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1.「みかん」と「橘」 2.物部氏について | ||||
第221回 |
1.「みかん」と「橘」 |
■ 古文献
以下のように考えると話のつじつまが合う。 『魏志倭人伝』の時代は、食用ミカンが伝来する前であり、倭人は野生の橘などは酸味が強く食べる習慣がなかった。 田道間守が持ってきた「ときじくのかぐの実」が普及して、記紀が編纂された時代に橘と呼ばれ、おいしい果物として珍重された。 そして、のちの時代には紀州ミカンとなった。 紀州ミカンや日本の在来種などから品種改良され、現代の温州ミカンが作られて、明治中期以降普及した。 ■ 田道間守はどこへ行った。 記紀によると田道間守は垂仁天皇(第11代)の時代の人。 安本先生の「天皇一代平均在位年数約十年説 」によると、垂仁天皇の活躍した時代は4世紀後半。 中国では、魏の後に建国した晋(西晋)が、北方の異民族の圧力に押されて、南方に進出し建国した東晋の時代。 東晋は柑橘類の集散地として知られる温州を含む。 倭国は中国の王朝に朝貢を行ってきた。後漢には倭国王師匠が、魏には卑弥呼が、西晋には台与が使者を送った。田道間守も垂仁天皇が東晋に送った使者ではなかったのか。 田道間守は、中国南部の東晋の温州あたりに行ったときに、食用ミカンの「ときじくのかぐの実」を手に入れたのであろう。 『古事記』『日本書紀』の田道間守の伝承は、垂仁天皇の時代に田道間守が東晋に派遣された史実があって、それを核として成立した伝承の可能性が高い。 崇神天皇の陵の全長は、ほぼ正確に東晋の尺度の1000尺にあたるという。 崇神天皇陵を築造する時には、東晋の尺度が倭国に伝来していたと考えられるのである。これも田道間守が倭国に伝えた東晋の文化なのではないだろうか。 |
2.物部氏について |
■ 県(あがた)の分布
「県」は天皇家の直轄地を指す場合が多い。 県の分布は九州が最も多く、次いで畿内に多い。分布が九州と畿内に偏っているのは、この地域が天皇と密接な関係にあることを示している。すなわち、天皇家の故地が九州にあって、のちに畿内に移ってきたことを想定させる。 地域別「県・県主」の数
■ 銅鐸の年代 銅鐸の年代については諸説ある。 たとえば、銅鐸のはじめの年代については、右図のように学者によって3〜400年の違いがある。 銅鐸の終わりについて、佐原真氏は、邪馬台国のころは銅鐸は終わっていたと述べるが、奈良県教育委員会の考古学者寺沢薫氏は、次のように邪馬台国時代にも行われていたと述べる。
(銅鐸のはじまりを私は)中期の前葉からと考えています。せいぜいさかのぼっても前葉。それから、最後はおそらく、一般的には、弥生の終末といいますか、地域によっては、古墳時代に突入、近畿、奈良県が古墳時代に突入している頃まで、作っているところがあるだろうというところです。
■ 銅鐸の分布 出土した銅鐸を、初期・最盛期・終末期に分けて出土分布を調べると、中国地方からは主に初期銅鐸が出土し、静岡地方では終末期銅鐸のみが出土する。 つまり銅鐸の発展段階とともに分布が西から東に移っている。(下図) 終末期の銅鐸が出土する地域は、物部氏が国造になっている例が多い。また、物部氏の本拠である河内の国の跡部郡からも銅鐸が出土している。 ■ 庄内式土器の分布 徳島文理大学の石野博信氏は庄内式土器の出土する場所について次のように述べる。 下図で九州の例を挙げていますが、近畿より西側で庄内式土器がいちばんまとまって出てくるのが九州です。岡山ではいまのところ2,3点程度、鳥取県で2,3点ぐらい滋賀県はありますが、福井県でちょっとという感じです。関東では東京都内の板橋で一点と横浜でそれらしいのが一点出ています。ほかにもあるかもしれませんが、ごく少数です。(『古墳はなぜつくられたか』大和書房) 庄内式土器の分布は、畿内と九州に集中する点で、県・県主の分布と同じ傾向のように見える。しかし、図に示すように九州の庄内式土器は北九州全般に広がっているのに対し、大阪では「八尾とか東大阪」あたりに、また、奈良県では「磯城郡」に集中している。九州の庄内式土器は、大和から伝わったということが云われるが、このような分布の状況 は、むしろ、その逆で、九州から畿内に伝わったと考えたほうが良いのではないか。 庄内式土器が広く普及している北九州から畿内へ移住した人たちが、移住先の土地で九州起源の土器を作ったと考えれば、畿内で限定された地域で庄内式土器が出土することの説明がつく。 ■ 畿内の庄内式土器の出土地は物部氏の根拠地 大阪府の八尾や東大阪近辺の庄内式土器出土地域と物部氏の関係
■ 奈良県と大阪府の共通地名 前回も説明したように、奈良県と大阪府の、庄内式土器が多量に出土する地域のあたりには、大和の磯城郡と河内の志紀郡のように共通の地名がいくつも存在する。 以上のようなさまざまな事実は、饒速日の命にともに九州から移動してきた物部氏が河内に定着し、やがて大和とその周囲に勢力を伸ばしていった状況を示すものと考えられるのである。 |
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