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第200回
出雲神話と伊邪那美の命伝承

 

 出雲神話と伊邪那美(いざなみ)の命伝承

■ 出雲神話は次の3つの伝承からなる。
  1. 伊邪那美の命伝承 
  2. 須佐之男の命伝承 (次回のテーマ予定)
  3. 大国主の神伝承  (次次回のテーマ予定)
注: 今回、伊邪那美の命伝承についての説明内容が多かったので、予定されていた須佐之男の命伝承は、次回に延期です。

■ 伊邪那美の命の死因

古事記によると
この子(火の神 迦具土:かぐつち)を産みたまひしによりて、みほと(女陰)を焼かれて病み臥やせり。
昔は、出産後の母親が、産褥熱(分娩後、産道の創傷から連鎖球菌等が侵入して起る発熱性の疾病)などにより亡くなる場合が多かった。古事記の記述は、伊邪那美の命が 産後の障りで、なくなったことを伝えている可能性が高い。

■ 伊邪那美の命の墓所の所在地


古事記によると
その神避(かむさ)りましし伊邪那美(いざなみ)の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺の比婆(ひば)の山に葬りき。
比婆の山の場所については、つぎの六つの説がある。  
  1. 島根県能義郡伯太町(はくたちょう)横屋の比婆山

  2. 島根県能義郡広瀬町梶福留(かじふくとめ)の御墓山

  3. 広島県比婆郡の比婆山

  4. 島根県八束郡八雲村日吉の神納山(かんなやま)

  5. 島根県八束郡鹿島町佐陀(さだ)宮内の佐太神社の地

  6. 島根県仁多郡仁多町の猿政山(さるまさやま)
次のような理由で1.の伯太町横屋の比婆山が有力。
  • 出雲と伯伎の国境の山に葬られたとする古事記の記述に合う。

  • 比婆の山は能義郡峠之内(たわのうち)にあるとする伝承がある。1の比婆山は峠之内にある。

  • 付近の地名「日次(ひなみ)」は古くは「日波」とも書かれ、「ひは」と読まれれば「比婆」に通じる可能性がある。

日本書紀の一書に、伊邪那美の命が、紀伊の国に葬られたとの記述がある。
一書にいう。伊奘冉(いざなみ)の尊は、火の神(カグツチ)を生んだときに、焼かれてなくなられた。
それで、紀伊の国の有馬村に葬った。

土地の人は、この神の魂を祭るには、花のときは花をもって祭る。
また、鼓、笛、幡旗を用い、歌い舞って祭る。
これは、紀伊の国熊野の花窟(はなのいわや)神社の祭礼のことといわれている。
しかし、伝承によれば伊邪那美の命は、おもに出雲地方で活動しているのであるから、『古事記』の伝えるように、出雲の国と伯耆の国の境に比婆山に葬られ、のちに、紀伊の国の熊野でも祭られるようになったのであろう。



出雲と紀伊には、つぎのように、共通の地名が多くあり、古い時代から、密接な関係にあったと考えられる。

表1 相似地名の対比(出雲:紀伊)1
出雲地方 熊野 美保 粟島
(伯耆)
速玉神社
(意宇郡)
伊達(いだて)神社
(意宇郡)
加多神社
(大原郡)
紀伊 熊野 三穂 粟島
(名草郡加太神社の別名)
早玉神社
(牟婁郡)
伊達(いたち)神社
(名草郡)
加太神社
(名草郡)

表2 相似地名の対比(出雲:紀伊)2
出雲地方 日の御崎
(岬の名)
比田
(能義郡の村の名)
出雲郷
(能義郡の村の名)
紀伊 日の御崎
(岬の名)
日高
(日高郡)
出雲(村)と出雲崎(岬)
潮ノ岬半島にあり

表3 出雲と紀伊の類似地名
表1は、本居宣長による。
表2は、地名学者、鏡味完二氏による。
表3は、安本先生による。

『古事記』には、大国主の神が、兄弟から迫害されたときに、紀伊の国の大屋毘古(おおやびこ)のところへ逃げたという伝承がある。

大屋毘古は、須佐之男の命の子供である五十猛(いたける)の命の別名とされる。

出雲と、紀伊は、古くから人の交流があったとみられる。それにともなって地名や、祭りなどもうつったのであろう。



 

 黄泉の国とは、何を示すか

古事記の記述
ここに、伊邪那岐(いざなぎ)の命は、その妻の伊邪那美の命にあいたいと思って、黄泉の国に追って行った。 伊邪那美の命が殿の縢(ちぎり)戸から出むかえた。

伊邪那岐の命がいう。
「いとしい私の妻よ。私とお前で作った国は、まだ作りおえていない。帰ってきて欲しい。」

伊邪那美の命が答えていう。
「もっとはやく来ていただけなくて、残念だわ。私は、黄泉戸喫(よもつへぐい:黄泉の国で煮たきしたものをたぺること)をしてしまったの。だけど、いとしいあなたが、おいでになったの ですから、かえりたいと思います。しぱらく黄泉の神と議論いたしましょう。私をみないで下さい。」
こう言って、その殿のうちにかえり入った。

伊邪那岐の命は、大変長いあいだ待った。

しかし、待ちかねて、左のみずらに刺していた湯津津間櫛(神聖な櫛)の男柱(櫛の両端の太い部分。古代の櫛は、爪形のたて長の櫛で、男柱は 長い)をひとつ取り欠いて、一つ火をともして、入って見たところ、蛆が寄り集って音をたててうごめき、頭には大雷がおり、胸には火雷がおり、腹には黒雷が おり、陰には拆雷がおり、左の手には若雷がおり、右の手には土雷がおり、左の足には鳴雷がおり、右の足には伏雷がおり、あわせて八種の雷神がいた。

伊邪那岐の命は、驚きおそれて逃げかえった。

はじをかかされた伊邪那美の命は、はじめ、泉津醜女(よもつしこめ)など に追わせるが、ついには、自分で追ってきた。

伊邪那岐の命は、黄泉の国と現世のさかいの、黄泉比良坂(よもつひらさか)に、千引(ちびき)の岩(千人で引くほどの大きな岩)をおき、伊邪那美の命に、事戸(ことど:夫婦の仲を絶つことば)を言いわたしたという。
「日本書紀」にも、ほぼ同じ話が記されているが、一書に、
「伊弉諾(いざなぎ)の尊は、その妻にあおうとして、殯斂(もがり)のところに行 った。」
とある。

また、平安時代の初期にできた『旧事本紀』には、
「伊弉諾(いざなぎ)の尊は、その妻伊奘冉(いざなみ)の尊にあいたく思って、黄泉の国に追っていった。すなわち殯斂(もがり)のところにいたった。」 (「陰陽本紀」)
とある。

黄泉の国訪問が、何を意味するかについては、つぎの三つの説がある。
  1. 横穴式石室をおとずれたことをさす、とする説(高橋健自氏、後藤守一氏)

    後藤守一氏は、この説話が出来たのは6、7世紀のことで、その当時におこなわれていた、横穴式石室の状況を描いたとした。

  2. 喪屋のなかを見たことをさす、とする説(斉藤忠氏)

    『日本書紀』『旧事本記』などに「殯斂(もがり)のところにいった」と記していることから、伊邪那岐の命の黄泉の国訪問の説話は、遺骸を仮に安置した喪屋をあらわすとした。

  3. 洞窟を訪れたとする説(森浩一氏)

    三重県熊野の花窟(はなのいわや)神社などが、巨大な岩陰をご神体としているように、黄泉の国は、海岸近くの海食洞窟の一種であろうとした。(「黄泉の国の世界」月刊Asahi1992年2月号)
斉藤忠氏の、喪屋説が有力と思える。  

理由は、
  1. 『日本書紀』などに、「殯斂(もがり)のところ」と、明確に記されている。墓に葬られたあとの状態を記しているのではない。そのまえの、棺におさめ安置されている状態を記しているとみられる。

  2. 『古事記』『日本書紀』をすなおに読むかぎり、4世紀や5世紀などよりも、もっとまえのこととして、記されている。横穴式石室を備える古墳が出現する時代よりも、まえのことが記されている。

  3. 次に述べるように、「殿騰戸」の表現が、喪屋の上げ戸と解釈できることとも整合する。
 

 「殿騰戸」とは何か

『古事記』に、つぎのような記述がある。
伊邪那岐の命は、妻の伊邪那美の命を亡(うしな)い、黄泉の国 まで、あいに行く。 すると、伊邪那美の命は、「殿の縢戸」より出てきたとい う。
「縢戸」は、「とざしど」「ちぎりど」「くみど(組み戸)」 と読まれたりする。
また、「縢」は、「騰」の誤字とみて、「あ がりど」「あげど」「とをあげ」などと読まれたりする。

本居宣長も、解釈に困ってしまったらしく、『古事記伝』の なかで、まったく要領をえない説明をしている。
そして、現代の多くの学者も 、本居宣長の説明の範囲をでなかった。

「殿騰戸」とは、つぎのようなものをさすとみられる。

奈良県北葛城郡河合町の佐味田(さみた)宝塚古墳から出土した有名 な「家屋文鏡」に、図1のような竪穴式の建物の絵が書かれている。

竪穴式の建物では、地表から数十センチ垂直に掘りさげて、床面をもうけ、その上に屋根をつくる。

したがって、この竪穴住居から外に出るときは、下から上 におしひらく「上げ戸」を用いるのである。

「家屋文鏡」には、「上げ戸」を開き、そこにつっかい棒をしている状況が描かれている。

『古事記』の記述は、喪屋が、「上げ戸」をそなえた竪穴式建物の形式であったとことを思わせる。

『旧事本紀』でも、
「伊弉諾(いざなぎ)の尊は、その妻伊奘冉(いざなみ)の尊にあいたく思って、黄泉の国に追っていった。すなわち殯斂(もがり)のところにいたった。」
とある直後に
「殿の縢戸」より出てきた
との語句があり、喪屋が「上げ戸」をそなえた竪穴式建物であるとのイメージを、はっきりと持って記述されたと思われる。 



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