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第202回
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八岐の大蛇伝承と製鉄の関係
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1.「八岐の大蛇伝承」が製鉄と関係するとする諸説
■ 神話学者の大林太良氏の説
ヤマタノオロチ神話における宝剣出現という要素は出雲地方が上代の主要な鉄産地であり、名剣が出雲産であるという古い伝承、あるいは神話編纂者の頭にあった固定的観念の反映であることは、すでに多くの学者が考えていた。
肥の河の上流、鳥髪(鳥上)の風土と歴史、これを考察すると、神話の背景と意義がより一層鮮かになってくるような気がする。
鉄について次の三つを分けて考える必要がある。
しかし・・ ■ 製鉄は難しいか? 鉄の専門家で『鉄の考古学』(雄山閣出版)の著者である窪田蔵郎氏から次のような話を聞いた。 鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられがちです。しかし、かならずしも、そうとばかりはいえないのです。鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らないように、そっと根気よくたたいて石の部分をとばして行けば、900度ぐらいでも、鉄はできるのです。 また、山本博氏は著書『古代の製鉄』(学生社)のなかで、銅の精錬に1100度の温度が必要なことなどと比べて、製鉄について次のように述べる。
・鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。 河原によく乾いた砂鉄を60センチほど積み上げ、その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていた。 (『たたら日本古来の製鉄技術』 玉川大学出版部1976年刊) わりに簡単、かつ原始的な方法によっても、製鉄はできるのである。■ 製鉄の行われたのは6世紀からか? 広島県三原市八幡町の小丸遺跡から三世紀の製鉄炉が発見され(1995年1月13日朝日新聞夕刊)、製鉄は弥生時代の後期から行われていたことが明らかになった。
1995年1月13日朝日新聞夕刊 3.「八岐の大蛇伝承」についての他の解釈 ■ 高志(こし)の八岐の大蛇という記述について
八岐の大蛇伝承が製鉄に関係するとする説にとって、解釈に困る記述がある。 「オロチ」は「オロチョン」と関係があるとして、「八岐の大蛇」を満州や黒竜江流域、沿海州方面に住むツングース系の「オロチョン族」と結びつける説がある。 ■ 八岐の大蛇は、越に襲寇してきた粛慎(みしはせ)だ。『日本書紀』の欽明天皇5年(544年)の条に、「越の国から言上があり佐渡の国に粛慎(みしはせ)がきている。」とある。また斉明天皇4年(658年)にも、「この年、越の国守の阿部引田臣比羅夫は粛慎を討った」とあり、粛慎は「越」に時々出没していた。『三国志』のなかの粛慎の記述の中に、海の東に国(倭)があり、毎年7月に童女が生け贄になるという話がでてくる。毎年、少女がいけにえになる点では『古事記』の記述と似ている部分もある。あるいは、毎年、粛慎が「越」にきて、少女を奪っていった。八岐の大蛇伝承は、それを素戔嗚尊が成敗した話だとする説である。 ■ 八岐の大蛇は、大呂の霊(ち)のことである。もともと、「大呂」という地名があり、その「大呂」の地の、「霊(ち)」(神秘的な力をもつもの。軻遇突智(かぐつち:火の神)、久久能智(くくのち:木の神)などの例がある。)であるオロチをやっつけた。 ■ 悪竜退治伝承比較神話学の立場からは、ギリシャ神話の英雄ペルセウスがメドッサを退治するなど、世界各地に分布する悪竜退治神話の一変形ともみられる。 いろいろと解釈があるが、「高志」など、やや説明に困るところもあるものの、全体的に見れば「八岐の大蛇伝承」を、製鉄と結びつける説は、他の説の比べ、有力であるようにみえる。 |
草薙の剣は、鉄か銅か
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草薙の剣(くさなぎのつるぎ)は、銅か鉄か、という議論がある。
貞享3年(1686年)熱田神宮が修理されたとき、神役人たちがこっそり宝剣である草薙の剣を見た。このときの伝承によると、草薙の剣は、
草薙の剣についての、熱田の尾張の連の言い伝えとして、刀剣家の川口陟(わたる)氏が、著書『日本刀剣全史』のなかでつぎのように述べている。 御神体は一尺八寸程、両刃にして剣づくりとなり、鎬ありて横手なし、御柄は竹の節の如く五節あり、深くくびれたり。 いろいろの条件を検討してみると、鉄剣としてあわないのは、「色は、全体白しという」という点であり、銅剣として合わないのは、「長さ二尺七、八寸」あるいは「一尺八寸」などの長さである。鉄剣とみても、銅剣とみてもやや無理な点がある。ただ、色よりも、長さの方が、観察の対象になりやすいように思える。長さのほうに重点をおき、かつ、時代的背景など、全体を勘案すれば、草薙の剣の鉄製説も、なお成立しうるようにみえる。 |
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