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1.古代の諸天皇非実在説の根拠
2.古代の天皇の実在を示す積極的根拠
3.帝記は造作ではない

第222回 
神武天皇東征伝承

 

 1.古代の諸天皇非実在説の根拠

『古事記』『日本書紀』が伝える初代の神武天皇から第9代の開化天皇までの系譜記事は、大和朝廷の権威を高めるためにのちの時代に創作されたもので、これらの諸天皇は実在しなかったとするのが文献学者の多数意見である。

しかし、このような見解は、実証的な根拠がほとんど存在しないし、結論を導き出すプロセスが、論理に耐えうる形をしていない。

■ 古代の諸天皇非実在説の根拠 

井上光貞は、古代の諸天皇非実在説の根拠をおおよそ次のように整理した。(『日本の歴史1 神話から歴史へ』による)
  1. 事績記事の欠如
    第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの各天皇については、『古事記』『日本書紀』に系図的な記事の記載があるのみで、事績についての記載がない。

  2. 後世的な名前
    第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの名前が後世的である。

  3. 父子継承
    神武天皇から開化天皇までの九代の天皇は、みな、父子の関係にある。皇室の系譜としてほぼ確かな応神天皇以後では、7世紀に至るまで、皇位の継承は複雑で、父子継承というような単純なものではなかった。これは、皇位継承法が、中国の相続法の影響を受けて変化してきた7世紀に設定したものではなかろうか。

  4. 古い時代の伝承の信憑性
    那珂通世の年代論によると、神武天皇は西暦紀元前後の人となり、『古事記』『日本書紀』の成立まで700年もの年月が経過している。文字も暦も知らなかった日本人が、そのように昔のことをどのていど記憶していたか疑わしい。
非実在の根拠として挙げられたこれら4つの内容について、安本先生は以下のように反論する。

■ 事績記事のないことは、非実在説の根拠にならない。

上記1と同じ内容を古代史家の直木孝次郎氏は次のように述べる。

つぎにこの三代(孝霊、孝元、開化)に関する『古事記』の記事全体に目をおよぼすと、帝紀的 部分(皇室の系図的な記事)だけがあって、旧辞的部分(事績についての物語)を全く欠いているこ とを知る。

これはこの三代だけではなく、第二代綏靖(カムヌナカワミミ)以下、第九代開化にい たる八代に共通している。 そこで、後代の造作は七、八、九の三代だけではなく、綬靖以下八代全部そうではないか、と考えられてくる。

初代の天皇である神武天皇をはるかないにしえに置き、天皇の歴史を荘重にかたりつたえるために、七世紀末以降に八代の天皇の系譜を机上でつくりあげ、第一代の神武と、そのつぎの崇神との間にはめこんだ、と解せられうるのである。

『神話と歴史』(吉川弘文館刊)


しかし、「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いていること」を、古代の諸天皇非実在 説の根拠にしようとすると、論理のすじが、ほとんど通らなくなってしまう。

なぜなら、直木氏の云うように「『古事記』の記事全体に目をおよぽすと」、「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている」のは、第二代の綬靖天皇から、第九代の開化天皇までの八代の天皇だけではない。下表の各天皇も「帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている」のである。

帝紀的部分だけがあって、旧辞的部分を全く欠いている天皇の一覧表
天皇名実在についての評価天皇名実在についての評価
綏靖天皇実在しないとされている。24仁賢天皇ほぼ確実に実在したとされる。
安寧天皇25武烈天皇
威徳天皇27安閑天皇
孝昭天皇28宣化天皇
孝安天皇29欽明天皇
孝霊天皇30敏達天皇
孝元天皇31用明天皇確実に実在した。
開化天皇32崇峻天皇
33推古天皇

したがって、「旧辞的部分を欠いていること」が、その天皇の、「造作」されたことの基準になると定めたならぱ、用明、崇峻、推古など、多くの天皇の存在も、また、否定しなけれぱならなくなる。

神武天皇も含め開化天皇までの9代の天皇が非実在だと主張する学者の判断の内容を整理すると次のようになる。
  1. 神武天皇の場合は、事績が記されていても、その実在は、否定できる。
  2. 綬靖天皇以下八代の場合は、事績記事を欠いていてその実在を否定できる。
  3. 崇神天皇や、仁徳天皇の場合は、事績が記されていて、その実在は、肯定できる。
  4. 用明、崇峻、推古などの諸天皇の場合は、事績記事を欠いていて、その実在を肯定できる。
このような基準によって、天皇の実在、非実在を論ずるならぱ、天皇の実在、非実在は、論者の自 由になってしまう。

天皇非実在説のこのような根拠は、主観にもとづくもので、およそ、論理や実証 にたえうるような議論とは思えない。非実在という先入観があって、そのための屁理屈を探しているようなものである。

■ 八代の天皇の名前は後世的か?

八代の天皇の名前が後世的だという見解も、論理と実証に支えられているようには思えない。その理由は
  1. 八代の天皇の名は、一概に後世的なものとは言えない。次のような例から、古代的であると主張することも可能。
    • 第二代綬靖天皇の名、神沼河耳の命(かむぬなかわみみのみこと)の「ミミ」
      • 三世紀に成立した『魏志倭人伝』に記されている官名、「弥弥(みみ)」や「弥弥那利(みみなり)」と、共通している。
      • 『古事記』『日本書紀』の神話にあらわれる天の忍穂耳(あめのおしほみみ)の命、須賀の八耳(すがのやつみみ)の神、布帝耳(ふていみみ)の神、鳥耳(とりみみ)の神などと共通である。

    • 神沼河耳の命(かむぬなかわみみのみこと)のように、名前の頭に、「神(かむ)」がつくのは、神武天皇と綏靖天皇の二人だけで後世には、例がない。

    • 神沼河耳の命(かむぬなかわみみのみこと)の「沼河(ぬなかわ)」も、後世には、例がない。

    • 第三代安寧天皇の師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)の命の、「タマ」
      • 『魏志倭人伝』に記されている「タマ」と読まれうる官名「多模」と共通である。
        (「多模」の中国語上古音は、「tag-mag」。語頭の子音と、 それにつづく母音とで、当時の日本語を写したとみられるから、これは、「タマ」という音を表記したものとみられる)。
      • 『古事記』『日本書紀』の神話にあらわれる宇都志国玉(うつしくにだま)の神、宇迦の御魂(うかのみたま)の神、布刀玉(ふとだま)の神、玉依畏売(たまよりひめ)の命などの「タマ」と共通である。

    • 第三代安寧天皇の師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)の命の、「手見」
      • 後世に例がない。
      • 『古事記』上巻(神話の巻)の、「穂穂手見(ほほでみ)の命」の「手見」と共通である。

    要するに、これらの天皇の名は、古代的であると言おうと思えぱ、古代的である根拠も、十分に あげられる。

  2. 八代の天皇の名が、後世的であるという見解の根拠になっている事例をしらべるとき、すくな くとも、統計学的には、データの数がすくなすぎる。 偶然と考えられる以上に、後世的な名が多いとは、主張できない。

  3. 八代の天皇の名が、後世の、七、八世紀の天皇の名と共通の部分があるとしても、八代の天皇の名が、七、八世紀の天皇の名をもとに、つくられたものであるとのみは、主張できない。

    七、八世紀の天皇の名のほうが、古い時代の天皇の名にちなんでつけられた可能性 が、多分にあるからである。
たとえば、「ヤマトネコ」の部分を共有する右図の諸天皇について、井上光貞、水野祐氏は、第7代孝霊天皇などの名前が第41代持統天皇など古事記成立時期の天皇の名前をもとにつくられたと述べる。

「ヤマトネコ」に着目すると、第50代桓武天皇などの名前にも共通な「ヤマトネコ」の部分がある。

のちの天皇の名前を元にして前の天皇の名前が作られるとするなら、孝霊天皇などの名前は持統天皇などの名前に基づき、さらに、持統天皇の名前は桓武天皇などの名前に基づいて作られたことになる。

しかし、なぜか井上氏らは第50代桓武天皇などの名前にも「ヤマトネコ」の部分があることに言及していない。また、持統天皇などの名前が桓武天皇などの名前を元に作られたとも述べていない。

古事記成立後に生まれた桓武天皇などの名前を、古事記に記された孝霊天皇の名前に反映するのは不可能である。逆に、桓武天皇などの名前は明らかに前の天皇の名前にちなんでつけられたと言える。

前の天皇とのちの天皇の名前に共通部分がある時、前の天皇の名前にちなんでのちの天皇の名前が付けられた例は、桓武天皇の事例のように、確実に存在する。

これに対して、前の天皇の名前がのちの天皇の名前によって作られた具体例は、井上光貞、水野祐氏の説明のどこにも示されていない。

とすれば、前の天皇の名前がのちの天皇の名前によって「作られた」とする考えは、具体例を示さない単なる「想定」にすぎないことになる。

「クニオシ」という部分の議論も「ヤマトネコ」と同じことである。古事記成立後に即位した聖武天皇の名前にも「クニオシ」が含まれているからである。

■ 父子継承の記事から、天皇の実在を否定できるか?

井上光貞は、神武から開化に至る天皇が父子継承になっていることを取り上げ、このような記述は、中国の相続法の影響をうけて父子継承が多くなった7世紀に創作された内容であるとする。

以下の理由から、そうは考えられない。
  • 中国の相続法の影響を受けて、日本でも7世紀から父子継承が多くなったという事実そのものが確認できない。日本で父子相続が増えたのは9世紀以降、特に、17世紀以降である。

  • 開化天皇以前では末子相続が多い。氏族制度の研究家・太田亮によると、上代では物部氏、巨勢氏などの豪族でも同じであるという。これは、モンゴルなど遊牧民に例が見られるものであり、中国流の儒教精神による長子相続法とは、はっきりと対立するものである。

    『古事記』『日本書紀』の天皇の継承記事は、末子相続が行われていたか、その記憶が強く残っている時代に整備されてと考えられる。7世紀という新しい時代ではないであろう。

  • 父子継承を否定することと天皇を否定することは別であり、継承の仕方が信じられな ければ、天皇の存在が信じられないということにはならない。

    父子継承の関係になっているから、天皇の実在を疑うという議論の場合も、次の2つの可能性がある。
    1. 天皇は実在するが、継承の仕方は疑わしいという可能性
    2. 天皇は非実在であるから、継承関係が不自然になったという可能性
    「A」の可能性を完全に否定しないで、「B」の可能性のみを採択するのは論証として不完全である。論証になっていない。
■ 那珂通世の年代論は誤りである。

井上光貞は、天皇の平均在位年数をほぼ30年とする那珂通世の年代論を根拠に、神武天皇を西暦紀元前後の人とした。そして、そのように昔のことをどのていど記憶していたか疑わしいと述べる。

井上光貞は、また、那珂通世の年代論に基づいて崇神天皇の年代を西暦270〜290年ごろとし、このころの記憶が『古事記』『日本書紀』編纂の頃まで残ったとのべている。

安本先生は、那珂通世の年代論は誤りであり、古代の天皇の平均在位年数は約10年であるとする。そうすると、神武天皇の活躍年代は西暦280〜290年頃となり、270〜290年ごろの記憶が残るとする井上の考えに従っても、神武天皇の記憶が記紀編纂時まで残った可能性があることになる。

 

 2.古代の天皇の実在を示す積極的根拠

古代の天皇の非実在説の根拠を詳しく検討すると、確実といえるものがないことを見てきたが、ここでは、 古代天皇の実在を積極的に支持すると思われる4つの根拠について説明する。
  1. 后妃についての記事
  2. 都の所在地についての記事
  3. 陵墓の所在地についての記事
  4. 陵墓の築かれた地形についての記事
■后妃についての記事

神武天皇から元明天皇までの間に天皇の母になった女性は58人いる。これを整理すると下表のようになる。

表を見れば、古い時代は在地豪族の娘との結婚が多く、その後は皇族の娘が多くなる。 10代の崇神天皇以後では皇族の娘との結婚が増えている。

もし、古代の天皇が、6〜7世紀頃に机上で作られたならば、これらの天皇の皇妃も6〜7世紀の諸天皇と同様に、皇族の娘が多くなるはずだが、事実はそうなっていない。

これは、古代の天皇が実在し、古代の天皇にかかわる固有の情報が伝承として伝えられたことを示すものであろう。

1代〜9代10代〜43代
皇女0人11人11人
皇族の娘(皇女を含む)2324
地域の豪族の娘(その他、不明を含む)201434
213758


■都の所在地についての記事

『古事記』、『日本書紀』、『続日本書紀』、『延喜式』に記されている古代天皇の都 の所在地を調べ、地域によって分類すると下表のようにになる。
  • 第1代神武天皇〜第9代開化天皇までの都は葛城郡に多く、磯城郡は少なく、奈良県以外は存在しない。
  • 第10代崇神天皇〜第43代元明天皇までの都は葛城郡には存在せず、磯城郡に多く、奈良県以外も少なく ない。
もし、第1代〜第9代の天皇が、後につくられたものであるなら、都の所在も架空でつ くられたとしなければならない。とすれば後の時代の都の所在にならってつくられるは ず。しかしそうはなっていない。初期天皇の都の多くは後代に例を見ない葛城にあったとされる。

これも、古代の天皇固有の情報が伝承として伝えられたことを示すものであろう。

1代〜9代10代〜43代
奈良県(大和国)葛城(葛上、葛下)郡4例0例
高市郡12
磯城(城上、城下)郡12
添上郡
山辺郡
滋賀県(近江国)
大阪府(河内国)
山口県(長門国)
34


■陵墓の所在地についての記事

『古事記』、『日本書紀』、『続日本書紀』、『延喜式』に記されている古代天皇の陵墓の所在地を調べ、地域によって分類すると下表のようにになる。
  • 第1代神武天皇〜第9代開化天皇までの陵墓は高市郡と葛城郡に存在。
  • 第10代崇神天皇〜第43代元明天皇までの陵墓は添(そふ)郡、磯城郡(8例)、 に多くなり、高市郡と葛城郡の数に匹敵するようになる。そして、大阪府(15例)にかなり多くなる。
これは、後代になるにつれ大和朝廷の主な活動地域は高市郡などから周辺へ広がっていったことを示す。

第1代〜第9代の天皇が、後代につくられたものであるなら、これらの天皇の陵墓をたとえば大阪府にもっていき、古くから広範囲にわたって活動していたことにしても良さそうであるのに、実際はそうなっていない。

むしろ、古代の天皇に付随した情報がのちの時代まで伝えられた結果と解釈すべきではないか。

1代〜9代10代〜43代
奈良県(大和国)高市郡5例6例
葛城(葛上、葛下)郡
添(上、下)郡
磯城(城上、城下)郡
大阪府(河内国、和泉国、摂津国)15
京都府(山城国)
滋賀県(近江国)
33


■陵墓の築かれた地形についての記事

天皇の陵墓がどのような地形の場所に築かれたかを調べると下表のようになる。
  • 第1代神武天皇〜第9代開化天皇までの陵墓は、次のように山や岡や坂の一部など、自然の丘陵を利用して築かれたとされている。
    • 畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上
    • 腋上(わきがみ)の博多山の上
    • 玉手の岡の上
  • 第10代崇神天皇〜第43代元明天皇までの陵墓は次のように平地部に築かれる例が増えてくる。
    • 菅原の御立野(みたちの)
    • 毛受(もず)の耳原
    • 丹比(たじひ)の高鷲(たかわし)の原
初期の天皇の陵墓についての記述が後代につくられたものなら、後代と同じように原や野に陵墓 が築かれたとする記述が多くてもよいのだが、事実はそうなっていない。

1代〜9代10代〜43代
山・山上・丘(岡・崗)・丘上・坂・坂上・嶋上9例14例23例
原・野・その他1818
3241

『日本書紀』には、神武天皇以前の三代の陵墓について次のように記す
  • 邇邇芸の命は日向の可愛之山稜
  • 火遠理の命は日向の高屋(たかや)山上陵
  • 鵜葺草葺不合の命は日向の吾平山(あひらやま)上陵
すなわち、いわゆる神代の三稜は、いずれも「山」にあったと記されており、初期の天皇陵がいずれも、山や丘などの自然の地形を利用して築かれたとする記述とスムーズにつながる。

また、明治大学の考古学者大塚初重教授は、前期古墳の特徴について次のように述べる。

古墳時代を前・中・後期の三期に区分したばあいの前期古墳は、三世紀代の終末ごろから四世紀代の古墳を指す。(中略)(前期古墳は)丘陵尾根上・台地縁辺など低地を見おろすような地形に立地し、前方後円墳・前方後方墳・双方中円墳・円墳・方墳などの種類がみとめられる。墳形をととのえるのに自然地形をよく利用しているのも前期古墳の特色である。

初期天皇の陵墓についての記述と、前期古墳の考古学的な特徴が一致する。これも初期天皇の実在を支持する情報に思える。
 

 3.帝紀は造作ではない

以上のように、初期天皇の非実在説の論拠が不確かであることと、初期天皇の実在を支持する情報があることから安本先生は、帝記はのちの時代の造作ではないと考えている。

多くの学者が、初期の諸天皇の系譜記事は大和朝廷の権威を高めるためにのちの時代に創作されたもので、初期の天皇は実在しなかったとするいっぽうで、むかしから古代の帝記は後の時代の創作ではないと主張する学者もいた。

東京大学教授であった坂本太郎は論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」で次のよう に述べている。

古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第5代から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりむらじ)、穂積臣(ほずみの おみ)など、天武朝以後特に有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為のよるものではないことを証する。

天皇の姪とか庶母(ままも)(父帝の妃)とかの近親を妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。

これも、古伝に忠実であることを証する。

婚姻関係から見て、帝紀の所伝は、いろいろ問題はあるにしても、古伝であることは動かしがたく、後世の七世紀あたりの造作だという疑いは、まったく斥けることができる。疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも、忘れてはなるまい。

また、東洋史学者、植村清二は、崇神天皇以前の天皇は最初から帝紀に記載されていたもので、それは古い伝承であると次のように述べる。

1 初期の系譜的記事のすべてが、机上で制作されたと考えるのは、古人の構想力を高く評価しすぎるものである。
2帝記はもともと系譜的記載だけのものである。『古事記』『日本書紀』の原型は、帝記に、旧辞が加わってできたと考えられるから、旧辞の物語が欠けていたとしても、それは、帝記を疑う理由とはなりえない。
37、8代にとどめず、さらに十数代を加えたならば、在位年数が、不自然に長くなることもなく、『日本書紀』の年紀の矛盾は、かなりさけやすくなったはずである。それを試みなかったのは、むしろ、帝記そのものの所伝を、尊重したからではなかろうか。
4 天皇の系譜が、後からつくられたとした場合、陵墓も後に造作されたことになるが、 古くから開けた土地にあとから古墳を造り、一般の承認を得るは不可能である。

『神武天皇』(至文堂刊)

また、最近は、初期天皇の非実在説について疑問を投げかける学者もふえてきている。たとえば歴史学者の上田正昭氏は、最近の著書の中で、「神話伝承は全くの作り事ではなく、なんらかの歴史的事実を背景にして成立したのではないか」と見解を述べている。

さらに、大阪大学名誉教授の長山泰孝氏も、非実在説の論証方法が不十分であることを指摘して、非実在説は再検討するべきだと述べている。


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