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隔てる海、つなげる海

(季刊邪馬台国141号 巻頭言)                      編集部



季刊邪馬台国141号

 「逆さ地図」をご覧になったことはあるだろうか。富山県が平成6年に発表して以来、話題を集めた、南北を逆さまにして大陸から日本を見た地図である。この地図は、「(1)中国、ロシア等の対岸諸国に対し、日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調する、(2)本県(注・富山県)が本州の日本海側の中央に位置し、環日本海交流の拠点づくりを進めていることを国内にPRする」という目的で作成されたものだ。この逆さ地図を手に取ると、富山県の狙いである、「日本海を介したつながり」を意識できることはもちろん、朝鮮半島と日本列島とのつながりもより強く感じ取ることができるだろう。地図を逆さにしただけで、そんなに印象が変わるものかとお思いの方もおられるだろうが、不思議とまったく印象が変わってくるのだ。騙されたと思って、ぜひ一度ご覧いただきたい。

 現代においては、物理的な距離よりも、「国境」という心理的距離のほうが、距離感覚に影響を及ぼしているように思える。島国である日本で暮らしていると、国境を意識することは少ないだろう。日本人にとって、国境とは海を隔てた「海外」である。交通網が発達した現代においては、日本国内間の移動は一両日中には完了する身近なものであるだろう。しかし国境を超える「海外」となると、たとえ一日でたどり着けたとしても、実際の距離以上に、心理的な距離感が働き、より遠い存在のように感じられる。古来より海の玄関口とされていた北部九州は福岡を起点に考えると、直線距離で釜山までは約200km、ヤマトの都があったとされる奈良までは約500km。実に倍以上の距離があるが、それでも我々は奈良のほうが近いと感じてはいないか。

 現代の感覚では、海路は最も時間のかかるイメージであるが、古来においてはまさに「ハウェイ」であった。車も電車も、ましてや新幹線もない陸路では、運べる荷物の量も限られ、移動スピードも海路には格段に劣っていた。それだけ「海でつながっている」ということは、地域にとっての強みであり、海路は交易の主役だったのだ。古代の人々にとっては、海とは「隔てる」ものではなく、「つなげる」ものだったのではないだろうか。
  『古事記』や『日本書紀』はもちろん、『先代旧事本紀』や『出雲国風土記』などにも、海を介した交流の足跡が多数見受けられる。伝承には、百済や新羅からやってきた王子や姫が日本海沿岸の地域に土着したという記述も多い。そう考えると、古代においては、我々が想像する以上に、朝鮮と日本との交流は盛んで日常的であったのではないかと思えてくる。現代よりもずっと「国境」という心理的距離は感じられていなかったのかもしれない。

 今年1月、韓国最大の前方後円墳「長鼓峰占墳」の発掘がおよそ20年ぶりに進められたというニュースが考古学会を賑わせた。一度発掘されたものの、日本の古墳と類似していることからすぐに埋め戻されたという話も相まって、考古学ファン以外の方々の耳目も集めたことは記憶に新しい。日本の古墳と韓国の古墳に類似性が見られることは、紛れもない事実である。問題はその事実をどう解釈するかということだ。
  神功皇后伝承、広開土王碑、韓国の前方後円墳……この3大テーマは古代の朝鮮と日本との関係を読み解くヒントとなるだろう。その際、遠い朝鮮の地でなぜ、という感覚を持つのが現代人としての率直な想いかもしれない。しかし、先述のように、古代においては、「海でつながれた朝鮮半島」とは、むしろ近い存在だったのではないだろうか。

 近くて遠い、朝鮮半島。考古学から朝鮮半島を読み解くと、その距離は縮まってくるのかもしれない。本号の特集が日韓の考古学界の研究推進と発展に寄与できれば望外の喜びである。

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