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第240回 謎の四世紀 |
1.七支刀銘文の解読 |
日本書紀の神功皇后紀に、七枝刀(ななさやのたち)が百済の王から
贈られたと記されている。この刀は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に
伝えられてきた七支刀(しちしとう)であると考えられている。
七支刀には金象嵌の銘文が記されているが、かなり腐食しているので文字の判別がしにくくなっている。 文字の解読の代表的な例として古代史学者・吉田晶氏の読み方を下記に示す。(薄い文字は吉田氏の推定、□は判読不能の文字) 表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵°沂沍王□□□□作 裏 先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世 裏面の「聖音」の文字の読み方が、たいへん重要な意味を持つ。 ■ 「聖音」か「聖晋」か? 聖の次の文字は「」と刻まれているように見える(右図)。 『七支刀の謎を解く』『七支刀銘字一考』などの著者・吉田晶氏や『石上神宮七支刀銘文図録』の著者・村上正雄氏などは、この文字を「音」とみる。 「立」の部分にある余分な縦線は調子が弱くほかの線とは異なると見て、切り誤りかキズと判断するのである。 いっぽう、榧本杜人(かやもともりと)氏は、この文字に「立」の部分の中央に縦溝があることから、「晋」の可能性を提起した。 「晋」の上に点を打つ異体字の例がないという反論があったが、これに対しても、中国南北朝時代の北斉の高建妻王氏墓誌に記された「晋陽」の文字で、「晋」の上部に一画がある例が明らかになり(左図)、「」と刻まれた文字が「晋」である可能性も無視できなくなってきた。 ■ 「聖音」とした場合の銘文の意味 「聖音」と読む村山正雄氏は、「奇生聖音」の部分を「奇しくも聖音に生き」と解釈し、「はからずも釈尊の加護の下に生きて」というほどの意味とする。 しかし、安本先生は、この解釈は歴史の流から見て不自然だとして、次のように述べる。 朝鮮の歴史書『三国史記』の百済本紀によれば、百済に中国から仏教が伝わったのは、西暦384年のことである。 いっぽう、七支刀の表面の最初に出てくる泰和四年は、七支刀の制作年であり東晋の太和(泰和)四年、すなわち、西暦369年とする説が有力である。 つまり、村山氏の解釈では、仏教が伝わる前に造られた七支刀の銘文に、仏教の影響が認められることになってしまう。 ■ 「聖晋」とした場合の解釈 「聖晋」は、古代朝鮮語で王子を意味する「セシム」と読める。 七支刀が造られた369年は、第13代「近肖古王」(346〜375)の治世であり、次の王「近仇首王」(375〜384)が王子の時代に当たる。 近肖古王の王子の名は次のように記されている。、
■ 七支刀が神功皇后紀に現れる理由 『日本書紀』は、神功皇后=卑弥呼としたため、年代が繰り上がっている。百済系の資料を『日本書紀』が引用している場合は、年代を系統的に干支二回りにあたる120年むかしに繰り上げている。 たとえば、近肖古王の没年について、朝鮮の史書『三国史記』と比べると『日本書紀』では次のようにちょうど120年繰り上げて古く記されている。
西暦249年は、卑弥呼の時代である。日本書紀の編者は、卑弥呼=神功皇后と考えていたので、七支刀は神功皇后の時代に造られ、倭王に贈られたと記述したのであろう。 ■ 「為倭王旨造」とは? とくに「旨」については、さまざまな仮説が考えられているが、安本先生は次のどれかではないかと述べる。
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2.崇神天皇・景行天皇の時代 |
■ 崇神天皇陵と景行天皇陵
安本先生の「天皇の一代平均在位年数約十年説」によれば、崇神天皇は西暦350年前後に活躍した天皇(上図)である。 崇神天皇陵古墳について東京大学の考古学者・斉藤忠氏は次のように述べる。 今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ4世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することをかんがえてよい。 崇神天皇陵が4世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は4世紀の中頃を中心とした頃と考える・・・
4世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの (『シンポジウム 古墳時代の考古学』) とする。年代について文献学的、統計学的な推定活躍年代と、考古学的古墳の築造推定年代とが ほぼ正確に合致している。 ■ 崇神天皇陵と景行天皇陵についての記紀の記述 『古事記』の記述
文献の上で違いがないため、現在、崇神天皇陵とされているものは、景行天皇陵ではないかという指摘がある。 ■ 崇神天皇陵は現在の指定通りでよい。 しかし、安本先生は、次のような理由を挙げ、現在の崇神天皇陵はほぼ確実に、崇神天皇陵とみてよいと述べる。
三角縁神獣鏡は、銅鐸の分布域の北限を越えて、関東からさらに北にまで分布している。(図A) 東国にあらたに拡大した三角縁神獣鏡の分布域は、日本武の尊の東征経路(図B)とよく一致しているように見える。 東国への三角縁神獣鏡の拡大は、日本武の尊の東征が契機になったのではないか。 第12代の景行天皇の時代に、日本武の尊は吉備の武彦とともに、東国の遠征に赴いた。 『日本書紀』は、日本武の尊が、上総から陸奥の国に入るときのようすを次のように記す。 爰(ここ)に日本武尊、則ち上総より轉(うつ)りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。横(よこしま)に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。 王船に懸けた「大きなる鏡」とは、三角縁神獣鏡を指すのではなかろうか。三角縁神獣鏡は直径が20センチ以上あり、まさに大きな鏡であった。考古学者の小林行雄氏によれば、三角縁神獣鏡の同じ鋳型で作った鏡(同型鏡)は、関東に達しているものは、また、吉備にも多いという。 岡山県の備前車塚古墳で発見された13枚の鏡の中に、各地で出土したものと同型の三角縁神獣鏡が8種9枚ある。 そのうち4枚が、次のような東国の遺跡から出土した鏡と同型であった。
日本武の尊と同行した吉備の武彦が、吉備と同型の三角縁神獣鏡を東国に持ち込んだのであろう。 このように見てくると、『古事記』『日本書紀』の記す日本武の尊の伝承には、かなりの史実がふくまれているように見える。 |
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