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第203回
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1.草薙の剣のその後
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須佐の男の命から、高天の原の天照御大神へ献上された草薙の剣は、その後どうなったか。
■高天の原から畿内大和へ 「古事記」の記述
「草那芸の剣は八尺(やさか)の勾玉・鏡とともに皇孫邇邇芸(ににぎ)の命につけて、地上に下された。」とある。 「日本書紀」の第九段の一書の記述 「天照大神は天津彦彦火(あまつひこひこほ)の瓊瓊杵(ににぎ)の尊に、八坂瓊の曲玉(やさかにのまがたま)および八咫(やた)の鏡・草薙の剣の三種の宝物を与えた。」とある。
更に、「古語拾遺」では、 「八咫の鏡と草薙の剣との二種の神宝を、皇孫にさずけて、永久に天璽(あまつしるし)とした。いわゆる神璽の剣と鏡とは、これである。矛と玉は、自然にそれにともなうことになった。」
その後、「古語拾遺」の神武天皇の段では 「天璽」の「八咫の鏡」と「草薙の剣」を正殿に安置した
と記されており、高天の原の天照御大神から、その後継の神々に伝わり、神武天皇の東征とともに、「八咫の鏡」と「草薙の剣」とは、畿内大和の地にもたらされるのである。 ■畿内大和から伊勢神宮へ 「古語拾遺」では 「崇神天皇の時代になって、天皇は、宮殿で神鏡や神剣とともにおすごしになることに、心理的な不安をおぼえるようになられた。神威をおそれられたのである。そこで、斎部(いんべ)氏をして石凝姥(いしこりどめ)の神の子孫と、天の目一(あめのまひと)つの神の子孫との二氏をひきいて、さらに、鏡を鋳造らせ、剣を造らせた。(鏡と剣のレプリカをつくらせ、そのレプリカを)護身の璽(しるし)とした。これらは、いま、踐祚(せんそ)の日に天皇にたてまつる神璽の鏡と剣とである。 大和の笠縫邑(かさぬいむら)に、磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)[神の降臨の場所として特別に作ったところ]をつくり、そこに天照大神(神鏡)と草薙の剣とをうつし、皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)の命にまつらせた」 つまりレガレア(王位継承のシンボル)としては、宮中に置いたレプリカを用い、本物は大和の笠縫邑にうつしたのである。 「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」などの、景行天皇の条では 倭建の命(日本武の尊)が、東(あずま)を征討するとき、伊勢神宮にたちより、おばの倭比売(やまとひめ)から、草那芸の剣を与えられている。 これでみれば、草那芸の剣は、八咫の鏡とともに、大和の笠縫邑でまつられたのち、伊勢神宮にうつされていた。 ■伊勢神宮から熱田神宮へ 「古事記」では 倭建の命は相武(さがむ)の国(相模の国)で、国造にあざむかれて野に入ったところ、野のに火をつけられた。草那芸の剣で草を刈り、火打石で向火で焼きしりぞけ、脱出して相武の国造を切りほろぼしたとある。
「日本書紀」でも相武が駿河となっているがほぼ同じ話である。 「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」などによれば、 倭建の命は東の賊をたいらげて、尾張の国にかえり、美夜受比売(宮簀媛:みやずひめ)のところへ行く。美夜受比売の家に草那芸の剣をおいて、伊吹山の神を退治に行く。結局、倭建の命は毒気にあたってなくなり、その草那芸の剣は尾張の国の熱田神宮にある。
「尾張国熱田太神宮縁起」には、 「日本武の尊の死後、宮簀姫が、衆人にはかって社をたて、神剣をうつした。」とある。
■法師道行(どうぎょう)と草薙の剣 「日本書紀」の天智天皇七年(668)の条に、 「この年、法師の道行が、草薙の剣をぬすんで、新羅に逃げていった。しかし途中で、風雨にあって、迷い帰ってきた。」とある。 そして、「日本書紀」の天武天皇の朱鳥元年七年(686)の条に、 「天武天皇が病気になられたので、うらなったところ、草薙の剣がたたっていることがわかった。その日に、草薙の剣を、尾張の国の熱田社に送りかえした。」とある。 これでみれば、熱田社にあった草薙の剣を、法師の道行がぬすみ、それをとりかえして以来、十八年間、宮中におかれていたようである。「尾張国熱田太神宮縁起」によれば、 道行は新羅で、斬刑に処せられたことになっている。 ところが、考古学者森浩一氏の著書「日本神話の考古学」(朝日新聞社、1993年刊)によれば、別の話がのっている。 「道行という僧については、「記・紀」のうえではこれ以上にはあらわれないが、愛知県の知多半島北部の知多市にある名刹法海寺は、道行を開基として信仰を集めている。境内の発掘で弥生時代以来の遺物が出土しており、天智天皇のころに大伽藍が営まれたことがわかる。この建設者が「紀」によると草薙の剣を盗んだ道行であるというのであるから、紀」の記録にはよほどの謎がありそうである。」
「法海寺略由緒」によると、 「道行は熱田の宝剣を盗み逃げ去らんとし、発覚して星崎(知多半島の付け根)の浦の土牢の中に因致された。しかし修行をつんだ高僧であることが認められ、天智天皇の病を加持法にて治し、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎とした。」とある。 これによると、道行は斬刑に処されず、法海寺の開基であるという。どちらがほんとうなのであろうか。 ■最近では その後についても、NHK編「歴史への招待第2集古代史の謎に挑む@」(日本放送協会、1988年刊)のなかに、次のように記されている。 「昭和20年3月と5月、二度にわたって名古屋市は空襲を受けた。熱田神宮も、波状攻撃をうけ、被害を受けた。この間、御神体は、地下の防空壕に移された。そして連合軍の日本占領を目前にした昭和20年8月21日、御神体の草薙の剣は山深い飛騨一ノ宮の水無神社本殿に安置された。その後連合軍総司令官マッカーサーが東京に着任した日の2日後の9月19日に熱田神宮に戻した。以来今日まで、草薙の剣は熱田神宮の森で神秘のベールに包まれたまま、静かに眠っている。」 ■草薙の剣の数奇な流転 以上をまとめれば、草薙の剣は 八岐の大蛇の腹の中(出雲の国の鳥上の峰) ↓ 須佐の男の命(出雲) ↓ 天照大御神(高天の原) ↓ 邇邇芸の命(南九州) ↓ 神武天皇以下の諸天皇(畿内大和) ↓ 豊鍬入姫の命(大和の笠縫邑) ↓ 倭姫の命(伊勢) ↓ 倭建の命(東国遠征) ↓ 美夜受比売(尾張) ↓ 熱田社(熱田) ↓ 僧道行(新羅?) ↓ 天皇(宮中) ↓ 熱田社 ↓ 水無神社(飛騨一ノ宮) ↓ 熱田社(熱田) と動いている。まことに数奇な流転である。 そして、神話の世界の由緒ある剣の実物が、現代に伝わっているということも、驚くべきことである。神話の信憑性について検討するときには、この事実も考慮に加えなくてはならない。 なお、宮中にあって伝来したもの(崇神天皇の時代につくられたレプリカといわれたもの)は、鉄刀であって、1185年(寿永4年)に、安徳天皇とともに、壇の浦に沈んだ。その後別の剣をもってこれにかえたのである。 |
2.大蛇を斬った十拳の剣の流転
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■十拳(とつか)の剣とは
「拳(握、掬、束とも書く)」とは長さの単位である。 『日本書紀 上』(日本古典文学大系、岩波書店刊)の頭註に、
「一握は、小指から人差指までの幅、8から10センチメートル。従って十握の剣は80から100センチメートルの剣。それ程長い剣は、当時としては少ない。」とある。
今尾文昭氏の論文『素環頭鉄刀考』によれば、
弥生時代と古墳時代との素環頭鉄刀の長さから、80から100センチメートルは長い方であるが、ありえない長さではない。
また、十握の剣は、長さ80から100センチメートルの剣という一般名詞であって、固有名詞ではない。従って大蛇を斬った剣だけをさすとはかぎらない。たとえば、つぎのような場面では、いずれも十握の剣が登場する
■ 十握の剣は、鉄か銅か?
須佐の男の命が活躍したのは、卑弥呼の亡くなる西暦248年の前後の時代である。この頃は北九州では箱式石棺が行われていた。箱式石棺からは鉄の剣が出土することはあっても、銅製の剣は出土していないので、この時代にもちいられた十拳の剣も、鉄製の剣であろう。 卑弥呼の時代以前に、銅剣が使われた時代があった。大蛇を斬る、などの実用に使われるとすればそのような銅剣は細形銅剣か、中細形銅剣であろう。しかし、銅剣は、わが国の出土例ではもっとも長いものでも、51.5センチしかなく、80から100センチもある十握の剣は、銅製としては長すぎる。 ■出てきた十握の剣 NHK編の「歴史への招待 第2巻」の『古代史の謎に挑む@』(日本放送協会、1988年刊)のなかに、「推理・草薙の剣」という章がある(石井昌国氏・黛弘道氏執筆)。その中で、
古来、神社の中で人々が絶対に足を踏み入れてはならない神聖な場所がある。禁足地と呼ばれる所である。
奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮には古くから残された言い伝えがあり、その伝承は八岐の大蛇を退治した素戔の嗚の尊の十握の剣を祀ったというものである。 石上神宮の大宮司、菅政友は、明治七年(1874年)自ら禁断の地に踏み入った。彼は土のなかを発掘し、棗目玉(なつめだま)、勾玉、鉄製の鏃など三百数十点にも達する古代の宝物が発見され、その中に一本のぼろぼろに錆びた鉄剣があった。全長二尺八寸(約85センチ)刃の方に反った内反りの大刀で、柄頭の飾りが何もない素環大刀であった。 以来石上神宮の御神体として祀られている。 菅政友は、この剣は大蛇を斬った十握の剣ではなく、建甕槌(たけみかづち)の神が、中州(なかつくに)を平定したときに帯びていた十握の剣で、高倉下(たかくらじ)を通じて神武天皇にさずけられた布都御魂(ふつのみたま)であると思っていたようである。 しかし、大蛇を斬った十握の剣が、石上神宮の地に埋められているという伝承がある。 『石上神宮旧記』の記述を引用して、佐伯有清氏は著書『新撰姓氏録の研究 考証篇第二』の中で、次のように記している。
「素戔の嗚の尊が蛇を斬った十握の剣は、名を天の羽々斬という。また、蛇の麁正(あらまさ)という。その神気を、布都斯魂神(ふつしみたまがみ)という。この布都斯魂神を石上振神宮の高庭に遷し加えた。高庭の地底の石窟のうちに、天の羽々斬を、布都の御魂の横刀の左の座(東方)に、加えておさめた。」
このように地底に石窟をもうけて、布都御魂(ふつのみたま=建甕槌の神の剣)のとなりに布都斯魂神(ふつしみたまがみ=蛇を斬った十握の剣)をおさめたという伝承があった。 ■岡山県にあった十握の剣 さらに、大蛇を斬った十握の剣は、天理市の石上神宮に移される前は、吉備にあったという伝承がある。 『日本書紀』の神代上の、第八段の一書の第三に、
「蛇を断りたまへる剣は、今、吉備の神部(かむとものを)のところにあり。」と記されている。
そして、『石上神宮旧記』などには、
十握の剣は、もとは、吉備の石山布都魂神社にあったが、第十六代仁徳天皇の時代に、奈良県の石上神宮にうつしたとある。
これでみれば、十握の剣は、『延喜式』神名帳にみえる、備前の国赤坂郡(現在、岡山県赤磐郡吉井町石上)の石山布都魂(いそのかみふつのみたま)神社にあったようにみえる。 これらの伝承を総合すると、八岐の大蛇を退治した素戔の嗚の尊の十握の剣は、 出雲(簸の川上) ↓ 備前(石山布都魂神社) ↓ 大和(石上神社) という流転を経たことになる。 ■石上(いそのかみ)神宮の祭神について 石上神宮の主祭三神は、きわめてよく似ているが、由来は、かなり異なる。
このため、神剣が冒涜されるのを恐れて、これらの宝物を埋納したのであろうという。 |
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