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第251回 
聖徳太子と『隋書』「倭国伝」   八咫の鏡はどんな鏡か

 

1.聖徳太子と『隋書』「倭国伝」

■ 『隋書』「倭国伝」の記述

『隋書』「倭国伝」の隋の開皇20年(600年)に、次のような記述がある。開皇20年は推古天皇6年にあたり、聖徳太子が活躍していたころの日本の状況が記されているのだが、その内容については問題がある。

開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)号し て阿輩弥(あほけみ)というもの、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)らしむ。

上(しよう)、所司(しょし)をして其の風俗を訪ね令む。
使者言う、「倭王は天を 以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺 (かふ)して、坐(ざ)す。日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、我が弟に委ねんと 云う」と。

高祖曰く、「此れ太(はなは)だ義理無し」と。 是に於いて訓して、之を改め令む。

王の妻は弥(けみ)と号す。 後宮には女六七百人有。太子を名づけて利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。 城郭無し。

  • 「闕(けつ)」は王宮の門、「上(しよう)」は文帝、「所司(しょし)」は所管の 役人を表す。
    「義理無し」は理くつが立たないこと。

  • 「阿毎(あめ)」は「天」を記したもの。  『日本書紀』雄略天皇紀に「阿毎」で「天」を表した例がある。

  • 「多利思比孤(たりしひこ)」は「たらしひこ」を表記したもの。
    この5文字はすべて万葉仮名としての使用例があり、「たりしひこ」と読める。「ら」と「り」は通じる例があるので「たらしひこ」を表したものと見て良い。

  • 「阿輩弥(あほけみ)」は「大君」とみてよい。
    奈良時代に「沖縄」を「阿児奈波」と記した例があり、「阿」は「お」とも読む。「輩」は万葉仮名の使用例はないが、ほぼ同音の「倍」が「ほ」と読まれているので、「ほ」と読めるだろう。

  • 王の妻の「弥(けみ)」は「君」とみてよい。

  • 「利歌弥多弗利(りかみたほり)」は、皇室の血統、皇族を意味する「わかんどほり」であろう。
    古代の自立語は語頭に「ら」行の音を用いないので、「りかみたほり」はおかしい。『翰苑』に記されたこの部分は、王の長子の名として「和哥弥多弗利(わかみたほり)」となっているので、「利」は「和」の間違いであろう。「弗」は万葉仮名に使用例はないが「富」とほぼ同音なので「ほ」か「ふ」と読める。その他は万葉仮名で用例があり、『源氏物語』『宇津保物語』に現れる「わかんどほり」のことであろう。
問題点
  1. 推古天皇の時代なのに、倭王が男性として記されている。

    天皇の国風諡号をみると、景行天皇の「オホタラシヒコオシロワケ」のように「タラシヒコ」と名づけられた天皇がいる。しかし「タラシヒコ』はすべて男性の天皇であり、女帝は「タラシヒメ」とされる。

    推古女帝の時代なのに、国王が男性であるように記されるのはおかしなことで、これについてもさまざまな解釈がされている。

    たとえば、隋に使いした小野妹子の祖先は、『古事記』の孝昭天皇段に記される天押帯日子(あめおしタラシヒコ)である。隋書のなかに、小野氏の祖先の情報が混入した可能性があるという解釈がある。

    また、九州王朝説を唱える古田武彦氏は、これは九州の政権が隋に使いを出したことを示すものと述べる。

    なんらかの訛伝であろう。1月にまた詳しく説明予定。

  2. 「倭王は天を以って兄と為し、・・・」の解釈は色々議論がある。

    たとえば、これは推古天皇と聖徳太子の役割分担を表したもので、政治については推古天皇が全てを委ねていた聖徳太子が行い、推古天皇は祭祀を行って権威を示したという解釈がある。
■ 『隋書』の冠位十二階

『隋書』「倭国伝」は、倭国の役人には12の官位があることを次のように記している。

内官に十二等有り、一を大徳と曰い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、 次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、 次は大信、次は小信、員に定数無し。

『日本書紀』の推古天皇皇紀11年(603年)条に聖徳太子が定めた冠位十二階のことが記してあるが、下表に示すように『隋書』と官職の順位が合わない。

  冠位・位階制の比較
『隋書』
「倭国伝」












『日本書紀』
推古十一年














 呉音と漢音 (律令関係)
呉音漢音
ダイタイ
トクトク
ニンジン
ライレイ
シンシン
■ 冠位十二階の成立と百済のかかわりについて

冠位十二階については、これまで、聖徳太子の独創によるものとの見解が有力であったが、曽我部静雄・井上光貞らにより、中国や朝鮮半島の諸制度に倣ったもの、とくに、当時わが国と最も密接な関係にあった百済の官位制を中心とし、これに高句麗の制度を参照することによって成立したものとの見解が発表されている。

冠位十二階が呉音で記されている事実は、これを裏づけるものである。

漢字の読み方には、呉音と漢音がある。先に伝来したのは、百済経由で日本に来た呉音である。呉音は中国南朝の音の百済なまりと考えられる。漢音は、そのあとに遣隋使や遣唐使によってもたらされた。  呉音と漢音 (仏教関係)
呉音漢音
ホフハフ
クヱクワ
ショウショウ
メン/マンバン
キャウケイ


『日本書紀』を見ると、仏教関係と律令関係の言葉は呉音で記されている。仏教は百済から伝わったとされているので、律令もまた、かなり早い時代に百済から伝わったと考えられる。

なお、はじめのころは、蘇我氏の大臣には、別に紫冠が与えられていたので、冠位十二階は蘇我氏以外の豪族に与えられてものらしい。また、被授者は畿内、および、その極く周辺に限られており、冠位の施行範囲がかなり限定されていたようである。

■ 律令制度の郷戸と人口

『隋書』「倭国伝」は、国の構成について次のように記す。

軍尼(くに)一百二十人有り、猶中国の牧宰(ぼくさい)のごとし。八十戸ごとに 一伊尼翼(いなき)を置く。今の里長の如きなり。十の伊尼翼は一つの軍尼に属す。 戸十万可(ばか)りあり。

軍尼(くに)とは国造(くにのみやつこ)を、伊尼翼(いなき)は村長(むらおさ)を示すのであろう。『隋書』の内容を整理すると、下記のようになる。
  •              1伊尼翼 = 80戸
  •   1軍尼 =   10伊尼翼 = 800戸
  • 120軍尼 = 1200伊尼翼 = 96000万戸 ≒ 10万戸
『先代旧事本紀』には国造が144人いたことが記されており、『隋書』の120人と大きく違っているわけではない。また、『日本書紀』孝徳天皇紀には大化元年(645年)に50戸で1里を構成することが記されていて、80戸とする『隋書』と若干の違いがある。600年ごろに記された『隋書』との時間差のためだろうか。

律令制で里(郷)を構成した各戸(郷戸)の人数は奴婢なども含む20余人の大家族であった。国が異なるので単純に比較できないが、その後、人口が増えても「戸」を増やさなかったので、郡の郷戸の平均は下表のように増えている。

時期郷戸の人数備考
大宝2年(702)18.5人筑前国嶋郡川辺里戸籍
大宝2年(702)20.8人御野国加毛郡半布里戸籍
御野国味蜂間郡春部里戸籍
天平19年(747)28.0人沢田吾一が『続日本紀』から封戸平均を算出
仁和4年(888)44.9人讃岐国八十九郷の概数による平均
延喜2年(902)82.2人阿波国板野郡田上郷戸籍


■ 倭国の国書

『隋書』「倭国伝」は、倭国の国書について次のように記す。

新羅・百済は、皆倭を以って大国にして、珍物多しと為し、並に之を敬仰して、恒に、使いを通じて往来す。

大業三年、其の王多利思比孤、使いを遣わして朝貢せしむ。使者曰く、「聞く、海西の 菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて 仏法を学ばしむ」と。

其の国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と。

帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい)に謂いて曰く、 「蛮夷の書、無礼なる者有り復た以って聞する勿かれ」と。

菩薩天子は隋の煬帝、沙門は僧のこと。鴻臚卿(こうろけい)は外務省の接待係の長官。

この文章は、日本が、隋に対して、従来の属国的状態からの独立を宣言したものといわれる。

『日本書紀』には、煬帝からの返書を携えて帰国の途についた小野妹子が、百済を通過する時に返書を盗まれた話が記されている。これは、小野妹子が煬帝の返書の内容をはばかり、途中で奪われたことにしたという説がある。

鏡を前にして安本先生三角縁神獣鏡と巨大内行花文鏡休憩時間のロビー風景

2.八咫の鏡はどんな鏡か

■ 八咫の鏡

「八咫の鏡」は、天照大御神が天の岩屋に隠れた時に作られた鏡で、神武天皇の東遷の際に大和に移動して、代々の天皇の宮殿に祀られていた。

第10代崇神天皇のときに「八咫の鏡」のレプリカを作り、これを宮中に残して本物を宮殿の外に出し、大和の笠縫邑で祀った。さらにその後、近江、美濃を巡り、最後に伊勢の皇太神宮で祀られるようになった。

「八咫の鏡」はどのような鏡なのか。これについては次のような説がある。

  • 内行花文鏡とみる説
    原田大六氏の『実在した神話』や、森浩一氏の『日本の神話の考古学』では、「八咫の鏡」は内行花文鏡であるとされる。
  • 三角縁神獣鏡とみる説
    出口宗和が『三種の神器の謎』のなかで主張している。
  • 鉄鏡とみる説
    飯田武郷は『日本書紀通釈』で、「八咫の鏡」は鉄鏡であると説く。
  • 八陵鏡や八花鏡とみる説
    本居宣長が『古事記伝』のなかで、「八咫の鏡」は円形ではないことを説いている。
  • 柄鏡とみる説
    伴信友が『宝鏡秘考』の中で述べたが、柄鏡は中国の宋代から、日本では室町時代から使われたもので、鏡の入れ物の寸法や形状から考えて、まずありえない。

■ 「桶代」と「船代」

「八咫の鏡」を探る手がかりとして、「桶代」や「船代」などの鏡の容器についての情報がある。
  • 「桶代」
    鏡を入れる円筒形の容器である。
    「桶代」の大きさがわかれば、鏡の大きさがある程度推定できる。

  • 「船代」
    「桶代」をさらに納める容器のことである。
    『大神宮儀式解』に、「船代は、木を彫りて船の 形とす」とある。 「船代」という名のとおり船の形をしている。


下表に示すように、鏡を収めた樋代の大きさや形状が時代によって異なっている。鏡が途中で変わってる可能性がある。

年代外径内径高さ(足を含む)
皇太神宮儀式帳80460.649.4
延喜式(大神宮式)92760.649.463.6
内宮遷宮沙汰文(文永桶代)126630.323.053.9
書記通釈「桶代内黄金箱」187327.339.4


■ 火災の記録

記録を調べると、八咫の鏡は下記のように火災などで被害を受けている。火災によってダメージを受けた鏡が再作成された可能性がある。
そして、時代によって樋代の内径寸法が異なることから、再生された鏡は、元の鏡と大きさが異なっていた可能性がある。

伊勢の皇太神宮の火災
  • 791年(延暦10年)8月5日or3日
    盗人のかがり火で、正殿、東西の宝殿などが焼失。
    八咫の鏡は猛火に包まれたが、神宮のまえの黒山の頂きに飛び出して、光明を放っていた。(続日本紀、大神宮諸雑事記)

  • 1079年(承暦3年)2月18日
    大神宮内宮、外院60余棟焼失。(扶桑略記)

  • 1168年(仁安3年)12月21日 正殿、西宝殿、中外院殿舎などが焼失。八咫の鏡はとりだすことができた。(兵範記)
皇居の火災
  • 960年(天徳4年)9月23日
    内裏に火災があり、鏡や大刀などが灰燼となった。八咫の鏡を探したところ温明殿の破れ瓦のうえに径八寸(24センチ)ほどの鏡が露出していた。(日本紀略、釈日本紀、扶桑略記などによる)

  • 1005年(寛弘2年)11月15日
    内裏が焼失。鏡を取り出すことができず。鏡はわずか蔕(へた:鈕の部分)を残して焼け損なわれ鏡の形を失った。(日本紀略、百錬抄の裏書き、小右記などによる)
これらの記録を見ると、皇大神宮の鏡も宮中の鏡も、鋳造し直したとか他のものに取り替えたというはっきりとした記録はない。しかし、火災に遭い、原形を失ったりしている状況はうかがえる。

■ 八咫の鏡とする根拠

いくつかの鏡が八咫の鏡の候補とされているが、それぞれの鏡が八咫の鏡であるとする根拠について検討してみる。
  • 内行花文鏡巨大内行花文鏡の周囲を女性の手で測る。

    「八咫の鏡」の「咫」は女性の手の親指から人差し指の先までの長さを表す単位とする説がある。

    前原遺跡出土の直径46.5センチの巨大内行花文鏡の周囲の長さは、おおよそこの「咫」の長さの8倍に相当する。

    したがって、八咫の鏡とは、この巨大内行花文鏡のことである。

    その証拠に、延喜式の時代の樋代の大きさは、この鏡を収めるのにちょうど良い大きさである。

  • 三角縁神獣鏡

    崇神天皇の時代に、「八咫の鏡」のレプリカが製作されたが、このとき試鋳した鏡が、奈良県の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)に祀られている。

    この試鋳鏡は三角縁神獣鏡である。

    そうすると、宮中に安置された「八咫の鏡」のレプリカも三角縁神獣鏡である可能性が高い。

    三角縁神獣鏡が採用されたのは、崇神天皇の時代に、この鏡がたいへん流行っていたためと考えられる。

  • 鉄鏡
    『古事記』は「八咫の鏡」を製作した時の状況を次のように述べ、「八咫の鏡」が鉄鏡であったと記している。

    八百万の神は、天の安の河の河上の天の堅岩を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人の天津麻羅(あまつまら)をたずね求め、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命に命じて、鏡を作らせた。

    『古事記』で「天の金山の鉄」とあるものが、文献の編纂される時代とともに下記のように変化している。
    • 「天の金山(かなやま)の鉄(くろがね)」 (711年成立『古事記』)
    • 「天の香山(かぐやま)の金(かね)」 (720年成立『日本書紀』一書)
    • 「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (807年成立『古語拾遺』)
    • 「天の金山(かなやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる 『先代旧事本紀』)
    • 「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる 『先代旧事本紀』)

    しかし、『古事記』の表記が妥当ではないかと思われる次のような根拠も挙げることができる。
    • 銅の中に含まれる鉛同位体比の研究によれば、弥生時代から古墳時代にかけての銅は、原材料が全て中国産と見られること。
    • 卑弥呼が交渉を持った魏では、鉄鏡が作られていた。
    • 魏代に近いころ作られたとおもわれる鉄鏡が、岐阜県高山市国府の名張一之宮神社古墳や大分県日田市のダンワラ古墳から出土している。
■ 「八咫の鏡」の歴史

以上のような検討をまとめると、「八咫の鏡」の変遷は、およそ下表のように示すことができる。

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