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1.辛酉革命説
2.物部氏の東遷
3.現代の抹殺博士

第218回 
古代物部一族の東遷伝承

 

 1.辛酉革命説

■ 神武天皇即位年代の根拠

『日本書紀』によると神武天皇は紀元前660年に橿原で即位したとされる。これは、『日本書紀』の編纂者が辛酉革命説によって即位年代を創作したものだというのが定説であるが・・・。 安本先生はこの定説に疑問ありとする。

辛酉(しんゆう)革命説

中国の讖緯説(しんいせつ)に基づく思想。干支の組み合わせが一巡する60年ごとに変革が起こるという説で甲子の年には革令、辛酉の年には革命が起きるとする。
特に一元(60年)の21倍にあたる1蔀(ほう:1260年)ごとの辛酉の年には国家的大変革があるとされる。

この説に基づき神武天皇の即位の年を紀元前660年としたというのだが、その起点について以下のような説がある。
  • 三善清行(847−919 平安時代の公卿、学者。菅原道真追放の急先鋒)
    斉明天皇7年(661)辛酉を起点として、60年+1260年前の辛酉→紀元前660年

  • 那珂通世(明治時代の東洋学者)
    推古天皇9年(601)辛酉を起点として1260年前→紀元前660年
  ■ 辛酉革命説を根拠にすることへの疑問
  1. 起点が601年にしても660年にしても『日本書紀』じたいは、逆算の起点にふさわしい取り扱いをしていない。起点も辛酉の年なので、それにふさわしい大事件があっても良いはず。

  2. 聖徳太子が逆算を行ったという説があるが、そうならば聖徳太子が活躍していた600年頃に流布していた元嘉暦で逆算が行われていなければならない。実際は、儀鳳暦で逆算が行われている。(下図参照)

  3. 中国文献には60年ごとに変革があるという記録はあるが、1320年または1260年ごとに大変革があるという記録はない。
    「辛酉革命説」は本当に存在したのだろうか? 三善清行が菅原道真を追い落とすための口実に創作したのではないか?
『日本書紀』の編者は辛酉革命説を根拠として神武天皇の即位の年を定めたのではないのであろう。

■ 神武天皇即位年代決定の推定プロセス

では、どのような経緯で神武即位を紀元前660年としたのだろうか。 安本先生の推定は・・・
  • 『日本書紀』の編纂者は、中国の史書をみて日本の歴史書にも年代を入れようとした。

  • 『日本書紀』の編纂者は、神功皇后を魏志倭人伝の卑弥呼であると考えて年代の手がかりにした。神功皇后の活躍時期を、3世紀前半の卑弥呼の時代として、年代の記されていない古い伝承の年代を当てはめていった。

  • 神武天皇は神功皇后から14代前の天皇である。1代を60年として計算し、それに元も近い辛酉の年を即位の年とした。(1代を60年とした根拠については次回説明)

■ 『日本書紀』の暦

『日本書紀』の暦の記述を調べると、700年以降は儀鳳暦(ぎほうれき)で記されているが、およそ400年〜700年のあいだは元嘉暦(げんかれき)と一致し、また、400年以前の暦の記述は儀鳳暦と一致する。このような状況は以下のように説明できる。
  • 700年ごろ以降は儀鳳暦が公式に採用されたので儀鳳暦で記述された。

  • 400〜700年の間は、暦が公式に伝わる前から、宋で使われていた元嘉暦がすでに国内で流布しており、このころの伝承には元嘉暦で年代の情報が付随していたと思われる。『日本書紀』の編者はあえてそれをいじらなかった。
    暦がかなり早い時期から流布していたことは、稲荷山鉄剣銘文にすでに暦の記述があることからも明らかである。

  • 400年ごろより以前の伝承には、年代の情報が無かったと思われる。『日本書紀』の編者は、『日本書紀』を編集していた頃に使われていた儀鳳暦で、年代情報を創作した。

 

 2.物部氏の東遷

物部氏の祖先の饒速日命は神武天皇と前後して九州方面から畿内に降臨したとされる。『先代旧事本紀』は、この間の事情や、饒速日命とその子孫について詳しく記述した文献である。

『先代旧事本紀』には『古事記』や『日本書紀』、『古語拾遺』からの引用された部分があるので、『先代旧事本紀』はこれらの文献よりも後の時代に成立したと考えられている。

また、『先代旧事本紀』には、物部氏、尾張氏の記録や国造の記録など他の文献にはみられない独自の内容が含まれている。この部分については、もともとあった古い伝承をもとに編纂されたという説と、のちの時代に創作されたとする説がある。

しかし、『先代旧事本紀』の独自の部分が、のちの時代の創作ではなく、『古事記』『日本書紀』よりも古い時代の伝承をもとにして編纂されたと考える理由がある。以下にその理由について解説する。

■ 『先代旧事本紀』と『新撰姓氏録』で、物部氏や尾張氏の系図記事くらべると、合致していたりお互いに補い合う部分があり、のちの人が勝手に捏造したとは思えない。
 
■ 『先代旧事本紀』独自の部分で使っている文字が古い。

尾張を表現するのに、「尾治」という文字で表している。これは、藤原宮出土木簡にも用いられた用法であり、奈良時代より以前の非常に古い表現である。

■ 一つの文献に、古い部分と新しい部分が含まれることはある。

新しい部分があることを理由に、内容の全てが新しいものと考える必要はない。

たとえば、聖徳太子の伝記を集めた『上宮聖徳法王帝説』という文献については、「聖徳太子についての史料の寄せ集めであり『古事記』『日本書紀』よりも新しい部分もあるが古い部分もある」とする家永三郎氏の見解が現在の定説となっている。

『上宮聖徳法王帝説』や『先代旧事本紀』はともに「スクネ」の表記に「足尼」という文字を使っている。これは稲荷山鉄剣銘文にも記された古い表記である。『古事記』『日本書紀』ではこれを「宿禰」と書く。このような表記の存在は『古事記』『日本書紀』よりも古い部分がたしかにあるという証拠である。
『先代旧事本紀』も『上宮聖徳法王帝説』と同様に、古い部分と新しい部分の寄せ集めと考えて良い。

その例が国造本紀の加賀国造の記述にみられる(右図)。この部分をA,B,Cのように3つに分けて考えてみる。

  1. この部分で、加″荘「の「=vを「が」と読むのは、聖徳太子の時代の推古朝遺文の読み方である。これは中国の周や漢の時代の非常に古い読み方が日本に入ってきたものである。

    従ってこの部分がもっとも古く、最初に記述されていたと考えられる。「=vは『古事記』の時代には「げ」や「ぎ」と読まれた。

  2. のちにだれかがをBの部分(雄略天皇の時代の記事)を書き加えた。

  3. Cの部分は嵯峨天皇の時代の記事(820年ごろ)である。のちの時代に註釈的に書き入れたものであろう。
■ 「ヒコ」の表記

ヒコの「コ」の表記には時代によって一定の傾向がある。推古朝遺文のような古い時代の文献では「古」が使われている。『上宮聖徳法王帝説』の中で家永三郎氏が古いと指摘する部分でも「古」が使われている。

『古事記』でも、古い時代に「古」が多い。時代が降るにつれて「子」がふえる。また、『日本書紀』ではほとんど「子」が使われる。

『先代旧事本紀』では、物部氏の祖先や尾張氏の祖先についての記述では、ほとんど「古」が使われている。やはり、『先代旧事本紀』のこの部分は、古い時代の記述と考えられる。

■ 三文字の国名

西暦713年に元明天皇は『風土記』撰進を命じる勅の中で、「諸国、郡郷の名は、好ましい漢字二文字で記すように。」とのべた。

『日本書紀』では元明天皇の勅語に従って国名を二字にそろえている。しかし、 『先代旧事本紀』の国造本紀には、一文字や三文字などの国名が多数見られる。この部分は少なくとも713年の勅が出される以前の姿を残している。
『先代旧事本紀』『日本書紀』以後
穂国(ほのくに)宝飫郡(ほお:参河の国。天平18年[746]平城宮木簡)
遠淡海国(とほつあふみのくに)遠江国(とほつあふみのくに :『日本書紀』)
珠流河国(するがのくに)駿河国(するがのくに:『日本書紀』)
无耶志国(むざしのくに)武蔵国(むさしのくに:『日本書紀』)
知々夫国(ちちぶのくに)秩父郡(ちちぶ:武蔵の国。天平17年[745年]平城宮木簡)
馬来田国(むまくだのくに)望陀郡(もうた:上総の国。『延喜式』)
仲国(なかのくに)那賀郡(なか:常陸国。天平15年[743年]正倉院銘文)
高国(たかのくに)多珂郡(たか:常陸国。天平勝宝4年[752年]正倉院銘文)
伊弥頭国(いみずのくに)射水郡(いみず:越中国。天平勝宝6年[754年]正倉院文書)
久比岐国(くびきのくに)頸城郡(くびき:越後国。天平勝宝4年[752年]正倉院文書)
但遅麻国(たぢまのくに)但馬国(たじまのくに:『日本書紀』)
鴨国(かものくに)賀茂郡(かも:播磨国。『続日本紀』)
穴国(あなのくに)婀娜国(あな:『日本書紀』)
粟国(あはのくに)阿波国(あは:『日本書紀』)
長国(ながのくに)那賀郡(阿波国:平城宮木簡)

『先代旧事本紀』で国と呼ばれていた地域が、『日本書紀』で郡になっている場合がある。風土記にはこのように国を郡に変えた事例がいくつか記録されている。『先代旧事本紀』の表記は、のちに郡になった地域が「国」と表されていた古い姿が残されたことを示す。

■ 饒速日命を祖先とした物部氏は古代の最大の氏族

古代の最高執政官である「大臣」「大連」の出身氏族を『古事記』『日本書紀』などによって調べると、饒速日命の系統の物部氏がもっとも多い。『先代旧事本紀』を加えるとこの傾向はさらに顕著になる。

これらの書物が成立した時期は、すでに物部守屋が蘇我氏に滅ぼされた後であるにもかかわらず、多くの物部氏が登場するのは、物部氏が歴史の中で否定できない大きな勢力であったことを示すものである。

古代の大臣・大連(『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』による)
系統人数氏族名 
饒速日の命系11人出雲の醜の大使主など、物部の十千根の大臣など物部姓8人
武内の宿禰系7人武内の宿禰の大臣、葛城氏、平群氏、許勢氏、蘇我氏 
大伴氏系2人大伴の室屋の大連、大伴の金村の大連
孝昭天皇系2人丸邇(わに)の比布礼の意富美など 
天の児屋根の命系1人雷の大臣

『先代旧事本紀』による大臣・大連(上表に掲げたものを除く)
系統人数氏族名 
饒速日の命系24人宇麻志麻治の命など、物部の多遅麻の連公など物部姓13人
大国主の神系1人天の日方奇日方の命 
 

 3.現代の抹殺博士

■ 元祖抹殺博士 重野安繹(しげのやすつぐ)

幕末−明治時代の歴史学者。帝国大学教授となり、国史科を設置した。著書に「国史綜覧稿」などがある。古事記の研究など注目すべき業績もあるが、何人もの歴史上の人物について、架空の人物であるとしてその実在を否定したため、抹殺博士と呼ばれた。

■ 現代の抹殺博士

津田左右吉以降、現代も抹殺博士がたくさんいる。たとえば、つぎの文章。

磐余彦(いわれひこ:神武天皇)の大倭(やまと)平定説話の前段階を構成する東征説話に、北九州の邪馬台国が東遷した事実が含まれていると主張する説もある。しかしこれは津田左右吉が早く指摘したように、皇室の祖先を説明するために、天孫が日向に降臨したという説話が設定されたために、これを実在する大和朝廷に結びつける必要から作為されたものであって、全く史実性を認めることはできない。しかしそれは単なる作為というよりは、むしろイスラエル民族のエジプト脱出の伝承に類似する一種の信仰ともいうべきものであろう。(中村一郎氏執筆)

米田雄介編『歴代天皇年号辞典』吉川弘文館2003年12月刊

「東征説話は作為」とするのは論理的でない。ロジカルな証明がないし、日向に降臨した理由が抜け落ちている。否定することを前提にして、客観的判断基準なしに話を進め、最後は津田左右吉がこういったということで論証なしで終わる。

こんな乱暴な論理で古い伝承をどんどん抹殺していってしまうと、そのうち「記紀の伝承は作り話だから読まなくて良い」ことになってしまう。このような傾向のせいか、最近の文献学者は、基本的なことで間違いを犯すことが多く不勉強が目立つ。聖徳太子の非実在論などは文献をよく読んでいない典型的な例に見える。  

■ 抹殺に異議あり

かっては津田左右吉にかなり近い発言をされていた上田正昭氏は、最近の著書では次のように述べ、神話伝承は全くの作り事ではなく、なんらかの歴史的事実を背景にして成立したとの見解を示す。

なぜニニギノミコトは筑熱の日向に天孫降臨する必要があったのか。日本の天皇の祖先と言われる神日本磐余彦(『古事記』では神倭伊波礼昆古命)が大和で誕生して、大和から勢力をずっと拡大していくという建国神話の方が自然でしょう。それなのになぜ天孫は筑紫に降臨し、磐余彦すなわち神武天皇は九州から東征するのか。

九州から出発して大和に入るということは、大和の在来の勢力ではなくて、外から入ってきたということですね。つまりこうした神武天皇の東征伝承は、ヤマト朝廷にとって、必ずしも有利な伝承ではない。にもかかわらず『記』・『紀』などに明記しているということは、そのすべでが架空の話ではなくて、そこにはやはり何らかの意味があると考えるべきでしょう。

ここからはまったくの仮説です。私は三世紀の邪馬台国の所在については古くから畿内説です。しかし、邪馬台国は三世紀にできたのではなく、前期邪馬台国の段階があると考えています。「倭国の乱」というのがありますが、この乱は二世紀の後半です。これを多くの学者は倭国の「大乱」と言っていますが、大乱と書いてあるのは、『後漢書』と『隋書』だけなのですね。『三国志』は「乱」ですし、ほかの中国の書も多くは「倭国乱る」と書いてあるだけで、「大乱」とは書いていないのです。『後漢書』というのは五世紀の前半に書かれた本で、『魏志』よりあとの本です。したがっで「倭国の乱」と言った方がいいでしょう。

その二世紀の争乱の中で、卑弥呼が擁立されるわけですが、それ以前の前期邪馬台国については、これも仮説ですが、私の考えは九州説なんです。

弥生時代の中期の段階の考古学の発掘成果を見ますと、やはり九州の方が、遺物の質、遺跡の内容も豊かで規模も大きいのです。それが三世紀になると断然、大和のほうが優れてくる。これは明らかに西から東へと文化が動いたことを示している。つまり文化が東漸しているのです。

もしも三世紀の邪馬台国が九州であるのなら、九州の邪馬台国はその後どうなったのかということを議論しないと、九州説は都合が悪いと思うのです。消えたとか滅ぼされたとか、何か理由をつけなければならないと思います。

ですから私は、ひょっとしたらこの神武天皇の東征伝承というのは、前期邪馬台国東遷説と関係があるのではないかと −これはまったくの仮説なのですが− そういうことも考えているのです。ニギハヤヒが先住の王であるという伝承も、やはり物部氏の本拠地が河内にあったから、その祖先の降臨した場所を、大和盆地の真ん中とか三輸山といったところではなく、河内の哮峰(たけるのみね)にしたのではないか。

何らかの歴史的事実を背景にこういう神話伝承ができているのではないか、というのが私の見方です。

上田正昭・鎌田純一共著『日本の神々−『先代旧事本紀』の復権−』大和書房2004年2月刊

  また、大阪大学名誉教授の長山泰孝氏は次のように述べ、抹殺博士たちの論証方法に異議を唱える。

神武天皇という人、カムヤマトイワレヒコという人が実在したかは別にして、神武記の記事はでたらめであるということを、先入観抜きに考えて果たしてそういえるのかというのは非常に問題ですよね。

日向から出て大和へきたというのも、津田さんなんかだとヒノカミの子孫だから日に向かうという名前をもったその土地を出発点にしたなどというけれども、本当にそんな説明でいいのかということが、あれほど具体的に書かれている「大和の平定」あれなどもまったく根も葉もないのかと。

直木孝次郎さんなどは、あれは継体天皇が越前から大和へ入ってきたときの史実を逆に反映しているのだという説明をしていますけれども、そんな説明で本当にいいのか。

ともかく否定するがための論理であり証明ですからね。そういうものをもう一度考えてみる必要があるんじゃないか。

広瀬和雄・小路田泰直編『弥生時代千年の問い』ゆまに書房2003年刊

■ 反映説

長山名誉教授がここで取り上げた直木孝次郎氏のような考え方を「反映説」という。
『古事記』などの史書は後世の創作であるという前提にたって、古い天皇の伝承などをのちの時代のできごとの反映として説明し、古い天皇の実在を否定する。ただし、これによって史書が創作されたこと自体が証明されるわけではない。

「歴史は繰り返す」というように、歴史のなかで似たようなことはよくあることである。反映説の論理では、多くの古い事柄が新しい出来事の反映ということで説明が可能になる。

たとえば、「ナポレオンがロシアに攻め込んで立ち往生したのは、後の時代にヒトラーがロシアに攻め込んで立ち往生したことの反映である。」ということも云えてしまう。

この程度の説明で古い事柄を架空のこととして切り捨ててしまう論証の方法はとても妥当なものとは思えない。

■ 考古学と文献学の関係

日本では、古墳などの年代が考古学者によってどんどん古くされる一方で、抹殺博士たちによって古い伝承が切り捨てられ国家権力の成立時期が新しくなるというおかしな現象が起きている。

中国では日本とは事情が違って、古い時代の権力の存在がどんどん明らかにされ、最近では夏王朝の実在はほぼ確実だといわれている。

文献学者が史記などの古い文献を研究して、ここだと思うところを考古学者が発掘する。文献と考古学が協力し、文献の内容を考古学が実証する仕組みがうまく機能しているようである。

我々もそうありたいものである。


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