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第256回
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1.隋書倭国伝と日本書紀 |
『日本書紀』の記述が必ずしも『隋書倭国伝』 と一致しないところがある。 そのため、これは大和朝廷のことではなく、九州王朝のことを書いたものだとする説がある。
しかし、安本先生はそうは考えない。 九州王朝の古文献が存在して、それを『日本書紀』など大和朝廷の資料と比較した時に、九州王朝の文献のほうが中国文献に近いというなら納得するが、九州王朝の古文献がまったく存在しないのに、大和朝廷の文献と中国の文献と合わないところがあるからと言って、中国文献が九州王朝のことを記したものというのは乱暴な議論だ。 中国文献と日本の記録が正確にはに一致してないことは良くあることで、おおまかな傾向がだいたい合っていたらそれは合っているとして良いのではないか。 例えばつぎのような例がある。 ■ 『日本書紀』の誤り 『日本書紀』の推古天皇15年に、小野妹子を大唐(もろこし)に遣わしたという記述がある。 この当時の中国は隋の時代なので、普通に考えれば唐と書くのは誤りである。 ただし、この場合は、誤りと言い切れない可能性もある。 『日本書紀』を書いたころの中国は唐の時代であり、中国を一般名称として、唐(もろこし)と呼んだ可能性があるからである。 ■ 『隋書』の誤り 『隋書』倭国伝には、日本の天皇の多利思比孤(たりしひこ)が使いを遣わしたと記す。 「・・・比孤(彦)」は男性の名前である。 当時の天皇は女性の推古天皇なので、『隋書』は誤った内容を記したことになる。 推古天皇のことを「多利思比孤」とした理由については多くの解釈がある。 たとえば、
『隋書』だけではなく、一般的に言っても、中国文献に誤りはけっこう存在する。 日本の文献と中国の文献で、大筋で合っているが、細かいところではくい違いのある例をいくつか下記に示す。
江戸時代に『異称日本伝』を著した松下見林もつぎのように述べている。 「(中国の)諸書の述べているところが、是非混淆しているのは、日本の実情を知らないで、筆をとっているからである。 そのいうところを、全部は信用できない。 当然、日本の古伝を主として、中国の諸書の述べているところを取捨しなければならない。」 ■ 「秦王国」の話 『日本書紀』に、推古天皇16年(608)、小野妹子が大唐より裴世清を伴って帰国したことが記されている。 『隋書』倭国伝にもこの時の記録がつぎのように記されている。 「明年(608年)、上(煬帝)、文林郎裴清を遣わして倭国に使いせしむ。 百済を度(わた)り、行きて竹島(ちくとう)に至り、南に羅国(たんらこく:済州島)を望み、都斯麻(対馬)国の、はるかに大海の中にあるを経(ふ)。 また東して一支(壱岐)国に至り、又た竹斯(つくし)国に至り、又た東して秦王国に至る。 其の人華夏に同じ、以って夷州(台湾か)となすも、疑いは明らかにすること能わざる也。 又た十余国を経て、海岸に達す。 竹斯国より以東、皆倭に附庸(ふよう)たり。」 ここに記された秦王国について歴史学者石原道博氏は「秦氏」の居住地と関係があるのではないかとする。 『新撰姓氏録』は、「秦氏」は秦の始皇帝の後裔であるとし、応神天皇の十四年に、百済から、弓月王(ゆづきおう)に率いられて帰化した127県の秦の民を諸郡に分けおいたと記している。 『新撰姓氏録』や『日本三代実録』などによれば、秦の始皇帝の子孫の功満王が、仲哀天皇の時代に日本に来たという。 また、『日本書紀』応神天皇紀14年の条にも、功満王の子の弓月の君が百済から120県の百姓を率いて来朝したと記す。 秦氏の本拠地は、山城の国と見られている。 とくに、山城国紀伊郡の深草と、葛野郡の太秦が二大拠点であった。 『新撰姓氏録』は弓月王やその子孫を「秦王(しんのきみ)」と記している。たとえば、仁徳天皇の時に織物などを献上した秦氏にたいして、天皇は「秦王の献れる糸、綿、絹帛は、朕服用(き)るに、柔軟にして、温煖(あたたか)きこと肌膚(はだ)の如しとのたまふ。」と記す。 『隋書』に出てくる「秦王国」と合うのではないか。 位置も「竹斯(筑紫)国」の東で、大略あっているといえよう。 このように『隋書』と日本の文献を比べれば、細かいところで違いがあっても、大略は合致しているようにみえる。 細かい部分の相違については、『明史』の例をみても、この程度の誤りは生じる可能性はあると思われる。 |
2.聖徳太子と十七条憲法 |
『日本書紀』には聖徳太子が定めたと言われる「十七条の憲法」が記されている。 これを聖徳太子の作ではないとする議論がある。
最近は、聖徳太子そのものの実在を否定する議論もあるが、これについては第249回の講演会で反論した。 「十七条の憲法」が聖徳太子の製作によるものかどうか検討する。 ■ 古文献 「十七条の憲法」については、『日本書紀』の推古12年の条に、皇太子(聖徳太子)が作ったことを記し、その内容が詳しく述べられている。 また、聖徳太子の最古の伝記である『上宮聖徳法王帝説』には、推古天皇13年のこととして、聖徳王が「七月に、十七余法(とをあまりななつののり)を立てたまひき」と記されている。 時期が1年ずれているが、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』という、まったく別系統の史料にほぼ同じことが記されていることから、「十七条の憲法」は聖徳太子によって作られた可能性が高い。 ■ 仏教思想 十七条の憲法の内容を見ると、発想が仏教的であり、聖徳太子の思想と合っている。 雄略天皇のような、欲しいままの野生とはまったく異なる、仏教によって耕された心性が表現されている。 このことも、聖徳太子の作であることを支持する。 聖徳太子の子の山背大兄王は蘇我入鹿に滅ぼされようとした時、つぎのように述べたという。 「蘇我入鹿と戦えば必ず勝つと思う。 しかし、自分だけの事情で百姓を傷つけ殺すことはしたくない。それゆえ、我が身を入鹿に与える。」 これは、仏教の捨身の考え方である。 山背大兄王は父の聖徳太子から仏教思想を学び、その教えを守ったのであろう。 このような話は、仏教に深く帰依していた聖徳太子がその思想を人々に伝え、十七条憲法にも反映したと考えることと整合している。 |
3.遣唐使哀話 |
遣唐使は命がけであり、哀れな話が多い。
■ 翼と翔(かける) 最近、717年に唐に渡った遣唐留学生の井真成の墓が中国で発見され大きな話題になったが、井真成の一行には、井真成の1歳年上の阿倍仲麻呂とその従者の羽栗吉麻呂(はくりのよしまろ)という人も一緒であった。 羽栗吉麻呂は1年もたたずに唐の女性と結婚し、翌年に「翼」、更に、「翔」いう子ができた。子供の名前には、翼があれば天翔て故郷に帰りたいという羽栗吉麻呂の思いが込められていたのであろう。やがて吉麻呂は、734年の船でふたりの子供を連れて日本に帰ってきた。 「翼」は後に丹波国の介、更に左京職の介(副知事クラス)になった。 弟の「翔」は入唐使節の佐官になった。唐で亡くなった可能性がある。 80年ほど後、天台宗の僧の円仁(えんいん)が唐へ行った時、山東半島の 開元寺(かいげんじ)で、日本国の役人の官位姓名が書きつけてあるのを見つけた。 それを写しとってきた円仁の『入唐求法巡礼行記』に見える「羽豊翔」という名前は、おそらく「羽栗翔」の写し誤りであろうといわれている。 さて、丹波国の浪人昆解宮成(こんけのみやなり)という人物が、丹波国天田郡の華浪山(はななみやま)で発見した白鉛(ハンダ)に似た金属を、銅器製造に役に立つ有用なものといって朝廷に献上した。 昆解宮成はその功により、従7位上から従5位下にまで上がったが、この金属の正体は専門家にも分からなかった。 その10年くらい後の宝亀8年(777)、羽栗翼(はくりのつばさ)が入唐準判官として唐に渡った時、この金属について調査をしたという。 揚子江から大運河に入ってすぐの大都会揚州で、唐の職人に聞いた結果、「鈍隠(どんおん)」というものであると言われた。「鈍隠」が何か分からない。亜鉛かアンチモンであろうといわれる。 千年を越える昔の人の残した生のあかしが、厚い時間の雲の隙間から、時折、このように漏れてくる。 ■ 平城天皇皇子、シンガポールに死す 朝鮮半島の国々から中国への使者として、王族が出かけることがしばしばある。 しかし、遣唐使、遣隋使には日本の皇族はほとんどいなかった。 ただ一人の例外が高丘親王(真如)である。 高丘親王は嵯峨天皇の皇太子となり、世が世であれば天皇になってもおかしくない人物であったが、藤原薬子の乱のとばっちりで皇太子を廃され、僧侶になってしまった。 高丘親王(真如)は、弘法大師に密教の教えを受けたのち、遣唐使として唐に渡って、長安の青竜寺で学んだ。 さらに、宗義を研究するため天竺行きを志し、3人の従者とともに広州から海路天竺に向かった。しかし、まもなく、羅越国(マレーシア)において遷化したという。 |
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