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1.一世60年説 2.一年二歳論 3.饒速日の尊が天降ったのはどこか | ||||
第219回 |
1.一世60年説 |
『日本書紀』の編纂者は、中国の史書に倣って天皇の在位年数や年齢のデータを創作した。彼らはどのような手順で天皇の在位年数などを定めたのであろうか。
前回の講演会で説明されたように、安本先生は従来定説とされていた辛酉革命説には問題があるとされる。従来の定説に代わる安本先生の新しい考え方を紹介する。 ■ 一世60年説 『日本書紀』によって、神武天皇から仲哀天皇までのデータを整理すると次のようになる。
このデータの在位年数欄では次のようなことがわかる。
■ 平均的天皇像 上表の平均値を2で割ると、それぞれの項目の年齢が通常の人間としてもっともらしい数字になる。これらの天皇の年数は 2倍にされている可能性がある。 『日本書紀』の編纂者は、平均的な天皇像を、
一世を30年とする考え方は昔からあったようである。那珂通世は25年〜31年までの間が、父子の年齢差であって一世の平均年数であるとし、著書『上世年紀考』のなかで、孔安国が『論語』に「30年を世という」と注をつけていることや、許慎が『説文』のなかで「30年を一世とする。」としていることを紹介している。 『学研漢和大辞典』でも「世」の意味は、親が子に引き継ぐまでの30年間としている。 ■ 在位年数と寿命 上の表のデータのうち、即位時の年齢と立太子時の年齢については、のちの時代に比べるとばらつきが少く安定している。 これは上記のような平均的天皇像を『日本書紀』の編者が定義したのち、特に大きく変更する理由がなかったため、若干の調整を加え ただけのばらつきが少ない数字が温存されたためではないだろうか。 即位時の年齢と立太子時の年齢にばらつきがないとすると、在位年数は、ほぼ寿命によってのみ決まる。 『日本書紀』のデータを調べると、在位年数は寿命と強い相関を示し、即位時の年齢あるいは立太子時の年齢とは相関がない(下表)。これは、上記のようなプロセスで在位年数が決められたことの傍証であろう。 上表の在位年数などのデータ間の相関係数
0.652以上であれば、1%水準で有意(**)。 ■ 『日本書紀』と『古事記』の寿命データの比較 『古事記』には天皇の寿命が記載されているので、『日本書紀』編纂時には、寿命についての情報が編纂者の手元にあったと思われる
『古事記』の14代までの天皇を寿命の長い順に並べて、『日本書紀』記載の寿命を併記すると、次のような規則性が認められる。 (右表参照)
■ 『古事記』の寿命データと関連データの比較 『古事記』の寿命データと『日本書紀』などの各種データの関係を調べるため、関連データを整理すると下表のようになる。
この表に掲げたデータ間の相関関係を調べると下表のようになる。
■ 神武天皇即位年代決定の推定プロセス 以上の検討から、神武天皇の即位年代は次のようなプロセスで決められたものと考えられる。
記紀に100歳を超える天皇が記されていることに対して、当時の人たちは疑問を持たなかったのであろうか。 那珂通世は著書『上世年紀考』の中で、「韓史も、上代にさかのぼるにしたがい、年暦延長されているところは、ほとんどわが国の古史書と異ならない。」と述べ、右表のような長寿の例を挙げる。 『日本書紀』の編纂者や当時の貴族は朝鮮の史書を読んでいて、朝鮮には100歳を超える長寿の王がいたことを知っていたと思われる。そのため、古代の天皇の長寿命について違和感を持たなかったのであろう。 |
2.一年二歳論 |
3.饒速日命が天降ったのはどこか |
饒速日の尊が天下った場所について「先代旧事本紀」は次のように記す。
「饒速日の尊は、天神のご命令で、天の磐に乗り、河内の国の河上の哮 峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見白庭山 にうつった。」 哮峰の所在地については2つの説がある。 1.哮峰=北河内郡説 交野市私市(きさいちし)にある磐船神社の「磐船」の地で、磐船神社の社殿の後ろに 大きな岩があり石船岩と言われている。 交野の地は、摂津・河内から大和に入る要衝である。後の神武天皇が長髓彦と戦った孔 舎衛(くさえ)の坂もこの近くである。また交野の地は肩野物部氏の本貫地でもある。 2.哮峰=南河内郡説 南河内郡河南町平石にある磐船神社の近くの山であるとする説である。 哮峰=平石説をとる秋里籬島はその著書『河内名所図会』に次のように記す。 「磐船。社頭のところどころにある。船の形に似て、艫へさきがあって、 なかがくぼんでいる。土地の人はいう。この山のなかに48個あるのだろう、と」 この二つの説のうち、交野市の磐船の方が物部氏に関係の深い土地の伝承なので饒速日の尊の降臨地にふさわしいであろう。 物部の守屋が蘇我氏と争ったとき、最後にこの本拠地に逃げ込み、蘇我氏に囲まれて戦 死している。このような場所が物部氏の祖神の饒速日の尊が天降りした哮峰であるとすること に妥当性がある。 |
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