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継体天皇陵問題
稲作の起源

第195回
「稲作の起源」


1.継体天皇陵問題  (家形埴輪発見のニュースに関連して)

継体天皇陵問題:  陵墓について、宮内庁と学者の意見が分かれている。
継体天皇陵は、太田茶臼山古墳である。・・・宮内庁(陵墓要覧)

継体天皇陵は、今城塚(いましろづか)古墳である。・・・・・・学者

今城塚古墳から最大級の家形埴輪出土

大阪府高槻市の「今城塚(いましろづか)古墳」から国内最大級の家形埴輪をはじめ、60余点の埴輪群が見つかった。

この古墳は、学者の間では、真の継体天皇陵と推定されており、今回の発見が、これをさらに裏付ける証拠になるとともに、葬送の儀式を再現したと見られる埴輪群は、大王の実体を解く貴重な手がかりとなる。



2001.9.21 朝日新聞より
天皇家の御陵(古墳)比定の歴史

  • 平安時代は、延喜式(927年完成)により御陵に幣帛を奉る儀式を行っていたので、全て比定出来てい たと思われる。

  • その後、天皇家の権威や財力の低下から御陵が放置されるようになったり、戦国時代には古墳の上に城を作ったりしたので、古墳の記憶が曖昧になった。

  • 幕末の頃、幕府が天皇家に誠意を示すため、御陵修理を行った。その際、当時の学者の説に従い、各御陵に祀られている天皇を比定した。

  • これが、明治政府に引き継がれ、今日の宮内庁の「陵墓要覧」となっている。

いったん記憶が曖昧になったのち、江戸末期の研究で、古墳に祀られている天皇をあらためて比定した。

今城塚古墳と太田茶臼山古墳の位置関係 このような過程の中で、近い場所に似たような古墳があると取り違える可能性がある。

「現在の比定は不適当である」と多くの学者が判断している古墳がある。

継体天皇陵はその典型的な例である。






前方後円墳のかたちの分析による継体天皇陵の比定

(1) 前方後円墳のかたちの特徴
古い古墳の特徴

後円部に比べ、前方部が小さい。
新しい古墳の特徴

後円部に比べ、前方部が大きい。
古い ←        → 新しい

(2) 前方後円墳のかたちの分析
代表的な古墳のデータをもとに、古墳のかたちの特徴をグラフ化する。

  X軸 = 前方部の幅 / 後円部の直径
  Y軸 = 前方部の幅 / 墳丘の全長

このグラフで、前方後円墳のかたちの変化を年代的に分類できる。古い古墳は、左下に、新しい古墳は、右上にくる。


(3) 継体天皇と関連する古墳
  • かたちのうえからは、太田茶臼山古墳は、5世紀型の古墳である。

  • かたちのうえからは、今城塚古墳は、6世紀型の古墳である。

  • 継体天皇の即位前の后である尾張連目子媛(おわりのむらじまなこひめ)の墳墓 とされる断夫山古墳の形が「今城塚古墳」に非常によく似ている。

  • 継体天皇の治世で反乱を起こした筑紫の磐井の墳墓(岩戸山古墳)も「今城塚古墳」に形状が似ている。

(4) 結論
継体天皇は6世紀(531年)に没したとされている。

太田茶臼山古墳と、今城塚古墳について、
  • かたちから見た築造年代と、天皇の没年との整合性

  • 同時代の関連する古墳との、かたちのうえでの類似性

などを考えれば、

前方後円墳のかたちの観点からも、継体天皇陵は「今城塚古墳」であると判断できる。



2.稲作の起源
(1) 稲の種類

 ・インディカ米

 ・ジャポニカ米 −−┬−− 熱帯ジャポニカ米

              └−− 温帯ジャポニカ米
(2) 稲のルーツ
候補地雲南地方揚子江下流
稲の野生種種類が多い種類が少ない
栽培種の出土2000年程度まで遡れる1万年前まで遡れる
   野生種が多数あるので、以前は、稲の原産地と推定されていた。 野生種は少ないが、栽培種の痕跡が1万年前まで遡れる。
栽培種の普及により、野生種がなくなったと推定される。

現在は、ここが稲のルーツと推定されている。

(3) 日本への渡来ルート
1.陸路により朝鮮半島経由で渡来したとする説  

  稲作は、揚子江下流から陸路を北上し、朝鮮半島経由で日本にもたらされた。

  (寺沢薫氏など、考古学者がおもに主張)
根拠

  • 朝鮮半島南部と北九州の考古学的遺物が類似している。

  • 大陸系磨製石器、鉄斧などの金属器、無文土器、支石暮などは、 朝鮮半島南部からの渡来人が、稲作とともにたずさえてきた証拠であると考える。
反論

  • もともと日本人の祖先は朝鮮半島南部から北九州に分布していたと見られる。

    同じ民族であるから、朝鮮半島南部と北九州の考古学的遺物が似かよっているのは当然である。

    従って、考古学的遺物の類似性をもって、朝鮮半島南部から、九州に、人や、稲作文化が移動したとみる理由にはならない。

  • 陸路によるルートでは、盛岡と同じ緯度の遼東半島を通ることになる。陸奥や陸中に比較的安定した稲作が確立するのは、16世紀であることを考えると、古代に遼東半島を経由して稲作が伝播したとは考えにくい。
  

2.海路により中国から渡来したとする説  

  稲作は、揚子江下流から東シナ海を経由して直接日本にもたらされた。

  (佐藤洋一郎氏など、植物学者、農学者がおもに主張)
根拠

  • 稲のDNA鑑定から、弥生時代の稲は熱帯ジャポニカ米であった。

  • アジア各地の栽培種666品種の調査で、日本の水稲にもっとも近い品種は、華中のジャポニカであった。 松尾孝嶺「栽培稲に関する種生態学的研究」

  • 岡山県津島遺跡の水田跡でみつかった雑草の種89種は、東南アジアから華中に懸けて分布する雑草が大半であり、揚子江以北には見られないものが多い。
反論

  • 揚子江下流域の多様な石包丁のうちの、一部しか日本に伝わっていない。稲作が直接渡来したなら、石包丁の多様性がそのまま渡来するはずである。

  • 弥生米の熱帯ジャポニカと、現在残る南島の熱帯ジャポニカやその遺伝子が同系統である確証がない。
反論への反論

  • 揚子江下流域は、百越といわれるほど、多種の少数民族が住んでいた。
    そのうちの、限られたいくつかの民族が日本に渡来したとすれば、限られた種類の石包丁しか日本に伝わらなかったことが説明できる。

  • 朝日新聞(2001.6.23)によると、弥生時代の遺跡、「池上曽根遺跡」と「唐古・鍵遺跡」の炭化米のDNA分析で、朝鮮半島には存在せず、中国に広く分布する温帯ジャポニカ米が発見された。

    これは、朝鮮経由ではなく、中国から直接日本に稲作が伝わったことを示す有力な証拠である。
 
(4) 日本文化の南方的要素
日本の弥生文化の伝統の中には、朝鮮半島とはつながらないが、中国南部とは、つながると見られるものが少なくない。
鵜飼  可児弘明氏『鵜飼』による。  
  • 日本では、古くから鵜飼が行なわれているが、朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はない。沖縄・台湾にもない。

  • 鵜飼が古くから行われていたのは、「楚」の国(現在の湖南、湖北)、および楚と密接な関係を持つ、四川、雲南、広東、広西など、中国南方の地方である。

    稲作の故地と地域が重なる。
  

弥生後期の風俗習慣
  大林太良氏『邪馬台国−入墨とポンチョと卑弥呼−』による。  
  • 魏志倭人伝に描かれた倭人の文化は、圧倒的に南方的であり、特に、江南の古文化と密接な関係にある。

  • 倭人伝に現れる貫頭衣は、北方ユーラシアにはほとんど知られておらず、中国南部から東南アジアに懸けての地域に多い。

  • 倭人の生活様式に関する記事の大部分は、華南から東南アジアに類例を持つ。

  • 魏志の中で、海南島と生物、文化の類似が強調されている。

  • 『東夷伝』の諸民族のなかで、倭人だけが著しく江南的・東南アジア的な習俗を持っていると描かれている。


 
(4) まとめ
考古学的な成果に重点を置いて、稲作が大陸経由で北方から来た人々によってもたらされたとすると、日本文化の南方性をうまく説明できない。

揚子江下流域の一部の人たちが、戦乱によって大陸から押し出され、海流に乗って朝鮮半島南部や、北部九州に移ってきた。  稲作はこの人たちによって伝えられた。

とするストーリーは、次に示す民俗学、考古学、植物学、言語学などの分野のさまざまな知見や、中国古文献、日本の古文献の記述を、総合的にうまく説明できるように思える。

  • 日本の水稲にもっとも近い品種は、華中のジャポニカであること。
  • 古代の水田跡には、南方起源の雑草が生息していたこと。
  • 朝鮮半島には存在せず、南方起源の遺伝子を持つ稲が日本に存在したこと。
  • 朝鮮半島南部と北部九州の考古学的な遺物の近似性。
  • 倭人が、朝鮮半島南部と北部九州に住んでいたと言う伝承。
  • 魏志倭人伝の邪馬台国の習俗が南方的であること。
  • 中国南方の習俗である鵜飼が、朝鮮には存在せず、日本に伝わっていること。
  • 戦国時代の「呉」「越」が滅亡した時期に、日本では弥生土器が発生しているように見えること。
  • 魏略には「倭人は、呉の大伯の末」という記述があること。

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