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第201回
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伊邪那美の命、須佐の男の命の伝承と出雲の地名 |
■黄泉比良坂(よもつひらさか)
伊邪那岐の命が黄泉の国から逃げかえる時に千引(ちびき)の岩を引いて追っ手を防いだといわれている場所。古事記では、黄泉比良坂は、伊賦夜坂(いふやさか)を指すと云う。
「出雲国風土記」の意宇(おう)郡の条に、「伊布夜の社(いふやのやしろ)」の名が見え、「延喜式」に「揖夜(いふや)神社」があることから、揖夜は相当ふるくからある地名。揖夜神社は、現在も島根県八束郡東出雲町揖屋に存在する。 伊邪那岐の命が、伊邪那美の命の殯斂(もがり)の場所から、九州に向かって逃げ返るとき、黄泉比良坂(伊賦夜坂)を通過したということは、伊邪那美の命のいくつかの墓所の候補地のうち、峠之内の比婆山が、位置関係としてもっともふさわしいことを裏付ける。他の候補地では、いったん後戻りしたり、かなり、遠回りをしてから、九州に帰ることになってしまう。(地図参照) ■宇迦の山(うかのやま) 大穴牟遅(おおなむじ)の神(大国主の神)が、須佐の男の命の娘である須勢理姫(すせりひめ)と仲よくなり、須佐の男の命が出す試練を切り抜けて、須勢理姫をつれてかけおちをした時、須佐の男の命が、根の堅州国から、追いかけていって、黄泉比良坂(伊賦夜坂)まで来たときに、逃げる大国主の命たちに、「宇迦の山のふもとに、宮殿をたてて住め」といったという。 『出雲風土記』の出雲郡の条に、宇賀郷や、宇加の社の記載がある。宇迦は、古くからある地名であり、現在の、出雲大社近辺の地名である。 「根の堅州国」は、伊賦夜坂をさかいにして、宇加の山の反対側にあるとみられる。 『古事記』『日本書紀』の記述によると、「根の堅州国」は「黄泉の国」と重なり合うような記述になっている。 ■根の堅州国(ねのかたすくに)はどこか? 須佐の男の命の住む国。『古事記』で須佐の男の命は「死んだ母(伊邪那美の命)の国である根の堅州国に行きたい。」と言っている。『日本書紀』では伊弉諾(いざなぎ)の尊が「お前の所行は、はなはだ無頼である。したがって、天上に住むべきではない。また、葦原の中国(あしはらのなかつくに)にいるべきでもない。すみやかに、底つ根の国へ行け。」と言った。 これによると、根の国は、葦原の中国のなかに含まれない。葦原の中国は出雲方面とみられるが、根の国はさらに、その東のようにみえる。そして葦原の中国と根の国とのさかいが、黄泉比良坂(伊賦夜坂)と考えられていたようである。 吉田東伍氏は、『大日本地名辞典』のなかで、
大ざっぱにいって、出雲の国の西の部分にあたる出雲郡のあたりが、葦原の中国の中心地域、出雲の国の東の部分の島根郡から、伯耆の国の夜見島にかけてのあたりが、根の国、黄泉の国となりそうである。 |
須佐の男の命伝承 |
■須佐の男の命
古事記では須佐の男の命は「出雲の国の肥の河上、名は鳥髪という地に天下った」と記している。櫛名田比売(くしなだひめ)をたすけるため、八俣(やまた)の遠呂知(おろち)を退治する。 鳥髪は島根県仁多(にた)郡横田町大呂(おおろ)と島根県日野郡多里村とのさかいにある船通山の古名とされている。肥の河は、いまの斐伊川である。また、大呂という地名は、大蛇(おろち)と関係があるといわれる。 日本書紀でも「素戔の嗚の尊は、その子の五十猛の神をひきいて、新羅の国から埴土でつくった舟に乗り、東にわたって、出雲の国の簸の川上にある鳥上の峰に到った。そこに人を呑む大蛇がいた。」とある。 現在、横田町には、五十猛の命を祭った、鬼神(おにがみ)神社や伊賀多気(いがたけ)神社が残っており、鬼神神社には、五十猛の命の陵といわれるものがある。また、須佐の男の命と五十猛の神がのった船の化石の伝承もある。 このあたりが、須佐の男の命が、その子五十猛の命をひきいて天下った場所の伝承地とみられる。 ■たたら製鉄 最近、島根県仁多郡の横田町の大呂で「たたら製鉄」のため「たたら炉」を復活させた。 この地域は八岐(やまた)の大蛇(おろち)伝承のあるところである。 「ヒ(けら)」と呼ばれる約3トンの鉄の塊をつくるのに、十数トンの炭と10トンの砂鉄が必要となる。江戸時代の記録によると60回操業していたある炉では、年間約800トンの炭を使ったという。 これだけの炭を生産するためには、約60ヘクタールの山林が必要になる。これが毎年となるとまさに環境破壊となる。 ■八岐の大蛇伝承と製鉄 「八岐の大蛇伝承」が、製鉄と関係するという説は、つぎのようなことを根拠にしている。
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