■寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(2023年、中央公論新社刊)において述べる(95ページ以下)。
「『記紀』に現れる「纒向」の大王宮
最後に第九の特徴として、纒向の地がこの国の初期の天皇の都宮が置かれた場所として伝承されてきたという歴史的重要性を挙げよう。
『日本書紀』には、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(たまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(ひしろのみや)とあり、『古事記』では、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)(崇神天皇)の師木水垣宮(しきみずかきのみや)、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりひこいさちのみこと)(垂仁天皇)の師木玉垣宮(しきたまがきのみや)、大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)(景行天皇)の纒向日代宮と書く。纒向は師木(磯城)に包括される地域であるから、垂仁の纒向珠城宮が師木玉垣宮であるならば、崇神の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。」
この文章は、よく考証され、よくまとめられていて、基本的に正しい。
そして、角川書店刊の『古代地名大辞典』の「まきむく纏向」の項にはつぎのように記されている。
「纏向(まきむく) <奈良県桜井市>
奈良・平安期に見える地名。大和国城上郡のうち。垂仁・景行両天皇の宮伝承地。垂仁天皇は「纏向」に都をつくり 珠城宮と称したとされ、晩年には「纏向宮」で崩じたと伝承される(日本書紀垂仁2年10月条・99年7月朔条)。垂仁天皇は巻向珠城宮御宇天皇(尾張国風土記逸文)・纏向珠城宮御宇垂仁天皇(延喜式諸陵寮)・纏向玉城宮御宇天皇(日本書紀仁徳即位前紀)・纏向珠城朝廷垂仁天皇(延暦16年4月23日太政官符/類聚三代格)・巻向玉木宮大八島国所知食活目天皇(住吉大社神代記)・巻向玉城朝(古語拾遺)などとも表記される。宮の所在地について「帝王編年記」は大和国城上郡内の纏向河北里西田中(現桜井市穴師西方)に比定し、「大和志」も穴師村の西方とする。「大和志料」は穴師と巻野内の間にある珠城山付近に比定する。周辺に玉井・玉川の字が残るのはこの宮の遺称地らしい(桜井市史上)。ただし「古事記」は「師木玉垣宮」と表記する。また大帯日子淤斯呂和気天皇(景行天皇)は「纏向の日代宮」で天下を治めたとされ、同宮を詠んだ寿歌もみえる(古事記景行段・雄略段)。景行天皇は美濃から還ったのち「纏向」に都をつくり日代宮と称したとされ、のちに伊勢から倭に還った時も「纏向宮」に居したと伝承される(日本書紀景行11年11月朔条・同54年9月己酉条)。景行天皇は纏向日代宮御宇大足彦天皇(豊後国風土記日田郡)・纏向日代宮御宇天皇(同大野郡)・纏向日代宮御宇景行天皇(延喜式諸陵寮)などとも表記される。なお左京人役連豊足らの先祖は「纏向日代宮役民之長」であったため役を氏としたという伝承が見える(続日本後紀承和10年正月丙辰条)。宮の所在地について「帝王編年記」は城上郡の巻向檜林、「大和志」は穴師村北方に比定する。
穴師集落の北方には字「樋尻」がかつて存在し、それを日代の転訛と考えたものか(桜井市史上)。また「大和志料」は寛文12年の「巻向山九ヶ村鎌数割付帳」に「都古谷〈亦檜林云〉拾町七段四畝」とあることから、都古谷(みやこだに)を宮跡とする。なお大椋官阿比太連は家の辺に大俣の楊樹があったため、推古朝に上宮太子が「巻向宮」へ巡幸した時、大俣連の姓を賜ったと伝承される(新撰姓氏録左京神別上大貞連)。
「万葉集」には「巻向の檜原」(巻7・10)が詠まれ、檜原山・春霞・小松の枝先に降る沫雪が題材とされる。(以下略)
寺沢薫氏は述べる(『卑弥呼とヤマト王権』)
「纏向遺跡の出現そのものが、三世紀初めにヤマト主権がそこに誕生していたことの証明であり、古墳時代の始まりを告げるものでもあったのである。」(97ページ)
「二世紀初め頃に誕生した倭国(イト倭国)はイト国を盟主とし、その範囲は北部九州を中心に四国南西部までをふくめた地域だった。しかし二世紀末の政治的混迷のなかで各地の首長たちによる会盟が執りおこなわれ、その結果、三世紀初め、北部九州を遠く離れた奈良盆地東南部のヤマ卜国に新たな王都(纏向遺跡)が建設された。」(189ページ)「三世紀史の大枠を組み立てると、卑弥呼の居処(政治拠点)が纏向遺跡以外にあったとは考えられない。」(186ページ)
■寺沢年代論に対する反証
単純年代推定法
第10代崇神天皇の活躍年代を推定すると、下のグラフのように、第50代桓武天皇の活躍年代から、天皇1代の年数から推定して、西暦356年くらいになる。
(下図はクリックすると大きくなります)

(下図はクリックすると大きくなります)

古代の年代について考えるさい、もっとも確実なデータは、中国の皇帝についての年代である。これは中国の史書の「帝紀」により、一年単位で確実に定まる。これは文献データである。
そして、中国と外交関係をもった天皇などの年代が、ある程度定まる。
まず分析すべきは、中国の皇帝や日本の天皇などについて文献データなのである。
そして、古墳のうち、巨大なものは天皇の陵墓とされているものである。天皇の年代にもとづいて、陵墓、そして古墳の年代を考えることができる。
そして、古墳の編年にもとづいて、古墳からの出土物の年代を考えることができる。
国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者で、亡くなった佐原真(1932~2002)は述べている。
「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州地方がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代をきめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅祭器」『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年)
そのとおりである。
奈良県からは、西暦年数に換算できるような年号を記した土器などは、まったく出土していない。
奈良県からは、弥生時代~庄内期の鏡が、福岡県にくらべ、はるかに、わずかしか出土していない。それにもかかわらず、奈良県の土器編年などをもとに、鏡の年代を考えるのは、非常な無理がある。
寺沢薫氏の「(土器の)一様式二〇年」などというのは、漠然とした想定であって、確実な根拠に欠け、本来、一年単位で考察できるものではない。方法論自体に根本的な疑問がある。
土器の様式を細分化し、様式の数をふやすことによって、古墳のはじまりの年代を任意の時代にもっていける形をしている。
また、上の方の「図 第10代崇神天皇の活躍年代推定図」による崇神天皇の活躍年代、356年と、大略一致している。寺沢薫氏の述べるような3世紀の後半でなく、4世紀の後半である。いずれも寺沢薫氏の見解よりも、百年近くあとである。
さらに、ホケノ山古墳の築造は、崇神天皇陵古墳の築造よりも先行するとみられているが、炭素14年代推定法によるホケノ山古墳の築造年代の推定値の中央値は、西暦364年である。やっぱり4世紀の後半である。
【炭素14年代推定法による推定】2008年に奈良県立橿原考古学研究所編集発行の研究成果報告書『ホケノ山古墳の研究』が出ている。その中に、ホケノ山古墳の木槨から出土した「およそ12年輪の小枝」試料二点についての炭素14年代測定法による測定結果がのっている。そこでは、(小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告書にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を二本化して話を簡明化するためである。)
中央値は、西暦364年であった
第430回(2025.5.18)「邪馬台国の会」炭素年代と履歴校正結果の中央値の図参照、
■古墳時代のはじまりは、四世紀後半
寺沢薫説の八つの反証
(1)寺沢薫氏の示しているデータからは、寺沢氏の述べている結論は、でてこない(自己矛盾)。
寺沢氏は、卑弥呼の都した邪馬台国は、奈良県の地域内にあったとするが、寺沢氏の示した庄内様式期の銅鏡の、県別出土数から計算すれば、邪馬台国が奈良県に存在した確率は、ほぼ完全にゼロとなる(ベイズの統計学による)。
(2)ホケノ山古墳の築造年代を、寺沢薫氏は、庄内様式期、ほぼ卑弥呼の時代、西暦240年前後にあてる(7ページの図3参照)。
しかし、炭素14年代測定法によれば、すでに述べたように西暦364年を中央値とするような分布を示している。卑弥呼の時代よりもほぼ百年以上のちである(データとの矛盾)。
したがって、ホケノ山古墳から出土の、三面の画文帯神獣鏡などの鏡は、卑弥呼の時代、庄内様式の鏡からのぞかなければならない。つまり、卑弥呼が魏から与えられた百枚の鏡に該当する鏡は、奈良県からは、一面も出土していないことになる。ここから計算すれば、邪馬台国が奈良県に存在した確率は完全に0となる。
(3)寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社刊)の50ページで、「(ホケノ山古墳の)木槨(もっかく)を囲む石囲いは定形型の石槨(せっかく)の祖型とみることができるし、・・・」と記す。また寺沢氏は、その著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館刊)の334ページにのせられた表でも、ホケノ山古墳に「木槨」があると記している。
いっぽう『魏志倭人伝』は。倭人の墓制について、「棺はあるが、槨はない」と記す。
邪馬台国のあった場所、または時代、あるいはその両方が、奈良県(纏向)の地とは、異なることを示している(寺沢氏の記述と、『魏志倭人伝』の記述との矛盾)。
(4)中国で、『洛鏡銅華』(2013年、科学出版社刊)という本が出版されている。『洛鏡銅鏡』と題名を変更して、その訳本翻訳本も、わが国で出ている。洛陽地区で出土した銅鏡の図録である。
そこには、「位至三公鏡」系の鏡(「位は三公という高官に至る」つまり出世するという意味の銘文のある鏡)が12面のっている。いずれも「西晋」鏡とされている。「西晋」は「魏」の次の王朝で、存続期間は、西暦265年~316年で、西暦300年前後である。わが国と外交関係をもっていた。

「位至三公鏡」はわが国では、福岡県を中心に出土している。奈良県からは確実なものは一面も出土していない。
このことは、魏の後をうけつぐ西晋の西暦300年のころまで、鏡の出土分布の中心は、一貫して北部九州にあったことを示している。そして邪馬台国およびその後従勢力が、西暦300年すぎのころまで、北部九州にあったことを、強く示している。
(5)ホケノ山古墳からは、「小型丸底土器」が出土している。「小型丸底土器」は、布留式土器を構成する重要器種である。ホケノ山古墳を、布留式土器の時代の前の庄内式期のものとみるのは、一般的ではない。
(6)ホケノ山古墳からは、「画文帯神獣鏡」が出土している。
下の地図をご覧いただきたい。
この地図は、「画文帯神獣鏡」の出土状況を示したものである。
この地図をみれば、「画文帯神獣鏡」は、中国では華北の黄河流域からよりも、華中の長江(揚子江)流域から圧倒的に多く出土していることがわかる(十倍以上)。
このことは、「画文帯神獣鏡」は、華北の洛陽に都のあった魏の時代(220~265)にわが国もたらされたものと考えるよりも、華中の建康(南京)に都のあった東晋の時代(317~420)にわが国にもたらされた可能性のほうが大きいことを示している。

さらに、わが国で出土している画文帯神獣鏡の銅原料は、銅原料に含まれている鉛の同位体比の測定によって、長江流域の銅が用いられていることが知られている。
このことも、わが国出土の画文帯神獣鏡が、主として東晋の時代のものであることを示している(一部伝世鏡があるにしても)。
すなわち、ホケノ山古墳の築造年代は、寺沢氏のように、魏の時代と考えるよりも、関川尚功氏や、小枝の炭素14年代測定値が語るように、東晋の時代と考える方が、妥当であるとみられる。
(7)上の方にある「図 寺沢薫氏によれば」が示すように、寺沢氏の説によれば、第10代崇神天皇から、第21代雄略天皇までの12代の天皇の平均在位年数が、長くなりすぎる。古代へむかって引きのばされている形になる。
(8)寺沢薫氏の議論には、難解かつ奇妙で、不透明なものが多い。簡単な具体例をひとつだけあげよう。
寺沢薫氏はその著『卑弥呼とヤマト王権』の中で述べる。
「卑弥呼は邪馬台国の女王ではない。」(281ページ)
「卑弥呼は倭国の女王なのであって、邪馬台国の女王ではない。」(283ページ)
「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」(414ページ)
しかし、中国の史書を紐解けば、寺沢氏の見解に反し、卑弥呼は邪馬台国の女王であると明記されている。
以下に、そのことを述べよう。
『魏志倭人伝』は記す。
「(帯方)郡より女王国に至るまで万二千里なり。」
『魏志倭人伝』を下じきにして書いたとみられる『後漢書』の「倭伝」に記す。
「大倭王は邪馬台国に居(すまい)す。楽浪郡の徼(きょう)[さかい]は、その国を去ること万二千里なり。」
『後漢書』の文の「その国」は、すぐ前にでてくる「邪馬台国」をさす。そして、その「邪馬台国」のことを『魏志倭人伝』は「女王国」と記す。
ここから「邪馬台国=女王国」となる。
さらにいえば、卑弥呼は倭人の国(倭国)を代表する女王であったとともに。「倭国」に属し、卑弥呼が住んでいた「邪馬台国」の女王でもあったのである。
『後漢書』を撰した中国人の史家、范曄(はんよう)は『魏志倭人伝』をそのように読んでいるのである。寺沢氏の理解するような読み方をしていない。
なお、後漢の国は、魏の国よりも、前の時代に存在したが、『後漢書』の成立は『三国志』そして『魏志倭人伝』の成立よりも後である。
後漢の時代には、帯方郡はまだ成立していなかったので、范曄はそれを、「楽浪郡の徼(さかい)」に書きかえている。(「女王国より以北は、その戸数・道里を略載することを得べし。」)
寺沢氏の著書には、この種の、独自というか、独断的な解釈がかなり見られる。寺沢氏はそのような独断的な解釈をもとに、しばしば他説を批判する。
以上の寺沢薫氏の「年代論」の骨格をまとめあげれば、次のようになるであろう。
(1)天照大神以下の神代の五代、および第1代の神武天皇以下9代の天皇の計14代については、無視する。存在しなかったようにとりあつかう。(津田左右吉流)
(2)「イト国東遷説」を述べる。しかし、イト国のだれが中心になって東遷したのかについてはふれていない。
(3)卑弥呼が、『古事記』『日本書紀』記載のどの人物にあたるかについても、ふれていないようにみえる。
(4)「ハツクニシラス」の呼称のある崇神天皇を、実在する最初の天皇のようにとりあつかい、その年代を、卑弥呼の時代に近づける。
以上のような寺沢薫氏の説に対し、私は次のように考える。
「『古事記』『日本書紀』に記されている。天照大御神以下の天皇家の系譜の、すべての存在をみとめても、とくに大きな矛盾をもたらさないのであれば、その骨格をそのまま認めるべきである。」
私から見れば、寺澤薫氏の説は、『古事記』『日本書紀』の記述からはなれて、あらたな歴史を、現代人が創作したもののようにみえる。
天皇や皇帝の在位年数については、即位年と退位年がはっきりしているデータが、相当数存在している。
いっぽう、ある土器の一様式の存続期間は、本来明確に定めうるものではない。だいたいこのていどの長さという大まかな値しか定められないものである。
たとえば、奈良時代において、天皇の治世年数以上に、正確に年代を定めるような、考古学的資料は存在しているであろうか。一年単位で年代を測れるような考古学なモノサシは、存在していない。
安本のとりあつかう「天皇の一代平均在位年数」と、寺沢薫氏のとりあつかう「土器の一様式の存続期間の平均値」とを比較してみよう。
まず、「天皇の代の数」と「土器様式の数」とを比較する。
古代においては、おもに天皇の系譜が、過去の時代を指定するのに用いられていた。
すなわち、「獲加多支鹵(わかたける)大王の寺、斯鬼(しき)の宮にある時」(「稲荷山鉄剣銘文」)、「天皇名広庭(すめらみことなはひろにわ)[欽明天皇]在斯帰斯麻宮時(しきしまのみやにいましとき)」(「元興寺丈六釈迦仏光背銘文(がんごうじじようろくしゃかぶつこうはいめいぶん)」)とか、「乎娑陀宮治天下天皇(おさだのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと)[敏達(びたつ)天皇]之世(のみよ)」(「船氏王後(ふなしおうご)の墓誌銘文(ぼしめいぶん)」)とか、「昔(むかし)、美麻貴(みまき)の天皇(すめらみこと)[崇神天皇]の馭宇(あめのしたしろ)しめししみ世(よ)」(『常陸(ひたち)風土記』)とか、あるいは、(泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天(あめ)の下知(したし)らしめしし天皇(すめらみこと)[雄略天皇]の代(みよ)」(『万葉集』)とか、「巻向玉城の朝(まきむくのたまきのみよ)[垂仁天皇]」(『古語拾遺(こごじゅうい)』)というように、どの天皇の時代のできごとであったかを記すことにより、その事件のおきた時代を指定するという方法が用いられた。
そして、古い時代は、即位ごとに、皇居の所在地が移動し、皇居の地名によって天皇を呼ぶことがおこなわれ、A天皇とB天皇の名が類似していても、それを区別することができた。古い時代においては、天皇の系譜が、現代における西暦年数とおなじように、時代を指定する役割をはたしていたのである。
『古事記』でも、『日本書紀』でも、古い時代においては、天皇の系譜記事(帝紀的なもの)が、多くの事件などを記すさいのかなめの役割をはたしているようにみえるのは、そのためである。
『古事記』と『日本書紀』とにおいて、諸天皇の代の数、名前、順序などが、ほぼ完全に一致する。
当時においては、天皇は為政者であり、政治的権力者であった。天皇の名と、その順とは多くの人たちの記憶に残りやすいものであった。
これに対し、「土器の様式数」は、寺澤薫氏が、あらたに設定したものである。異論もあり、多くの人が、時代指定のために用いてきたものでもない。
つぎに、「天皇の在位期間」と、「ある様式の土器の存在期間」とを比較する。
「天皇の在位期間」は、「即位と退位」によって定められるものである。
それはまた、当時の人の平均寿命、食糧事情、衛生状態など、広い意味での文化水準とも関係するものである。
そして、「天皇の平均在位期間」は、後代の天皇の平均在位年数の推移(後代になるほど、平均在位期間がしだいに長くなるなど)や、同時代の中国の皇帝の平均在位年数など、外国のデータなど、さまざまなデータにより、統計的に処理し、あるていど推定できるものである。
これに対して、寺澤薫氏「ある様式の土器の存在年数」は、寺澤薫氏の想定にすぎず、他に類似のものの具体例が示されているものでもない。また、統計的に処理しうるデータでもない。
このようなデータとしての質の違いを、寺沢氏はまったく理解されていない。
次のようなことばがある。
(1)「奈良七代七十年」奈良時代は第四十三代元明天皇から、第四十九代の光仁天皇までの七代、すなわち、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で、七十四年(710~784)。この間、一代平均10.57年。桓武天皇は、はじめ784年に長岡京[京都府向日市(むこう)のあたりが中心)に都をうつしている。
(2)「君、十帝を経(へ)て、年(とし)ほとほと(ほとんど)百」この文は、奈良時代史の基本文献である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の、淳仁天皇の天平宝字二年(758)八月二十五日の条に記されている。これは、第三十六代の孝徳天皇から、第四十六代の孝謙天皇までが、十代で、104年ほどあることをのべているのである。
このように、天皇の代の数と存続期間とは、今から千年以上前の人でも知ることができた。
これに対し、土器の様式数とその存続期間とは、現代の人でも、寺沢薫氏のように理解し、記憶している人はすくない。
寺沢薫氏のとりあつかう土器編年のデータは、年代推定の「誤差」の幅などを、計算しようのないものである。
寺沢薫氏も考古学のエスタブリシュメント派の人々も、この違いを理解できていない。
「邪馬台国北部九州説」も一つの仮説である。「邪馬台国畿内説」も、また一つの仮説である。私はこの二つの仮説のそれぞれが成立する確率を計算する方法を考え、そのような計算ができる形にデータをととのえた。
寺沢氏はこのような形でデータを示していない。基本的には、日常的な言語による主観的な判断にもとづき、断言的に強く主張するという方法によっておられる。
統計学者、カール・ピアソンは、「統計学は科学の文法」と述べた。
この文法にしたがった言語を用いることによって議論を、科学の軌道の上にのせることができる。用いる言語の違いには、重要な意味がある。
邪馬台国問題が混乱する理由はここにある。