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第254回 特別講演会
天皇号の成立 高森明勅先生

 

1.天皇号の成立  高森明勅(あきのり)先生

■ 天皇号の成立年代

主な先行説
  • 天武・持統朝説
    現在は、通説となっている。東野治之氏の研究が代表的。

    天武3年上限説(下記)や、天武朝の木簡に天皇号が記されていることを根拠にして、天皇号は天武朝に成立し、持統朝の飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)によって正式に制定されたとする。

  • 推古朝説
    天武・持統説の前に通説とされていた説で、元興寺の塔露盤銘や丈六仏光背銘などの金石文に現れた天皇号を根拠に津田左右吉が唱えた。

    東京大学の歴史学者・坂本太郎は、推古朝当時の国際情勢から、中国皇帝と競合せず朝鮮の君主よりランクが上の称号として天皇号が考案されたとして推古朝成立説を支持した。

    金石文の年代の根拠に問題有りとされ、勢いを失っていたが、最近は、上限年代の考え方(下記)が変わってきたことにより、また徐々に有力になりつつある。

  • その他
    欽明朝説、天智朝説、大宝律令説などがある。
天皇号成立の下限年代
  • 天武6年(677年)説
    奈良県の飛鳥池遺跡から出土した木簡に、「天皇」の文字がある。また、同じ場所から「丁丑年」という文字が記された木簡が出土している。「丁丑年」は天武6年にあたると考えられることから、天皇号は天武6年前後に成立したとする説。

    飛鳥京跡から出土した天武10年頃の木簡に「大津皇子」と記されていた。天皇の子供を「皇」の文字を使って皇子と表記していたことは、このころすでに天皇号が成立していたことを裏付けるものだろう。

  • 推古30年(622年)説
    推古30年は聖徳太子が亡くなった年で、亡くなって間もなく、聖徳太子のことを偲んで作成された「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」の銘文に「天皇」と記されている。

    天寿国繍帳の年代について、後代の作ではないかという議論があるが、天寿国繍帳には「皇后」のかわりに「大后」と記されていることから、「皇后」の称号が確立した天武・持統朝より以前に製作された古いものであり、推古朝と考えて良いであろう。

天皇号成立の上限年代
  • 天武3年(674年)説
    674年に唐の高宗が「天皇」号を使ったという記録がある。もし、これ以前に日本で「天皇」号が用いられていたら、当時の中国人の自尊心や中華思想から考えて、高宗の称号として、東夷とおなじ「天皇」号は使わなかったであろう。従って、日本で天皇号が使用されたのは高宗の時代以降であるとする説。

    新羅の地域から高宗天皇と記された碑文が出土していることから、新羅には、高宗が天皇と称したことが伝わっていたと思われる。このころ何度か日本から遣新羅使が新羅に赴いており、唐の高宗が「天皇」を名乗っていたことは、遣新羅使によって日本にも伝わったはずであり、日本の天皇号は、中国の称号をまねて作ったものであろう。

    しかし、これに対して、有力な反論が現れている。
    高宗の妃の則天武后が「天后」という称号を使ったが、「天后」号は則天武后が使う前に、すでに他国で使用されていた。しかし、中国はこれを認めたわけではなかった。

    「天后」の例のように、中国が公認していない場合には、遅れて採用しても「中国人の自尊心」にはまったく牴触しなかったとみられる。

    日本が天皇号を先に使ったとしても、中国が公認していないので、高宗は気にもとめないで天皇号を使ったであろう。こう考えると、高宗が天皇号を使用したことを根拠にして、日本での天皇号使用の上限を674年とするのは無理がある。

    また、坂上康俊氏は、高宗の遺言の中に「皇太子が皇帝の地位に就くべきである」と記されていることや、高宗が天皇号を採用した翌年に逝去した皇太子に「孝敬皇帝」という諡号を贈っていることから、この時高宗が使用した「天皇」号は、高宗個人の尊号であって、「皇帝」号の代替ではないと述べている。

  • 推古15年(607年)説
    第二回遣隋使が派遣され、小野妹子が国書を携えていった年である。『隋書』倭国伝によると、国書には、倭国王のことを「日いずるところの天子」と表現し、天皇号は使用されていない。すなわち、天皇号が成立したのは推古15年以降のことである。

    なお、「天子」とは天の命を受けて遍く国土を統治する皇帝を意味するので、倭国王が「天子」と称したことで煬帝を怒らせてしまった。しかし、このころ隋は高句麗と戦っており、日本の去就がこの戦況を左右することになるので、日本に対し強く出られない背景があった。無礼な倭国ではあったが、その後も使者の交流が続けられた。

ここでの結論
  • 天皇号の成立は推古16年(608年)。
    『日本書紀』によると、推古16年の第三回遣隋使が携えた国書には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と、天皇号が用いられたことが記される。

    前回の遣隋使では、天子と天子でバッティングして問題になったことは帰国した小野妹子によって伝えられていた。その反省から、隋の「皇帝」に対し倭国は「天皇」として、皇帝のメンツを立てたと考えられる。すなわち、この時に、天皇号が成立したと考えられるのである。

    推古16年に天皇号が成立したとする説は、上限年代を推古15年、下限年代を推古30年とする考え方とも整合する。また、これ以前の天皇号を示す確かな史料は、今のところ見つかっていない。
■ 対外的意義

天皇号の成立は、冊封(さくほう)体制による「中華」皇帝を中心とした国際秩序から離脱したことを意味する。

(1)冊封体制

中国国内の官位の体系の延長として、近隣の夷狄の国々の君主に「王」という称号を与え、周辺諸国を、中国皇帝を頂点とした序列の中に組み込んだ体制。
  • 冊封体制と日本の関係
    日本は、邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王の称号を与えられ、中国の冊封体制に入った。その後も、倭の五王の朝貢などによって、冊封体制を維持してきたが、中国国内の混乱の影響もあって、478年の倭王武の朝貢を最後として、中国との外交関係を持たず、冊封体制からはずれてしまった。

    邪馬台国は、中国の権威を利用して国内を抑えるために、冊封体制の中に入ったと思われる。

    倭の五王の時代は国内の統治体制が完成しており、国内向けの権威付けをするために冊封体制に入る 必要はなかったが、朝鮮半島の国々との関係から、彼らより上位の権威を得るために冊封体制に入る必要があった。特に高句麗と張り合っていた。

    しかし、日本は期待していた朝鮮半島の国々より上の称号が得られなかったので、冊封体制のなかにいる必要がなくなり離脱したと思われる。

  • 隋の冊封体制と周辺諸国
    • 581年:隋が建国し、高句麗、百済は冊封を受ける。
    • 589年:隋が中国を統一、
    • 594年:新羅も冊封を受ける。
    • 598年:高句麗が隋と戦端を開く、隋は勝てなかったが、高句麗が謝罪をして停止。
      隋は3度にわたり大軍をひきいて高句麗をせめた。この戦争で疲弊した隋は、その後、内乱で滅んでしまった。
(2)日本歴史の分岐点

隋の周辺諸国がつぎつぎと冊封体制に加わる中で、日本はたびたび遣隋使を送り外交関係を樹立したにもかかわらず、ついに、冊封体制に入らなかった。

日本は「不臣」の朝貢国の立場で隋と交流しながら、これ以降、独自の路線で発展を遂げていく。「王」から「天皇」への君主の称号の変化は、冊封体制に加わらず中国文明圏とは一線を画する決意を端的に示している。

いっぽう、冊封体制に入った朝鮮半島の諸国などは、最初は独自文化で進もうとするのだが、時代が経過するにつれ、中国の影響を受けることとなる。
  • 年号
    日本は独自の年号使った。最初の年号が「大化」である。
    それに対し、朝鮮半島やベトナムの諸国では中国の年号を使った。

    朝鮮半島では、一時独自の年号を使っていたが、新羅の統一のころ唐の太宗から叱責され、中国の年号を使うことになった。年号の制定権は皇帝にあり、諸国の王にはその権限がなかったのである。

  • 律令
    日本はつぎのような独自の律令を制定した。
    • 養老律令: 718年(養老2)完成
    • 大宝律令: 701年(大宝元)制定・施行
    • 飛鳥浄御原令: 689年制定・施行
    • 近江令:(年代不明、存在しなかったとの説もある)

    これに対し、朝鮮半島の国々は中国の律令を使った。律令の制定権も皇帝に属するもので、冊封体制内の王は律令をかってに制定できなかった。


2.三角縁神獣鏡を中国で発見  安本美典先生

三角縁神獣鏡をめぐる議論の中で、この鏡が中国から一枚も出土していないことが大きな鍵であった。ところが、最近、三角縁神獣鏡が中国本土で発見されたというニュースがあった。

これが本当なら、古代史上の大発見だが、写真を見た日本の研究者の多くは疑問を抱いているようだ。

■ 朝日新聞の記事

2007年2月18日(日)の朝日新聞によると、今回見つかった鏡は、河南省に住むコレクター・王趁意氏が「洛陽で珍しい鏡が見つかった」と聞いて購入したもので、出土地や出土状況は不明である。

直径21.5センチで、縁の断面は確かに三角形。「吾作明鏡・・」で始まる28文字の銘文や神仙と霊獣の文様がある。

この鏡について『中国文物報』に論考を発表した陜西師範大学教授の張懋鎔(ちょうぼうよう)氏は、「直径が21〜23センチの範囲に収まること、縁の断面が三角であることから 樋口隆康氏の『三角縁神獣鏡ン鑑』の条件に合致している。この鏡の研究を大きく前進させる発見」と述べる。

これに対する国内の研究者のコメントは次の通り。
  • 樋口隆康氏(京都大学名誉教授)
    これまで中国で三角縁神獣鏡が見つかったという話はみんな駄目だったが、今回の鏡は 違う。魏で作られたということを証明する発見ではないか。

  • 福永伸哉氏(大阪大学教授)
    確かに縁の断面は三角形だが、文様の構成などが、私たちの言う三角縁神獣鏡とはやや 異なる。

  • 岡村秀典氏(京都大学教授)
    近いけれども、むしろ画像鏡から生まれた斜縁神獣鏡と呼ぶべきもの。

  • 車崎正彦氏(東京大学非常勤講師)
    十数年前なら今回の鏡は三角縁神獣鏡と言われたかもしれない。 愛知県東之宮古墳で出土した鏡とよく似ている。これらの鏡は当初、三角縁神獣鏡と 言われたかもしれないが、その後の研究によって、今では別系統の鏡と言われている。

  • 森下章司氏(大手前大学助教授)
    三角縁神獣鏡を少数の項目で定義するのはとても難しい。 「縁の断面が三角で、神獣鏡の文様がある鏡=三角縁神獣鏡」とは限らない。 縁の断面や文様に加え、文様構成やその表現、銘文、字体、鈕の穴の形など複数の 要素がからみあって「三角縁神獣鏡」という鏡を形づくっていると考えるからだ。
樋口氏以外の研究者の反応はいまいちである。

■ 安本先生のコメント

張懋鎔氏の主張はまったく的はずれである。次のような理由で、今回発見された鏡は、日本でいう、三角縁神獣鏡とは異なるものである。
  • 巻雲文帯の存在
    今回、発見された鏡には、巻雲文帯(下図)が描かれている。

    スタンダードの三角縁神獣鏡の文様は三角縁の近くから、鋸歯文帯、複派文帯、・・ となっていて、「巻雲文帯」が無い。

    これまで、三角縁神獣鏡は五百数十枚発見されているが、そのなかで巻雲文帯を持つものは一枚も無い。したがって、巻雲文帯を持つ鏡は、三角縁神獣鏡とは違う鏡である。



  • 縁の形状
    三角縁神獣鏡は縁の部分の断面はくっきりとした三角形である。

    今回、発見された鏡は縁の部分が三角縁と呼べるほどはっきりした断面三角ではなく、内側から次第に厚みを増していく斜縁の形状である。

    すなわち、今回の鏡は画像鏡から生まれた斜縁神獣鏡と呼ぶべきものである。
今回のような鏡は、これまでに、中国でも日本でも発見されていて、真新しいものではない。中国の出土品は図録として出版されているが、張懋鎔氏は出土品の図録すら丁寧に見ていないようである。
  • 日本で発見された画像鏡。巻雲文帯が見える。


  • 中国で発見された画像鏡。巻雲文帯が見える。

3.天皇号の始まり  安本美典先生

■天皇の記述

「天皇」号が文献にはどう記されてきたかを整理する。

・日本の文献での記述
  • 『古事記』
    「神武天皇記」に天皇という語が記されるが、これは神武天皇の時代ではなく、『古事記』編纂時に書いたもの。

  • 『日本書紀』
    「神代上」に「天皇」の語があるが、これも『日本書紀』が編纂された720年ごろに書かれたもの。

    「推古天皇紀」に、高森明勅氏が取り上げたように、第三回遣隋使(608年)の国書に「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」と、天皇号が用いられたことが記される。
・中国の文献での記述
  • 司馬遷『史記』「三皇本紀」に、「天皇・地皇・人皇」の表現がある。
  • 『越絶書』外伝記に「夫越王勾践雖東僻亦得繋於天皇之位」という文章がある。
  • 『唐書』「高宗紀」に、「皇帝稱天皇、皇后稱天后」という文章がある。
■ 文献上の天皇号の始まり

天皇号の始まりについて、諸文献の見解を整理する。
  • 吉田孝氏『歴史のなかの天皇』
    七世紀の倭の歴史、とくに東アジアのなかでの倭のありかたを考えると、七世紀初の推古朝に、倭の君主は「王」ではない、と主張するために、「天皇」号を用いはじめたのではないか。

  • 日本古典文学大系『日本書紀下』の補注
    天皇号の確実にあらわれるのは推古朝からで、推古16年(608年)9月条の唐帝への国書に「東天皇敬白西皇帝」と記されたのが最初である。

  • 国史大辞典(吉川弘文館)
    7世紀の文章と認められる法隆寺金堂釈迦三尊像銘、天寿国繍帳銘が現存最古の用例であり、「七世紀に入ってからそれまでの「おおきみ(大王)」に代わる公式称号として使用されるようになったのであろう。
■ 天王

『日本書紀』の「雄略天皇紀」5年6月の条に「大倭に向(もう)でて、天王(すめらみこと)に侍(つかえまつ)らしむ」という記述がある。ここでは、天皇のことを「天王」と記している。これが本当だとすると、推古天皇の時代よりもはるかに昔の雄略天皇の時代から天皇(天王)の称号があったことになる。

歴史学者の角林文雄氏は、この「雄略天皇紀」の記述から、「天皇」号が用いられるようになる前は、「天王」号が用いられたのではないかと述べる。その根拠のひとつとして、『日本書紀』の「天皇」が漢音の「テンコウ」ではなく、呉音の「テンワウ」と読まれることを挙げる。

『日本書紀』では漢音系の読み方が原則になっているのも係わらず、「天皇」が呉音で読まれることは、漢音系の読み方が一般化する以前の伝統を伝えるものとみられる。そして、それは「天王」の音をおそったものであろうという。

五胡十六国時代には、君主のことを皇帝と呼ばずに、大漢天王、大秦天王、大涼天王、大燕天王などのように、しばしば「天王」という称号を用いていた。角林氏の言うように、「天皇」のルーツが「天王」であった可能性もなきにしもあらずである。

しかし、金石文には全く「天王」という文字が現れない。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」は雄略天皇のことといわれるが、ここにも「天王」ではなく「大王」と刻まれている。

三角縁神獣鏡に「天王日月」という銘文を持つものがある。これも、「天王」と関係があるのだろうか。


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