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第199回
邪馬台国問題はなぜ解けないか

 

 安本先生の論証の方法について 

■ 仮説的唯物論の立場 = 安本先生の立場 

外界は、人間の意識とは独立して存在すると仮定する。
この仮定によって、さまざまなことが矛盾なく説明できるなら、仮定を正しいと認めよう。

たとえば、「邪馬台国は存在した」と仮定する。これによって、考古学的、文献的に、さまざまなことを 説明できるなら、この仮定を正しいと認めよう。

あるいは、「邪馬台国が九州にあった」とする仮説と、「邪馬台国が畿内にあった」とする仮説を比較する。 さまざまなことを、よりシンプルに説明できる仮説を正しいと認めよう。

  そのほかの立場
  • 現象学的な立場
    外界は人間が認識して初めて存在を確認できる。
    たとえば、人類が滅亡したら、外界の存在は確認できない。人間と切り離して、確実に外界が存在するは言えない。

    この立場は、人間の意識を基礎とするので、意識された内容が正しい保障がないし、人によって見解が分かれてしまう。議論が定まらない可能性がある。

  • 素朴実在論、弁証法的唯物論の立場
    外界が、意識から独立して存在する。
    人間が意識しようとしまいと、外界は存在する。

    この立場は、外界が、人間の意識とは無関係に存在することの証明ができない。存在すると主張することは信念の表明でしかない。議論が硬直化する可能性がある。


■ 数字で表現

数字で表現することのメリット
  • 一意性、客観的なものさしとなる。
    数字を使わない表現 先日の新聞 きょうはとても暑い。
    数字を使った表現 2月9日の夕刊 今日の気温は摂氏32度

  • 数字は序列がはっきりしている。
    とても偉い。すごく偉い。これではどちらが偉いのかわからない。
    「兵隊の位でいえば、・・・大将?少将?」山下清画伯のように、序列を明らかにすると、はっきりする。

  • 形容詞の数が少なくてすむ。感覚的経験の範囲を超える。
    零下235度。 2000度。など、日常経験を越える世界は、数字なしでは表現困難。
     
  • 数学の論理の上にのせられる。
    数学的な演算や、統計などを利用して、推論そのものを客観的に行いうる。
古代史の問題といえども、可能なものは数字で表現する。 数字で表現できることが限られているわけではなく、工夫しだいで、さまざまなことを数字で表現できる。

たとえば、 など。数字で表現すれば、図表をえがいたり、統計的な判断を行うことができる。データから、意味のある情報を抽出できる。


■ 統計的手法の活用

多くのデータから、帰無仮説をみちびいて、検定により正誤を判断し、この結果により、さらに論証を 進める統計的手法は、演繹型論証と帰納型論証のミックス。

主観のはいる論証方法から、抜け出すには、統計学の客観的手法が有効。

たとえば、サイコロを5回ふったら、5回とも「1」の目が出た。
 Aさん  普通はそんなことが起きるはずがない。インチキだ。
 Bさん  ごくまれには起こり得る。かならずしもインチキではない。
客観的な判断の物差しがないと、結論が出ない。


統計的手法では、このような問題をどのようにあつかうのか?

だれかが、十円玉を十回なげて、十回とも表をだしてみせるなら、私たちは、きっと、その十円玉には、なにか、インチキなしかけがあるにちがいないと判断する。
しかし、十円玉が、偶然十回つづけて表になることは、けっしておこりえないことではない。ただ、そのようなことがおこるのは、偶然では、きわめてまれなことであるから、インチキにちがいないと判断するのである。

じっさいに計算してみると、十円玉が十回つづけて表が出ることも、ざっと、千回に一回ぐらいの珍しさで、偶然おこりうるのである。
このようなばあい、インチキがあると判断するときには、千回に一回ぐらいの割合で、判断を誤る危険がともなう。この危険の率を「危険率」という。

たとえば、天照大御神の単独で行動する率が、天の岩屋戸事件のまえとあととで異なっており、その ちがいが「1パーセント水準で有意」であるというのは、そのようなちがいが偶然によっておこる率は、 100回に1回の割合(1パーセント)よりも小さいことを示している。
すなわち、このようなちがいは、 偶然によるものではないと判断しても、その危険率は、1パーセント以下であることを示している。

ふつう、危険率が、5パーセント以下のぱあい「有意」という。そして「このようなちがいは一応 偶然によるものではない」と判断をする約束にしている。
このように「有意」かどうかをしらべるこ とにより、ある判断を行なったさい、その判断の確からしさを、数字で知ることができる。

 講演会のようす

 いつもよりせまい会場だったので、補助席を設置。
それでも足りず立って聴講。おつかれさま。


 

 邪馬台国問題はなぜ解けないか?

邪馬台国問題についての議論は、なかなかかみ合わない。学者たちは、 たんに自説を主張するだけで、争点についての科学的、客観的な議論が成立していないように思える。

特に、邪馬台国畿内説を説く、多くの学者の議論のスタンスに、以下のような問題があると思われる。
  • 客観性のない議論

    「私はこう思う」式の主観による議論の連続。客観的な根拠や、ものさしを示さないで進められる議論。
    これでは、何でもいえてしまう。また、決着のつくはずがない。

  • すりこみ(先入観)

    畿内説を説く学者は、畿内説がすりこまれているようである。 遺跡や遺物を、最初から畿内説で解釈する立場をとる。さまざまな解釈の可能性を吟味して、もっとも適切な解釈を選択するといった、客観的な見方で見ていないようである。
    左の絵をしばらく見てから中央の絵を見ると、若い女性に見える。右の絵をしばらく見てから中央の絵を見ると、老婆にみえる。
    中央の絵は、見方によってどちらにも判断できるが、事前にすりこみがあって、先入観を持ってみると、すりこみに引きづられてみえる。
    畿内説の学者もこのようになっていないだろうか。

  • 多くの考古学者は、津田左右吉氏の論証を根拠に、記紀の神話をみとめない。

    次のコラムの津田左右吉氏の文章を、途中まででも読んでみていただきたい。

    まるで、随筆のような、主観的見解が、延々と記述されている。
    であろう」「かも知れぬ」「なかろうか」「思はれない」「あるまいか」「ようである」というように、具体的な考証を欠いた憶測のことばがきわめて多いのである。 論理性、客観性にとぼしく、とても、よりどころにできる内容ではない。

    わが国の古代について、津田左右吉氏のみちぴきだされた結論は、ほとんどすべてが、このよう な方法によって得られている。

    この種の論証を根拠として、

    として、多くの考古学者が、記紀の神話をかえりみないのは、大いに疑問である。


 

 コラム 津田左右吉氏の論述の例

「津田左右吉全集第一巻』(岩波書店刊)の第三編「神代の物語」の第十八章、「神代史の潤色 中」より

神の性に論及したついでになほ一言すべきことがある。それは日の神を女性とするのが初からのことであったかどうか、といふ問題である。

古事記には日の神の性を明かに示すやうな文字は少く、從って女神としなければならぬような記事はまれである。いかめしい武装は、勿論、男の姿である。「御髪を解かして御美豆羅に纏く」とあるのも、女子の男装と解釈しなければならぬことではない。

其の他「忌服屋に座して神御衣を織らしむ」といふのも、日の神自身に御衣を織られたのではなく「天衣織女」が別にあるのであるからこの忌服屋は「大嘗をきこしめす殿」と同じく、またそれと共に、日の神が 神を祭られるに必要な設備として挙げられたのみであり、日の神が女性であることを示すものとは解せられぬ。

日の神が田を作られるのも、斯ういふ物語の作られた時代の文化の状態に於いては、男性とし てふさはしいことであらう。

要するに日の神に關する古事記の記載には女神らしい特徴が明かに見えない。 女性としての感情も全く現はれてゐない。

ただ日の神がスサノヲの命に対していはれたといふ「なせの命」は女性のことばらしく思はれる。セは女に対する場合の男の稱呼だからである。だから、日の神を女性とする見かたが古事記に現はれてはゐるが、それは上記の種々の話とは不調和なものである。

しかし書紀の本文では、スサノヲの命のことぱとして「與姉相見」、「阿姉翻起嚴顔」、「請興姉共誓」、などとあり、忌服殿についても「天照大神方織神衣齋服殿」と書いてあって、明かに日の神を女神とし、またみづから衣を織られるやうにしてある。

また書紀の注に幾つもの「一書」にも、日の神をスサノヲの命の姉とし日の神自身のことばとして「吾雖婦女何當避乎」とも書いてある。神功紀のアマサカルムカツヒメも(やや明白でない点はあるが)やはり日の神のことであらう。さすれば書紀編纂の時に日の神が女性と考へられてゐたことは明かであらうし、古事記にも上記の「なせの命」の語のあるのを見ると、それはかなり前からのことかも知れない。

ただ古事記には女性らしい行動が記してないの みである。子を生む話が古事記に限って「女なれば心清し」となってゐる理由は前に述べて置いたが、 或はこのことを考へての改作ではないかとも疑へぱ疑はれる。

ただ一考すぺきは、古事記に於いて、日 の神はイサナキの神が左の目を洗つた時に、月の神は右の目を洗つた時に、生まれたとせられ、書紀の 注の「一書」には、日の神は同じ神が左に白銅鏡を持つた時に、月の神は右にそれを持つた時に、生ま れたとしてあることである。

左右の位置と男女の性との關係について他の例を見ると、イサナキ・イサ ナミ二神の國土を生んだ話には、男神は左より女神は右より柱を旋つたとあり、書紀の注の「一書」に は、初め女神が左から旋つて不吉であつたから、改めて男神が左から旋つたことになつてゐるので、こ れで見ると、此の話の述作者は左と男性とを聯想したらしいが、日の神の化生が左の位置を取ってゐる のも、やはり同じ思想から出てゐるのではなからうか。

もしさうとすれば、日の神は上記の物語に於い ては男性とせられてゐる、と見なげればなるまい。

またスサノヲの命と子を生む時のウケヒが、古事記 の一説を除けば、すぺての本に男を生まば心正し女を生まぱ邪なりとしてあるが、日の神が女神なら ば、こんなウケヒの詞があらうとは思はれない。

それから日の神が生殖によらずして子を生むことにな つてゐるのも、女性でないからのことではあるまいか。男神たるスサノヲの命と対等の位置に立ち、全 く同じ方法、同じ態度、で子を生まれたとしてあるのを見るがよい。日の神が女性であるならば、こん な話はできなくはなからうか。

かう考へて來ると、日の神は或は女性ともせられ、或は男性の地位にも 置かれてゐるやうであつて、甚だ曖昧である。これは何故であらうか。

そこで先づ考ふべきは、日の神の性は其の自然的基礎である日(太陽)の性であるかどうか、といふ ことである。

世界の諸民族の説話などを見ると、日が男とせられてゐる例は固より多いが、女となって ゐることもまた少なくない。日を神とする場合に於いても、種々の理由から或は男となり或は女となつ てゐる。

ところが我が上代人の間には、自然現象としての日そのものを主題とする説話が無い。少くと も文献の上にそれが見えない。だから此の点からは、日に性があるとせられてゐたか、もしゐたならば それが男女の何れであったか、を推考する材料が殆ど無いといつてよい。

古事記の応神の巻に出てゐる アメノヒボコの物語に、女が日光にほとを照らされて懐妊したという話があつて、これで見ると日が男性 らしく考へられてゐるやうでもあるが、これは其の話の起源が外國にあるらしいから、すぐにそれをわ れわれの民族の思想として取扱ふことはできないかも知れぬ。

またこれは所謂感生説話の一種であつ て、日そのものの性に重きが置かれてゐるのでもない。しかし感生説語であるとしても、女が日光によ つて懐胎したとすれば、少くとも此の説話の上では、それを男性の側に置いて見る傾向はあつたとしな げればならず、さうしてまたそれが外國傳來の物語であるにしても、われわれの民族がそれを受げ入れ たのは、それに反封の思想を上代人が有つてゐなかつた一証として、見ることができないでもなから う。が、もとより強い証拠にはなりかねる。

また日は月と対称せられ、その性も反対になつてゐるのが 普通の例であつて、多くの民族の説話に於いても、或は夫妻、或は兄妹、となってゐる場合も少なくな く、從ってその月が或は男性であり或は女性であるのであるが、われわれの民族の固有の思想に於いて は、月の性もまた明かでない。

萬葉には「月の桂男」とか「月人男」とかいふ語があるが、これはシナ 思想に淵源があるとしなげればなるまい。シナの陰陽思想では、日が陽、月が陰であり、從つて性にあ てると月は女性となるのであり、説話の上に於いても嫦娥の如く女性に結合せられた例もあるが、また 一方では男性をも斥けず、月中の桂樹を常にきってゐるといふ呉剛の話が、虞喜の安天論にある。月の 桂男、從ってまた月人男、はここから來てゐるのであらう。さすれば、月を男性的に見ることはわれわれの民族に固有のものではないが、その他に於いても月に性があるやうに思はれてゐた形跡は無い。 從つて此の点から日の性を推考することもできぬ。

それから宗教的に考へると、上に説いた如くわれわれの上代の宗教思想に於いて、日が神としてまだ 人の性質を與えられてゐなかつたとすれぱ、それに性のあるはずが無いのである。

民間信仰に於げる霊 物なり精霊なりが性を具へてゐないこと、神代史の上に於いてそれが人の性質を與へられるやうになる と、その中には性をつけられたものもあるが、さうなつてもなほ性の無い神の多いことを、参考するが よい。

天体についていふと、星の名をカガセヲと称することが書紀に見えてゐるが、この名も民間信仰 には關係が無く、物語の上で人の性質を與へられたのみであつて、それが男性になつてゐるのは、多 分、星の光を恐れたからのことであらう。

また神代史上の月の神としてのツクヨミといふ名に性を示す ことばが無いのを見ると、民間信仰に於げる神(霊物、精霊)としての月にも性はついてゐなかつたこ とが推測せられる。 さすれば日そのものとしての日の神もまた同様であったことが、此の点からも知ら れよう。

ただ古事記にはナツノメの神をナツタカツヒの神の一名としてあるが、同じ場所にアキヒメと いふのもあるから、この「メ」は女の意らしく、従ってこれは夏の日を女と見たやうに聞える。

しかし ナツノメはオホトシの神の裔、ワカトシの神の妹で、農作と關係があるやうに思はれたらしいのを見る と、稻の實のるさまなどから夏に女性的意義を寓したのではあるまいか(アキヒメの名もまた穀物の生 産といふことに由來があらう)。さうして夏を夏の日(太陽)と聯想して、ナツノメをナツタカツヒに 結びつけたので、夏の日を女性としたのではなからう。(穀物の生産と女性とを結合する考へ方はかな り原始的なものであつて、他の民族にも其の例は少なくないから、これらの神の名などもまた古くから 語り傳へられてゐたのではなからうか、といふ疑問も生ずるが、宗教的意義を有する神に人の性質を與 へることが新しいとすれぱ、単純にさう決めてしまふわけにはゆかぬ。)

かう考へて來ると、日の神に 性のあるのもまた日そのものもしくは民間信仰に於げる神(霊物、精霊)としての日に於いてではなく して、神代史上の皇祖神としてのことと考へられる。

然らば皇祖神としては日の神が男性であるべきか女性であるべきか、それが問題である。
そこで先づ 皇祖といふことを考へるに、家々の租先が男として記されてゐることを思ふと、皇室の御祖先もやはり 男神であるのが自然のやうである(ウズメの命はサルメの君の祖となってゐるが、これはいはゆる五伴緒の祖先を岩戸がくれの物語の神々に結合しようとしたからのことであるから、一般の例とはならぬ)。

歴代の天皇の性を見ても女性のは特殊の事情によつて即位せられた極めて僅少の例外であり、而もそれ は推古天皇にはじまるのであるから、此の点から見ても御祖先は男性であるべきではなからうか。 御祖先もまた天皇であられるからである。皇祖神としての日の神に天皇が反映してゐることは、上に既に考 へておいた。

それから一般的にいふと、氏族制度の根幹をなす家々の長は男性であるから、その制度の 頂点にある、或はその中心たる、皇室の家長として考へらるべき天皇にも、從つてまたその御祖先に も男性がふさはしく思はれる。
神功皇后の物語ができても、その物語の上で偉大なる事業をしたこと になっている女性が天皇として語られなかったことを考へるがよい(新羅征討の物語の主人公を皇后と したことには別の理由があるにしても)。

なほタカミムスビの命を日月二神の祖としてある顕宗紀の説話も、顧慮せらるべきである。タカミムスビの命は、カミミムスビの命に対する地位、またイヅモ平定、皇孫降臨の物語に於ける行動から見ると、それが物語の上の人物とせられた場合には、男性らしく 考へられてゐたやうである。少くとも女性ではない。

もつとも魏志倭人傳の女王卑彌呼の如き實例もあ り、景行紀及ぴ風土記の物語に女の土蜘蛛が多く記されてゐるやうに、女性が政治的君主もしくは地方 的首長として想像せられてゐることもあり、また古事記の物語にミオヤとしてあるのは何時でも母のこ とであり、さうして記紀の種々の物語や系譜によると、子に対する母の権力はかなり強大であつて、必 しも父に劣つてはゐなかつたから、これらのことから推測すると、皇祖神が女性であつても、さして怪 しむには足らないやうであるが、しかしミオヤは母のことであつて、家の祖先をいふのではなく、三世 紀に於ける卑彌呼の例は、國家が統一せられて我が皇室の権力の確立した時代、氏族制度の整頓した時 代、の思想を推測するには、やや縁遠い感じもせられる。

のみならず、女性たる卑彌呼が君主の地位に ゐたのは、相続上の特殊の事情から來たものらしく、其の死後に一たび男王が立つたといふことから も、それは推測せられるのではあるまいか。

ともかくも、いはゆる女王國の君主が常に女性であつたと は考へ難い。

さうして歴代の天皇が事實上、男性であられる以上、物語に現はれてゐる土蜘蛛などの例 は、皇室のことを考へるには、さして重きをなすぺきものではあるまい。物語は要するに物語だからで ある(第二篇第二章附録第二参照)。勿論、神功皇后の物語があつて、それが仲哀天皇の物語としては 語られなかったこと、さうしてそれには何等かの理由があるべきはずであることは、考慮せられねばな らぬが、皇后は皇后であつて、天皇として語られなかつた貼が、ここでは重大な意味を有するのであ る。

なほ天皇の政治的君主としての地位には神を祭るといふ宗教的任務が伴つてゐるが、此の宗教的任務は性には關係がない。 一般的に考えても女性が神人の媒介者となるのは世界に普通のことであるが、 しかしまた男性がその地位にあることも勿論であって、さういふ男性のものが政治的権力を有するようになる例も、多くの民族に於いて見られるところである。かの卑彌呼の宗教的地位も、女性の故であつ たと考ふぺき明徴は無いやうである。

が、それはともかくも、かういふ地位を有せられる我が國の天皇 が通常男性であられたことは、嚴然たる事實である。 だから天皇といふ観念を基礎として形成せられた 皇祖神に、もし性がつけられてゐたとすれば、それは男性であつたと見る方が、妥當ではなからうか。 女性としては解しがたいことが多い。


この問題については、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋の四氏の校注された『日本 書紀上』(岩波書唐刊、日本古典文学大系)に、つぎのようにのべられている。
「皇祖神は最初男性であったのを女帝推古天皇の代に女性に改めたのであるとする推測説が荻生 徂徠・山片幡桃の著書に見え、津田左右吉もその結論を支持しているが、この神の原始的な名称 であったと思われる、オホヒルメノムチが女性を意味するとすれば、やはり最初から女性と考え られていたのであろう。」(同書554ぺージ)

確固とした根拠なしに、主観的な議論を展開すれば、天照大御神を、男性にすることもできてしまう。 この種の論述をよりどころとして、歴史を描こうとするのは、まさに砂上に楼閣を築くことではないのか。

津田史学からの脱却なくしては、建設的な歴史の議論はありえない。


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