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第204回
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1.荒神谷遺跡、加茂・岩倉遺跡の位置と、大国主の命の勢力範囲
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古事記が出雲を舞台として描写する内容をみると、須佐の男の命に関係した記述は、出雲の東半分を描き、大国主の命関連では、出雲の西半分を描いている。これは、それぞれの勢力範囲を示すものと考えられる。
これらの遺跡の位置づけについて、 安本先生は、大国主の命と関連する遺跡であろうとする。 しかし、考古学者はこの関係について多くを述べない。 その理由は・・
銅鐸の年代については諸説があって、銅鐸の年代を相当古く見積もる佐原氏の説が、必ずしも正しいと確定したわけではない。他の学者の年代観では、古伝承と整合したストーリーを描ける可能性が示されている。 |
2.銅鐸について
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1.銅鐸のはじまりの時期
銅鐸の始まりの時期は、学者によって300年以上も異なる。
■銅鐸の始まりについての諸説
(銅鐸の年代について)ぼくは、九州の方が今のところはるかに年代の基点になると思う。 佐原眞氏は、銅鐸の鈕(紐孔)の形式などの分析により、銅鐸の相対的な編年を明らかにした功績は大きいが、佐原氏の説く銅鐸の絶対年代については、まだ異論が多く定説とは言い難い。 佐原氏が館長を務めていた国立歴史民族博物館の解説などでは、佐原氏の所説をもとに銅鐸の年代が記述され、新聞なども、佐原氏の年代観で記事が書かれることが多いので、事情のわからない人たちはそのまま信じてしまう懸念がある。 2.銅鐸の終わり 銅鐸の終わりについての森浩一氏の見解 大局的には弥生時代とともに銅鐸は終わったといえる。
近年、銅鐸を埋めた穴の中や、穴を覆う土中に土器が発見された事例が4、5例ある
(矢野、櫻井市の大福、羽曳野市の西浦、跡部など)。 |
3.青銅器の分類
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小型製鏡第U型と三角縁神獣鏡に含まれる鉛の同位体(Pb-206/207/208)の比率をパラメータとして図のようなグラフを描くと、小型製鏡第U型は領域Yに、三角縁神獣鏡は領域Sに、それぞれ固有の分布パターンを示す。 小型製鏡第U型は、邪馬台国時代の鏡である。三角縁神獣鏡は、小型製鏡第U型とは、あきらかに異なる地金で作られており、三角縁神獣鏡が邪馬台国とは違う時代に作られた可能性を示す。 いっぽう、佐原眞氏の指摘のように、三遠式・近畿式銅鐸は、小型製鏡第U型と同じく領域Yの狭い範囲に分布し、小型製鏡第U型と同じ地金で、近い時期に作られたものと推定できる。 すなわち、三遠式銅鐸・近畿式銅鐸は邪馬台国時代の青銅器である可能性が高いといえる。 さまざまな、青銅器の鉛同位体比を測定し、分布パターンを調べると、3つのグループに整理できる。 それぞれの青銅器が使われた時代の情報とともに整理すると |
直線Lの上にのるもの | 領域Yにはいるもの | 領域Sにはいるもの | |
甕棺時代のもの |
・細型銅剣 ・細型銅矛 ・細型銅戈 ・初期銅鐸 ・多紐細文鏡 |
・甕棺から出土した鏡 (輸入鏡[舶載鏡]、おもに前漢式鏡) | |
箱式石棺時代のもの |
・小型製鏡第U型 ・「長宣子孫」銘内行花文鏡 ・平原遺跡方形周溝墓鏡 ・広型銅矛 ・近畿式銅鐸 ・三遠式銅鐸 | ||
前方後円墳時代のもの |
・三角縁神獣鏡 ・三角縁仏獣鏡 ・紀年銘鏡 ・各種神獣鏡(画文帯神獣鏡、斜縁神獣鏡、 対置式神獣鏡) ・画像鏡 ・各種獣形鏡、獣文鏡 ・浮彫式獣帯鏡 |
4.大国主の命と銅鐸
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