができなかった。その速く走る馬に乗っていた人は、伯孫の願いを知って、とまって馬を交換し、別れにあいさつをのべて去っていった。伯孫は、速く走る馬を得て、たいへんよろこび、走らせて厩に入れた。鞍をおろし、馬に秣(まぐさ)を与えて寝た。翌朝、赤馬は、埴輪の馬に変わっていた。伯孫はあやしんで、誉田陵にとってかえして探してみたら、葦毛の馬が、土馬(はにま)の中にいたのを見つけた。取りかえて、かわりに土馬を置いた。」

この記事で、田辺史伯孫は、南の古市から北の柏原市のほうへ向かっているのである。下の地図をみていただきたい。この記事の「誉田陵」は、明らかに、古市古墳群のなかに存在していた陵を示す。 396-08

また、『日本書紀』は、応神天皇のことを、「誉田天皇(ほんだのすめらみこと)」と記しており、「誉田陵」は応神天皇の陵のこととみてよい。
じじつ、815年に成立した『新撰姓氏録』の、「左京皇別」の下の上毛野(かみつけの)
の朝臣(あそみ)の条に、さきの「雄略天皇紀」と同じ話をのせ、つぎのように記している。
「雄略天皇の御代、努賀(ぬか)の君の子の百尊(はくそん)は、娘が子を生んだので、聟の家に行き、夜をおかして帰った。応神天皇の陵の付近[応神天皇御陵辺(おうじんてんわうのみさざきべ)で、馬に乗った人にあい、ともに語りあった。馬をとりかえて別れた。翌日、とりかえた馬をみると、土の馬であった。よって陵辺(みさざきべ)の君という姓を負う。」
ここでは、はっきりと、「応神天皇御陵辺」と記されている。
『日本書紀』や『新撰姓氏録』が編纂されたころ、応神天皇陵古墳が、応神天皇陵であると考えられていたとみられる。

現在も、応神天皇陵古墳は、大阪府羽曳野市誉田(こんだ)にある。この地名の「誉田(こんだ)」は、応神天皇の名の、「品陀和気(ほんだわけ)の命(みこと)」(『古事記』)、「誉田別皇子(ほむたわけのみこ)」「誉田天皇(ほむたのすめらみこと)」(『日本書紀』)の「ほむた」を伝えているとみられる。その地の地名にもとづいて、天皇の名がつけられたか、逆に、天皇の名にもとづいて、地名がつけられたものか。

これは、その地の地名にもとづいて、天皇の名がつけられた可能性のほうが、やや大きいようにみえる。応神天皇は、『古事記』によれば品陀(ほむだ)の真若(まわか)の王(おおきみ)の女(むすめ)を皇后としている。応神天皇以前の人の名に、「ほむた」があらわれる。河内方面の開発にあたり、皇后の父が地盤をもつ地に、応神天皇陵をきづいたものか。

「誉田(ほむた)」「誉田(こんだ)」にみられるような、「h音」と「k音」との交替は、日本語においてすくなくない。『日本書紀』の「神代紀」に、「岐(ふなと)[布那斗]」の神のもとの名は、「来名戸(くなと)」の祖(さえ)の神といったとある。
『日本書紀』の「景行天皇紀」にみえる「日高見(ひたかみ)国」は、そこを流れる「北上(きたかみ)川」と、語源を同じくするとみられる。
「乞食(こじき)」や「物貰(ものもら)い」を意味する「ホイト」は、「コフヒト(乞ふ人)」から来たとする説がある。
なお、誉田の地には「誉田(こんだ)八幡宮」がある。誉田八幡宮は、現在は、応神天皇陵古墳の南がわにあるが、かつては古墳の後円部の頂上部にあったという。
「八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)」は、応神天皇のこととされる。「八幡宮」は、多く応神天皇、神功皇后などをまつるが、誉田八幡宮も、「品陀別命(ほんだわけのみこと)[応神天皇]」を主神とし、神功皇后、仲哀天皇のほか、住吉三神をまつる。

(4)1985年に発行された『季刊大林』20号の『王陵』によれば、仁徳天皇陵古墳の総動員数は、延ベ680万7千人(ただし、一日あたりピーク時で2000人)、工期は、15年8ヵ月と見つもられている。
応神天皇陵古墳の築造にも、これに近い動員数が必要とされたとみられる。これほど多数の人々を動員すれば、これが、仁徳天皇陵、あるいは、応神天皇陵であるという伝承は、クチコミで広がり、伝わりやすかったとみられる。被葬者を、あとで変更するのは、むずかしかったであろう。

(5)東京大学の教授で、考古学者であった斎藤忠は、『国史大辞典と(吉川弘文館、1990年刊)の「仁徳天皇」の項で記す。
「近年[仁徳天皇陵古墳=百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらなかのみささぎ)を]仁徳天皇陵とすることに学問的な疑問をいだき『大仙古墳』という名称も提出されているが、墳丘の形態と重厚な歴史の伝承の上から、仁徳天皇陵とすることが適切と考えてよい。」
応神天皇陵古墳は、仁徳天皇陵古墳に近い時期とみられる古墳であるが、古墳の形式からいって、仁徳天皇陵よりやや古いとみられるから、仁徳天皇陵古墳を、仁徳天皇の陵とみるならば、応神天皇陵古墳も、応神天皇の真陵とみてよいように思う。
たとえば、大阪府教育委員会文化財保護課の考古学者であった野上丈助なども、応神天皇陵古墳を、応神天皇陵とする見解を、強く主張している(「応神天皇の陵墓は「応神陵」か」[『歴史読本』1986年臨時増刊号])。


■「前方後円墳築造時期推定図」の読み方
前方後円墳は、時代が下るにつれ、後円部に比し、前方部が相対的に発達する。 396-11

前方後円墳においては、右の図にみられるように、墳丘全長および後円部の径に比して、前方部の幅が、古い時代の前方後円墳ほど小さく、後代の前方後円墳ほど、大きくなる傾向がみとめられる。

いま、横軸(x軸)に、前方部の幅を後円部の直径で割った値、
[前方部幅/後円部径×100]をとる。

また、縦軸(y軸)に、前方部の幅を墳丘全長で割った値、
[前方部幅/墳丘全長×100]をとる。

そして、天皇陵古墳や皇后陵古墳、さらに代表的な前方後円墳などをプロットすれば、下の二つの図のようになる。

(下図はクリックすると大きくなります)
396-12

(下図はクリックすると大きくなります)
396-13

このようにグラフを描くと、古い時代の古墳は全体的に左下に、新しい時代の古墳は全体的に右上にプロットされる、それは、時代がくだるにつれ、後円部に比し、前方部が、しだいに発達する傾向があるからである。
すなわち、墳丘全長および後円部の径に比して、前方部の幅が、古い時代の前方後円墳ほど小さく、後代の前方後円墳ほど大きくなる傾向がみとめられる。

上の二つの図によって、前方後円墳の大略の築造時期を推定できる。
たとえば、第10代崇神天皇陵古墳、第11代垂仁天皇陵古墳、第12代景行天皇陵古墳などは、左下の「四世紀型古墳群」のなかに位置する。崇神天皇陵古墳を、西暦360年前後の築造とみてよいことはすでにのべた。

第15代応神天皇陵古墳、第16代仁徳天皇陵古墳、第17履中天皇陵古墳などは、「五世紀型古墳群」のなかに位置する。第21代雄略天皇のころの古墳とみられる埼玉県の稲荷山古墳は、「五世紀型古墳群」のなかでも、ほとんど「六世紀型古墳群」に近いところに位置する。
第24代仁賢天皇陵古墳、第26代継体天皇陵であることが通説になりつつある今城塚(いましろづか)古墳、第29代欽明天皇陵古墳などは、「六世紀型古墳群」に属する。第26代継体天皇のころの、西暦527年に反乱をおこした筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井の墓とされる岩戸山古墳も、「六世紀型古墳」に属する。
そして、たとえば、第18代反正天皇陵古墳のように、五世紀の人物であるのに、天皇陵古墳が、「六世紀型古墳群」に属するというようなケースは、その古墳が、ほんとうに反正天皇の陵であるのかというように、古墳に当該天皇がほうむられているのか、従来からいろいろな根拠により強く疑われているものばかりといってよい。

全体的にみれば上に示した二つの図の「前方後円墳築造時期推定図」は、各古墳の築造時期を、かなりよく弁別しているといってよい。

この二つの図において、⑧などのような丸の中の数字は、その古墳の被葬者と一応されている人物が、ほぼ第何代目の天皇と同時代になるかを示したものである。たとえば、岡山県の吉備の中山茶臼山(ちゃうすやま)古墳は1915年に宮内庁からでている『陵墓要覧』では、吉備津彦の命の墓とされている。吉備津彦の命は、第7代孝霊天皇の皇子で、第10代崇神天皇の時代に活躍した人物である。したがって、中山茶臼山古墳のところには、⑧~⑩と記されている上の二つの図をみれば、およそつぎのようなことがわかる。

(1)古い代の天皇に関連した古墳は、おおむね左下にくる傾向があり、新しい代の天皇に関連した古墳はおおむね右上にくる傾向がある。そしてこの傾向は、考古学の分野で一般にいわれている古い時代に築造されたと推定されている古墳と、より新しい時代に築造されたと推定されている古墳との関係に対応している。このことは、すくなくとも統計的にみたばあい、いわゆる天皇陵古墳が、古墳の築造年代推定のあるていどの基準になりうることを示している。また、当該古墳に、ある天皇などが葬られているという伝承には、あたらずといえども遠からずていどの信憑性のあることを示している。

(2)筑波大学の川西宏幸氏による円筒埴輪の形式による編年は、信頼度が高いとされている。「円筒埴輪」が出土している古墳については、古墳名のそばに、「I期」~「V期」のどの期の「円筒埴輪」が出土しているのかが、ローマ数字で記されている。「V期」の「円筒埴輪」の出土した古墳は、右上のほうにくる。「I期」「Ⅱ期」の円筒埴輪の出土した古墳は、左下にくる傾向がある。すなわち、「古墳の形態」と「円筒埴輪の形式」という二つの別規準にもとづく古墳の築造年代推定編年が、ほとんど正確に合致している。その古墳がいつ築造されたかについての、円筒埴輪などにもとづく考古学的な推定年代と、天皇の一代平均在位年数約十年説による天皇の活躍時期についての統計的推定年代とが、大略合致している。このことは、その古墳に、伝承によって伝えられる被葬者が葬られている可能性を高めるものであろう。また、考古学的な年代推定の結果と、文献にもとづく統計的年代推定の結果との信憑性を、相互に高めるものであろう。

全体的に大きくみれば、上に示した二つの図の示す古墳の傾向は、前方後円墳の新旧の示す傾向と、かなりよく一致している。前方後円墳の築造時期を推定するのに役立つ。
しかし、このような方法によるばあい、こまかくみれば、箸墓古墳のように、前方部が、三味線の撥(ばち)形にひろがっている古墳は、真の年代よりも、やや新しめに推定される傾向があり、逆に、あとでとりあげる桜井茶臼山古墳のように柄鏡(えかがみ)型で、前方部があまり広かっていない古墳は、真の年代よりも、やや古めに推定される傾向があるようにもみえる。

上に示した二つの図の下の図では、同じ四世紀型古墳でも、箸墓古墳のほうが、崇神天皇陵古墳よりも、前方部が発達しているため、年代がやや新しい古墳のようになっている。
これについては、考古学者の斎藤忠がつぎのように主張していることも、主張の根拠が示されているので留意する必要がある。
「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体の上からいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山(むかいやま)古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」
「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上の一試論」「古代学」13巻1号)

そして、斎藤忠は、崇神天皇陵古墳の築造の時期を、「ほぼ四世紀の中ごろ、あるいはこれよりやや下降する」と推定している。したがって、箸墓古墳の築造の時期は、ほぼ四世紀の後半にはいることになる。ここで、斎藤忠が、「丘陵の突端でなく、平地にある」「平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて」と、箸墓が「平地」に築かれたものであることに触れていることは、留意する必要がある。

大塚初重・小林三郎共編の『古墳辞典』(東京堂出版刊)の「用語解説編」において、つぎのようにのべられている。 396-14

「(前期古墳は、)丘陵尾根上・台地縁辺など低地を見おろすような地形に立地し、前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・円墳・方墳などの種類がみとめられる。墳形をととのえるのに自然地形をよく利用しているのも前期古墳の特色である。」
箸墓古墳は、丘陵尾根上や台地縁辺などに築かれたものではない。平地に築かれたものである。あるいは、崇神天皇陵古墳よりも時代の下るものか。

箸墓古墳の前方部は、崇神天皇陵古墳よりも、あきらかに発達している。右の図のとおりである。

箸墓古墳の後円部の径は、約157メートル。崇神天皇陵古墳の後円部径は、158メートル。1メートルほどの差で、ほとんど変わらない。(測定値は、『前方後円墳集成近畿編』「山川出版社刊」による。)

かりに、崇神天皇陵古墳の築造時期が、箸墓古墳の築造時期よりも古いとすれば、崇神天皇陵古墳は寿陵(じゅりょう)[生前に建てられた陵]で、早めに造られたことなどが考えられよう。

 

■「三角縁神獣鏡」「画文帯神獣鏡」の埋納された古墳
下の図は、「三角縁神獣鏡」を出土した諸古墳を、プロットしたものである。対比のために、「造出(つくりだ)し」のある前方後円墳をプロットした。
「造出し」は前方後円墳の前方部と後円部の接続部分であるくびれ部に付設された小丘である。祭りをする場であろうと考えられている。

(下図はクリックすると大きくなります)
396-15

この図をみれば、つぎのようなことがわかる。
(1)「三角縁神獣鏡」は、崇神天皇陵古墳に近い形の前方後円墳から出土していることが多い。崇神天皇陵古墳の築造年代から考えて、「三角縁神獣鏡」は、おもに、四世紀を中心とする諸古墳から出土しているとみられる。

(2)「造出し」のある諸古墳は、「三角縁神獣鏡」の出土する諸古墳よりも、時代的にあとに発生しているようにみえる。「造出し」のある諸古墳は、おもに、五世紀、六世紀ごろに築造されたもののようにみえる。

つぎに下の図をご覧いただきたい。
この図は、「画文帯神獣鏡」を出土した諸古墳をプロットしたものである。
この図をみれば、つぎのようなことがわかる。
(1)「画文帯神獣鏡」も、おもに、崇神天皇陵古墳前後の諸古墳から出土しているようである。「三角縁神獣鏡」と、それほど変わらない時代の諸古墳から出土している。じじつ、この図にみられように、「画文帯神獣鏡」と「三角縁神獣鏡」とがともに出土している古墳も多い。

(下図はクリックすると大きくなります)
396-16

 

ホケノ山古墳からも「画文帯神獣鏡」が出土している。ここからも、ホケノ山古墳の築造年代が、四世紀であることが疑われる。
そのように考えられる理由として、つぎのようなこともあげられる。
下の図に示す県別分布では、「画文帯神獣鏡」も「三角縁神獣鏡」も、奈良県を中心に分布する。これは、庄内様式期の出土鏡が、全体的にみて福岡県を中心に分布するのとは、パターンが異なる。「画文帯神獣鏡」の県別出土パターンは、四世紀の布留式土器時代のパターンとみられる。このような県別分布パターンによって、鏡の行なわれた主要な年代を、あるていど判断することができるようにみえる。

(下図はクリックすると大きくなります)
396-17

崇神天皇陵古墳時代前後の前方後円墳の主要な特徴として、つぎのようなものがあげられる。
①竪穴式石室の盛行
②碧玉製品の盛行
その状況は、下の図のとおりである。
この時代は、四世紀を中心とする時代で、おもに布留式土器の行なわれた時代とみられる。

(下図はクリックすると大きくなります)396-18

(下図はクリックすると大きくなります)
396-19

このことからも崇神天皇の時代は倭の五王より前の時代であり、崇神天皇の時代に築造されたと考えられる箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとは考えられない。

■統計的に諷査すると、古代の天皇の一代平均在位年数は、約十年となる。これをもとに、「天皇の系譜」により、古代の天皇・豪族らの活躍時期の大略を推定できる。
また、巨大前方後円墳の築造時期は、その古墳の形態・副葬品、出土した埴輪や土器の形式などから推定できる。
このことからも倭の五王推定の有力な根拠が導き出せる。

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