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『季刊邪馬台国75号』ニュースフラッシュなどから構成 | ||||
箸墓古墳の築造年代 |
1.新聞の報道 |
2001年12月1日(土)の『西日本新聞』につぎのような記事がのっている。他の朝刊各紙にも、ほぼ同じ内容の記事がのっているが、『西日本新聞』の記事が、コンパクトである。 |
国内最古の馬具出土
四世紀初めの木製輪鐙 乗馬 定説の50年前から? 奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。 国内での乗馬の風習は、副葬品の馬具や日本書紀の記 述から、四世紀後半以降、朝鮮半島の百済などとの交渉 を通じて伝えられたとする見方が有力。 実用品である鐙が見つかったことで、定説を五十年以 上さかのぼり、乗用馬が四世紀初めに存在した可能性が 高くなった。初期ヤマト政権の交通事情や対外交流をさ ぐる上で重要な資料になりそうだ。 箸墓古墳は卑弥呼の墓とする説もあり、市教委が3年前に後円部の 周濠跡を調査した際、埋土の中から輪鐙が出土。アカガシ型で残存長16.3センチ、 最大幅10.2センチ。鞍からつり下げるための ほぞ穴(縦1.5セン チ、横1センチ)が付い ていた。 足を掛ける輸の下側 が失われているが、復元 すると長さ23セン チ、幅13センチの台形 のつり革に似た形とみられる。 輪鐙は落葉などが20〜30年にわたってたい積して 固く締まった層から、四世紀初めの大量の土器とともに 出土。同時期に投棄されたとみられ、後世に混入した可 能性は低いという。 鐙は、乗馬が得意でなかった農耕民の漢民族が三世紀 ごろ、馬にまたがる際の足がかりとして発明したとされ る。 現存する最も古いものは、天安斗井洞(朝鮮半島・百済 時代初期)の木芯鉄板張輪鐙とされている。箸墓の鐙も これに並ぶ現存最古級とみられる。 |
2.馬具出土の事実と、これについての解釈 |
この報道では、「四世紀初めの大量の土器」となっている
が、桜井市教育委員会に電話をし、うかがった話では、これ
は、「布留1式」の土器が出たという意味に理解してよい、と
のことであった。
「布留式土器」の初現は、西暦300年ごろからとみる研究 者もたしかに多い。しかし、一方、橿原考古学研究所の関川 尚功氏のように、「布留式の初現を四世紀の真ん中前後」(つ まり、350年前後)(『三世紀の九州と近畿』河出書房新杜 刊)と考える研究者もいる。 「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」という事実について、いくつかの解釈ができる。
西暦350年ごろに、倭迹迹日百襲姫の墓所として、箸墓古墳が築造された。 それと同 時期に、周濠に、落葉が、つもりはじめ、20〜30年のち に、馬具の輪鐙が、投棄された。 また、これと前後して、布留1式の土器も投棄された。 その時期は、西暦370年〜380年ごろとなる。 これは、おおよそ、垂仁天皇の時期に合致する。 すなわち、箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓とする伝承や、垂仁天皇の時代の日葉酢媛の伝承と整合し、また、これまでの馬に関する遺物の出土状況とも整合する、きわめて適切な解釈であると考えられる。 |
3.「箸墓=卑弥呼の墓」説による説明 |
箸墓古墳を、卑弥呼の墓とするような見解がある。
解釈1はこの見解と密接に関連している。
箸墓古墳を卑弥呼の墓とするときの、ストーリーは、およそ次のようになる。 卑弥呼が死んだのは、西暦250年ごろと考えられる。そ のとき、箸墓古墳がつくられ、周濠も、一緒につくられた。 周濠のつくられた当初、まわりに木がなかった。木がはえるのに、30年かかり、その間、木の葉 がつもることはなかった。 木が生え、木の葉がつもり始めてから20年〜30年たったころ、つまり、周濠がつくられてから、60年ほどたって、輪鐙が投棄された。これと前後して、布留1式の土器も投棄された。 このように考えることにより、木製輪鐙の投棄の時期は、四世紀初めごろとなる。 しかし、このストーリーには、つぎのように多くの問題があり、解釈2とくらべると、かなり、無理をしたストーリーといわざるを得ない。
箸墓古墳の築造年代や、布留式土器の初現の時期を古く古 く見つもる見解がさかんである。 しかし、確たる証拠をもっ ているわけではない。 あまり古くみつもると、遺跡・遺物が 連続せず、途中で空白を生じることとなる。また、無理な説 明におちいることが、すくなくないようにみえる。 すくなくとも伝承になんらかの根拠があるとすれば、箸墓 古墳の築造年代と崇神天皇陵古墳の築造年代とが、それほど はなれているとは考えられない。 |
4.「箸墓=卑弥呼の墓」説 |
大正時代から、昭和にかけて、徳島県の脇町中学校の教師であった、笠井新也氏は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫であり、箸墓は卑弥呼の墓であるとする趣旨の論文をあいついで発表した。
肥後和男氏、和歌森太郎氏、原田大六氏など、笠井新也氏の説をうけついだ学者はすくなくなかった。現在でも、奈良県の観光バスのガイド嬢は、この墓を、「卑弥呼の墓」として紹介しているほどである。 笠井新也氏の議論の根拠は、つぎのようなものである。 |
箸墓は、『日本書紀』に記されているとおり、倭迹迹日百襲姫の墓であり、倭迹迹日百襲姫は、祟神天皇の時代の人である。
『古事記』記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとに、祟神天皇の没年を258年であるとする。 卑弥呼が没したのは、248年ごろと考えられるので、祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代である。 よって、卑弥呼の時代と、倭迹迹日百襲姫の時代とは重なりあう。 したがって、この二人は、同一人物で、倭迹迹日百襲姫の箸墓は、卑弥呼の墓である。 |
今日でも、箸墓を卑弥呼の墓ではないかとする見解がみられる。
しかし、現在では、「祟神天皇の時代は、卑弥呼の時代である」という笠井新也氏の年代論は誤りであると見られている。 安本先生も、みずからの天皇一代平均在位年数約十年説をもとにして、祟神天皇の活躍した時代は、340年〜355年ごろであり、卑弥呼の時代とは、100年あまりへだたりがある、と説く。 また、年代的な問題だけでなく、文献からも、倭迹迹日百襲姫と卑弥呼を同一人物とすることについては、疑問が多い。 笠井新也氏の議論の前提である「祟神天皇の時代は、卑弥呼の時代である」とする年代論をとりのぞいて、「箸墓=卑弥呼の墓」とする結論だけとりいれることは、可能なのであろうか。 |
5.倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ) |
倭迹迹日百襲姫は、『古事記』『日本書紀』によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、第8代孝元天皇の異母妹である。吉備津彦の命の姉である。
ただ、『日本書紀』によれば、第8代孝元天皇の皇女にも、倭迹迹姫の命があり、かつ、倭迹迹日百襲姫のことを倭迹迹姫の命とも記している例があるから、倭迹迹日百襲姫は、第8代孝元天皇の皇女ではないかとする説がある。 倭迹迹日百襲姫は、第10代祟神天皇のまつりごとをたすけ、祟神天皇の時代に亡くなったという。 祟神天皇の時代の、国内に疫病がはやり、民は流離し、またそむくものがあった。 祟神天皇7年、春2月、神は、倭迹迹日百襲姫に託して、教えをのべた。 教えによって、天皇は心をつくして、大物主の命の祭祀を行う。 疫病は終息し、民はふたたび賑わった。 『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫は聡明で、よく未来を識ることができたという。 祟神天皇の10年、倭迹迹日百襲姫は、武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱を予言している。 が、そのあとの倭迹迹日百襲姫についての記述は、濃い伝説の影におおわれている。 |
倭迹迹日百襲姫は、大物主の神の妻となった。夫(せ)の君の訪れは、夜だけであった。
姫は夫にのべた。 「できれば、しばらくお留まりください。朝の光のなかで、うるわしいお姿を、仰ぎみたいと思います。」 大物主の神はこたえた。 「あしたの朝、わたしはあなたの櫛箱にはいっていよう。だが、私の姿をみて、驚かないでほしい。」 姫は、怪しみながら、朝の光をまって、櫛箱をあけた。そこには、衣紐ほどの美しい子蛇がいた。 悲鳴が姫の咽喉をやぶった。 夫の神は、人のすがたになり、 「あなたは、私に恥ずかしい思いをさせた。」 と述べたと思うと、大空をふんで、御諸山(三輪山)へと翔けのぼって行った。 後悔の念が姫をおそった。姫は箸で陰部をついてなくなった。人びとは、姫を大和の大市に埋葬した。 その墓は、箸の墓とよばれる。 この墓は、昼はひとがつくり、夜は神がつくった。人びとは、大坂山の石を、手から手に渡して運んだ。山から墓にいたるまで、人びとはたえることなくつづいた。 |
『日本書紀』の天武天皇紀には、「壬申の乱」のさい、この墓、箸墓のもとで戦ったという記述がある。
古くからよく知られている墓である。 |
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