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特別講師の講演と、安本先生との討論
特別講演会
2011年11月以降、対談は講演記録にいれます
 
2011年 4月17日   森浩一先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


-ひどい学者は、三角縁神獣鏡が500面以上あるのだから、魏への使いが倭人伝に書かれている以外に何回も行ったのだと、馬鹿なことを言っている。

-西暦238年ぐらいまでは公孫氏によって魏への道が遮断されていた。魏は滅ぶのが265年なので卑弥呼が魏から鏡をもらった期間は27年ぐらい。

500面出土した三角縁神獣鏡を魏鏡だとすると、仮にその10倍ぐらいはもらっているとすると、27年間で5000面をもらう計算になる。ちょっと普通じゃ考えられない。あり得ないことをどんどんあり得ることとして議論しても話にならない。

-この説が出たときに、某大手新聞が小林行雄以来のみごとな説だと書いた。 考古学を専門とする記者がである。なにをか言わんやである。怖いんですよ、世の中は。

-崇神・垂仁・景行天皇の時に、鏡の鋳造を裏付ける話がかなり載っている。 たとえば、日本武尊が東に向かうとき大きな鏡を船に取り付けた話がある。大きな鏡とは中国の鏡ではなさそうである。
 
2010年 7月25日   新井宏先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


- 表1や表2では、桃の種とそれ以外の試料に大きな年 代差がある。
これをみると、炭素14年代は土器付着 炭化物だけではなく木材でも危ないのではないか。
年輪年代法も再利用などがあるので加工材を年代測定 に用いるのはあぶない。

- 大事なことは母集団を代表するようなサンプルを選ぶ こと。それと、目的の物を取り出す過程。
桃核はアルカリ処理しても問題は少ないと思うが、前処理によっ て80%がなくなってしまうような土器付着物は危ない。
全部なくならないように上手く処理したというのは、職 人の技としてはほめ言葉かも知れないが、科学の世界 では絶対に褒めないだろう。

 
2010年 6月20日   奥野正男先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


- 卑弥呼の墓を平原遺跡としたとき、径百余歩をどう考えるか。

-良く判らないが、戦国時代の墳墓で、長さを「冊」で、領域を「歩」で示した例がある。これと関係する気もする。平原はまだ全部掘っていないので、墓域が広がる可能性がある。

それよりも、卑弥呼の宮殿が吉野ヶ里にあるのに墓が平原にあるのはどういうわけだと質問してほしかった(笑)

倭人伝に「世有王皆統属女王国」という文があるが、通説では女王国が伊都国を統属するとされているが、逆に伊都国の王が女王を統属すると理解すべきである。

卑弥呼は伊都国の王族から選ばれたと考えると、墓が平原にあっても良いことになる。
 
2010年 4月25日   向井一雄先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


- 山城が防衛的なものなら鉄鏃などの武器があるはずだが。

- 日本の山城では武器は発見されていない。韓国の山城では、カタパルトで飛ばすような石弾が多くでる。日本では石弾も出ない。

- 地域の境の所に山城が位置しているとすると、標高が同じくらいとか、一定の高さ以上とか烽が見えやすいような共通性はないのか

- ない。烽の間隔は40里という規定があるが、40里ではまず見えない。韓国の場合は約5キロの間隔である。大野城と基肄城との距離は7キロほどで阿志岐城を含めた3城は通信ができる。
 
2009年 11月22日   籔田紘一郎先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


- 神祇信仰に興味をもたれたのはどういうことだったのですか?

- 最初は神代の話は興味なかった。律令国家のことを調べていて、記紀神話が 分からなくてはいけない。連系(大伴、物部、中臣)の豪族と、臣系(蘇我など )の豪族の違いを調べるなかで、神祇信仰に興味を持った。

- 今日の話でシャーマニズムの話が出なかったようですが、神功皇后など神懸り したりする。シャーマニズムについてはどういう考えですか?

- シャーマニズムは鬼神信仰の延長線だと思っている。現在でも恐山などでは 祖霊と対話することがシャーマニズムの原点。神功皇后の神懸りなどシャーマニズム は鬼神信仰の延長線。
 
2009年 5月23日   関川尚功先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


-石野博信氏はホケノ山古墳は庄内式の中葉と述べているが、石野先生の見解についてどう考えるか?

-ホケノ山古墳からたくさんの庄内式の壷が出土したが、石野先生はこの壺から判断していると思われる。これらの壷は定形化する前の古いタイプとともに、庄内式の新しいものもあり、年代の幅が広い。数が多いことから石野氏は中葉と考えたのでしょう。

-古いもの、新しいものなどいろいろの年代が出てきたのなら、新しい年代のもので判断すべきだが。

-原則的にはその通り。壺がこれだけきれいに出てきているので壺の問題を重視したいという思いがあったのでは。

-河上先生の小形丸底土器がどこかからまぎれこんだという話はどう思いますか?

-土器をやっているものからみてこの二つの土器が同時に出ることはそうそうあるものではない。河上さんの土器の常識から考え、これはおかしいのではないかと思うのは分かる。
ただ報告書を見ると、同時偏在であると担当者が言っているので、混入の可能性はないと見た方がよい。
 
2009年 1月25日   新井宏先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


-箸墓古墳の年代について、歴博の藤尾氏に問い合わせたら、ベージュ統計でやればピンポイントで決まると言うことであった。歴博の方法で本当に決まるのかという疑問がある。

-藤尾氏はベージュ統計をあまりご存じないと思います。

-歴博は、試料の前処理で収率10%以下のものは原則として測定しないとしているが、15%、20%がOKという保証はないのではないか。

-10%以下だと200年ぐらい古く出る。10%で200年なら20%なら100年ぐらいは誤差が出るかも知れない。30%でも何十年か出るかも知れない。
 
2008年 9月28日   柳田康雄先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


-庄内式土器は九州のほうが古いのでは?

-古いものもあるが、近畿に比べると数が非常に少ない。

-三角縁神獣鏡神獣鏡の初現は?

-庄内式土器の新しい物といっしょに出土した事例があるので、土器から見ると初現は九州である。

-ホケノ山古墳から布留式土器の時代の小型丸底土器が出土していることから、ホケノ山はかなり新しいのではないか?

-小型丸底土器や、銅鏃など、普通に考えると布留式土器の時代のものと思われるが、報告書をまとめる人たちはもっと古く考えているようだ。
 
2008年 6月22日   石野博信先生と安本美典先生の討論 講演の内容はこちら >>



昨年5月に「邪馬台国は畿内か九州か」と銘打って畿内説と九州説が直接対決するシンポジウムを開催しましたが、今回は、その第2弾として、石野博信先生をお招きして、安本先生と共に、畿内説・九州説の立場からの講演と討論を行いました。



講演  「古墳の年代」       安本美典先生

講演  「大和・ホケノ山古墳」  石野博信先生

討論   石野博信先生 安本美典先生
 
2008年 4月20日   新井宏先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>



弥生時代の青銅器の銅は合計しても5トンぐらい。古墳時代は2トンほど。

中国では一つの墓から10トンぐらい出ることがある。等々・・

対談の時間も熱弁をふるう新井先生。



二種類の青銅をブレンドした時の同位対比はどうなるのか、新井先生に確認する安本先生。
 
2008年 1月27日   佐古和枝先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>

 
こんなやりとりがありました。

−唐の時代の中国では、墓に墓誌を納めた事例が多数ある。百済でも陵墓から墓誌が出ている。日本でも7世紀末の小野毛人(おののえみし)の墓から墓誌が出ているのに、高松塚からはなぜ墓誌が出ないのか?

−百済では6世紀に亡くなった武寧王の墓から墓誌が出ているにもかかわらず、墓誌を納める習慣は日本には伝わらなかった。百済は中国南朝の影響を強く受けているのに、日本は南朝の影響をあまり受けていない。宦官も日本に伝わらなかった。
これらのことを考えると、日本は外国の文化を選択した上で取り入れているように見える。
しかし、墓誌が出ないことについてこれ以上の理由付けはなかなか難しい。
 
2007年 11月25日   河合信和先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>

 
今回は安本先生も元気に復帰して、対談と質疑応答を行いました。

−人類の言語の発達についてどう思う?
−言語は化石として残らないので難しいが、ものごとを抽象化する能力はホモ・サピエンス以降であろう。ただ、石器製作などから考えればネアンデルタール人がまったくの馬鹿というわけではない。解剖学的に発声能力に限界があるので、現代人のようなコミュニケーションは無理。

−ネアンデルタール人は遺体に花を供えたという話があるが?
−類例が他にないので再検討すべきと思う。この地域に花を食料にするネズミがいるので、遺体の近くに花を持ち込んだ可能性がある。
 
2007年 10月28日   河合信和先生の講演 講演の内容はこちら >>

安本先生が体調不良のため、河合先生との対談はありませんでした。そのかわり、河合先生には「現代人の起源」と題して目一杯講義をして頂きました。

上:河合先生を紹介する内野会長

下:講演中の河合先生
 
2007年 5月13日   邪馬台国は畿内か?九州か? 講演の内容はこちら >>

「邪馬台国は畿内か九州か」と銘打って畿内説と九州説が直接対決するシンポジウムを早稲田大学国際会議場で開催しました。

西谷正先生を行司役に、石野博信先生と安本先生が400人以上の聴衆を前に、熱い議論を展開しました。

シンポジウムの内容
1.畿内から見た邪馬台国 石野博信先生
2.九州から見た邪馬台国 安本美典先生
3.討論             全員
4.総括講演           西谷 正先生
 
2007年3月25日   斉藤光政先生と安本美典先生への質疑 講演の内容はこちら >>

講演時間が長びいたので、対談は省略して会場から質問を受けました。

−海外でもこのような偽造の事例があるのか?
→海外でもたくさんある。講談社ブルーバックスの『背信の科学者』に多くの事例が乗っている。

−プロの学者やマスコミはどう対応してきたのか?
→最初は、マスコミ各紙が取り上げたが、難しい問題であり、節々のニュース以外は報道しなくなった。マスコミはさまざまなニュースを扱っているので、この件だけを継続して報道し続けるのは難しい。
現在進行形の捏造事件の特徴は、次々といろいろな資料が出てくることである。今回も斉藤先生の著書の出版に合わせるように新資料が現れた。学者がこのような後出しゲームにとことん対応するのはたいへんなエネルギーが必要。このため普通の学者は手を出さない。
西村俊一氏(東京学芸大学教授)、新野直吉氏(秋田大学学長)、武光誠氏(明治学院大学教授)などの学者が細かい検討を行わず簡単に『東日流外三郡誌』を信じてしまった。特に、新野氏や武光氏は、津田左右吉の文献批判学を学んだ日本史の専門家である。文献を疑えということを学んで『古事記』『日本書紀』を盛んに疑うのに、『東日流外三郡誌』に疑問を持たなかったのは問題である。
 
2007年2月18日   高森明勅先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>

-元興寺塔露盤銘、丈六仏光背銘、法隆寺薬師像光背銘などに記されている天皇号は、推古朝のものではないということだが、その根拠は。

-これらは、坂本太郎や津田左右吉が、天皇号推古朝成立説の根拠としたものだが、元興寺関係資料は現物がなく、元興寺伽藍縁起に引用された二次史料である。この中にはヤマトを大倭と書いたり、桜井豊浦宮という表現があり、推古朝のものとするには疑問がある。
法隆寺薬師像光背銘は推古15年のものといわれているが、ここでは聖徳太子のことを東宮聖王と記している。皇太子の制度がまだ確立していない聖徳太子の時代に、皇太子制度が確立した後の称号の「東宮」という言葉が現れることが問題。

-法隆寺薬師像光背銘にある「治天下(あめのしたしろしめす)」と言う表現は718年以前のかなり古いものではないか。古い史料を引用したことも考えられるのでは。

-「治天下」から「御宇」の切り替わりは、701年の大宝律令によるというのが現在の定説。従って、それ以前とは言えるが、推古朝の史料とは言えない。

・・・・・等々、かなり専門的な内容の議論でした。
 
2006年12月17日   佐古和枝先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>

−邪馬台国時代の小型倣製鏡や広形銅矛と、近畿式銅鐸の鉛同位体が同じであることから考えると、佐原眞先生が示した銅鐸の年代は少し古すぎるのではないか?
−佐原先生の若い時の研究なのであまり気にすることはないのでは・・(笑)
その後、鋳型が出たり、土器の編年も変わってきたので、銅鐸の年代も佐原説と異なる考え方がでている。
銅鐸の製作年代は鋳型の年代がわかれば判明するが、近畿式などは土の鋳型なので残らない。また、いつまで使われたかも特定は難しい。
−入れ子になって出土する銅鐸が、佐原説のように数百年も離れた時期とは考えにくいが。
−佐原氏の功績は、年代論ではなくて型式論。銅鐸の新古の順番を決める目安を決めたこと。
−同感。
−鉛同位体の分析について、久野雄一朗氏などの否定的な見解を見ると、現段階では有効な方法ではないのでは。
−鉛同位体についての馬淵久夫氏の研究によって青銅器が整然と分類されることは事実。最近、新井宏氏が馬淵氏とは別の方法で研究している。
・・・・・等々、おもしろい議論でした。
 
2006年10月22日   関裕二先生と安本美典先生の対談 講演の内容はこちら >>


二人の質疑応答や、会場からの質問への回答などが和気あいあいと行われました。たとえば・・・

安本先生の質問
漢風諡号に神を含む天皇は、鬼と関係があるということですが、この関係は淡海三船が漢風諡号をおくる時に、三船が考えたことなのか、それとも、当時の関係者が、神と鬼の関係を共通認識として持っていたのか? 
答: 淡海三船が考えたと推測しているが、正確なところは不明。

関先生の質問
大和建国の時の吉備との関係は? 特殊器台型土器が大和に持ち込まれ、前方後円墳の起源が吉備にあるという話がある。吉備の宗教観などが大和に持ち込まれたのでは? 
答: 特殊器台型土器が大和に持ち込まれたのは、大和建国よりも後の、350年ごろと思う。箸墓に特殊器台型の埴輪が置かれたのは、被葬者の倭迹迹日百襲姫の弟が四道将軍として吉備に赴いた大吉備津彦であることから、吉備の葬具が供えられたと考えられる。『日本書紀』がどの程度信憑性があるかということについては、関先生とは意見が分かれるかもしれない。
 
2004年6月13日   奥野正男先生と安本美典先生への質疑 講演の内容はこちら >>

Q:考古学協会では、たとえば三角縁神獣鏡の国産/魏鏡などについて学問的な議論をしないのか?

A:考古学協会は会員のほとんどが埋蔵文化財の調査をしている人で、研究者ではない。
いわば、埋文調査者の業界団体であり権威主義的な体制である。科学的に問題を議論する場とはいいにくい。

Q:考古学者には科学者がいるのか?
A:なにをもって科学的というのか議論が必要だが、
考古学界のリーダー的な人が、ポリティカルで信念的な傾向。 観察に基づき、公平な立場で客観的に実証する姿勢に欠ける。
捏造事件関連では「藤村には地下の地形を見通す力がある」などと言う岡村氏の発言は科学的ではない。
このような人を認めてきた考古学界もあまり科学的ではないといえる。

今日は、おもしろいと言うよりも、驚くべき内容のお話をありがとうございました。
 
2003年7月13日   金田弘之先生と安本美典先生の討論 講演の内容はこちら >>

ディスカッション開始。
ちょっと緊張気味の金田先生
どんな話になるのか、聴講の皆さんも興味津々。
背筋を伸ばして歯切れ良く質問に答える金田先生。
さすがは元軍人。


ホワイトボードを使って、ていねいに質問に答える安本先生
 
2003年2月16日   大塚初重先生と安本美典先生の討論 講演の内容はこちら >>

- 騎馬民族が日本に進出したとされる4世紀後半から5世紀初めは、広開土王碑文や神功皇后の伝承などから、日本が朝鮮半島へ進出して戦争をしていたと思われる。乗馬が日本に急速に普及したのは、高句麗との戦いのために、急いで騎馬を学習したのではないか
= 考古学的な遺物の研究によって、4世紀に馬がいたことや、鉄が盛んに使用されたとは言えるが、広開土王碑文の内容や、日本側の武装の状態を実証するのは難しい。
- 箸墓古墳の周濠から発掘された木製輪鐙が4世紀初めのものと報道されたが・・・
= 安本先生は、むずかしい話ばっかりで・・・笑
関西の研究者は、この輪鐙をあまり重要視していない。3年前の発掘資料の整理中に発見されたようだ。生の発掘資料でないので私も取り上げるのを躊躇する。
- 畿内説の学者にとって、牛馬無しとされた邪馬台国の、卑弥呼の墓から、馬具が出るのは都合が悪いから、無視してる?   = いかにも安本さんらしい・・・爆笑!
やはり、畿内説が多い関西の研究者の中でも?マークが付いているんでしょう。
- 箸墓の葺石は、日本書紀の伝承通り大阪の石が使われてる。伝承が正しいとすれば、箸墓は、4世紀半ば以降の崇神天皇の時代に築かれたと考えられるが・・・
= 崇神天皇の古墳は、出土した小型丸底土器などから、4世紀半ばかそれより下る時期だろう。   


箸墓は、崇神天皇の古墳より、下の平地にあり、崇神天皇陵より後にできたのではないか。

中身の濃い討論でした。
お疲れ様でした。 みんなで拍手。
 
2002年10月6日   尾本恵市先生と安本美典先生の討論 講演の内容はこちら >>


安本先生が、尾本先生の著書『日本人の起源』を、よくまとまった好著と紹介。

まずは友好的雰囲気で始まりました。
安本先生の資料説明。  なるほどなるほど・・・
論戦開始。
埴原先生は二重構造説で日本人は南方起源だと述べておられるが、この説は本質のところで疑問がある・・・
安本先生は、南か北かが本質的問題のようですが、人類学ではですね・・・
安本先生の突っ込みに、苦笑する尾本先生
こまりましたなー・・・
アイヌ文化はそんなに古いものではなく、8世紀〜10世紀以降に形成されたようだ。
スライドを使ってくわしい説明


楽しい討論でした。

ありがとうございました。 みんなで拍手。

2002年1月27日   佐原 眞先生と安本美典先生の討論講演の内容はこちら >>

静かに始まる討論

庄内式土器の年代についてお聞きしたい・・
土器による年代は5年10年の単位では決められない。

20〜30年の範囲は同じ時期と考える。
畿内説の学者は、庄内式土器は畿内が先というが
私は九州から畿内に伝わったと考える・・

安本先生、立ち上がった!
議論白熱。佐原先生も思わず立ち上がって応戦。
舌鋒鋭く切り返す佐原先生
佐原先生、とうとうと持論を展開。



意見の一致はみなかったが大変スリリングな討論でした。

お互いの健闘をたたえて、握手で締めました。

2001年3月11日   佐原 眞先生の講演    テーマ「男と女の考古学」
講演中の佐原先生
佐原先生と安本先生の討論
会場のようす

2000年5月21日  西尾 幹二先生の講演  テーマ「古代史の扱いの疑問」
講演中の西尾幹二先生
講演中の西尾幹二先生
  
2000年3月19日  佐原 眞先生の講演  テーマ「絵から見た考古学」
講演中の佐原先生
講演中の佐原先生
佐原先生と安本先生の討論
佐原先生と安本先生の討論


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