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第254回 特別講演会(2007.2.18 開催)
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1.天皇号の成立 高森明勅(あきのり)先生
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![]() 主な先行説
![]() 天皇号の成立は、冊封(さくほう)体制による「中華」皇帝を中心とした国際秩序から離脱したことを意味する。 (1)冊封体制 中国国内の官位の体系の延長として、近隣の夷狄の国々の君主に「王」という称号を与え、周辺諸国を、中国皇帝を頂点とした序列の中に組み込んだ体制。
隋の周辺諸国がつぎつぎと冊封体制に加わる中で、日本はたびたび遣隋使を送り外交関係を樹立したにもかかわらず、ついに、冊封体制に入らなかった。 日本は「不臣」の朝貢国の立場で隋と交流しながら、これ以降、独自の路線で発展を遂げていく。「王」から「天皇」への君主の称号の変化は、冊封体制に加わらず中国文明圏とは一線を画する決意を端的に示している。 いっぽう、冊封体制に入った朝鮮半島の諸国などは、最初は独自文化で進もうとするのだが、時代が経過するにつれ、中国の影響を受けることとなる。
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2.三角縁神獣鏡を中国で発見 安本美典先生
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![]() これが本当なら、古代史上の大発見だが、写真を見た日本の研究者の多くは疑問を抱いているようだ。 ■ 朝日新聞の記事 2007年2月18日(日)の朝日新聞によると、今回見つかった鏡は、河南省に住むコレクター・王趁意氏が「洛陽で珍しい鏡が見つかった」と聞いて購入したもので、出土地や出土状況は不明である。 直径21.5センチで、縁の断面は確かに三角形。「吾作明鏡・・」で始まる28文字の銘文や神仙と霊獣の文様がある。 この鏡について『中国文物報』に論考を発表した陜西師範大学教授の張懋鎔(ちょうぼうよう)氏は、「直径が21〜23センチの範囲に収まること、縁の断面が三角であることから 樋口隆康氏の『三角縁神獣鏡ン鑑』の条件に合致している。この鏡の研究を大きく前進させる発見」と述べる。 これに対する国内の研究者のコメントは次の通り。
■ 安本先生のコメント 張懋鎔氏の主張はまったく的はずれである。次のような理由で、今回発見された鏡は、日本でいう、三角縁神獣鏡とは異なるものである。
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3.天皇号の始まり 安本美典先生
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■天皇の記述
「天皇」号が文献にはどう記されてきたかを整理する。 ・日本の文献での記述
天皇号の始まりについて、諸文献の見解を整理する。
『日本書紀』の「雄略天皇紀」5年6月の条に「大倭に向(もう)でて、天王(すめらみこと)に侍(つかえまつ)らしむ」という記述がある。ここでは、天皇のことを「天王」と記している。これが本当だとすると、推古天皇の時代よりもはるかに昔の雄略天皇の時代から天皇(天王)の称号があったことになる。 歴史学者の角林文雄氏は、この「雄略天皇紀」の記述から、「天皇」号が用いられるようになる前は、「天王」号が用いられたのではないかと述べる。その根拠のひとつとして、『日本書紀』の「天皇」が漢音の「テンコウ」ではなく、呉音の「テンワウ」と読まれることを挙げる。 『日本書紀』では漢音系の読み方が原則になっているのも係わらず、「天皇」が呉音で読まれることは、漢音系の読み方が一般化する以前の伝統を伝えるものとみられる。そして、それは「天王」の音をおそったものであろうという。 五胡十六国時代には、君主のことを皇帝と呼ばずに、大漢天王、大秦天王、大涼天王、大燕天王などのように、しばしば「天王」という称号を用いていた。角林氏の言うように、「天皇」のルーツが「天王」であった可能性もなきにしもあらずである。 しかし、金石文には全く「天王」という文字が現れない。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」は雄略天皇のことといわれるが、ここにも「天王」ではなく「大王」と刻まれている。 三角縁神獣鏡に「天王日月」という銘文を持つものがある。これも、「天王」と関係があるのだろうか。 |
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