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第442回 邪馬台国の会(2026.7.26 開催)
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1.弥生時代の製鉄について
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・『古事記』に、次のような記事がある。 この話によれば、この時に作られた鏡は鉄の鏡であったことになる。 また、青木和夫氏他校注の『古事記』(岩波書店刊、日本思想大系1)では、「伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)」について、「補注」で、つぎのように説明している。「コリは固まるの意、ドメは老女。石の鋳型に溶かした鉄を流し固まらせて鏡を作る老女をあらわす。」
『古事記』では、鏡を作った状況を、次のように記している。 この文によるとき、金床(かなどこ)[堅石]の上でトンテンカン、トンテンカンと鉄をきたえて鏡を作ったように読みとれる。 日本刀などを見ればわかるように、鉄は、よく磨けば、人の顔などがはっきりとうつる。『古事記』では、「天の金山の鉄」を取って鏡を作ったとあるが、『日本書紀』の編纂者は、「鉄」で鏡を作ったとするのは、穏当でないと考えたのであろう。「鉄」を、一般的な「金(かね)」にあらためている。 (2)卑弥呼が交渉をもった魏の国で、鉄の鏡が作られていたことは、中国の考古学者、徐苹芳氏が、つぎのように述べているとおりである。 この文のなかにみえる「雑物を上(たてまつ)る疎(そ)」(『曹操集訳注』による)に、つぎのようにある。 明治から昭和時代前期の考古学者・高橋健自(たかはしけんじ)氏が、その著『鏡と剣と玉』(富山房、1911年刊)のなかの、「八咫鏡考」で、「鉄鏡は隋時代以後」にはじめてみえる、としているのは、誤りである。 (3)そして、事実、魏代に近いころに作られたものかとみられる鉄製の菱鳳鏡(きほうきょう)[直径21.2センチ]が、岐阜県高山市国府(こくふ)の名張一之宮神社古墳(七世紀ごろの築造)から出土している。 この二つは、直径が、ほとんど一致している。魏の九寸鏡または、それを模したものである可能性がある。九寸鏡は、さきの文にあるように、貴人に与えられるものとすれば、卑弥呼に与えられたものとしてもおかしくはない。大分県日田市出土のものは、中国で出土例をみない紋様のようにみえるので、わが国で作られた可能性もある。そして、日田市の隣の福岡県朝倉市杷木(はき)に、香山や金山、岩屋神社という地名がある。また、これも日田市の隣の福岡県朝倉郡東峰村(とうほうむら)宝珠山(ほうしゅやま)に岩屋神社、岩屋公園などがある。これらは、いずれも、日田市役所から、二〇キロ以内の地である。(下図参照)
・古代日本で、鉄は作られたか? (2)鉄器の製作[製作だけなら、製鉄ができなくても、鍛造(たんぞう)することができる。つまり、輸入された銖材料を、まっ赤に焼いて、トンテンカントンテンカンと槌で打って、必要な形にすることができる。鍛冶(かじ)の話は、三世紀の弥生時代のことを伝えているかとみられる『古事記』の天の岩屋神話にもでてくる]。 (3)鉄そのものの製造(鉄鉱石または砂鉄から、鉄を作る)。 この(3)の製鉄はむずかしく、現在でも、日本で製鉄が行なわれるようになるのは、六世紀にはいってからであろうという人がいる。 しかし、私は、以前、鉄の専門家で、『鉄の考古学』(雄山閣出版刊)の著者である窪田蔵郎氏から、およそつぎのような話をうかがったことがある。 実験をすると、このやり方で、鉄ができるそうである。 ① 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。 「『砂鉄の還元は・・・・炭素によるわが古代法においても、まず摂氏七百五十度位から還元が始まり千度に達すると急激に還元が完了』するというから、これもまた同じである。すなわち岩鉄でも砂鉄でも、ゴーランド氏のいう七〇〇~八〇〇度に誤りないことになる。」 「略言すると、土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できたわけである。北九州の各地に散布する無文緑色の土器の硬度は、この程度の熱度、またはこれよりやや高い熱度で焼いている。こうした土器が、鉄滓散布地で発見される。したがって『鉄器』をつくり出す可能性も、このようにして『鉄』を還元した地点付近と関係あることになる。」 また、黒岩俊郎著『たたら 日本古来の製鉄技術』(玉川大学出版部、1976年刊)に、『たたら製鉄の復元とその鉧(けら)について』(たたら製鉄復元計画委貝会報告)にのっているつぎのような文が紹介されている。 「京城の加藤濯覚氏の実見談を和田重之氏が記録したものによると、明治四十二年(1909)五月七日のことであるが、朝鮮咸鏡北道富寧(ふねい)の南東にあたる沙河洞の村民が、輸域河の河原できわめて原始的な製鉄をやっているのを目撃したそうで、その方法は河原によく乾いた砂鉄を六〇センチほど積みあげ、その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていたとのことである。」
以上のようにみてくると、『古事記』神代の巻にみえる「天(あめ)の金山(かなやま)の鉄(くろがね)を取(と)りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまちまら)を求(もと)めて」などの文も、製鉄伝承として、それほど無理がないようにみえる。[『古事記』『日本書紀』にみえる三嶋(みしま)の湟咋(みぞくい)の娘の「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)」や、神武天皇の皇后(きさき)の、「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)の命(みこと)〔比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすすけよりひめ)、媛蹈韛五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の命(みこと)〕」の「蹈韛(たたら)」については、「足で蹈(ふ)んで風を送る韛(ふいご)」、または、その「韛を用いる炉」、あるいは、「韛をふむ作業」「足ぶみをすること」などの意味であるとする解釈と、たんに、「立たれ」の古い名詞形で、「セヤダタラ」は「矢が立つ」意味であるとする解釈とがある。] いずれにせよ、生活に密着した必要なものをつくりだす古代人の能力は、想像以上に高かった可能性がある。 「たたらが、最高の発展段階に達したのは、山陰安来地方、船通山付近一帯であり、それは、ごく最近まで鉄穴流(かんななが)しが行われ、鳥上木炭鉄工場が動いていた事によっても分る。とくに、羽内谷の鉄穴流しは、底に木材をはりつめ、鉄穴流しの最高の発達段階を示している。」 「比較的低温で還元すると、直接還元という反応がおこり、鉄鉱石から直接鋼(はがね)ができる。また低温であると、燐、硫黄などの不純物が入ってこず、したがって、優秀な鋼がえられる。 また、森浩一編『鉄』(社会思想社、1974年刊)のなかで、島根県教育庁文化課の石塚尊悛(たかとし)氏は、つぎのようにのべている。 「近世の文献に記され、そして近代にはいってからでもまだそのままであった方法は、要するに砂鉄を埋蔵する山の一角をその崖の口からどんどん切り崩してゆくというものであった。つまり掘るのではなく崩すのである。そしてその崩した土砂を崖の下の流水に落とし、それを樋(ひ)の中へさそい入れ、鍬でさらって砂粒を流し、鉄分をすくい上げるというものである。したがってこの作業を『カンナ流し』といった。」 これらの文を読めば、中国山地が、砂鉄採取に最も恵まれたところであったこと、のちの時代に船通山付近、鳥上の地などで、たたらが最高の発達段階に達すること(条件や伝統に恵まれているのであろう)、原始的な方法で製鉄するほど、よい鋼ができること、などがわかる。 素戔の嗚の尊が、出雲の国の鳥髪のような山のなかにまず下ったのは、良質の鋼を産する地をおさえるためではないか。 出雲の国はまた、古来有名な玉の産地でもある。 注:こう【鋼】炭素0.04~1.7パーセントを含む鉄と炭素との合金。銑鉄から平炉法・転炉法などによって製し、また、鉱石からの直接製鋼法によっても製する。 注:せん・てつ【銑鉄】鉄鉱石を溶鉱炉または電気で溶融し還元と加炭を行なった鉄。ふつう炭素2.5~4.5パーセントのほか少量の珪素・マンガン・燐・硫黄を含む。 ・鉄製品 ・『三国志』「韓伝」 現代語訳 資料 山田新一郎「神代史と中国鉄山」 -------------------------------------------------------------------------- はじめに ・中国鉄山 ・砂鉄採取業 ・冶金(やきん) ・鋼鉄 以上の記事を参考としたうえで、天明年間(1781~1789)に、日野山人の筆記した『鉄山秘書』の数節に目を通していただきたい。 このような山から流しとる砂鉄は、色青く、粒小さく、握ってみるとやわらかで、手の裏にこたえない。 明治維新のまえは、わが国の鉄は、中国の鉄山にたよっていた。中国の鉄山は、むかしは、分量の上からいって、わが国唯一の産鉄地といっても、いいすぎではない。刀剣をはじめ、はさみ、かみそり、鍬(くわ)、鎌(かま)その他の利器鉄器は、中国の鉄にたよらないものはなかった。 ・遠呂智(おろち)退治と砂鉄の産地 鳥髪の山は、伯耆の国と出雲の国の境の、いまの船通山である。肥の川または簸の川は、船通山から発して西流する斐伊川で、上流に大蛇(おろち)退治の遺跡と伝えられる場所もある。 素戔の嗚の尊が遠呂智を斬った十握の剣は、つぎのように記されている。 備前の石上神社にあるとしているわけで、鉄山地方からそれほどへだたっていない場所に鎮座しているのは、なんらかの因縁のあることを思わせる。 ・おわりに
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2.「太陽の塔」の堅牢性「パラレル年代法」の正確性について
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・「年代」は、歴史を構成する脊柱(せきちゅう)である 旧石器ねつ造事件のさいは、五十万年、七十万年と、年代がくりあがっていっても、専門家も、ふしぎと思わなかった。専門家も、マスコミも、夢のような「年代」にひきずられていった。そのような年代が、教科書にものった。 『日本書紀』の記す古代の年代は、大はばに延長されている。しかし。第二次世界大戦がおわるまで、千年以上のあいだ、『日本書紀』の記す年代が、基本的には信じられていた。 下図に示す「パラレル年代推定法」は、第21代雄略天皇(倭王武)の年代を基点とし、そこから古代にむけて、天皇などの「代」を二十五代さかのぼって、年代を推定する方法である。
(2)順帝準は西暦479年にあたる年に、退位(死没)している。いっぽう雄略天皇は、『日本書紀』によるとき、 479年に退位(死没)している。 (3)第21代雄略天皇から25代天皇の代を下ると、第46代孝謙女帝(在位749~758)の時代となる。 (4)中国の皇帝について、倭王武の時代に対応する南朝宋の8代皇帝順帝準から、おもに日本と国交のあった、斉、梁、陳、隋、唐の国の皇帝によって、25代時代をくだると、唐の第7代皇帝粛帝享(こう)(在位756~762)になる。 以上をみてきたように、孝謙天皇と。粛帝享とは、退位年が、4年しか異ならない。 中国の哀帝祝の退位年は907年と、宇多天皇の退位年897年とは、10年の差があるだけである。この間、準定順(そして、雄略天皇)の死没年の472年以後、およそ420年ほどの年数が経過している。 ・数理統計学的年代推定法
(2)パラレル年代推定法によって、卑弥呼と天照大御神との同時代性がいえること。 (3)天照大御神から、第21代天皇の雄略天皇までの、25人(神)の、天皇クラスの人(神)において、女性は天照大御神ただ一人(神)であること。 (4)すでに、すくなくない学者、研究者が、卑弥呼と天照大御神との、事績の類似性、同一性を指摘していること。 白鳥庫吉氏(1865~1942)は、明治期の東京大学を、いな、わが国を代表する史家であった。東洋史学の開拓者であり、かずかずの新研究を発表するとともに、多くの研究者を育成した。 昭和三十一年(1956)に、『魏志倭人伝』の訳を出した島谷良吉(しまやりょうきち)[1899~1980、高千穂商科大学(現、高千穂大学)教授]は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」のなかでのべている。 (5)卑弥呼のいた邪馬台国と、天照大御神のいた高天の原との叙述においても、対応近似性が認められること。[前回の「邪馬台国の会」( 6月15日)。地名の残存、『魏志倭人伝』に記されている事物の出土状況など。] 系譜学者として、わが国の氏族についての厖大なデータを整理した立命館大学教授などの太田亮(あきら)氏(1884~1956)は、1928(昭和三)年に、『日本古代史新研究』(磯部甲陽堂刊)をあらわした。 以上から、天照大御神は、歴史上の卑弥呼のことが、神話化し、伝承したものとする説は、受け入れられるべきである。
・邪馬台国、問題解決の方法について 「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合(けいごう)[割符(わりふ)の合うように合すこと]して始めてそれぞれ正しい錠であることが決定されるのである。」[「卑弥呼の冢墓と箸墓」『考古学雑誌』三二-七、(1942年7月)] 笠井新也氏が述べていることは、邪馬台国問題探求の基本方針としては、妥当であると思う。
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3.邪馬台国問題についての四つの基本重大問題の解決 |
「邪馬台国問題」についての基本的な大きな問題としては、つぎのようなものをあげることができよう。 以上の四つの基本問題のうち、まず(1)の問題、「卑弥呼は誰か」問題については、今回、「卑弥呼は『古事記』『日本書紀』に、神話化し、伝承化された形で記されている皇室の祖先、天照大神にあたるであろう」とする年代論的根拠をややくわしくのべた。 (2)の、「邪馬台国はどこにあったのか」問題については、前回6月15日の「邪馬台国の会」でややくわしくとりあげた。すなわち、「邪馬台国(卑弥呼のいた場所)=高天の原(天照大神の居た場所)=福岡県朝倉施設」を説明した。朝倉市には、「安川」が流れており、「香山」や「金山」などの地名が存在していることなどを説明した。日本神話の高天の原に存在したとされる地名が、まとまった形で、この地に存在していることなどを述べた。 系譜学者として、わが国の氏族についての厖大なデータを整理した太田亮(あきら)氏(1884~1956)は、1928(昭和三)年に、『日本古代史新研究』(磯部甲陽堂刊)をあらわした。太田亮氏は、この本のなかで、「邪馬台国=高天の原説」をのべている。太田亮氏は、種々の氏族の地域的分布などから、高天の原を邪馬台国であるとし、それを、肥後の菊地郡の山門を中心とする地にあてた。 この太田亮氏の説を、のちに、「卑弥呼=天昭大御神説」を説いた東洋大学の市村其三郎教授は、その著『秘められた古代日本』(1952年、創元社刊)のなかで、「太田亮氏め高天の原肥後説は大分合理的であるように思われる。」と評している。 つぎに、(3)の「卑弥呼の墓はどこにあるのか」と、(4)の「魏の皇帝が、卑弥呼に与えた『百枚』の鏡、はどのような鏡種の鏡か」については、今年(2026年)の1月31日の邪馬台国の会でやや詳しく検討した。 ついで、(3)の「卑弥呼の墓はどこにあるのか」問題を論じた。すなわち、福岡県糸島市出土の平原王墓は、出土鏡40面のうち、「方格規矩鏡」が32面、「内行花文鏡」が7面で、計39面、「方格規矩鏡」と「内行花文鏡」で、出土数の過半をしめ、卑弥呼の墓とみるのにふさわしい。 なお、この報告書は、前原市(まえばるし)教育委員会の発行となっている。前原氏は、2010年に、二文町、志摩町と合併し、糸島市となっている。 (2)2017年に刊行された。『新訂版国史跡曽根遺跡群平原遺跡』(糸島市文化財調査報告書第10集、糸島市教育委員会発行)では次のようにある。 ☆『日本暦綴 日本暦西暦対照暦 上巻 西暦1年~西暦1000年』(井上大介編、辻通商株式会社、1995年刊)(上下巻セット5万円)
・和辻哲郎著『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊) 「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位化あって人民を統治するありさまのごとくである。また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいた。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は暗示の多いものである。」 卑弥呼の前に王はいない。(『後漢』「倭伝」・・・・「倭国大いに乱れ、暦年王なし。一女子あり。名を卑弥呼という。共に立てて王となす。」) 邪馬台国についての、四つの基本重要問題に、私なりの解答を述べてきた。 それは次のような問題である。 |
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