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ホケノ山古墳の年代について |
■ 平成12年3月28日 新聞各紙の報道 |
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ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中の大和古墳群)を発掘調査していた奈良県橿原考古学研究所 大和古墳群調査委員会(樋口隆康委員長 岡林孝作発掘主任)は、古墳の築造年代を3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表した。 3世紀中葉ということは、邪馬台国の卑弥呼の時代ということで、畿内説の考古学者はこぞってコメントを発表された。 |
発掘調査により明らかになった主な事項(新聞報道の抜粋) |
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■ ホケノ山古墳発掘について、安本先生のコメント |
事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない
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すこしきつい表現になるが、はっきりものをいおう。 |
最近の関西発 邪馬台国関連発掘ニュースは、なにやら、大本営発表に似てきている。 発言権をにぎった発掘者が、しばしば、はじめから邪馬台国=大和説の前提で発表を行う。 新聞社や、テレビ局の関西本社などの担当者は、ご当地びいきからか、あるいは、卒業した関西の大学で、邪馬台国=大和説をたたきこまれたためか、情報を得るのを有利にするためか、大和説の前提で、報道をおこなう。 さらによくみれば、邪馬台国と直接関連のない情報までも、ニュースヴァリューを高めるために、邪馬台国と結びつけて報道する。 発掘の当地から発信されれば、他の地域は、その情報を、全国ネットで流さざるをえない。 ところが、もとの情報は、はじめからバイアスがかかっているのだ。 かくて、バイアスのかかった情報が、事情をよくしらない人たちに、大々的にインプットされていく。 なにやら、マインドコントロールの図式に近い。客観的な事実があって、客観的な検討が必要なのであるが、客観的な検討がぬけて、発掘が、特定の説や立場のPRの具となっている。注意が必要である。 |
今回の発掘は、疑問点があまりにも多い。 |
まず、「木槨木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に、木棺があった」という。 この事実じたいが、ホケノ山古墳の築造年代が、「邪馬台国時代に相当する三世紀中頃」という判断を疑わせる。 「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 「棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。 「三国志」の著者は、葬式には、関心をもっていた。 たとえば、
畿内の「木槨木棺墓」も「竪穴式石室墓」も、「棺あって槨なし」にあわない。 邪馬台国が、かりに大和にあったとすれば、魏の使は、それらの葬式を見ききせずに記したのであろうか。 「木槨木棺墓」や「竪穴式石室墓」、さらには「横穴式石室」は、時代の下った「隋書倭国伝」の、 「死者を斂めるに棺槨をもってする」 という記事と、ぴたり一致する。 中国人の観察、弁別記述は鋭い。 いっぽう、九州の福岡県前原市の平原遺跡からは、39面の鏡が出土したが、 平原遺跡では、土壙(墓あな)のなかに、割竹形木棺があった。割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない「魏志倭人伝」の記述にあっている。 平原遺跡の時期は、1998年度の確認調査で、周溝から古式土師器が出土し、また、出土した瑪瑙管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」「東アジアの古代文化」1999年春・99号) これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。 北九州で多量に発見される甕棺墓や箱式石棺墓なども、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう。 |
そもそも、ホケノ山古墳の築造年代が「邪馬台国時代に相当する」という判断は、どのような根拠にもとづくのか。 |
一つは、「庄内式土器」が出土したということによっているようである。 しかし、邪馬台国=畿内説をとる考古学者でも纒向遺跡を発掘した関川尚功氏などは、庄内式土器を、「卑弥呼の活動していた時期よりものちの時代の土器」とする(「庄内式土器について」「季刊邪馬台国」43号) 庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえられているわけではないのだ。 ホケノ山古墳に近い箸墓古墳の築造年代なども、三世紀後半にくりあげる考古学者が多い。しかし関川氏は、四世紀中ごろのものとしている。 「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほうが、文献的事実ともあう。 私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳を、西暦350年ごろ以降に築造されたものとみる。 西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。 |
画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの参考にもならない。 |
画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。 なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。 そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。 中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。 平原古墳の39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。 卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。 三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。 画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。 |
■ ホケノ山古墳の示す事実そのものは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。
■ 事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない。 |
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