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第204回
大国主の命伝承と大量の銅剣・銅鐸の出土


 1.荒神谷遺跡、加茂・岩倉遺跡の位置と、大国主の命の勢力範囲

古事記が出雲を舞台として描写する内容をみると、須佐の男の命に関係した記述は、出雲の東半分を描き、大国主の命関連では、出雲の西半分を描いている。これは、それぞれの勢力範囲を示すものと考えられる。
  • 須佐の男の命は、はじめ海潮(うしお)郡に宮殿を置いた。(東)
  • 須佐の男の命が天下りしたのは鳥上山(東)
  • 八股の大蛇伝承は横田郷大呂(東)
  • 大国主の命の住居は出雲大社(杵築大社)の地域
    神社は、神となる人物が住んでいた地域に建てられることが多い。大国主の命は出雲大社のあるところに住んでいたのではないかと推定される。(西)
  • 高天の原勢力の建御雷(たけみかづち)の神たちと、大国主の命は、国譲りの談判を稲左(伊那佐)の小浜で行った。(西)
遺跡の位置と大国主の命の勢力範囲 大量の銅剣や銅鐸を出土した荒神谷遺跡、加茂・岩倉遺跡は、出雲の西側にある。
これらの遺跡の位置づけについて、 安本先生は、大国主の命と関連する遺跡であろうとする。

しかし、考古学者はこの関係について多くを述べない。  その理由は・・
  • 佐原眞の銅鐸の編年論のように、加茂・岩倉遺跡などから出土する銅鐸の年代をかなり古めに推定しているので、大国主の命と年代があわないとする。
  • 津田左右吉の所説をもとに、古事記の神話は信頼できないとする。神話は無視して、考古学だけで、しっかりと歴史を描くのが最善だと考えている。
かって、考古学者は、出雲から見るべき出土品がないと言う理由で、出雲神話を無視してきた。 現在は、荒神谷遺跡、加茂・岩倉遺跡からの第一級の遺物を、年代が違うという理由で、出雲神話と結びつけることを拒否している。神話は信用できないという前提でしか、遺物の解釈ができないのは、あまりに硬直した研究態度のように見える。

銅鐸の年代については諸説があって、銅鐸の年代を相当古く見積もる佐原氏の説が、必ずしも正しいと確定したわけではない。他の学者の年代観では、古伝承と整合したストーリーを描ける可能性が示されている。
 

 2.銅鐸について

1.銅鐸のはじまりの時期

  銅鐸の始まりの時期は、学者によって300年以上も異なる。


■銅鐸の始まりについての諸説
  • 弥生時代後期(紀元後100年頃) 杉原荘介氏の説

  • 弥生時代中期の中ごろ(前1世紀ごろ) 九州の大半の研究者  

    九州でいちばん古い銅鐸の鋳型や、銅鐸型土製品は須玖T式土器と言われる。九州の須玖T式は、近畿の第V様式(前1世紀ごろ)と同時期である。
    九州のこの時期の土製品の中に、佐原眞氏が「菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)」と呼んでいる一番古いタイプの銅鐸を模倣したようなものがある。すなわち、一番古いタイプのものが第V様式中期の中ごろ(前1世紀ごろ)であるということを年代の基準と考えるべきである。

  • 弥生時代前期(前3世紀〜前2世紀) 佐原眞氏や小林行雄氏の説 

    流水文銅鐸の流水文は、近畿の第U様式(紀元前100年ごろ)の土器と、文様の付け方のルールが同じである。したがって、流水文銅鐸は第U様式中期の初めの銅鐸である。
    流水文銅鐸よりも古いタイプの銅鐸があるので、銅鐸のはじまりは弥生時代前期と考える。


    これについては、唐古・鍵遺跡の文様を研究した藤田三郎氏から次のような反論がある。

    銅鐸に付いているような流水文は、第U様式の土器だけでなく、もっと新しい第V様式や第W様式(紀元後1世紀頃)の土器にもある。 流水文があるから古いという証拠にはならない。

考古学者、森浩一氏は、以上のような状況をふまえて

(銅鐸の年代について)ぼくは、九州の方が今のところはるかに年代の基点になると思う。
また、近畿の年代の出し方が、基盤が弱いような気がする

と述べる。

佐原眞氏は、銅鐸の鈕(紐孔)の形式などの分析により、銅鐸の相対的な編年を明らかにした功績は大きいが、佐原氏の説く銅鐸の絶対年代については、まだ異論が多く定説とは言い難い。
佐原氏が館長を務めていた国立歴史民族博物館の解説などでは、佐原氏の所説をもとに銅鐸の年代が記述され、新聞なども、佐原氏の年代観で記事が書かれることが多いので、事情のわからない人たちはそのまま信じてしまう懸念がある。

2.銅鐸の終わり

銅鐸の終わりについての森浩一氏の見解 

大局的には弥生時代とともに銅鐸は終わったといえる。
200年代の後半、典型的な前方後円墳がどんどん出てくる前に銅鐸は終わっている。

銅鐸の埋められた時期を推定する手がかり

近年、銅鐸を埋めた穴の中や、穴を覆う土中に土器が発見された事例が4、5例ある (矢野、櫻井市の大福、羽曳野市の西浦、跡部など)。
土器の年代から、これらはすべて弥生後期か、すぐあとの庄内式の時代といえる。

 3.青銅器の分類

佐原眞氏は『祭りのカネ銅鐸』のなかで、次のようにのべている。

銅鐸のうち、新段階の三遠式・近畿式銅鐸や、日本製の小型鏡の大多数などの鉛同位体比は、ひじょうにせまい範囲にまとまっており、「まったく等しい」といってよいほどなので、同一の鉱山の鉛か、あるいは銅・錫・鉛を溶かして作った、同一の地金を使った可能性が大きい。


小型製鏡第U型三角縁神獣鏡に含まれる鉛の同位体(Pb-206/207/208)の比率をパラメータとして図のようなグラフを描くと、小型製鏡第U型は領域Yに、三角縁神獣鏡は領域Sに、それぞれ固有の分布パターンを示す。

小型製鏡第U型は、邪馬台国時代の鏡である。三角縁神獣鏡は、小型製鏡第U型とは、あきらかに異なる地金で作られており、三角縁神獣鏡が邪馬台国とは違う時代に作られた可能性を示す。

いっぽう、佐原眞氏の指摘のように、三遠式・近畿式銅鐸は、小型製鏡第U型と同じく領域Yの狭い範囲に分布し、小型製鏡第U型と同じ地金で、近い時期に作られたものと推定できる。
すなわち、三遠式銅鐸・近畿式銅鐸は邪馬台国時代の青銅器である可能性が高いといえる。

さまざまな、青銅器の鉛同位体比を測定し、分布パターンを調べると、3つのグループに整理できる。

それぞれの青銅器が使われた時代の情報とともに整理すると
 直線Lの上にのるもの領域Yにはいるもの領域Sにはいるもの
甕棺時代のもの ・細型銅剣
・細型銅矛
・細型銅戈

・初期銅鐸
・多紐細文鏡
・甕棺から出土した鏡
(輸入鏡[舶載鏡]、おもに前漢式鏡)
 
箱式石棺時代のもの 小型製鏡第U型
・「長宣子孫」銘内行花文鏡
・平原遺跡方形周溝墓鏡
・広型銅矛
・近畿式銅鐸
・三遠式銅鐸
 
前方後円墳時代のもの   ・三角縁神獣鏡
・三角縁仏獣鏡
・紀年銘鏡
・各種神獣鏡(画文帯神獣鏡、斜縁神獣鏡、 対置式神獣鏡)
・画像鏡
・各種獣形鏡、獣文鏡
・浮彫式獣帯鏡


 

 4.大国主の命と銅鐸

平田篤胤は『弘仁歴運記考』のなかで、

銅鐸は天孫以前の大国主命の系統の集団が残した

と説く。 森浩一氏は、

ぼくはこの説はおもしろいと思っているんです。

と平田篤胤の説が成立する可能性を匂わす。
大国主の神の通婚範囲


大国主の命は、広い範囲の地域の女性と通婚していた。 これは出雲の国が多くの国と政治的に関係し、その中心的存在であったことを示している。

大国主の命が高天原勢力に国譲りした結果、出雲の文化圏の中心的祭器である銅鐸が、埋められたと考えられないだろうか。



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