銅鐸は、大きなベルのような形状の青銅器で、祭器の一種であったと考えられている。
出土する地域は、近畿地方を中心に広く分布しているが、ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。
また、銅鐸は、銅剣や銅矛に匹敵する弥生時代の代表的な製作物であるが、『古事記』『日本書紀』などの古文献には、全く登場しない謎の青銅器である。
考古学的遺物からみた弥生式文化の2つの中心
- 畿内を中心とする銅鐸の文化圏
- 北九州を中心とする銅矛、銅剣の文化圏
銅鐸の出土状況の特徴
- 畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。
- 銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設も
なく埋められた状態で、発見される。
- 銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。
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古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえ
る。
- 新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。
- 新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。
- 銅鐸は、祭器であったといわれている。しかし、他の祭器といっしょにみいだされる
ことはほとんどない。
- 徳島県麻植郡牛島村出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわさ
れたとみられるものもある。
- 銅鐸の発見は、予測は困難である。これまで出土した銅鐸のほとんどは、農耕などのさいに、偶然みいだされている。
銅鐸は祭器と見られている。しかし、祭りのさいに、古いものも、新しいものもいっしょに埋めるのは不自然である。
銅鐸は、祭りの道具でありながら、祭りの過程で、祭りの目的にそっ
て埋められたとは、みなされないようである。
これらのことについての、安本美典教授の解釈は、
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- 銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。
そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。
- 銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。
これは、古伝承が、銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内において発生したものでは
ないことを物語る。
それとともに、銅鐸をもつ大和の先住民が、三世紀の後半に、九州からきた神武天皇によって減ぼされたのであろうとする推測を、支持するものと思われる。
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また、713年、大和の長岡野で、銅鐸が発見されたとき、人々は、これをあやしみ、『続
日本紀』は、「その制(形)は、常と異なる」と記している。
これは、当時の大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかった
ことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。
いっぽう、大和朝廷が大和で発生した説をとかれる考古学者の解釈は
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- 個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成するにいたったことのためである。
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とされることが、多い。
しかし、このような説明については、次のような疑問があり、銅鐸を忘れさる理由としては弱すぎるのではないか。
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- そのような統一勢力が、畿内からおこったものであるならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを、温存させてよいように思われる。
- 一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸がみいだされた例がある。それは、青銅の素材としても、魅力あるはずのものである。
もし、「個々のムラ」から、「構成されたより大きな規模の集団」ヘスムーズに移行したものであるならぱ、廃棄するよりも、鋳直して利用することを考えるのではなかろうか。当時、青銅の素材は、貴重品であったはずである。
- 邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島ふきんからも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。しかし事実はそうではない。
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