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第258回
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1.前回の特別講演会について |
5月13日に、石野博信先生と西谷正先生を招いて、邪馬台国畿内説と九州説が直接対決する特別講演会を早稲田大学国際会議場で開催した。 そこで、安本先生は九州説を有利とするデータ提出したが、これに対し、石野先生からは具体的な検討、批判、反論があまり行われなかったのは残念であった。 講演会の内容について安本先生は東京新聞につぎのように書いている。
「畿内」「九州」直接対決 邪馬台国シンポから(上) 安本美典
「畿内」「九州」直接対決 邪馬台国シンポから(下)
石野先生の示された鏡のデータ(右図)がある。この図を見ると九州よりも畿内が多いように見えるが、精密に観測すれば、そうはならない。
『魏志倭人伝』に書いてあることをすべてとりあげてデータを提示しているのだから、ひとつひとつを検討しなければならないと思うのだが、詰めようとすると議論が水かけ論になる方向へいってしまう。 例えば、鉄については、畿内の出土数が少ないことについてはそのとうりであり、お互いに共通の認識なのだから、ほかの議論をしようということになる。 ガラスの勾玉、翡翠の勾玉の集計でも、唐子・鍵遺跡の禹余粮(うよりょう)からでた勾玉(1世紀中)を入れて集計しても、九州の方が多い。 下表に示するように、『魏志倭人伝』に記載されていて、考古学的にチェックできるものはどれを見ても 一貫して九州の方が多い。これに目を向けないで主張される畿内説は、極端なデータ無視の上に成り立っていると云わざるを得ない。
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2.『魏志倭人伝』は、だれが、いつ、どこで書いたか? |
■ 『魏略』と『魏志』
『魏略』と『魏志』の関係について、立命館大学の山尾幸久氏はつぎのように述べる。 『魏略』と『魏志』とは、ともに、晋の武帝の太康年間(280〜289)の成立で、ほぼ同時期の成立であり、ともに、泰始二年(266年)に没した王沈(おうしん)の『魏書』を参考にして、編纂された。
以下のような理由で、『魏略』が『魏志』の先行文献であることは、まず確かとみられる。
■ 『三国志』はどこで書かれたか? 『晋書』の「陳寿伝」に、陳寿が亡くなったときに、天子の詔が河南省の長官に下り、その命により河南省に属する洛陽の県令は、陳寿の家に行って、『三国志』などを写した、とある。 『三国志』は洛陽の陳寿の家にあったのである。陳寿は『三国志』を洛陽で完成させたとみられる。 ■ 『三国志』全体は、いつ成立したのか? 『呉志』は280年の呉の滅亡記事を載せており、更に呉の第4代皇帝で最後の皇帝孫皓(そんこう)が284年に亡くなったことを記している。 いっぽう、陳寿は297年(元康7年)に65才で亡くなっているので、『三国志』の成立時期は、284〜297年に絞れる。 陳寿の『三国志』のすばらしさを見て、みずからの編纂していた『魏書』を破り捨てたという夏侯湛(かこうたん)が、291年に亡くなっている。 さらに、『華陽国志』や『晋書』などによると、陳寿の『三国志』成立後、杜預(どよ)が陳寿を散騎侍郎にすべく推挙している。その杜預は284年に亡くなっている。 これらの情報から、『三国志』は284年に成立したことになる。 ■ 『三国志』のなかの『魏志』は、いつ成立したのか? 『三国志』の『魏書』『蜀書』『呉書』はもともと別々に書かれたものであるが、『魏書』の成立は『三国志』全体の成立より早かったとする説がある。 『呉書』は284年まで記してあり、『蜀書』は278年の郤正(げきせい)(劉禅に ついて洛陽へ行き、晋で登用され巴西郡の太守となった)の死まで記している。 これに対し、『魏志』は265年に魏が滅亡し、晋の国が成立したことまでしか記して いない。 『華陽国志』に、「呉が平定(280年)されてのち、陳寿は三国の史を鳩合(あつ) め魏・呉・蜀の三書・六十五篇をあらわし『三国志』としたとある。 朝鮮古代史の専門家の井上幹夫氏は『魏志』の成立は呉の平定以前、すなわち、280年以前に求めてもよいのではないかと述べている。 『魏志倭人伝』を見ると陳寿は晋の宮廷の図書を閲覧できる立場にいたように見える。古代朝鮮史の専門家井上幹夫氏は陳寿が宮廷の図書を閲覧できる著作郎であった時期を、270年代後半から280年前半と推定する。 かれこれ考えあわせると、『魏志』は『三国志』全体より、3〜4年早く、280年頃には成立していた可能性があるように見える。 『魏志倭人伝』の成立は、早く見て280年ごろ、遅く見て284年ごろと言うことになる。 ■ 陳寿の伝記 陳寿は233年に梁州巴西郡(りょうしゅうはせいぐん)の安漢(四川省南充市の北で 重慶に近い)に生まれた。 巴西郡出身の散騎常侍(さんきじょうじ:天子の側近)の周(しょうしゅう)を師とし、経学と史学と を学んだ。特に、『史記』『漢書』に詳しかった。 陳寿は蜀の国に仕官して、観閣令史(かんかくれいし:宮中の図書がかり)に任じ られた。 蜀が滅び(263年)、呉が滅び(265年)、西晋の時代になると、西晋の政治家で司空(最高位にある三つの官職の一つ)の地位にある張華(ちょうか)が陳寿の才能をおしみ、佐著作郎(歴史編纂補佐官)にした。 269年に37歳で、出身地の巴西郡の中正(官吏志望者の評定者)となった。 さらに、陽平の県令に任じられた。 このとき、『諸葛亮集』を撰んだとみられる。おそらくはこの功績で著作郎(歴史編纂官)になったと思われる。 晋の武帝の時代の274〜290年ごろに、再び、著作郎になる。 のち、御史治書(ぎょしちしょ)(官吏を監督し、不正をただし、しらべる官) となるが、母がなくなったので、その喪のため職を辞した。 297年65歳で病没した。 『後漢書』をあらわした范曄(はんよう)は刑死し、『史記』をあらわした司馬遷は宮刑に処せられた。 これらの大史家に比較すると、陳寿が65歳まで生きて病没というのは珍しい。 |
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