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第202回
須佐の男の命伝承(その2)と草薙の剣


 八岐の大蛇伝承と製鉄の関係

1.「八岐の大蛇伝承」が製鉄と関係するとする諸説

 ■ 神話学者の大林太良氏の説

ヤマタノオロチ神話における宝剣出現という要素は出雲地方が上代の主要な鉄産地であり、名剣が出雲産であるという古い伝承、あるいは神話編纂者の頭にあった固定的観念の反映であることは、すでに多くの学者が考えていた。

事実、『出雲国風土記』にスサノオの子として都留支日子の命(つるぎひこのみこと)という神があげられているが、ツルギノミコトは出雲地方の鍛剣の業に従事した人たちの斎(いつ)まつった神で、スサノオがヤマタノオロチから宝剣を獲得したことの民間の記憶から生まれた伝承であろう。 (『日本神話の起源』 角川新書)

 ■ 古事記の研究家で千葉大学教授だった荻原浅男氏の説

肥の河の上流、鳥髪(鳥上)の風土と歴史、これを考察すると、神話の背景と意義がより一層鮮かになってくるような気がする。

この地は良質の砂鉄を含んだ花崗岩を産し、吉備地方から移動した鉄山族が住み、鉄器、鉄具を作っていた。砂鉄を採るには「かんな流し」といって肥の河の水を採鉱地に引いて来て、その水で切り崩した砂鉄を含む花崗岩を下流に流す。下流にはかんなの流水から砂鉄を沈澱させる水槽があって、そこで砂鉄だけを採って、廃砂は赤褐色の濁流となって斐伊川に注ぐ。この状況がヤマタノオロチ神話の大蛇の血の色の描写がぴったりくる。

砂鉄の精錬はタタラといわれるフイゴを用いた。かんな流しで採った砂鉄を木炭で強く燃やすのだが、父イザナギの「みそぎはらえ」によって鼻から生まれたスサノの命はこのフイゴの話に関連させることはできないだろうか。

またオロチは一般に水神または荒神として、稲作に大きな被害を与える洪水などは、この種の神の仕業と恐れられ、丁重に祭られたものだが、多面、採鉱冶金には風や水を水を必要とすることから、鉄山族にも、彼らを守護する雷蛇神として祭られたようである。(『古事記の世界』 秋田書店)

2.「八岐の大蛇伝承」を製鉄と結びつける諸説への批判

鉄について次の三つを分けて考える必要がある。
  • 鉄器の使用 使うだけなら鉄器の製作ができなくても、外国から輸入したものを用いることができる。弥生時代のごく初期の段階から、鉄器の使用は行われていた。
  • 鉄器の製作 製作だけなら、製鉄ができなくても、鍛造することができる。つまり輸入された鉄材料を真っ赤に焼いて、トンテンカントンテンカンと鎚で打って、必要な形にすることができる。
  • 鉄そのものの製造 鉄鉱石または砂鉄から、鉄をつくる。
従来、1、2番目は易しいが、3の製鉄は難しく、日本で製鉄が行われるようになったのは、六世紀にはいってからであろうといわれていた。
しかし・・
 
 ■ 製鉄は難しいか?

鉄の専門家で『鉄の考古学』(雄山閣出版)の著者である窪田蔵郎氏から次のような話を聞いた。

鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられがちです。しかし、かならずしも、そうとばかりはいえないのです。鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らないように、そっと根気よくたたいて石の部分をとばして行けば、900度ぐらいでも、鉄はできるのです。 

また、山本博氏は著書『古代の製鉄』(学生社)のなかで、銅の精錬に1100度の温度が必要なことなどと比べて、製鉄について次のように述べる。

・鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
・鉄鉱石は、熔解しなくても、700度から800度の熱度で可鍛鉄がえられる。
・鉄の抽出には、特定の送風装置は不要である。

略言すると土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できたわけである。 北九州の各地に散布する無文赭色の土器の硬度は、この程度の熱度、または、これよりやや高い熱度で焼いている。

これを裏付けるような光景を、黒岩俊郎氏が著書の中で紹介している。『たたら製鉄の復元とそのヒ(けら)について』(たたら製鉄復元計画委員会報告)からの引用で、明治の末ごろ、朝鮮での原始的な製鉄の実見記として

河原によく乾いた砂鉄を60センチほど積み上げ、その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていた。 (『たたら日本古来の製鉄技術』 玉川大学出版部1976年刊)

わりに簡単、かつ原始的な方法によっても、製鉄はできるのである。


 
 ■ 製鉄の行われたのは6世紀からか?

広島県三原市八幡町の小丸遺跡から三世紀の製鉄炉が発見され(1995年1月13日朝日新聞夕刊)、製鉄は弥生時代の後期から行われていたことが明らかになった。

1995年1月13日朝日新聞夕刊

広島・小丸遺跡   日本で最古の製鉄炉を発見   3世紀に工具類作る?

弥生時代後期の遺跡とされる広島県三原市八幡町の 小丸遺跡から、三世紀のものと推定される製鉄炉が見 つかったことを、広島県埋蔵文化財センターが明らか にした。
これまで各地で確認された製鉄炉は、六世紀 後半以降がほとんど。国内での鉄の生産は、西日本全域で大陸系磨製石器が減り、鉄器が急に 増えた弥生時代後期ととらえる説もあり、小丸遺跡はこの説を裏付けるという。

広島県埋蔵文化財調査センターによると、 製鉄炉は、弥生時代後期の集落跡近くに約50メートル離れて二基並んでいた。 うち一基は、直径50センチ、深さ約25センチのすり鉢状の穴で、左右に鉱滓(こうさい=スラグ)が 詰まった土壙(どこう)があった。放射性炭年代測定の結果、土壙は三世紀のものとわかった。

同センターは、
  1.三つの穴は一緒につくられたと考えられる
  2.近くから弥生時代後期前半の土器片が見つか っている
  3.形が他に比べて原始的・・・
などから三世紀のものと結論づけたという。
国内で鉄生産が始まった 時期は五世紀後半以降とする説が有力だった。

川越哲志・広島大学教授(考古学)の話
遺構の周辺から弥生式土器の破片が出たことを考えれば、製鉄炉も弥生時代につくられたものに間違いない。 製造した鉄はおそらく工具類をつくるのに使ったのだろう。

生活に密着した必要なものをつくりだす古代人の能力は、想像以上に高かった可能性がある。広島で、三世紀に製鉄が行われていたのなら、同じ中国地方で、しかも、朝鮮半島に近かった出雲で、早くから炉を用いた製鉄が行われていた可能性は、十分にある。


3.「八岐の大蛇伝承」についての他の解釈

 ■ 高志(こし)の八岐の大蛇という記述について

八岐の大蛇伝承が製鉄に関係するとする説にとって、解釈に困る記述がある。

『古事記』には、「高志(こし)の八岐の大蛇」と記されている。この高志は、ふつう、越前、越中、越後の「越(こし)」の国をさすと考えられている。洪水と関係するとすれば、なぜここに「越」の国が出てくるか、十分には説明できない。

 ■ 八岐の大蛇はオロチョン族だ。

「オロチ」は「オロチョン」と関係があるとして、「八岐の大蛇」を満州や黒竜江流域、沿海州方面に住むツングース系の「オロチョン族」と結びつける説がある。

 ■ 八岐の大蛇は、越に襲寇してきた粛慎(みしはせ)だ。

『日本書紀』の欽明天皇5年(544年)の条に、「越の国から言上があり佐渡の国に粛慎(みしはせ)がきている。」とある。また斉明天皇4年(658年)にも、「この年、越の国守の阿部引田臣比羅夫は粛慎を討った」とあり、粛慎は「越」に時々出没していた。『三国志』のなかの粛慎の記述の中に、海の東に国(倭)があり、毎年7月に童女が生け贄になるという話がでてくる。毎年、少女がいけにえになる点では『古事記』の記述と似ている部分もある。あるいは、毎年、粛慎が「越」にきて、少女を奪っていった。八岐の大蛇伝承は、それを素戔嗚尊が成敗した話だとする説である。

 ■ 八岐の大蛇は、大呂の霊(ち)のことである。

もともと、「大呂」という地名があり、その「大呂」の地の、「霊(ち)」(神秘的な力をもつもの。軻遇突智(かぐつち:火の神)、久久能智(くくのち:木の神)などの例がある。)であるオロチをやっつけた。

 ■ 悪竜退治伝承

比較神話学の立場からは、ギリシャ神話の英雄ペルセウスがメドッサを退治するなど、世界各地に分布する悪竜退治神話の一変形ともみられる。

いろいろと解釈があるが、「高志」など、やや説明に困るところもあるものの、全体的に見れば「八岐の大蛇伝承」を、製鉄と結びつける説は、他の説の比べ、有力であるようにみえる。



 草薙の剣は、鉄か銅か

草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、銅か鉄か、という議論がある。
貞享3年(1686年)熱田神宮が修理されたとき、神役人たちがこっそり宝剣である草薙の剣を見た。このときの伝承によると、草薙の剣は、
  • 長さは二尺七、八寸
  • 刃先は菖蒲の葉のよう、中程に厚みあり
  • 本の方六寸は節立っていて魚の骨に似ている
  • 色は白い
明治大学の考古学研究室の基礎をつくった後藤守一氏が『日本古代史の考古学的検討』という著書のなかで、これが本当ならば、草薙の剣はつぎのような特徴の剣であると述べる。
  • 刃先が菖蒲のようであった → 両刃の剣
  • 中ほどが厚い → 鎬(しのぎ)つくり
  • 本の方が魚の骨のようになっている → 鉄剣にはない形
  • 色が白い → 白銅色
九州の、三雲遺跡から出土した有柄式細型剣(下図)が非常によく似ている。但し長さが二尺七、八寸では非常に長い。この長さは銅剣には無理なようである。


草薙の剣についての、熱田の尾張の連の言い伝えとして、刀剣家の川口陟(わたる)氏が、著書『日本刀剣全史』のなかでつぎのように述べている。

御神体は一尺八寸程、両刃にして剣づくりとなり、鎬ありて横手なし、御柄は竹の節の如く五節あり、深くくびれたり。

いろいろの条件を検討してみると、鉄剣としてあわないのは、「色は、全体白しという」という点であり、銅剣として合わないのは、「長さ二尺七、八寸」あるいは「一尺八寸」などの長さである。

鉄剣とみても、銅剣とみてもやや無理な点がある。ただ、色よりも、長さの方が、観察の対象になりやすいように思える。長さのほうに重点をおき、かつ、時代的背景など、全体を勘案すれば、草薙の剣の鉄製説も、なお成立しうるようにみえる。




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