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第257回 特別講演会
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1.畿内から見た邪馬台国 石野博信先生 |
邪馬台国論争は文献が発端となった議論で、『魏志倭人伝』がなければ邪馬台国論争はない。
考古学からのアプローチは、邪馬台国の時代に、使われていた道具や土器がなにかを調べることである。 ■ 土器 女王が共立された西暦180年代の後半 卑弥呼が亡くなった247年ごろの近畿では、210〜280年ごろに用いられた庄内式土器の時代の真ん中にあたる。纏向の型式でいうと三類の中ごろである。 ■ 祭 弥生時代の末に倭国では、銅鐸など祭の道具が捨てられたり、祭のシンボルが変わったりしている。「弥生の神が殺された。」とも言える大きな出来事が起きている。 この現象は、出雲と吉備に先におこり、九州や大和は少し遅れる。
■ 国の特徴
『魏志倭人伝』には、卑弥呼を助ける男弟がいたとされる。卑弥呼の宮殿には、卑弥呼の居館や祭祀場に加えて、男弟の居館も並んでいたと考えられる。 このような、居館の遺跡があれば、卑弥呼の宮殿の候補になり得る。 ところが、二棟が横並びや縦並びの居館と考えられる住居跡が、大阪府尺度遺跡や大分県小迫辻原(おざこつじばる)遺跡など各地で発見され、居館の形態だけでは、卑弥呼の宮殿と判断する決め手にはならないことが分かってきた。 ■ 庄内式土器 土器は日常の道具であり、土器の移動は人が移動したことをを示す。庄内式土器は、畿内で作られた土器だが、畿内から西、とくに九州で大量に発見される。これは畿内から九州への人が移動したことを意味する。 畿内からは、各地へ土器が移動している。厚甕とよばれる弥生時代の伝統的な土器は東に広がり、薄甕と称する庄内式土器は、西に向かって九州まで移動した。 3世紀の九州の土器はほとんど畿内に入っていない。3世紀の九州の人間は出不精で、そのかわり外のものを寛容に受け入れた。畿内人はでしゃばりだった。 九州の庄内式土器は筑前型庄内甕といわれ、畿内の型式の土器を九州で製作したものである。 朝鮮半島南部で出土する日本列島の土器は九州や山陰タイプであり、畿内の土器は半島に行っていない。邪馬台国の時代に朝鮮半島と交流があったのは、九州であるといえる。 しかし、このことから邪馬台国が九州にあったと即断することはできない。なぜなら、近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせたという解釈ができるから。 ■ 墓 最近は、邪馬台国時代の3世紀の墓が各地でたくさん確認されている。 纏向で発掘した90メーター級の古墳から弥生時代の土器が出土したことから、古墳の出現は弥生時代にさかのぼると考えられる。古墳が弥生時代のものとすると、3〜4世紀の古墳が集中する大和(おおやまと)古墳群は邪馬台国の可能性がある。 纏向石塚古墳の年代は、270年ぐらいの新しいものと考える説もあるが、210年ごろといわれている。 250年ごろとされる古墳ホケノ山古墳は、特徴的な石積みの構造から考えると、被葬者は、類似の古墳がある阿波か讃岐の出身ではないかと思われる。阿波や讃岐が邪馬台国の30国のひとつで、被葬者はその代表として大和に来ていた人ではないか。 九州では、鏡をたくさん出土した平原古墳が有名である。この年代については、3世紀の前半(220−230ごろ)ということで議論が落ち着いてきている。また、80メーター級の那賀八幡古墳は、近くに1キロほどの直線道路があり、注目されている。 ■ 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡は、3世紀の墓からは出土しない。庄内土器といっしょにも出土しないので、邪馬台国時代の鏡ではない。 三角縁神獣鏡の世話にならなくても邪馬台国の議論はできる。卑弥呼の鏡は画文帯神獣鏡であろう。 ■ 邪馬台国の決め手 なにが出てくれば邪馬台国が決まるのか。漢字の一部が含まれる封泥が大量に出てきたら、邪馬台国の決め手となるだろう。文書や物品は、装封して封泥で紐の結び目を固めて送られてくる。邪馬台国で開封した時にこわれた封泥が残るからである。 |
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2.九州から見た邪馬台国 安本美典先生 |
今日のテーマは、邪馬台国だが、邪馬台国問題を越えて、なにが本当に科学的なのかについても考えてみたい。
■ NHKのアンケート NHKの番組「歴史の選択」で邪馬台国問題が取り上げられ、番組の中でアンケートが行われた。
この結果は意外であった。新聞やテレビの報道が、九州説を応援しているとは思えないのに九州説が多い。また、九州大学が近畿説の牙城になっているにもかかわらず、九州で、近畿説が普及していない。 邪馬台国問題は総合的に説明されないと視聴者は納得しないのではないか。 ■ 邪馬台国問題の方法論 近畿説も九州説も仮説である。仮説の正しさは、どちらの説が観測データとより合致しているか、統一的に説明できるかで判断する。 そのためには、精密な観測データを集めなければならない。そのうえで、議論をする時の基準としてつぎの2点を考えるべきである。
佐原眞氏は暦年代についてつぎのように述べる。 「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である」 『魏志倭人伝』に記されている「鏡」にしても「矛」にしても、北九州では、漢代以降の歴史的変遷が、具体的事物によってたどるれる。すなわち、九州では、鏡などによって遺跡や遺物の歴年代を推定することができる。 近畿からは漢代の鏡がほとんど出土しないので、鏡を、古い遺跡の実年代の手がかりにできない。畿内説は、畿内のとぼしい資料を不確実な学説でふくらませて邪馬台国を考えているのではないか。
『魏志倭人伝』には倭人は鉄の鏃を使うと記される。 広島大学の川越哲志氏による『弥生時代鉄器総覧』で、鉄の鏃の出土数をみると福岡県は奈良県の約100倍である。 このような事実を無視して議論をして良いのだろうか。 ■ 鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈 『魏志倭人伝』には倭人は矛を使うと記す。また、卑弥呼は刀を魏から下賜されている。 鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈の出土数を調べると、データは鉄鏃と同じ傾向で、奈良県に比べて福岡県が圧倒的に多い。 矛が鉄ではなく銅であるとしても、広型や中広形の銅矛などの出土数を調べれば、203:0で福岡の圧勝である。 ■ 絹 『魏志倭人伝』には、倭人が絹を貢いだり、魏から下賜されたことが記される。 布目順郎氏の『絹の東伝』によれば、弥生時代に限ると、絹を出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土し始める。 考古学者の森浩一氏は、倭人伝の絹の記事に対応できるのは北部九州であり、邪馬台国もその中に求めるべきだ、と述べる。 ■ 鏡 卑弥呼が手にした100枚の鏡は、魏や晋の時代に中国北方で流行していた方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、鳳(きほう)鏡、盤竜鏡、双頭龍鳳文鏡、位至三公鏡、鳥文鏡などである。 これらの鏡は、日本では福岡県や佐賀県を中心に出土している。 ■ データの一貫性 このように、『魏志倭人伝』に直接記されるもので考古学的に確認できるものは、一貫して同じ傾向で全て九州が多い。 これは、邪馬台国が九州にあったことを示している。 ■ 三角縁神獣鏡神獣鏡 三角縁神獣鏡は様相が一変して、巨大前方後円墳と同じで奈良県を中心とした分布を示す。遺物の分布の中心が、九州から近畿地方に移動したようにみえる。分布が逆転した時期がいつ頃なのかについては、討論の時間に詳しく説明したい。 尚、三角縁神獣鏡は国産の鏡である。卑弥呼の鏡とは関係ないということで、石野先生と同じ意見である。 |
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3.討論 石野先生 vs 安本先生 司会 西谷先生 |
■ 安本先生の講演の補足
小山田宏一氏のデータによって土器と鏡の関係を分析し、それによって纏向遺跡などの年代を論じたい。 従来、畿内の庄内式土器の年代は、ひとつの型式が何年ぐらい続くかということによって新しいところから積み上げていく方法と、纏向遺跡などから出土した木の年輪年代や炭素14の年代によって決められてきた。 しかし、これらの方法には問題がある。 新しいところから積み上げる方法は、例えば、寺沢薫氏と関川尚功氏のように研究者によって大きな違いが出てくる。また年輪年代は木材の再利用などのため、文献の記録と数百年も違うことがある。 小山田氏のデータで「A」の段階は魏晋鏡の時代と考えられる。その理由は
■ 弥生時代中・後期の大和 西谷:安本さんが紹介した、桜井市教育委員会の清水眞一氏の「弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られない」という見解についてどう思うか。 石野:清水さんの見解は事実と違う。唐子鍵遺跡の環濠は、自然河川に囲まれた池上曽根遺跡よりも大きい。田野遺跡は規模が分かってないので比較できない。 纏向遺跡は、北と南を川に囲まれた三角形の地域で、底辺2キロ高さ2キロの広さがあり、その中に水源を共有する六つの村がある。規模が分かってる三世紀のほかの遺跡と比べるとかなり規模が大きい遺跡といえる。 西谷:これについて安本さんの見解は? 安本:纏向遺跡は非常に大きな問題で、これを議論していると時間がなくなってしまうので、別途、邪馬台国の会で石野さんと時間をかけて議論したい。 石野:望むところです。 西谷:纏向遺跡は重要という点では石野さんと安本さんの意見は一致している。 ■ 邪馬台国の都 西谷:畿内説では、邪馬台国の都は纏向といわれるが、九州説の場合はどう考えるのか? 安本:福岡県の平塚川添遺跡付近と考えている。 ■ 庄内式土器 安本:九州の庄内式土器は、吉野ヶ里の環濠が埋められてすぐの時代なのに対して、畿内では環濠が埋まってからだいぶ時間が経ってから埋められたように見える。 庄内式土器は九州と畿内の両方から出土するが、考古学者のほとんどが九州より畿内が先としているが、これは間違いではないか。庄内式土器は九州から畿内へ持ち込まれた土器と考えられる。 九州では年代の手がかりがあるのに、畿内からは鏡のような年代の手がかりになるものが出ていない。 西谷:石野さんの資料の図33、34に、魏晋鏡や平原鏡が入っていないのはおかしい。と言う指摘があったが、これについてコメントを。 石野:3世紀という時に土器でいつなにを指すかと言うことと関係するので、庄内式土器の年代を、210〜280年とする理由について説明する 庄内式にこのような年代を与える理由は、案外頼りないのだが、上限は、後期前半の土器といっしょに出る「貨泉」で年代を押さえる。 下限は、かなり後になるが、471年ごろ築造と思われる埼玉稲荷山古墳の須恵器で押さえる。 九州には製作年代の明らかな鏡があるのでその鏡に伴う土器は何式か大いに参考にする。九州の鏡は西新式土器の時代に多い。九州と近畿の交流によって西新式と庄内式の土器が同じ場所から出土するので同時期に使われていたことが分かる。 九州の鏡の年代や、畿内の庄内式に伴うものを参考にして、これをもとに庄内式土器の年代を210〜280年と考えている。 ■ 鏡 石野:なぜ魏晋鏡を取り上げないのかという質問については、鏡の製作年代や製作場所とは関係なしに、日本で3世紀の土器といっしょに出てくる鏡はなにか、という観点で作表したため。 埋められたのはいつかという視点を基本にして、ひとつの文化現象としてまとめている。 神獣鏡を取り上げたのは、これが弥生時代には少なくて庄内式以降に増えるので、おおきく後漢式鏡と神獣鏡に区分したほうがわかりやすいという考えで作成。なお、平原は除いてある。 安本:表16に示す樋口氏のデータは平原を除いた庄内期のもの。ここでは北九州が多い。立場が異なる研究者が同じ答えを出す再現性のあるデータである。しかし、これに相当する石野さんの図34はそうならない。石野さんのデータは再現性がないのではないか。 石野:出典の『邪馬台国の考古学』には大量のデータを付けてあるが、3世紀のはじめ、末を除いて中葉から後半のものを取り上げている。それをみれば確実に3世紀のものであることが確認できる。 安本:石野さんの図32の内行花文鏡についても、安本の表4と九州での数が違う。少なくとも弥生時代の鏡は4面はある。三角縁神獣鏡もある。 石野:三角縁神獣鏡については那珂八幡第2主体や香川県奥3号墳は当初土器との共伴と思われたがその後の検討でのちの時代の者と判明修正した。図は古いままだった。 ■ 再現性 安本:一番重要な問題に戻りたいと思う。それは、安本のデータは誰がやっても同じ結果になる再現性のあるデータであるということである。ところがこれまで畿内説の方々が出したデータは再現性がない。人によって結果が違ってしまうデータにみえる。 安本の意見を批判するには安本のデータに再現性がないと言うことをどこかで言って欲しい。そうでないと、邪馬台国九州説の優位は動かないとおもう。 石野:再現性の言葉の規定がよくわからない。「違う意見があるからおかしい」というのなら、それはおかしい。同じ発掘をしても違う意見があってもいっこうにかまわない。 安本:いいたいことは、誰がやっても同じ結果が出るところから議論は出発しなければならないということ。ひとによってみんな意見が違うところから出発したのでは水掛け論になってしまう。 石野:意見が違った時になぜ意見が違ったのかの根拠がはっきりすればよいと思う。同じ土器が、ある人は弥生時代、ある人は古墳時代という意見があってもいい。根拠を出し合って議論することが大事 同じ意見にする必要はない 安本:でもそれでやったらいつまで経っても水掛け論になるのでは。 石野:そんなことはない。考古学はそれで成り立っている。 安本:しかしそれは科学的としては成立しないんでは。 石野:考古学は科学です。 安本:ですから科学論になる。科学の観測の再現性とか実験の再現性というのは、たとえば、鉄については誰がやっても同じ結果が再現できる。議論はそういうところから出発すべきだということです。 ■ 遺物の分布と所属時期 石野:鉄の鏃が九州から多く出ることについては異論はない。ただ、どの時代から出たかということについては人によって意見が分かれる。所属時期が問題だ。 239年以降の魏との交流の情報によって倭人伝は書かれている。1世紀や2世紀の鉄鏃を勘定に入れるべきではなく、年代を限定して考えなければならない。倭人伝に記録された時期の鉄がどうなのかを問題にするべきである。土器でいうと庄内式を4期に分けた時の2番目の後半以降で鉄を比較するべきである。 それでも九州はかなり多いと思うが、安本さんのデータほど圧倒的な差はない。 近畿の鉄は庄内式になってようやく増えてくる。2世紀ぐらいまでの弥生後期のおわりまでは圧倒的な差があるのはたしか。貨車一杯とテーブル一杯ほどの違いである。 そのとき安本さんは庄内式は300年前後と考えておられるし関川氏もかなり新しく考えている。同じ土器に伴う鉄について実年代が違っている。その違いの根拠について議論を戦わせることになる。 西谷:トータルとしては圧倒的に北九州が多いのは事実。歴史の過程で時代を追って、編年に合わせて実態を比較するということも今後の課題。 安本:『魏志倭人伝』に記される勾玉、絹についてみれば、畿内の勾玉は4世紀になってからしか現れないので時期の議論をするまでもなく九州のほうが多い。しかも、鉄と同じ傾向である。 石野:倭人伝に書いてあることで勝負しようというのはそのとうり。 しかし、絹の場合は弥生の甕棺から出土するのが圧倒的に多い。土に混じってしまったら絹は腐ってなくなってしまうので、甕棺の絹は残りやすいという条件の違いがある。なおかつ、甕棺は紀元前の時代。3世紀で勝負しましょう。 安本:安本の資料の絹のデータは時代を分けてある。古墳時代を除けば、弥生時代は九州に集中している。時期の如何に関わらず、結論は代わらない ■ 「魏志倭人伝」の言葉の意味 石野:「魏志倭人伝」に記されていることで気をつけなければならないことがある。 たとえば、「棺ありて槨なし」と書いてある。ホケノ山古墳で木槨が発掘された時、橿考研や桜井市に「これで邪馬台国が大和でないことが決まりましたね」という電話があったそうである。 しかし、中国の魏の時代の槨は教室ひとつ分ぐらいの大きなものである。倭の使いがホケノ山古墳のような墳墓のようすをつたえても、「そんなものは槨ではない。ただの棺桶だ。」と思われた可能性がある。今の考古学の用語の槨と魏の陳寿の槨と同じものか検証する必要がある。 矛は、九州には圧倒的に多いが畿内にはない。これについても、魏の国のいう矛が、今の考古学用語で云う矛と同じなのかどうかも検討がいる。 五尺刀については、3世紀ごろでみれば、これに類するものは、前原市と鳥取と兵庫(丹波)、大阪の4本だけ。九州というよりは、日本海沿岸に多いと言えるのではないか。 『魏志倭人伝』に書いてあることに着目するというのは同感だが、時期を限定することと、槨とか矛などのように文字の使い方が現在と同じかどうか検討する必要がある。 ■ 近畿の鉄 西谷:これまでの話でひとつ気になることがある。鏃に関しては、北九州では鉄鏃だけではなくて銅鏃が多数出土する。鋳型もある。鉄鏃だけでは足りないから銅で補ったと考えられる。 このころの近畿には全くない。これは、まだわかっていないということではないか。このころは石器がなくなっているので、おそらくは金属器が使われたと想像される。将来の検討課題と思う。 石野:纏向を130回ぐらい発掘したが、鉄のかけらもない。石器もない。これだけから考えると、纏向に住んでいた人々が、石も鉄も使ってないということなのか。そうではない思う。なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない。 ■ 箸墓古墳の年代 安本:石野さんの資料の図17について、箸中山古墳が250−280年ごろとされている。ところが、関川氏はこれを4世紀の中ごろとしており、ほとんど100年違う。椿井大塚山古墳も同じ。 箸墓など古代史の問題では、考古学の資料も重要だけど文献も含めた古代史全体の中に位置づけなければならない。箸墓は、『日本書紀』にも、宮内庁の陵墓要覧にも、崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と記されている。 崇神天皇の陵墓は4世紀の中ごろというのが大方の意見。箸墓も、4世紀中ごろという関川氏の見解を採って、そのころの築造とすれば『日本書紀』の記述も考古学的な成果も総合的に説明できる。 椿井大塚山古墳は、崇神天皇の時代の武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱と結びつける意見が多い。とすると築造の時期は、石野さんの資料の340年ごろよりも新しいと考えても良いのではないか。 ■ 解釈について 安本:さきほど、槨の話が出た。中国人は、ホケノ山古墳の木槨を槨と認めなかったのだろうというおはなしだが、たしかにそうかもしれない。しかしそれは解釈である。 畿内説と九州と今あるデータではどちらが有利という議論している。九州の場合、箱式石棺や平原の木棺の直葬は、棺あって槨なしに完全に当てはまるが、ホケノ山古墳の場合は、ある種の解釈を加えることで「棺あって槨なし」が成立する。 解釈を加えなくても成立するケースと解釈を加えなければ成立しないケースを比べたら、解釈を加えないで「棺あって槨なし」といえる方を採るべきではないか。 石野:平原は棺の廻りに大きな墓溝があって柱の痕跡がある。証拠はないが墓溝の端に板を建てると槨になる。発掘当時は墓に槨があるという意識で発掘していないので、槨があったとしても検出できなかった可能性がもある。 安本:2005年の平原の報告書には槨のことを書いていない。石野さんの話は解釈が入っている。 ■ 邪馬台国の決め手 西谷:これが出てきたら邪馬台国だという邪馬台国の決め手はなにか? 石野さんは封泥といっているが。 安本:これがでたら絶対だと言う議論ではなく、現在与えられるデータ、将来出てくるデータで判断するべきと思う。 おそらく、親魏倭王の印は出てこないと思うので、やはり、『魏志倭人伝』に出てくるものから考えざるを得ない。現在の傾向は今後も大きくは変わらないのではないか。 ただ、平原で出たような大きな鏡が甘木地域で出たらここが邪馬台国と強く主張するかも知れない。 ■ 卑弥呼の鏡 西谷:安本さんは卑弥呼の鏡は魏晋鏡と述べるが、石野さんは『魏志倭人伝』に記された100枚の銅鏡をどのような鏡と考えるか? 石野:後漢式鏡は卑弥呼の時代の前からあったものである。卑弥呼は新しい宗教を持って登場したのだから、それまでになかった鏡を使ったと思う、つまり、古い後漢鏡は使わずに神獣鏡を使ったと考える。 西谷:今日のシンポジウムの全体について最後に一言。 安本:とても1回では終わる議論ではない。今後も両先生を邪馬台国の会にお招きして議論を深めたい。 石野:土器の年代などについて研究者によっては関川氏のように意見が異なる。活字でお互いの根拠をオープンにして議論していくことが重要であることを再認識した。 |
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4.総括講演 西谷正先生 |
邪馬台国問題は『魏志倭人伝』から出発すべきというのは同感である。
しかし、『魏志倭人伝』といえども昔の文献資料で正しいことも誤りもある。たとえば、一大国は一支国の誤りであることは明白。 また、「棺あって槨なし」と書いてあるが、槨のある遺跡がたくさん存在する。今日紹介された遺跡以外でも、日向の西都原や吉備の楯突にも木槨がある。 距離や方向についても日本地図と厳密に照らし合わせるとまちがっている。 文献資料なので、資料批判が大事だ。これは使えるこれは使えないという判断をして読んでいくべき。 邪馬台国は九州か畿内かという関心で追求していくのもひとつだが、そうではなくて、倭人伝に記されたころの3世紀の日本列島がどうであったのかという研究調査も必要ではないか。 たとえば、伊都国について、通説では現在の前原市と糸島半島、すなわち旧糸島郡全般を伊都国に充てているが、伊都国とは別に北の方に志摩国があったのではないかと思っている。 志摩の地域で中期後半の大型建物が見つかったり、前半の甕棺から銅剣銅戈出土しているし、4世紀には前方後円墳が作られていることから考えて、この地域にもひとつの国があったと考えられる。『翰苑』や『魏志倭人伝』に載っているシマ国ではないか。 不弥国も同様で、通説では嘉穂盆地とされるが、那珂郡の奴国の東側に隣接する粕屋郡宇美町の地域ではないかと思っている。 先日、横浜歴史博物館で大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡の国指定史跡40周年のシンポで講演した際にも、旧律令時代の武蔵の国都筑(つづき)郡の、鶴見川・早渕川流域にひとつの国を想定できるのではないかという話をした。 邪馬台国時代に、九州はもちろん日本列島各地に国ができていたのではないか。生産用具や墓などその実態を解明することが重要ではないか。いそがばまわれというが、このような作業を地道に積み重ねることも邪馬台国を探す上で重要なことと考える。 その場合に、国があったことする根拠は、大塚・歳勝土遺跡のような、その地域の中心となる大きな拠点集落の存在である。『魏志倭人伝』に記される国邑の「邑」は、このような拠点集落の都と解釈している。 伊都国があれば、三雲井原という国邑がある。邪馬台国があればその都の遺跡があるはずである。そのような都の遺跡は、考古学的には拠点集落であり、これはしばしば環濠集落である。 都の規模は国の規模に応じてさまざまであったろう。大規模なものはおそらく100ヘクタールクラス、中規模なら30〜40ヘクタール程の規模であろう。一支国の原の辻遺跡や、吉野ヶ里遺跡はこの規模の集落である。 国には王がいたので拠点集落の近くに王墓がある。たとえば、伊都国では、拠点集落があるところ三雲や井原の王墓がある。拠点集落では、王墓や大型建物、国を挙げての祭祀を行う祭殿など、巨大集落の中に特別な施設がある。 地域ごとにこのようなことを調査し、相対的に比較することで、邪馬台国が絞れてくる。このような地域研究が重要であり、日本列島がどうであったかについて、日本列島全体の墳墓や鏡などの分布を考えて行く必要があるということである。 『魏志倭人伝』の距離の記述に基づいて計算すると、奴国から千余里のところに邪馬台国があるはずである。しかし、九州に来て38年になるが、九州本土では、奴国と想定する福岡平野(福岡市から大野城市、春日市の地域)より大きな国がないというのが調査の結論である。そして、これが九州以外に邪馬台国を求める理由である。 九州を含めて日本列島全体を調べていくことが遠い道のりだが邪馬台国を絞っていくための重用な方法である。これが一点。 第二点は、邪馬台国の問題はアジア的な問題であるということである。なぜ倭人伝として倭人が『魏志』に登場するのかということからはじめて東アジアの視点で考えることが重要。 邪馬台国への起点になる帯方郡についても、その位置や設置された理由がはっきりしていないし、その南の韓の国々の実態もはっきりしていない。 後漢の桓帝・霊帝の時代に倭国大乱があったとされるが、同じころ、勢力を強めていた韓族などの地域に、楽浪郡の将軍を派遣して鎮圧し、その後を統治するために帯方郡を設置した。つまり、倭国大乱と同じころに、朝鮮半島でも「韓国の乱」があったと想定されるのである。 出雲に高地性集落が多数あるが、これは、日本列島内部の緊張に加えて、楽浪郡と韓の国々との争いで緊張状態にあった半島からの余波に対応する背景もあったのではないか。このような意味でも東アジアの視点が重要と考えている。 今日は、畿内説・九州説の両巨頭の、熱い、わかりやすい講演と議論で、どの辺に問題があり、どのように詰めていけば解決につながるのかということを、一人一人が感じられたと思う。みなさんのご協力に感謝します。 |
新聞記事 |
このシンポジウムについていくつかの新聞に記事が掲載されました。
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