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第199回
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安本先生の論証の方法について
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■ 仮説的唯物論の立場 = 安本先生の立場
外界は、人間の意識とは独立して存在すると仮定する。 この仮定によって、さまざまなことが矛盾なく説明できるなら、仮定を正しいと認めよう。 たとえば、「邪馬台国は存在した」と仮定する。これによって、考古学的、文献的に、さまざまなことを 説明できるなら、この仮定を正しいと認めよう。 あるいは、「邪馬台国が九州にあった」とする仮説と、「邪馬台国が畿内にあった」とする仮説を比較する。 さまざまなことを、よりシンプルに説明できる仮説を正しいと認めよう。 そのほかの立場
■ 数字で表現 数字で表現することのメリット
たとえば、 など。数字で表現すれば、図表をえがいたり、統計的な判断を行うことができる。データから、意味のある情報を抽出できる。 ■ 統計的手法の活用 多くのデータから、帰無仮説をみちびいて、検定により正誤を判断し、この結果により、さらに論証を 進める統計的手法は、演繹型論証と帰納型論証のミックス。 主観のはいる論証方法から、抜け出すには、統計学の客観的手法が有効。 たとえば、サイコロを5回ふったら、5回とも「1」の目が出た。 Aさん 普通はそんなことが起きるはずがない。インチキだ。 Bさん ごくまれには起こり得る。かならずしもインチキではない。 客観的な判断の物差しがないと、結論が出ない。 統計的手法では、このような問題をどのようにあつかうのか? |
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だれかが、十円玉を十回なげて、十回とも表をだしてみせるなら、私たちは、きっと、その十円玉には、なにか、インチキなしかけがあるにちがいないと判断する。
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講演会のようす いつもよりせまい会場だったので、補助席を設置。 それでも足りず立って聴講。おつかれさま。 |
邪馬台国問題はなぜ解けないか? |
邪馬台国問題についての議論は、なかなかかみ合わない。学者たちは、
たんに自説を主張するだけで、争点についての科学的、客観的な議論が成立していないように思える。
特に、邪馬台国畿内説を説く、多くの学者の議論のスタンスに、以下のような問題があると思われる。
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コラム 津田左右吉氏の論述の例
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「津田左右吉全集第一巻』(岩波書店刊)の第三編「神代の物語」の第十八章、「神代史の潤色 中」より
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神の性に論及したついでになほ一言すべきことがある。それは日の神を女性とするのが初からのことであったかどうか、といふ問題である。
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この問題については、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋の四氏の校注された『日本 書紀上』(岩波書唐刊、日本古典文学大系)に、つぎのようにのべられている。 「皇祖神は最初男性であったのを女帝推古天皇の代に女性に改めたのであるとする推測説が荻生 徂徠・山片幡桃の著書に見え、津田左右吉もその結論を支持しているが、この神の原始的な名称 であったと思われる、オホヒルメノムチが女性を意味するとすれば、やはり最初から女性と考え られていたのであろう。」(同書554ぺージ) 確固とした根拠なしに、主観的な議論を展開すれば、天照大御神を、男性にすることもできてしまう。 この種の論述をよりどころとして、歴史を描こうとするのは、まさに砂上に楼閣を築くことではないのか。 津田史学からの脱却なくしては、建設的な歴史の議論はありえない。 |
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