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第252回 特別講演会
邪馬台国時代の山陰 佐古和枝先生

 

1.邪馬台国時代の山陰   佐古和枝先生

■ 最近の高松塚古墳の状況

壁画の劣化が話題になっている高松塚古墳の状況を、最新の写真で紹介頂きました。

古墳は、各所にカビが発生し、劣化が進行している。また、過去にマグニチュード8程度の大地震が何回も奈良盆地を襲ったと思われ、地震による墳丘や石槨のひび割れ、蓋石の傾きなどが発生しており、現状での維持は限界のように見える。

文化庁の対応への批判もあるが、どうしようもない経年劣化もあり、胸が痛むが解体はやむを得ない。1月〜2月初旬に解体する予定で、現在、準備を進めている。

■ 山陰の弥生文化の再評価

荒神谷遺跡の発見を契機に弥生時代の山陰が注目されるようになった。

弥生時代の山陰の主な遺跡
弥生中期荒神谷遺跡銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個
加茂岩倉遺跡銅鐸39個
田和山遺跡三重の環濠
弥生後期妻木晩田遺跡最大級の集落と四隅突出墓群
青谷上寺地遺跡大量の出土品 ”弥生のタイムカプセル”
西谷墳墓群最大級の四隅突出墓
 
これらの遺跡のスライドを見ながら弥生時代中期から後期の邪馬台国時代の山陰を紹介する。

■ 弥生時代初期の山陰

へこんだ頭蓋骨
  • 島根半島西側の古浦砂丘遺跡(弥生前期)は最も古い稲作上陸地点のひとつ。
    ここで、頭蓋骨がへこんでいる人骨が6体見つかっている。額付近から青銅の錆びが検出されたので、鉢巻き状の青銅器を額に巻いていたと思われる。
    青銅器の使用例としては最も早い物のひとつである。
  • 堀部第一遺跡(弥生前期)では木棺墓の上に石が積んである。石を積む墳墓は朝鮮系の文化。
  • 大社町の原山遺跡でも墓の上に石を積んでいる。
  • 弥生時代初期の山陰の特徴は細型銅剣が出る。
■弥生中期の山陰
  • 荒神谷遺跡
    銅剣は山陰の特徴的な長めのものなので山陰製であろう。銅矛は佐賀平野出土のものと同じ特徴の研ぎ分けがあり、九州産であろう。

    山陰は、銅鐸の最多出土地域になった。荒神谷の銅鐸については、最も古いタイプもあり、全般的に大和のものよりも古いので、地元産としても良い。

    鋳型が発掘されていないので確証はないが、島根半島では純度の高い自然銅が採れるので、山陰の青銅器は山陰の銅で作られた可能性がある。

    銅鐸の研究者は、あたまから銅鐸は大和のものと信じているようで、荒神谷の銅鐸も大和からもらったと述べる。これだけ状況が変わったのだから、これまでの通説を一度リセットして考えるべきだ。

    土器や墳墓などからみて、弥生中期の山陰は、北部九州とは交流していたが、大和との間に交流があった形跡はない。

    これまでは銅鐸と銅矛は同時に出土しないといわれてきたが、荒神谷遺跡ではこれらがいっしょに出て、ここでも、通説を否定するような事例が明らかになっている。

  • 青銅器の祭
    九州の人は銅矛を一番大切にした。そのつぎは銅戈、銅剣、銅鐸の順序で、分布範囲もこの順番で広がっていく。

    青銅祭器の軽重
    種類副葬の状況分布範囲
    銅矛棺に入れる分布は狭い範囲
    銅戈棺の外1枠広がる範囲
    銅剣棺の外1番広い範囲
    銅鐸副葬されない村祭り用で個人と結びつかない

  • 神まつりの道具
    出雲大社近くの命主神社の大きな石の下から翡翠の勾玉と銅戈が出土している。荒神谷や加茂岩倉出土の青銅器と合わせると、銅矛、銅戈、銅剣、銅矛、勾玉が出雲平野の周辺ですべて出そろうことになり、この一帯で弥生人が大事にした神まつりの道具が全部そろうことになる。

    命主神社の場合と荒神谷などとは遺物の埋め方は異なるが、このような出土の状況から、出雲平野周辺をひとつのまとまりとして考えるべきであろう。

  • 田和山遺跡の環濠 田和山遺跡
    三重の環濠に囲まれた堅固な防御機構を持っているが、環濠の中には9本柱の建物がひとつあるだけの不思議な遺跡である。

    この上に立つと、宍道湖から孝霊山までの出雲世界が一望のもとに見渡せる。9本柱は出雲大社と共通の建築様式であり、ここは国見の聖地ではないか。
■弥生後期の山陰
  • 妻木晩田遺跡
    これまでに発見された建物の遺構は900棟もあり日本最大級の集落である。遺跡の規模は170ヘクタールで、吉野ヶ里遺跡より大きい。(下図)

    四隅突出墓群があり、なかには子供用の小さな四隅突出墓もある。四隅の部分は、儀式のために墓の上に上がる通路と考えられている。四隅突出墓は北陸にもあり、山陰と北陸は交流があった。

    天気が良ければ、妻木晩田の高台からは弓ヶ浜や隠岐まで望むことができ、国引き神話の光景のようである。保存運動で苦労していたころ、関係者にこのすばらしい景色を実際に見てもらって、保存に協力してもらった。



  • 青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡
    木器約10,000点
    石器約4,000点
    鉄器約270点
    青銅器約40点
    骨格器約1,400点
    ガラス製品約90点
    人骨約5,500点
    獣骨、魚骨、貝類約27,000点
    その他カゴ、組み紐、絹織物、糞石など
      
    膨大な数の遺物が大変良好な状態で出土した。特筆は、弥生人の脳が見つかったこと(右表)。

    土器と同じ形の木器や、製作に曲尺が必要と言われる内転び(うちころび)の木器があり、また、のこぎりがないのに大きな板を作っており、高いレベルの木工技術を持っていたと思われる。

    北陸の遺跡からも同じような木器が出土しており、このことからも北陸との交流のあったことが分かる。

    シュモクザメ(撞木鮫)の絵が残っている。当時も鮫の影響があったようだ。

    畿内説の学者は、畿内の遺跡から鉄器が出土しないのは、溶けてなくなったからだと言っている。しかし青谷上寺地遺跡から大量の鉄器が出てきたことから、やはり近畿には鉄器がなかったと考えるべきであろう。

    人骨は墓に埋葬されたのではなく、溝から出てくるので、戦争で犠牲になった人々といわれる。しかし、骨はたくさんの傷を受けており、戦いの中で死んだとするには傷が多すぎて少し不自然。処刑された可能性があるのではないか。

    土器と同じ形の木器内転びの木器長さ2.6メートルの杉の板

  • 西谷墳墓郡

    西谷3号墓は最大級の四隅突出墓である。ここから北陸や吉備の遺物が出土しており、これらの地域と交流があったとみられる。


■前方後円墳の成立と山陰
  • 神まつり

    九州−−青銅器の神まつりが継続
    山陰−−青銅器の神まつりをやめ、墳丘墓を作るようになる。
    吉備−−山陰同様墳丘墓を作るようになる。
    近畿−−最後に大規模になるのが前方後円墳。四隅突出墓はそのさきがけとなったのではないか。

  • 弥生後期の各地域での葬式のこだわり

    北部九州−−墳墓の中に入れる品物にこだわる(鏡を何枚も入れる)
    山陰−−−−地上の構築物にこだわる。墓の形が四隅突出墓で共通
    吉備−−−−葬儀の器材(後の埴輪)にこだわる。墓の形は共通ではない
    畿内−−−−こだわりがない。共同墓地的、有力者の墓がない方形周溝墓

  • 大和は弥生後期に新しい拠点をつくる時に選ばれた場所であり、弥生後期以前から  大きな勢力があって、その延長で政権が出来たわけではない。

2.三題噺  安本美典先生

■ 「金印偽造説」は成立しない

江戸時代に志賀島で発見された「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印は、偽物だという説がある。 『口語訳古事記』などを著した千葉大学教授の三浦佑之氏が、最近の著書『金印偽造事件』で主張している話である。

しかし、三浦氏の言うように、この金印が江戸時代に偽造された物とするならば、決定的におかしいことがある。

この金印では「倭」の文字を「委」で表しているが、「委」の文字は江戸時代には「わ」と読まず、「ゐ」とよむことである。

「委」は、上古音(周・秦・漢音)では「わ」と読むが、中古音(隋・唐音)では「ゐ」とよむ。この金印の場合は「上古音」によっているとみられる

『日本書紀』では「委」を「わ」と読む場合と「ゐ」と読む場合があるが、その読み方は厳密に使い分けられている。

『日本書紀』で「わ」と読まれる例
  • 賁巴委佐(ほんはわさ)
    安羅の人「継体天皇紀」
  • 委陀(わだ)
    朝鮮の洛東江口の地名「継体天皇紀、推古天皇紀」
  • 竹斯物部莫奇委沙奇(つくしもののべのまがわさか)
    百済の人「欽明天皇紀」
これらは、朝鮮系(百済系)資料によると思われるもので、その読みの由来は、古いとみられる。

『日本書紀』で「ゐ」と読まれる例
  • 等利委餓羅辞(とりゐがらし:鳥居枯らし)
    歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
  • 委遇比菟区(ゐぐひつく:堰杙築く)
    歌謡中の万葉仮名「応神天皇紀」
  • 爾加委(にかゐ)
    島の名。伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書のなかにでてくる。「斉明天皇紀」
朝鮮系資料とそうでないものとでは、あきらかに読みが異なっている。「委」を「ゐ」と読むのは『日本書紀』編纂時、あるいは、それに近い時期の読みとみられる。

そのほかに「委」を「わ」と読む例として、藤原京出土の木簡に、「伊委之(鰯)」と書いた例がある。奈良時代にはいる前あたりまでは、「委」を「わ」と古い読みで読む万葉仮名が使用されていたようである。

藤原宮の次の時代の平城宮出土の木簡では鰯は「伊和志」と記されている。「委」を「わ」と読むのはポピュラーではなくなったらしい。

以上のように、「委」を「わ」と読むのは奈良時代以前までで、金印が発見された江戸時代には「委」は「ゐ」と読まれていた。江戸時代に「委」を「わ」と読ませる金印を偽造できるわけがない。

■鳥取県と日本神話の関係

日本神話と出雲の関係は良く取り上げられるが、鳥取県との関係はあまり話題にならない。鳥取出身の佐古先生にちなんで、神話に出てくる鳥取の話をひとつ。

『古事記』に、大国主命が兄たちに憎まれて、伯岐(ははき)の国の手間の山本(山の麓)でだまし討ちに遭う場面が描かれている。ここで大国主命は、兄たちに、猪に見せかけた焼けた大岩をつかまされて命を失う。

伯岐の国の手間とは、奈良平安期の郷名では天万郷(てまのごう)と記され、鳥取県会見町の天万を中心とする地域。手間の山本とは会見町寺内の南の手間山に比定されている。手間山と谷をはさんで向かい側の山の麓に、焼かれた大石を祀るという赤猪岩(あかいわ)神社がある。

このあたりには、山陰最古の普段寺古墳群などがあり、古くから開けた土地であった。



■ 銅鐸の分布

省略(第221回第240回の記録を参照)

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