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第255回 特別講演会
偽書『東日流外三郡誌』事件 

 

1.偽書『東日流外三郡誌』事件  斉藤光政先生

■ 事件とのかかわり

東奥日報の記者の斉藤光政氏は、別府の歴史研究家・野村氏が、『東日流外三郡誌』の発見者・和田喜八郎氏を訴えた民事訴訟の件を前任の記者から引き継いだ。これが、斉藤光政氏がこの事件と関わりを持った始まりで、以来、今日まで『東日流外三郡誌』と和田家文書を追い続けている。

1992年に始まった訴訟の内容は、市浦村の村史として出版された『東日流外三郡誌』の関連資料として 和田氏が出版した本の中に、以前に、野村氏が和田氏に送った「猪垣(ししがき)」の写真が盗用されているというものである。

「猪垣」とは、近畿地方にある特異な石を積み上げた垣根のことで、野村氏が奈良県や和歌山県で撮った「猪垣」の写真が、和田氏の本の中で、古代の津軽に存在したとされる「邪馬台城」の証拠写真として使われていた。

野村氏は、単なる著作権の侵害と言うことではなく、和田喜八郎氏が現在進行形で『東日流外三郡誌』をはじめとする古文書を偽造していることに気がついたので訴訟に踏み切ったと述べる。

■ 古田武彦氏の支持と偽書の流布

『東日流外三郡誌』は、1995年に青森県五所川原市の北にある市浦村の村史の資料編として刊行された。村史という公の刊行物として出版されたので、青森県だけでなく、近隣の岩手県・秋田県などにも流布し、さかんに二次利用、三次利用が行われた。公の歴史として出版されたものは、間違っていないだろうという意識が働いたのだろう

また、広く信じられた理由のひとつに、当時、昭和薬科大学の教授の古田武彦氏が、この古文書は本物と断言したことが大きい。

古田氏は自説を裏づけるような情報が『東日流外三郡誌』に記されているので、この古文書を積極的に評価した。しかし、これは、和田氏が古田氏の本を読んでいて、その説にあわせた内容で古文書の偽造をしただけのことである。

古田氏などの宣伝を真に受けて、現首相の安倍晋三氏と両親の安倍晋太郎夫妻が、安倍氏のルーツは青森にあるということを信じさせられて、わざわざ青森まで先祖の墓参りに訪れた。

和田氏はこのような有名人の行動を、古文書の信憑性を高めるのに利用した。

当時、地元の国立大学の教授たちは、『東日流外三郡誌』は、一ページ読めばインチキと分かる明白な偽書と判断していた。しかし、彼らは、誰が見ても偽書と分かるそんなものに関係して時間を無駄にしたくないとして、積極的に発言しなかった。

このような経緯で、偽書『東日流外三郡誌』は巷に流布していったのである。

■ 東日外三郡誌と市浦村史

市浦村が村史をまとめるに当たって、和田家にあった『東日流外三郡誌』の368巻の古文書を専門家が読んでまとめる作業が必要であった。この作業を行ったのが青森県の郷土史家たちであった。

郷土史家は大半が小中学校の先生であった。彼らは歴史に詳しいとは云え、プロの歴史家ではないので、和田家の古文書の文章を読むのが精一杯で、これが正しいものかどうか判断できなかった。

編纂にリーダーとして携わった人への取材で、和田家の古文書が正しいと思ったかという質問には、正直言って正しいかどうか分からなかったが、市浦村に頼まれたから編纂したまでのことで、判断する力はないという答えが返って来た。

いつから怪しいと思うようになったかという問いには、本にしたあと反響があって、字がおかしいとかキリスト伝説が記されているのはおかしいなど、いろいろな人から指摘されて、疑うようになったということである。

キリスト伝説というのは、キリストがアジアの果てまで流れてきて、青森県の新郷村で亡くなり、ここに墓があるという話である。しかし、この話は偽書『竹内文書』の所有者竹内巨麿という人物が、1935年に青森県を訪れて突然言い出したのが発端で、この話が寛政年間に編まれたという『東日流外三郡誌』に現れるのは確かにおかしい。

また、字がおかしいというのは、『東日流外三郡誌』の文字が、発見者の和田喜八郎氏の筆跡に酷似していることや、毛筆ではなく、現代の筆ペンを使用して書かれていることなどである。

『東日流外三郡誌』には、これだけではなく、1935年ごろ日本語で紹介されたムー大陸の話や、民活(民間活力)ということばが記されたり、戦後の障子紙が用いられたり、おかしなところが数多くある。

■ 東北地方のコンプレックス

取材をしていくうちに、このような古文書にみんなが飛びついたのは、東北地方のコンプレックスが背景にあると思うようになった。

7世紀にスタートした律令制の中央集権体制は12世紀まで秋田(秋田城)、盛岡 (志波城)を結ぶ線から北に進めなかった。縄文人の末裔の蝦夷が立ちはだかって、大和朝廷の軍勢の侵入を遮っていたのである。

鎌倉幕府が東北まで手を伸ばす以前は、東北地方北部は日本ではなかった。いまでも、東北の人たちは、自分達は日本人ではないのではないかという意識がある。

このような東北人の心情に焦点を当てて製作したのが、和田喜八郎氏の『東日流外三郡誌』だった。民俗学者の赤坂憲雄氏は、東北地方の人たちにはルサンチマンと(怨念)ロマンがあると述べる。これが、『東日流外三郡誌』を普及させた原動力ではないかと述べる。

■ 訴訟の判決と和田氏の死

野村氏の写真の盗用については、著作権侵害で有罪の判決が出て、和田氏は罰金の支払いを命じられた。しかし、法廷は『東日流外三郡誌』が偽書かどうかを判断しなかった。偽書かどうかは文部科学省の判断することで、裁判では判断しないそうである。

裁判の判決が出て、もはや世間は、昔のように和田氏の言うことに耳を傾けなくなった。かつての市浦村の功労者も、村内で厳しい目で見られるようになった。苦境に陥った和田喜八郎氏は、70代前半の年齢で1999年に突然亡くなった。

■ その後

『東日流外三郡誌』が偽書であるという評価が世間で確定してきたのは2000年頃である。

昭和薬科大学時代の古田武彦教授の下で、助手として『東日流外三郡誌』を調査していた原田実氏や、歴史研究の分野で古田武彦氏の一番弟子だった斉藤隆一氏など、古田氏の身近な人たちが古田氏と袂を分かって偽書派の先鋒として活動を始めた。

しかし、古田武彦氏など、現在でも、『東日流外三郡誌』は偽書ではないと信じている人達がいる。彼らは、「寛政年間に作られた  原本がそのうち発見される。原本が発見されれば、偽書説はすべて吹っ飛んでしまう」と15年以上前から述べている。しかし、いっこうに発見されない。

また、和田喜八郎氏の家は江戸時代から続く旧家なので、寛政原本は壁に塗りこめられているはずだとも言っていたそうである。

和田氏が亡くなった後、家は、いとこの和田キヨエさんの手に渡ったので、斉藤氏たちが取材に訪れた。和田氏の家は江戸時代からの旧家などではなく、昭和初期の築造であった。建築した大工さんの証言も得られており、昭和の建造物に間違いはない。

また、内部の調査では、天井裏には、長持ちに収めた『東日流外三郡誌』を隠すような梁もスペースもなかった。

和田喜八郎氏の書斎では、壁が壊されて穴があいていた。誰かが、不法侵入と建造物破壊の罪を犯しながら「寛政原本」を探した跡のように思える。

今回の事件は、旧石器捏造事件と類似性がある。単なる学問としての歴史の問題ではなく、社会問題、民俗学、心理学の問題、刑事事件の詐欺の問題という面もある。


2.『東日流外三郡誌』問題   安本美典先生

■ 和田キヨエさんの証言

和田キヨエさんは和田喜八郎氏のいとこである。和田家の家系は次のようになっている。
   
和田キヨエさんは、『東日流外三郡誌』についてたずねてくる人への説明のため下記のような文章を配布 している。

和田キヨエさんの配布文書
私は和田元市(和田喜八郎の父)の弟の子で、喜八郎とはいとこです。
私は喜八郎宅後ろの同敷地内で生まれ、父が亡くなって母が再婚したことから14歳の時に母に連れられ一旦家を出ました。
しかし、数ヶ月で私はおばあちゃん(和田長作の妻)に連れ戻され、母は再婚先で暮しているため、一人になった私は喜八郎宅の家族と一緒に暮らし始めました。
私が喜八郎宅に住まいした期間は結婚するまでの、5年間で昭和19年の14歳から、昭和24年の19歳迄です。 結婚後は再び喜八郎宅裏の生家で暮らして現在に至っており、幼い頃から喜八郎宅へはしょっちゅう出入りしているため、和田家先祖のことも喜八郎のことも全て分かります。

喜八郎はデタラメな人問でした.
和田家の家系が何十代も前まで遡ることができるというのは嘘ですし、はっきりと分かっているのは元市の親の長作、その親の末吉までです。 代々、米作りと炭焼きを行っており、末吉、長作は殆ど字は書けませんし、当時の農家としては当り前のことでした。
元々、末吉は飯詰の隣村の下岩崎に住んでいたと聞いており、末吉の子の長作の代になって現在地へ引っ越して来たと聞いています。
現在の喜八郎宅は長作が亡くなった後に元市が建てたもので、元市の弟の健三が製材所に勤務していた当時に、古材を集めて昭和15年頃に建てた家です。

私は新築後の喜八郎宅に5年間同居しましたが、新築する以前の家屋も造りは同じで、大きさは一回り小さかった。
現在の喜八郎宅は天井に耐火ボードを張っていますが、昭和24年頃は耐火ボードを張っていないため、部屋の上は屋根裏です。
天井裏に本などが入った箱が吊るされていたということはなく、天井裏から古文書が入った箱が落下したとか、和田家に代々伝わる古文書があるなどは喜八郎の作り話です。
昭和15年頃に建てた家の天井に、先祖から代々伝わる古文書があるはずはありませんし、和田家に伝わっていたとするものは何一つなかった。
飯詰の人々は喜八郎の性格を知っており、誰も相手にする人はいなかったし、 市浦村は喜八郎に騙されたのです。

喜八郎は絵を書くのが上手く、筆を使って障子紙に字も書いていた。
私は書いているところを何度も見たことがあり、喜八郎は書いた紙を古く見 せるため、薪を燃やす炉の上にワラジを干すスダナというものがあったが、ス ダナに付いた煤を紙に付けて揉んでいた。
和田家は中程度の農家でした。しかし後を継いだ喜八郎は仕事もせずに神様 と称したり、訳の分からないことや書物(かきもの)ばかりをしていたので、残った財産は 喜八郎宅と僅かな田圃だけとなり、それも裁判所に差押えられたまま喜八郎は 亡くなりました。
喜八郎が関係した本に出でくる筆跡は喜八郎自身のものです。
和田長作の長男にあたる人は神奈川県に住んでおり、二男が喜八郎の父の元 市、三男が私の父です。

昭和20年代に元市が炭焼窯の跡から出土したとして杯のようなものと銚子 を持って来ましたが、出土物は元市から見せて貰って知っていた。
ところがその後に、出土物を持った喜八郎が写真入りで新聞報道され、その時は見たことのないものまでもが出土物として写真掲載されていた。
その頃から喜八郎は出土物がお金になることを知ったと思います。

若い頃の喜八郎は自分を神様と称して自宅に人を集めたり、飯詰駅の近くに 小屋を建て、自分で彫った石像を神から授かった出土物として祭ってみたり、 やること全てが嘘デタラメだった。
嘘の作り話が長続きするはずはなく、それらはすぐに消滅です。
石ノ塔に神社を建てた時も同様で、皆から寄付金を集めて神社を建てました が、飯詰から石ノ塔の神社へお参りに行く人は誰もおりません。
石ノ塔と和田家先祖とは何も関係はありません。

喜八郎の作り話が歴史として後世に残ることは避けなければなりませんし、 子孫には真実を伝えたいと思います。

和田キヨエ


■ 和田喜八郎氏の家を建てた大工の陳述書

和田喜八郎氏の住居は江戸時代から続く旧家であり、そのため古い文書が隠されていたという。しかし、それを真っ向から否定する情報がある。

和田喜八郎の家の建築にたずさわった大工の小野元吉氏は、1993年につぎのような陳述書を記している。(安本美典『虚妄の東北王朝』より)
陳述書

  1. 私は大正六年生で、飯詰高等小学校卒業後すぐに大工となりました。

  2. 現在の和田喜八郎氏の住宅建築には私も携わりました。
    古い家を取り壊し、さら地にしての新築でした。
    はっきりした時期は忘れたが、戦前であり、私の若いころだった。
    季節は夏で、和田家の仮住まい場所は同じ敷地内に建てた小屋でした。
    発注者は和田元市です。

  3. 東日流外三郡誌が天井に隠され、ある日突然落ちてきたと言われておりますが、当時天井はありませんでした。
    壁等に古文書を埋めたということもありません。

  4. 和田喜八郎氏は飯詰公民館が東日流外三郡誌を紛失したと言ってますが、それは嘘です。
    飯詰公民館が古くなったので解体したのは私で、解体時公民館にあった書類はまとめて玄関に出しておきました。

    そこへ和田喜八郎氏がやって来て「書き物を預けていた」と言い出しました。
    まだ書類等は何一つ捨てていなかったので和田喜八郎氏に調べさせましたが、古い書き物等は何もなく調べた和田喜八郎氏に「なければこの書類は捨てる」と言うと和田喜八郎氏も納得していました。

    今から考えると古い価値のある書き物などがあれば持って帰ろうとしたのではないかと思います。

  5. 石ノ塔に石塔山大山祗神社を建てたのは私です。
    神社を建てた場所には昔から山の神を祭る小さなお堂があり、他にはなにもない場所でした。

  6. 和田家に伝わる古文書、刀、鎧等があるとは聞いたことはありません。

    平成五年十一月二十八日
                     住所 個人情報のため省略
                     氏名 小野元吉

■ 古田武彦氏の所説を支持する古文書

古田武彦氏は著書『真実の東北王朝』なかでつぎのように述べる。

昨年(昭和63年)10月、二回目に当地(藤崎)に来た。朝日トラベルの古代史ツアーだった。藤本光幸さんのお宅に、和田喜八郎氏が幾多の文書を運んできて下さった。モーニング姿は、きりりときまっていた。

『磐井王は筑紫の邪馬壹之系なり』

この一節を見たときの、わたしの驚き。わたしの『九州王朝』のテーマが、ここですでに語られている。これは孝季の『自作文』ではなく、神社所蔵文書などからの『写し』だったようだけれど、知己を見た思いだった。少なくとも3〜6世紀を一貫する間の『九州王朝』論の真髄がズバリ語られていたのである。

古田武彦氏は『東日流外三郡誌2』(八幡書店刊)の別報の「秋田孝季の人間学」という文のなかでもつぎのように記している。

”築(筑)紫の磐井王は築紫の邪馬壱の系なり。”として、近畿の邪馬台(ヤマト)とは別の、九州なる王朝の系列の存在を予告している。 昨年十一月、この紙葉にふれて、愕然として狂喜したわたしの心緒、それはおそらく心ある人々のよく察して下さるところであろう。

和田喜八郎氏は、古田武彦氏の本を読んで「古文書」を製作しているのだ。その「古文書」を読んで、古田武彦氏が、自説を支持する根拠となる「古文書」が出現したと思いこみ、「愕然として狂喜する」する構図になっている。

和田喜八郎氏は、古田武彦氏に会見するにあたり、古田氏が喜ぶように、古田氏の潜在意識的「御要望」にあわせて「古文書」を製作していることに、古田氏は気がつかないのであろうか。「需要」にあわせて「供給」が行われているのである。

■ 「寛政原本」発見!

「肥さんの夢ブログ」という個人のブログに、『東日流外三郡誌』の「寛政原本」が発見され、昨年(2006年)12月にそのお披露目の会が開かれたことが記されていた。(「肥さんの夢ブログ」2007年1月30日)

現在、インターネットで検索すると、このような「寛政原本」発見の話題がいくつか見つかる。 オンブック社というオンデマンド書籍の出版社から『東日流外三郡誌 寛政原本・写真版』が発刊される予定とのことである。

前々回の講演会でも紹介したが、10年ぐらい前に古田氏は200万円支払って古文書を作ろうとした。証拠をつかんだ安本先生は古田氏に直接電話で強く抗議したそうである。そのせいか、古文書が日の目を見ることはなかった。

しかし、斉藤光政氏の著書の出版にタイミングを合わせるように「寛政原本」が出てきた。追いつめられると、それを跳ね返すために偽物の証拠を作るという構図である。

古田氏は、いまもなお一発逆転を狙っている。 なにをかいわんやである。

古田武彦氏は同じような手法でつぎのように繰り返しインチキを行ってきた。
  1. 200万円支払っての古文書製作依頼事件
  2. 共同通信社説配信事件
  3. 『サンデー毎日』弁護士導入事件
  4. 吉野ヶ里=『週刊文春』事件
  5. 中村卓三教授電子顕微鏡写真事件
  6. 高知県紙業試験場の大川昭典氏の紙の鑑定事件
  7. 不易糊蛍光反応ノリ事件
大学の先生がデータを捏造したりしてニュースになることがあるが、普通は、一つでもインチキをしたことがバレたら、その学者は大学をクビになり学会から追放される。これが世間の常識なのに、古田氏の論法は、次から次とインチキをやってそのうち一つでもバレなければ勝利宣言を出すという非常識なものである。

我々はたがいに信用しあう社会に住んでいる。インチキがないことが前提の社会なので、インチキを平気で行う人に対してまったくの無防備になる。 よくよく注意しなければならない。

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