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桃太郎伝説の種

(季刊邪馬台国140号 巻頭言)                      編集部



季刊邪馬台国140号
 九州、山陰、山陽、四国、畿内をつなぐ交通の要衝、岡山駅。ひとたび構内に降り立てば、人気絵本作家・五味太郎氏のパッケージデザインでおなじみの「きびだんご」がすぐ目に飛び込んでくるだろう。近年、「桃太郎伝説の生まれたまち」として日本遺産にも登録された吉備地方は、古代においてもまた重要な地域であったことは想像に難くない。
  西の銅剣・銅矛・銅戈文化圏と、東の銅鐸文化圏が交わる地であり、古墳や埴輪、おびただしい量の桃の種などから、出雲や筑紫に負けず劣らず、独自の文化圏を築いていたであろうことがうかがえる吉備地方。強大な勢力を築いていたからこそ、そこには衝突も生まれる。
  吉備の勢力が東遷したのか、はたまた大和の勢力が吉備を飲み込んだのか。議論は分かれるところであるが、いずれにしても桃太郎伝説の源流とされる吉備津彦命伝承がいまも吉備の各地で語り継がれ、人々に親しまれていることを考えると、古代吉備族たちの魂までは滅ぼせなかったようだ。
  ものがたりの脇役はときに主役となる。崇神天皇が四方面に派遣した四道将軍のひとりである吉備津彦命は、天皇家の物語である記紀神話においては脇役かもしれない。しかし、古代吉備においては、百済貴族の後裔とも伝えられる温羅と戦ったものがたりの主役として愛されている。一方で、鬼のモチーフとされる温羅は本当に悪い鬼だったのかという、温羅派の立場にたてば、主役は温羅と先住吉備族となる。
  近代児童文学の父・久留島武彦がかかげた「桃太郎主義」は、信じあうこと、助け合うこと、違いを認め合うことの象徴であり、その教育理念によって児童教育の礎が築かれた。討伐されるものとしての温羅、討伐するものとしての吉備津彦。悠久の時を超え、彼らの違いを認め合い、客観的な視点で研究を前に進めることができれば幸いだ。桃太郎伝説のはじまった吉備が、どのような地域だったのか。ロマンに胸をはせながら、考古学的な検証でその実態に迫りたい。

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