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第217回 
奇書『先代旧事本紀』


 1.『先代旧事本紀』とは

『古事記』『日本書紀』には、神武天皇が畿内大和に入る前に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が大和に天下っていたという伝承がある。饒速日命は物部氏の祖先である。『先代旧事本紀』は物部氏の伝承を『古事記』『日本書紀』よりも遙かに詳しく伝えた平安時代前期の歴史書である。

しかし、『先代旧事本紀』には『古事記』や『日本書紀』『古語拾遺』から多くの引用があることや、序文に聖徳太子と蘇我馬子の作であると記述されているにもかかわらず聖徳太子の時代以後のこともたくさん書かれている矛盾などから、偽書ではないかという話もある。

とはいえ、『先代旧事本紀』の物部氏の伝承や国造関係の情報は、ほかでは得られない貴重なものであるし、推古朝遺文のような古い文字の使い方があるので相当古い資料も含まれている可能性がある。

古代のことを記述した文献には以下のようなものがある。『先代旧事本紀』は、取り扱いに注意を要するとはいえ、文献の絶対数が少ない古い時代の研究のためには貴重な資料である。

平安時代以前の文献と成立時期平安時代初期の文献と成立時期
古事記712年続日本紀797年
日本書紀720年古語拾遺807年
出雲国風土記733年新撰姓氏録815年 
万葉集770年ごろ 先代旧事本紀 


 2.『先代旧事本紀』のおおよその成立時期

■ 成立年代の下限

近年の研究により、次第に下限が絞られてきた。

936年に行われた『日本書紀』講義の際に、講師の矢田部公望が「上宮太子の撰ずるところの先代旧事本紀十巻。これを史書のはじめというべし」と述べた。従って『先代旧事本紀』は936年以前に成立していた。

906年、文章(もんじょう)博士の藤原春海の『日本書紀』講義の際に、補佐役の矢田部公望の筆記ノートに『先代旧事本紀』の引用が見える。従って『先代旧事本紀』は906年以前に成立していた。

貞観年間(859〜876年)に編纂された『令集解(りょうのしゅうげ)』の注記に「古事、穴云(あないわく)」として、「饒速日の命天より降る時、天神瑞宝十種を授く」と記述されている。この部分は『先代旧事本紀』からの引用である。従って『先代旧事本紀』は876年以前に成立していた。
「穴」とは穴太内人(あのうのうちひと:平安前期の官吏)が令について記述した『穴記』のこと。

『穴記』は、弘仁(810〜823年)天長(824〜833年)年間に成立したと云われる。ここに『先代旧事本紀』が引用されているので、『先代旧事本紀』は833年以前に成立していた。

■ 成立年代の上限

『先代旧事本紀』には『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』からの引用がある。従って、 『先代旧事本紀』は『古語拾遺』の成立した807年以降に作られたものである。

■ 『先代旧事本紀』の成立

以上の検証から『先代旧事本紀』の成立時期は、807〜833年の間であると言える。

 3.『先代旧事本紀』の著者

幕末・明治の国学者、御巫清直(みかんなぎきよなお:1812〜92)は著書『先代旧事本記折疑』 になかで、『先代旧事本紀』の序文はおかしいが本文はよろしいと述べ、その選者は興原敏久(おきはらのみにく)であろうと云っている。

安本先生も同意見である。その理由は、

『先代旧事本紀』は、『古事記』『日本書紀』からの引用のほかに、物部氏と国造について非常に詳しい情報を記述している。物部氏と国造の情報はほかの文献にはみられないものである。
このことから、『先代旧事本紀』の著者は807〜833年頃に活躍した人で、物部氏と国造について詳しい情報を保有する立場にあった人であるといえる。
興原敏久は下記のようにこの条件に合う。
  1. 穴太内人が『穴記』の中で興原敏久を紹介していることから、興原敏久は、弘仁・天長年間(810〜833年)に活躍した穴太内人と同世代の人であったと考えられる。

  2. 興原敏久は三河国造の家柄である。
    三河国造は、物部氏の祖とされる出雲醜男(いずもしこお)を祖先とする氏族なので、興原敏久は物部氏の資料と国造の資料の両方に接する機会を持てる立場にあった。

興原敏久(おきはらのみにく:生没年不詳)
平安時代前期の官吏。はじめ物部氏。弘仁4年(813)物部中原宿禰の氏姓をあたえられ、のち興原宿禰に改姓。明法(みょうぼう)博士から大判事となり、「弘仁格式」「令義解(りょうのぎげ)」の撰修にかかわった。三河の出身。名は「としひさ」ともよむ。

 4.『先代旧事本紀』の序文

序文は本文とは別人の作と思われる。

推古天皇が史書の編纂を命じた年月日が、本文と序文の両方に記載されているが、日付が違っている。序文では暦の干支の扱いも誤りがある。同一の著者が書いたのであればこんなことは起こらないはず。

文章博士の藤原春海は延喜4年(904年)の『日本書紀』講で「わが国の史書のはじめは『古事記』である」とした。おなじく文章博士の矢田部公望は、承平6年(936年)の『日本書紀』講において、はじめて『先代旧事本紀』という書名を用い、これを最初の史書として紹介した。
このことから、御巫清直は、序文は矢田部公望が904〜936年のあいだに作ったものと考えた。

『先代旧事本紀』の序文には「先代旧事」という言葉と「本紀」という言葉が再三現れることから、『先代旧事本紀』の書名は序文を書いた人の命名であろうと思われる。
「先代旧事」という言葉は『古事記』の序文に見え、「本紀」という言葉は『日本書紀』にある。矢田部公望は、『古事記』『日本書紀』にあったこれらの言葉を用いて序文を作り、2つの言葉をあわせて『先代旧事本紀』と命名したのではないか。

『風土記』は奈良時代には『常陸国司解』などのように記されていた(解は地方官が中央に提出する報告書のたぐい)。『風土記』という語は10世紀の初め頃が初見。本文よりもあとに書名がつけられることがあったのではないか。『先代旧事本紀』も、10世紀の初め頃に解説的な序文が作られ序文に基づく書名が作られたと考えられる。

 5.安本先生の見解

『先代旧事本紀』の本文は、『日本書紀』の推古天皇の条に記されている聖徳太子・蘇我馬子によって選録された史書・史料の残存したものをもととし、西暦828年前後(年代の詳細は次回)に興原敏久が、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章を大幅に加え、さらには物部氏系の史料なども加えてほぼまとまった形に整えられたのであろう。

さらに936年のすこし前ごろ、矢田部公望が解説的「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、さらに、矢田部氏関係の若干の情報などを加えて、現在の『先代旧事本紀』が成立したように見える。

当時は、書写の過程で文言の加わることがあったり、註釈的な言葉が書き入れられることがしばしばあったので、『先代旧事本紀』のように、原初のものにくらべ大幅に書き加えたものがあったとしても、世間の許容度は大きかったのであろう。

著作権とか剽窃という概念がまだなかった時代の話である。和歌などでも「本歌取り」はふつうのことであった。

なお、『先代旧事本紀』については、先生の最近の著書『古代物部氏と先代旧事本紀の謎 』に詳しく述べられている。

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