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第205回
高千穂論争 その1


 1.埴安の海・・・奈良の盆地湖のなごり

紀元節の歌に、でてくる「高千穂」「はにやす」とはどこのことだろう?
まず、「はにやす」について。

「万葉集」の巻一に、舒明天皇が大和の香具山にのぼって国見をしたときの歌がのっている。

大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は

この歌の「海原」に関連して、次のような記録や、学者の見解がある。

国学院大学教授で法制史学者の滝川政次郎氏など。

JR関西本線と桜井線とに囲まれた内側にしだいに縮小しつつある盆地湖があった。
(宮川宗徳編「高千穂・阿蘇」文永社、1960年刊)。

神武天皇聖跡を丹念に踏査した考古学者の樋口清之氏の研究。

神武天皇の聖跡と伝えられる地の付近には、必ず、縄文式若しくは弥生式の遺蹟があり、その地が例外なく50メートル等高線より、高い場所にある。

大和平野は元来大和川断層線とこれに交わる奈良断層線との交錯によって出来た海であったが、後に土地の隆起によって奈良坂および穴虫より海水が流退して盆地湖になった。この盆地湖は奈良時代に干上がってしまった。

舒明天皇の歌に出てくる海原は、この盆地湖のことであろう。

万葉集の注釈家は、この海原は香具山の北側の麓にあった埴安(はにやす)の池であるといっているが、埴安の池も盆地湖の引き残りである。 埴安の池は、明治17〜18年頃に天香具山の一角を崩して埋め立てられてしまった。

奈良盆地中央部の広い範囲にわたって、弥生時代の遺跡遺物のほとんど出土しない地域がある(右図)。これは、樋口清之氏の述べるように、弥生時代まで奈良盆地の真ん中は、盆地湖か湿地帯があって、人が住むのに適さなかったことを裏づけている。



紀元節

第一章
雲にそびゆる高千穂
高根おろしに、草も、木も
なびきふしけん大御世を
仰ぐ今日こそ楽しけれ。

第二章
海原なせるはにやす
池のおもよりなほひろき
めぐみの波にあみし世を
仰ぐ今日こそ楽しけれ。




 2.高千穂の峰はどこか

■ 天孫降臨

「古事記」と「日本書紀」とでは多少のちがいはあるが、ほぼ同じ内容の天孫降臨の話を伝えている。天孫が、高天原から高千穂の峰にいたるまでの話は、「古事記」は次のように描かれている。

大国主の命が治めていた葦原の中国を平定しおわったのち、天照大御神と高木の神とは日嗣の御子、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかちはやひ)天の忍穂耳(おしほみみ)の命に命令する。

「天降っておさめるように。」

すると、天の忍穂耳の命が答える。

「私が降ろうと思って準備している間に、子が生まれました。天津日高日子番能邇邇芸(あまつひこひこほのににぎ)の命です。この子を降そうと思います。」

天の忍穂耳の命は、高木の神の娘、万幡豊秋津師比売(よろずはたとよあきずしひめ)を妻として、二人の子をもうける。天の火明(ほあかり)の命と、天津日高日子番能邇邇芸の命である。この邇邇芸の命が天降ることになる。

邇邇芸の命は「竺紫(つくし)の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に、天降りする。

先導の役をしていた天の忍日(おしひ)の命と、天津久米の命とは、次のようにいう。

「ここは、韓国に向ひ、笠沙の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の照る国なり。故、此地は甚吉き地(いとよきところ)。」

その地に、宮殿をもうける。


 

■ 高千穂の峰はどこ?

戦前は、高千穂の峰の所在地について、邪馬台国論争より激しい議論が繰り返された。有力なのは下記の二説。
  • 高千穂の峰=霧島山説
     日向の国曽於(そお)郡の霧島山

  • 高千穂の峰=宮崎県西臼杵郡説
     日向の国臼杵郡の高千穂山

この二説は古文献上の証拠がある。これ以外に豊前説、筑前説、肥後説等があるがすべて思いつき的で、奈良時代までさかのぼりうるような古文献上の証拠を持っていない。



 3.高千穂の峰=霧島山説

■ 霧島山

霧島は鹿児島県と宮崎県の境にあって、23の大小の活火山からなり、東西の二つの峰にわかれている。その間は約4キロである。
東の峰は高千穂の峰、または東岳(東峰)、矛峰、東霧島(つまきりしま)と呼ばれている。山頂は、やや平坦で高さは1574メートル、東西にそびえている。
西の峰は、韓国岳(からくにだけ)、または、西岳、西霧島とよばれる。高さは1700メートルで、西北にそびえている。
韓国岳の方が高い、霧島山は高山とはいえないが、敷地が広大である。

■ 高千穂の峰=霧島山説を支持した人々
  • 平家物語(の著者)
    平家物語が成立した鎌倉時代に、天孫が降臨した山を、霧島嶽とする理解があったことをうかがわせる記述がある。
  • 新井白石(1657〜1725)
  • 橘南谿(なんけい)(1754〜1806) 医者、文人。
    旅行記『西遊記』『北窓鎖談』などで霧島山説を説く
  • 五代秀尭(ひでたか)・橋口兼柄(けんぺい) 
    『三国名勝図解』(1843年成立)で、14の根拠をあげて、霧島山説を主張。
  • 飯田武郷(1828〜1901) 東大助教授
  • 吉田東伍(1864〜1918) 歴史地理学会創設者
  • 本居宣長(1730〜1801)や平田篤胤(1776〜1843)
    臼杵郡の高千穂山説と霧島山説の併用説をとなえた。
■ 霧島山説の根拠

 A.「襲」は現在の、鹿児島県の地名である。
 
高千穂の峰について、「日本書紀」の本文および、二つの一書では、次のように表現している。
  • 「日向の襲の高千穂の峰」
  • 「日向の襲の高千穂のくし日の二上の峰」
  • 「日向の襲の高千穂の添山(そほり)の峰」
ここに現れる「襲」は、以下のように、現在の鹿児島県の地名を指すとみられる相当な根拠がある。「襲」が鹿児島県にあるとすれば、「高千穂の峰」は、霧島山である。

「山城国風土記」の逸文に、「日向の曾の峰に天降りましし神」という記述があり、「襲の高千穂の峰」と「曾の峰」とは同じものであることがわかる。
797年に撰進された「続日本紀」の桓武天皇延暦7年(788)の条に、「大隈の国、曽於の郡、曾の峰の上にあたって、火炎大いに熾(さか)んにして、響、雷の動するがごとし。」とあることから、「曾の峰」は「大隈の国、曽於の郡」にあったことがわかる。

曽於の郡は和銅6年(713)に大隈の国が建てられ、日向の国囎唹郡が、大隈の国曽於郡となった。大隈の国は、現在の鹿児島県の東部であり、曾(襲)の峰は、いまの鹿児島県にあったことになる。

「日本書紀」の景行天皇12年の条に「襲国(そのくに)」という地名があらわれる。日本古典文学大系の「日本書紀」はこの「襲国」ついて、「後の大隈国曽於郡の地名を中心とする地域一帯を言ったものか。」と註をしている。すなわち「日本書紀」じたいも「襲」を鹿児島県とみられる地名としている。

鎌倉時代編纂の「塵袋」に引用されている「薩摩の国風土記」の逸文に「皇祖番能忍耆命(ほのににぎのみこと)、日向の国曽於の郡、高茅穂のくしふの峰にあまくだりまして、」とある。この逸文は高千穂の峰が日向の国曽於の郡にあることを、明記している。

「曽於の郡」の地は、現在の鹿児島県囎唹郡西部・姶良郡東部・国分市の地である。すなわち「薩摩の国風土記」は高千穂は現在の鹿児島県の地としている。

霧島のことを古くは「襲山」と言った。751年に成立した漢詩集「懐風藻」に「襲山降蹕(こうひつ)之世」とあり、815年に成立した「新撰姓氏録」に、「天孫降襲」とあり、840年に成立した「日本後記」に「襲山肇基」とある。これらもやはり、地名とみるべきである。「背」の意味では理解しにくい。

和銅6年(713)の5月の、朝廷の命令で、「郡・郷の地名は、今後、好ましい字(漢字二字の嘉き字)で表記」することななった。このため、もとは1文字で「襲」「曾」であらわされていた地名が、「曽於」の二字で記されたとみられる。それが、後で漢字の音で「そお」と発音されるようになった。同じ様に「木(き)の国」が「紀伊(きい)の国」となった例がある。


 B.「韓国(からくに)」とは「韓国岳」のことである。
 
『古事記』では、次のように述べている。

天孫邇邇芸(ににぎ)の命とともに、高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に下った天の忍日(あめのおしひ)の命と天津久米(あまつくめ)の命は、「此地(ここ)は韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真来通(まきとほ)りて、・・・・」

「久士布流多気」を、現在の東の峰高千穂であるとし、「韓国」を、西の「韓国岳」のことであるとすれば、意味がよくとおる。

吉田東伍はその著「大日本地名辞書」でのなかで

『延喜式』神名帳に記されている囎唹郡韓国宇豆峰(うつみね)神社は、この韓国岳の霊をこの山のふもの地で、望み祭ったのであろうか。また「古事記」の「韓国に向ひ」の「韓国」というのは峰の名であろう。

と言っている。


*高千穂の峰=宮崎県西臼杵郡説の説明は次回。


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