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1.邪馬台国畿内説批判 2.箸墓古墳が、卑弥呼の墓だって? 3.饒速日の命の墓 | ||||
第220回 |
1.邪馬台国畿内説批判 |
旧石器捏造事件のあと、「もっと徹底した議論が必要であった。」などといわれているが、残念ながら教訓が生かされていない。
考古学の分野では、あいかわらず、自分に都合の悪い事実は一切無視し、都合のよい事実のみを強調・宣伝し事終われりという風潮が盛んである。自説のPRと、多数意見や、権威ある人への付和雷同とのみがあって、「科学的な証明」「事実に基づく検証」がすっぽり抜けている。 2月の朝日新聞に、邪馬台国畿内説の立場で書かれた「転換古代史」が連載された。「事実に基づく検証」をおこなえば、邪馬台国畿内説には多くの疑問があり成立し得ないと思うのだが、このような形で大新聞に取り上げられると一般の人は信じ込んでしまう。 今回は、邪馬台国畿内説と明らかに衝突するいくつかの事実をとりあげて紹介する。 ■ 鏡についての岡村秀典氏の年代論 京都大学人文科学研究所の岡村秀典氏は中国の漢・三国時代の鏡を以下のように八期に大別している。
しかし、岡村氏の年代は、およそ、100年ずれていると思われる。その根拠について次に解説する。 ■ 平原古墳出土の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)について 岡村氏は平原古墳(福岡県前原市)出土の方格規矩四神鏡を漢鏡5期の鏡とし、1世紀後半の鏡としている。 西暦57年や107年に倭人と後漢とが交流した記録があるが、このころ中国からもたらされた鏡だと述べる。 そして、平原遺跡も1世紀後半から大きく下らない時期の遺跡だとする。 2000年3月に前原市教育委員会から、平原遺跡の公式な報告書が発行された。 福岡県教育庁文化保護課の考古学者、柳田康雄氏らが執筆したこの報告書では、平原古墳出土の方格規矩四神鏡は国産の鏡であり西暦200年ごろに作られたものであるとする。 また、柳田康雄氏は論文「平原王墓の性格」のなかで、岡村氏の論考なども検討した上で、総合的な考察により平原遺跡の年代を3世紀前半以降としている。 平原遺跡の年代については、考古学者の小田富士雄氏も「平原は邪馬台国の段階」であると述べており、柳田康雄氏と同じ年代感のようである。 このように、岡村氏の見解は、前原市教育委員会の報告者や、柳田康雄氏・小田富士雄氏などの考古学者の見解と大きく食い違っている。
鏡の年代についての岡村氏の見解は、相対的な前後関係はおおむね妥当だと思えるが、絶対年代としては柳田氏らの見解と約150年もの乖離がありまったく信用できない。柳田氏がさまざまなことを総合的に検討して結論を導いているのに対して、岡村氏は、絶対年代を権威的に与えているだけで、実証的ではないように見える。 岡村氏は、柳田氏らの結論との違いについて見解を示すべきであろう。 ■ 位至三公鏡(いしさんこうきょう)の年代 岡村秀典氏らは、位至三公鏡を漢鏡6期〜漢鏡7期に位置づけており、2世紀前半〜後半の後漢の時代の鏡としている(埋蔵文化財研究会編『倭人と鏡』1994刊)。 しかし、国内外の考古学者たちは、位至三公鏡は魏のあとに成立した西晋の時代(265年〜316年)の代表的な鏡であり3世紀の鏡であること述べている。 たとえば、中国社会科学院考古研究所の徐苹芳氏は位至三公鏡について、次のように述べる。
位至三公鏡は、魏の時代(220〜265年)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316年)に大流行しま
したが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行していなかったのです。
中国では蝙蝠座鈕連弧紋鏡(こうもりざちゅうれんこもんきょう)や通称『位至三公』鏡とよばれる双頭龍紋鏡の小型鏡が三国時代以降も引き続いて製作され広く分布している。『位至三公』鏡は、魏晋時代に都があった洛陽市で発掘された洛陽晋墓54基中、主流になる鏡式である。
ここでも、岡村秀典氏は、鏡の年代を考古学者たちの見解より100年ほど古く見過ぎている。考古学的には位至三公鏡は明らかに魏晋時代の鏡である。にもかかわらず岡村氏は後漢の鏡としている。 ■ 位至三公鏡の分布 中国で晋代に流行した「位至三公鏡」は、わが国では北九州を中心に分布する。「位至三公鏡」に限らず「漢鏡5期」「漢鏡6期」の鏡は北九州を中心に分布している。鏡の出土分布から見ると、魏の後の晋の時代まで、倭国の中心は北九州にあったと見られる。 西暦265年〜316年頃の晋の時代まで、わが国の政治権力の中心は北九州にあったと見られるので、3世紀前半に魏と交渉を持った邪馬台国は、北九州にあったと考えるのが妥当である。「邪馬台国=畿内説」はとうてい成立しえない。 |
2.箸墓古墳が、卑弥呼の墓だって? |
奈良県桜井市にある箸墓古墳は、宮内庁の陵墓要覧に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と記載されている。『日本書紀』によると倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の時代に活躍したとされる。
この箸墓古墳について、白石太一郎氏は次のように述べる。 筆者は、箸墓古墳が最初の倭国王である卑弥呼の墓である可能性はきわめて大きいと考えている。 安本先生曰く、これは学説というよりも、空想というべきものである。2001年に箸墓古墳の周濠から馬具が出土した。 白石氏が云うように箸墓が卑弥呼の墓とするならば、箸箱古墳の周濠から馬具が出土したことは、 卑弥呼の時代またはそれを2〜30年下る時代に馬がいたばかりでなく、すでに、乗馬の風習 まであったということになる。 『魏志』の韓伝には「牛馬に乗るを知らず。牛馬はことごとく死を送る(牛馬に乗ることを 知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう)。」とある。 また、『魏志』の倭人伝には、 倭には「牛馬なし」と書かれている。 つまり、白石説によれば、韓国でさえ乗馬の風習がなかった邪馬台国の時代に、牛馬なしと 描かれた倭国に乗馬の風習があったことになる。 大いなる矛盾というべきである。 白石太一郎氏の著書『倭国誕生』では、箸墓古墳周濠出土の馬具のような話には、まったく触れられていない。都合の悪い事実を無視することによって、白石説は成立している。 「邪馬台国=畿内説」を説く人々は、白石氏ほどではないにしても、箸墓古墳の築造年代などを、とかくくりあげる傾向があるが、都合が悪い事実は無視するのではなく、きちんと説明すべきである。 考古学者の森浩一氏は次のように述べる。 白石太一郎氏は、奈良の箸墓古墳の実年代として3世紀後半を考えておられる。これに対して田辺昭三氏は箸墓の年代として4世紀前半、それも中頃に近いとされている。現状では、同一古墳をめぐって、研究者によって、100年近い年代幅がでる。(『3世紀の考古学』学生社刊) 箸墓古墳の年代を古くさかのぼらせる筆頭は白石太一郎氏である。しかし、事実に立脚すると、白石氏の説くような「箸墓=卑弥呼の墓」説は成立し得ないし、これと関連させて説かれる「邪馬台国=畿内説」も成立しない。 |
3.饒速日の尊の墓 |
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