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1.一世60年説
2.一年二歳論
3.饒速日の尊が天降ったのはどこか

第219回 
物部氏と古代日本

 

 1.一世60年説

『日本書紀』の編纂者は、中国の史書に倣って天皇の在位年数や年齢のデータを創作した。彼らはどのような手順で天皇の在位年数などを定めたのであろうか。
前回の講演会で説明されたように、安本先生は従来定説とされていた辛酉革命説には問題があるとされる。従来の定説に代わる安本先生の新しい考え方を紹介する。

■ 一世60年説

『日本書紀』によって、神武天皇から仲哀天皇までのデータを整理すると次のようになる。

天皇在位年数  (部分計)寿命即位時の年齢立太子時の年齢
1神武天皇76(181)1275215
2綏靖天皇33845214
3安寧天皇38573021
4懿徳天皇34(77)4416
5孝昭天皇83(185)(114)3218
6孝安天皇102(137)3620
7孝霊天皇76(360)(128)5326
8孝元天皇57(116)6019
9開化天皇601155616
10崇神天皇681205319
11垂仁天皇991404224
12景行天皇60(120)1064721
13成務天皇601074824
14仲哀天皇9524431
平均値61.1105.745.620.3
平均値/230.652.922.810.2
寿命の欄の( )内の数字は立太子時の年齢から求めたもの。死亡時の年齢が記されていない場合のみ、立太子時の年 齢から求めた寿命を用いた。

このデータの在位年数欄では次のようなことがわかる。
  • 在位年数がぴったり60年の天皇が14代の中に3人いる(開化、景行、成務)。
  • 在位年数の平均は約60年である。
  • 何代かの天皇を加算すると60年の倍数に近くなる(部分計)。
『日本書紀』の編纂者は、天皇の在位年数を考えるときに一世60年を基本にして、調整を加えたように見える。

■ 平均的天皇像

 上表の平均値を2で割ると、それぞれの項目の年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になる。これらの天皇の年数は 2倍にされている可能性がある。

『日本書紀』の編纂者は、平均的な天皇像を、
  • 約10歳で立太子
  • 約23歳で天皇に即位
  • 約30年間天皇に在位
  • 約53歳で亡くなる。
のように想定し、これを次章で述べる理由によって2倍にしたと推定される。

一世を30年とする考え方は昔からあったようである。那珂通世は25年〜31年までの間が、父子の年齢差であって一世の平均年数であるとし、著書『上世年紀考』のなかで、孔安国が『論語』に「30年を世という」と注をつけていることや、許慎が『説文』のなかで「30年を一世とする。」としていることを紹介している。

『学研漢和大辞典』でも「世」の意味は、親が子に引き継ぐまでの30年間としている。

■ 在位年数と寿命

上の表のデータのうち、即位時の年齢と立太子時の年齢については、のちの時代に比べるとばらつきが少く安定している。 これは上記のような平均的天皇像を『日本書紀』の編者が定義したのち、特に大きく変更する理由がなかったため、若干の調整を加え ただけのばらつきが少ない数字が温存されたためではないだろうか。

即位時の年齢と立太子時の年齢にばらつきがないとすると、在位年数は、ほぼ寿命によってのみ決まる。 『日本書紀』のデータを調べると、在位年数は寿命と強い相関を示し、即位時の年齢あるいは立太子時の年齢とは相関がない(下表)。これは、上記のようなプロセスで在位年数が決められたことの傍証であろう。

上表の在位年数などのデータ間の相関係数
在位年数寿命即位時の年齢立太子時の年齢
在位年数0.925**-0.030-0.125
寿命0.925**0.353-0.177
即位時の年齢-0.0300.353-0.158
立太子時の年齢-0.125-0.177-0.158
相関係数の絶対値が0.533以上であれば、5%水準で有意(*)。
0.652以上であれば、1%水準で有意(**)。


■ 『日本書紀』と『古事記』の寿命データの比較

『古事記』には天皇の寿命が記載されているので、『日本書紀』編纂時には、寿命についての情報が編纂者の手元にあったと思われる
順位天皇名(代)古事記記載の寿命日本書紀記載の寿命古事記記載の寿命の方が大きい
1崇神天皇(10)168120
2垂仁天皇(11)153140
3神武天皇( 1)137127
4景行天皇(12)137106
5孝安天皇(16)123(137)×
6孝霊天皇( 7)106(128)×
7成務天皇(13)95107×
8孝昭天皇( 5)93(114)×
9開化天皇( 9)63115×
10孝元天皇( 8)57(116)×
11仲哀天皇(14)5252×
12安寧天皇( 3)4957×
13綏靖天皇( 2)4584×
14懿徳天皇( 4)45(77)×
。『日本書紀』の編纂者は寿命についての古伝承を参照しながら『日本書紀』の寿命や在位年数を決めていったと推定される。

『古事記』の14代までの天皇を寿命の長い順に並べて、『日本書紀』記載の寿命を併記すると、次のような規則性が認められる。 (右表参照)

  • 『古事記』で寿命の長い天皇の4人までは、『日本書紀』では寿命が短くなっている。

  • 『古事記』で寿命順で5番目以下の天皇は『日本書紀』では寿命が長くなっている。
これは『日本書紀』の編纂者が古事記などの古い寿命データを知っていて、この寿命データを一定の基準に従って操作し、『日本書紀』の寿命データを作成したことを示すものである。

■ 『古事記』の寿命データと関連データの比較

『古事記』の寿命データと『日本書紀』などの各種データの関係を調べるため、関連データを整理すると下表のようになる。

天皇古事記記載の寿命日本書紀記載の寿命日本書紀による在位年数古事記の記事量(文字数)日本書紀の記事量(行数)
1神武天皇137127763074192
2綏靖天皇4584335820
3安寧天皇49573820011
4懿徳天皇45773413310
5孝昭天皇931148316110
6孝安天皇1231371029511
7孝霊天皇1061287636011
8孝元天皇571165749013
9開化天皇631156093413
10崇神天皇168120681448127
11垂仁天皇153140992482159
12景行天皇137106603749239
13成務天皇951076011517
14仲哀天皇52529163060

この表に掲げたデータ間の相関関係を調べると下表のようになる。
  • 『古事記』の寿命データはここに取り上げた全てのデータと相関を持つ。
  • 『日本書紀』の寿命データは、『古事記』の寿命、日本書紀』の在位年数と相関を持つが、それ以外のデータとは相関を持たない。
この結果は、『古事記』の寿命データが『日本書紀』の寿命や在位年数など多くのデータの普遍的な根源になっていることを示すものである。

相関係数古事記記載の
寿命
日本書紀記載の寿命日本書紀による
在位年数
古事記の記事量(文字数) 日本書紀の記事量(行数)
古事記記載の寿命0.725**0.732**0.591*0.707**
日本書紀記載の寿命0.725**0.925**0.2140.275
日本書紀による
在位年数
0.732**0.925**0.1450.228
古事記の記事量
(文字数)
0.591*0.2140.1450.964**
日本書紀の記事量
(行数)
0.707**0.2750.2280.964**
相関係数の絶対値が0.533以上であれば、5%水準で有意(*)。0.652以上であれば、1%水準で有意(**)。

■ 神武天皇即位年代決定の推定プロセス

以上の検討から、神武天皇の即位年代は次のようなプロセスで決められたものと考えられる。
  • 『日本書紀』の編纂者は中国の史書を見て、日本の歴史書にも年代を入れて体裁を整えようとした。しかし、古い伝承には天皇の寿命の情報はあったが、絶対年代の情報が存在しなかった。
  • 『日本書紀』の編纂者は、年代の手がかりを求めて、中国、朝鮮の文献と日本の伝承を調査した。その結果、魏志倭人伝に記され た卑弥呼を、海外にまで名前が伝わった日本の女王であるとして、神功皇后のことであると考えた。
  • 倭人伝には卑弥呼は3世紀前半に活躍したように記述されている。『日本書紀』の編纂者はこの時代を神功皇后の活躍時期と考え て『日本書紀』の年代決定の最初の手がかりとし、神功皇后紀元を201年とした。
  • そして、これを起点として年代の記されていない古い天皇の在位年数を60年を一区切りとして割り当て、さかのぼって年代を当 てはめていった。
  • 神武天皇は神功皇后から14代前の天皇である。1代を60年として14代さかのぼると紀元前640になる。60年ごとの辛酉 の年に革命が起きるという説にもとづき、BC640年にもっとも近い辛酉の年である紀元前660年を即位の年とした。その結果、 神武天皇の在位年数には20年が加えられた。
  • 天皇の寿命の情報は『古事記』などの伝承として伝わっていたので、『日本書紀』の編纂者はこれを参考にしながら、1代60年として割り当てた在位年数を増減して調整を行い、天皇の寿命を定めた。
国名人名寿命
百済古爾王120余歳
百済比流王110余歳
新羅脱解尼師今99歳
新羅逸聖尼師今100余歳
高句麗巨連98歳
高句麗太祖大王119歳
高句麗次大王95歳
高句麗新大王91歳
高句麗新大王の国相、明臨答夫113歳
駕洛国首露王158歳
駕洛国首露王の后、許黄王157歳
■ 長すぎる寿命や在位年数に対する当時の見方

記紀に100歳を超える天皇が記されていることに対して、当時の人たちは疑問を持たなかったのであろうか。

那珂通世は著書『上世年紀考』の中で、「韓史も、上代にさかのぼるにしたがい、年暦延長されているところは、ほとんどわが国の古史書と異ならない。」と述べ、右表のような長寿の例を挙げる。

『日本書紀』の編纂者や当時の貴族は朝鮮の史書を読んでいて、朝鮮には100歳を超える長寿の王がいたことを知っていたと思われる。そのため、古代の天皇の長寿命について違和感を持たなかったのであろう。  

 2.一年二歳論

「一年二歳論」とは、古代の日本には6ヶ月をもって1年とし、1年を2歳とする数え方があったろうとする説。 これまでに多くの学者が古代史の年代延長に関連して「一年二歳論」について述べている。

■ ブラムセン

デンマーク人。明治初年技術指導のため来日。日本の暦と貨幣について研究。著書『日本年代表』の序説で次のように述べる。
  • 神武天皇から仁徳天皇にいたる17代の天皇の寿命は著しく長くなっている。17代 の平均寿命は109歳である。
  • 履中天皇以後は寿命が急に短くなり、履中天皇以後17代の平均寿命は61歳である。
  • このようなことが起きるのは、神武天皇からの17代は、後世とは異なる暦が使用されたためと考えられる。すなわち冬至と夏至の間、または春分、秋分をもって一年と数えるような暦が使用されていた。
■ 江上波夫、岡正雄

騎馬民族征服王朝説が提出された座談会の席上で次のように発言している。
  • 岡正雄:日本紀年の長のびの原因は、当時の歴法にありはしないかと考えたこともあった。すなわちフォークロア(民族)や民間行事において、6月の末と12月の末とに同じようなことが、集中的に行われる。たとえば、6月の大祓と12月の大祓、霊迎えなど。夏至と冬至に関係しているとおもうのだが、1年を二つに分けて2年とする。このため紀元が長のびしたのではないかと考えた。

  • 江上波夫:北方民族は1年を二つに考えている。それは草木の萌えでる春の正月、草木の葉が落ちる蕭々たる秋の正月。それで、日本の征服者たる騎馬民族の間でも1年は実際は半年であったのかもしれない。
■ 大倉粂馬

著書『日本書紀上代紀年研究』(1953年)のなかで、日本の紀年は、歴代の順序と結びついて考慮されてきたものであり、1年を2年に数えて年紀が延長されたものであろうと述べる。そして、『日本書紀』の紀年では天皇の治世年数が倍になっており『日本書紀』の紀年を半減すれば、『日本書紀』以前の年代が判明すると考えた。

■ 沢武人(宮崎県総合博物館)

論文「春耕・秋収−古代の紀年法についての提案」(1975年)のなかで、下に示すように 6月と12月の同じ日に行われる宮中行事が多いこと、また、7月と1月の行事も対応してい ること、さらには、『風土記』『万葉集』に見える歌垣(かがい)が春秋二期行われること などから1年2歳論を説いた。

6月と12月の同じ日に行われる宮中行事
  • 大祓 (おおはらえ)
  • 御贖物 (みあがもの)
  • 忌火御飯 (いむびのおんいい)
  • 御体御卜奏 (みまのみうらのそう)
  • 月次祭 (つきなみのまつり)
  • 神今食祭 (かむいまけのまつり)
  • 大殿祭 (おおとのほがい)
  • 解斎御粥 (げさいのおんかゆ)
  • 豊受大神宮月次祭
  • 皇大神宮月次祭
  • 節折 (よおり)
  • 鎮火祭 (ひしずめのまつり)
  • 道饗祭 (みちのあえのまつり)
■ 貝塚茂樹

著書『古代殷帝国』のなかで陳夢家氏の次のような説を紹介する。

ト辞では「今年」や「来年」と同じ使い方で、「今歳」「来歳」ということがある。 「歳」を年とせず、半年の「季」をさしていると考えるのだ。1年は禾季(上半年)と麦季(下半年)とにわかれ、禾季は黍や秬(くろき)等のできるとき、麦季は麦類のできるときだ。すなわち「今歳」「来歳」は今季、来季のことで「歳」は半年単位のシーズンを指しているのである。

■ 那珂通世の考え方は少し異なる。

那珂通世は『上世年紀考』のなかで年代延長に関して、 「語りついできた人々が、昔を尊ぶ心から年数を増加させ、それをそのまま記した」 と述べているが、このような理由だと、古い天皇の方が年代延長が大きくなり、200歳や300歳はおろか旧約聖書の創世記のように900歳を超えるような年齢が出てきてもおかしくない。

しかし、実際は、第2代綏靖天皇や第3代懿徳天皇よりも第10代の崇神天皇のほうが長寿であるなど、古い天皇が必ずしも長寿であるとは言えないし、また、200歳を超える天皇も記録されていない。

那珂通世のような理由で年代の延長が行われたのではないであろう。

■ まとめ

200歳を超える天皇がいない。また、第21代雄略天皇以前では40歳以下で亡くなった天皇もいない。 これは、20歳を過ぎて即位し100歳前には亡くなったと思われる天皇の年齢が、2倍されて表現されているということを裏付けるものであろう。

天皇名古事記日本書紀
雄略天皇124歳62歳
継体天皇43歳82歳または85歳
また、雄略天皇と継体天皇は『古事記』と『日本書紀』で年齢表記が右表のように2倍ほどの大きな違いがある。

これは、1年を2歳として数える数え方と1年を1歳とする数え方が並行して行われる時期があり、このような矛盾が生じたと推定される。

『日本書紀』の編纂者は、昔は1年を2歳としていたことを知った上で天皇の年代などを決めたのであろう。
 

 3.饒速日命が天降ったのはどこか

饒速日の尊が天下った場所について「先代旧事本紀」は次のように記す。

「饒速日の尊は、天神のご命令で、天の磐に乗り、河内の国の河上の哮 峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見白庭山 にうつった。」

哮峰の所在地については2つの説がある。

1.哮峰=北河内郡説

交野市私市(きさいちし)にある磐船神社の「磐船」の地で、磐船神社の社殿の後ろに 大きな岩があり石船岩と言われている。

交野の地は、摂津・河内から大和に入る要衝である。後の神武天皇が長髓彦と戦った孔 舎衛(くさえ)の坂もこの近くである。また交野の地は肩野物部氏の本貫地でもある。

2.哮峰=南河内郡説

南河内郡河南町平石にある磐船神社の近くの山であるとする説である。

哮峰=平石説をとる秋里籬島はその著書『河内名所図会』に次のように記す。
「磐船。社頭のところどころにある。船の形に似て、艫へさきがあって、 なかがくぼんでいる。土地の人はいう。この山のなかに48個あるのだろう、と」

この二つの説のうち、交野市の磐船の方が物部氏に関係の深い土地の伝承なので饒速日の尊の降臨地にふさわしいであろう。

物部の守屋が蘇我氏と争ったとき、最後にこの本拠地に逃げ込み、蘇我氏に囲まれて戦 死している。このような場所が物部氏の祖神の饒速日の尊が天降りした哮峰であるとすること に妥当性がある。



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