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本文より一部抜粋
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巨大古墳の主がわかった!

巨大古墳の主がわかった! 古代天皇の在位年数と古墳の築造年代に関する独創的かつ精緻な仮説をもとに、これまで誰も明らかにできなかった巨大古墳の被葬者をあざやかにうきぼりにした。

すべての古代史家・考古学者への挑戦状!

     


前方後円墳研究の新パラダイム

第一章 巨大前方後円墳の築造は、天皇家の権威のシンポル

この本は、これまでの古代史の本と基本となる発想、つまりパラダイム(物の見方)が 根本的にといってよいほど異なっている。

これまでのわが国の古代史に関する多くの本は、つぎのような立場から書かれている。
「古代において、大和朝廷、すなわち、天皇家と他の豪族とでは、権カにおいてそれほど大きな格差はなかった。

各地に国造などの豪族が天皇家とは独立的に存在し、それらの豪族もそれなりの権力 をもって、巨大な古墳を残していた。権力は多元的であった。

天皇家がそれらの豪族をしだいに組織化して、天皇家の権力構造にくみいれて、氏姓制 度を確立していき、天皇が諸豪族の頂点に立つようになるのは、ずっとのちのことである」

私は、以上のようには考えない。

私は、「邪馬台国東遷説」の立場に立つものであり、つぎのように考える。
大和朝廷、つまり、天皇家は、邪馬台国の後継勢力であり、当初から、他の豪族にたい してほとんど圧倒的に近い政治的権力をもっていた。


その力の源泉は、主に二つあった。
一つは、伝統からくる力である。

中国の魏(西暦220-265年)によって承認され た、日本を代表する邪馬台国の後継勢力であり、宗教的、政治的な伝統をもつことからくる力である。

劉備玄徳は、漢王室の血をうけつぐという名目で義兵をあげた。古代中国において、「義」とは、しぱしぱ、伝統ある王室の立場に立つことであった。古代の日本でも、事情はそれほどかわらなかったとみられる。
 
大和朝廷のもつ力の、いま一つの源泉は、その政治システムからくる力である。

『魏志倭人伝』に、倭人は「租賦を収む。」と記されている。「租税をとる」というアイディアは、中国からきたものであろう。「国家」は、「租税をとる」ことによってはじめて、部族国家の域を脱する。強力な国家といえるものとなる。

租税によって、戦争にとくに適した屈強の若者たちを、「兵士」としてやというる。それらの兵士は、戦争だけに専念することができる。組織的な訓練をうけることとなる。
租税によって、最新銚の武器を購入することができる。最新鋭の武器をもち、組織的な訓練をうけた兵士によって、王朝を守らせることができる。武力によって、人民から租税を収奪することができる。
その租税によって武力を、すなわち国家権力を、さらに大きくすることができる。

アイヌは、最後まで部族国家の域を脱しなかった。組織的な徴税システムをもたなかっ た。このような部族国家では、鮭が川にのぽってくれぱ戦争を放棄して、魚をとらなけれぱならない。兵士は、日ごろは生産に従事しており、戦争のプロではない。戦争のための組織的な訓練を、十分にうけているわけではない。

徴税システムをもつ「国家」と「部族国家」とが戦ったばあい、長い目でみたぱあい、部族国家に勝ち目はない。

大和朝廷は、徴税を行うという新機軸の国家システムによって、比較的短い期間で、日 本列島を席巻していったとみられる。



『魏志倭人伝』は記している。

「其の(倭人の)俗、国の大人(身分の高い人)は、みな四、五(人)の婦あり。下 戸(庶民)は、あるいは、二、三(人)の 婦あり。」
三世紀倭人の伝統を引くのであろう。『古事記』『日本書紀』によれぱ、天皇は、多くの妻をもっている。そして、『古事記』『日本書紀』によれぱ、天皇家の子弟は各地に派遣されている。

皇子たちは、中央からの武カをともなって各地におもむき、その地に権威者としてのぞ み、その地で徴税システムをつくり、大和朝廷のさらなる発展に寄与することとなるのである。
中国の漢(紀元前202-西暦8年)およぴ後漢(西暦25-220年)では、王子がしぱしぱ各地の王に封じられている。大和朝廷がとった方法もそれに近い。

そして、各地におもむいた皇子たちは、各地で組織された兵をひきいて、中央の政府に も参画し、新たな征服戦にものぞむのである。
この本でとリあげてきた大吉備津彦の命、若日子建吉備津彦の命、丹波の道主の命、大彦の命、倭述述日百襲姫の命、日本武の尊、武埴安彦、筑紫の国造磐井(古文献では、大彦の命の子孫とされている)、武内の宿禰、荒田別などのすぺてが、天皇家の血をひく人にかぎられていることは、注目すべき事実である。
巨大前方後円項の築造は、大和朝廷、すなわち天皇家の、視覚にうったえる形での、権威のシンボルといえる。三角縁神獣鏡も、また、天皇家を象徴するものであった。これ についてくわしくは、拙著『奴国の滅亡』(毎回新聞社)を参照されたい。

おそらくは、各地にみられる巨大前方後円墳(とくに、墳丘全長100メートル以上ていどの古墳)のほとんどは、天皇家の血をひく人か、その妻の墓であろう。


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第二章 救いがたい迷い。「津田史学」からの脱却を!
現在、日本史を専攻された方がたのなかには、津田左右吉らの、19世紀的文献批判学 にもとづくコスモロジーに、頑迷といえるほど固執される方がたがすくなくない。

津田左右吉は、
主として、『古事記』『日本書紀』の記述のあいだのくいちがい、あるいは、相互矛盾をとりあげ、そこから記紀に記されている神話は、天皇がわが国の統一君主となったのち、第29代欽明天皇の時代のころ、すなわち、六世紀の中ごろ以後に、大和朝廷の有力者により、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、つくりあげたものである、と説いた。

端的にいえぱ、神話は、いわぱ机上でつくられた虚構であり、事実を記した歴史ではな い、とした。
このような津田左右吉の文献批判学の立場に立ち、第二次大戦後のわが国の日本古代史 学界では、『古事記』『日本書紀の伝える初期の諸天皇や、日本武の尊、武内の宿禰、神功皇后などは、実在しなかったとする説がさかんである。

しかし、津田左右吉の文献批判学は、19世紀、江戸時代の山片蟠桃の方法と結論とを、ほとんどそのままうけつぐものである。

西欧でも、山片幡桃が生きたと同じ19世紀に、山片幡桃と同じような、素朴な「合理 主義」にもとづく文献批判が芽をふいた。
19世紀的文献批判学は、文献の記述内容にたいして、批判的、懐疑的、否定的な傾向 がつよい。このような傾向がつよいため、19世紀的文献批判学は、史的事実の把握において、大きな失敗をくりかえす。

19世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想の所産であり、おとぎぱなしにすぎないとした。
しかし、この結論は、学者としてはアマチュアの、シュリーマンの発掘によって崩壊した。これなどは、19世紀的文献批判学の方法の限界を示す好例である。

19世紀的文献批判学は、一見合理的で、文献のくわしい検討を行っているようにみえ ながら、じつは、その方法をおしすすめるとき、史実構成のために有用な情報も、そうでない情報も、いっしょにして捨てさるという袋小路に、しばしば迷いこむ。
それは、19世紀的文献批判学が古代史構成のために有用な情報と、そうでない情報と を「客硯的に弁別する方法」を、本来、もっていないからである。
19世紀的文献批判学は、本来、研究者の主感的判断にもとづく議論なのであるが、研 究者たちは、主感的判断にもとづいて議論していることを意識していない。

東京大学の日本史学者、坂本太郎は、帝記(皇室の系図)を造作とする津田左右吉の見解を批判してのべている。
「帝紀は、古来の伝承を筆録したものである。古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。

第五代から見える外戚としての豪族が、尾張連、穂積臣など、天武朝以後、とくに有力な氏もないことは、それらが、後世的な作為によるものではないことを証する。

天皇の姪とか、庶母とかの近親を、天皇の妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも、古伝に忠実であることを証する。
帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」

(「古代の帝紀は後世の造作ではない」『季刊邪馬台国』26号)

坂本太郎は、具体的根拠をあげて津田学説を批判し、つぎのような言葉で、結んでいる。
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」

戦後、マルクスの唯物史観に立つ人ぴとが、『古事記』『日本書紀』否定の風潮に乗って津田史学を熱烈に支持するという傾向がみられた。
今日、一見合理的にみえるマルクス主義は、ひとつの大きな「ホラ話」であったことが、しだいにあきらかになってきつつある。

津田史学の成果といわれるものも、ひとつの「ホラ話」の体系である。

マルクス主義経済学が、近代経済学ほどの合理性と数量化の精神をもっていないのと同 じように、津田史学もまた、近代的合理性と数量化の精神とを欠いている。
津田の説だけが正しいとし、『古事記』『日本書紀』などの、わが国の歴史書の四世紀ごろの記載を疑えぱ、四世紀ごろのことについては、文献的にほとんどなにも議論できないことになってしまう。四世紀が、「謎の四世紀」になるゆえんである。
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第三章 津田史学のコスモロジーの外に身をおいてみよう
津田史学のコスモロジーの外に身をおいてみよう。

すると、四世紀に活躍した諸天皇が、皇族たちが、将軍が、女性予言者が、大物政治家が、地方豪族が、巨大な古墳と結びついて、生き生きとよみがえってくる。

巨大前方後円墳は、一定の規格のもとに築造されている。また、日本列島のかなリ広 い範囲にわたって、共通の文化的背景のもとに成立している。私は、その文化を、大和朝廷の文化と考える。

それほどの地方色もなく、前方後円墳は、大和を中心に四周に広がっていく。これは、大和朝廷の政治圏の拡大と重なりあうとみてよい。

思想的立場に立つのではなく、文献学的、考古学的事実を率直に直視する、津田史学と は別のコスモロジーがありうるのである。
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