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第258回
「魏志倭人伝」は誰が、いつ、何処で書いたのか?


 

1.前回の特別講演会について

5月13日に、石野博信先生と西谷正先生を招いて、邪馬台国畿内説と九州説が直接対決する特別講演会を早稲田大学国際会議場で開催した。

そこで、安本先生は九州説を有利とするデータ提出したが、これに対し、石野先生からは具体的な検討、批判、反論があまり行われなかったのは残念であった。

講演会の内容について安本先生は東京新聞につぎのように書いている。

「畿内」「九州」直接対決  邪馬台国シンポから(上)  安本美典 

邪馬台国。いうまでもなく中国の史書『三国志』中の「魏志倭人伝」に記されている古代日本の女王国の都の名である。

女王卑弥呼のいた邪馬台国の位置をめぐっては、江戸時代以来の論争の歴史がある。何百冊という邪馬台国関係本が刊行されている。なかには、六十万部、七十万部というベストセラーになった本も数冊ある。

邪馬台国の位置についての代表的な説は、畿内説と九州説とである。しかし、邪馬台国についての、畿内論者と九州論者の直接対決の形での討論は、めったに行われることがなかった。

シンポジウムの形をとるものでも、たいていは、畿内論者は畿内論者だけで集まって気勢をあげ、九州論者は九州論者だけで集まって気勢をあげるという形がほとんどである。

さる五月十三日、邪馬台国畿内説と九州説とが、直接対決する形での、講演と対論の会「邪馬台国は畿内か?九州か?」が聞かれた。このような形での討論会が聞かれるのは、東京では、ほとんどはじめてといってよいのではないか。

会場は早稲田大学の国際会議場(井深大記念ホール)。私が主宰する民間団体「邪馬台国の会」の主催で、文化財保護のネットワーク構築を目ざすミニコミ詰『トンボの眼』の協賛。

講演者は、畿内説の立場をとるのが考古学者の石野博信氏(兵庫県立考古博物館館長、徳島文理大教授)、九州説をとるのが私、司会進行が考古学者の西谷正氏(九州大名誉教授、伊都国歴史博物館名誉館長、日本考古学協会会長)。

参加者はほぼ430名、満席といってよい状況であった。一般の関心の高さがうかがえた。

討論が終わっての印象を、私の立場ら一言でいえぱ、私のかざす九州説の矛の先が、茫洋として大人の風格のある石野博信氏の、厚い綿の袍(ほう)の甲(よろい)を、なかなか刺し通せない、という感じであった。

私が、九州説が確実に成立するとみられる具体的根拠を、いくつも示しているのに、それについての具体 的検討は行われず、石野氏の示しておられる資料は、容易に反証のあげられるもの、あるいは、同じ畿内説の立場からでも異論を提出しうるものがほとんどであるように、私の立場からは思えた。私の立場からは、「これで、畿内説の根拠が示されたことになるのか?」という印象をもった。

たとえば「魏志倭人伝」には、倭人は鉄の鏃を使うと記されている。

弥生時代の「鉄の鏃」は、福岡県からは、これまでに三百九十八個出土している。奈良県からは、わずか四個しか出土していない。ほとんど、百倍の違いがある。このような違いは、言葉だけの議論によって、簡単にのりこえることができるのか?

「鉄の鏃」について認められたと同様のことは、「魏志倭人伝」に記されている事物で、考古学的に確かめられるようなもの、矛・刀・絹・魏晋鏡・勾玉…などについては、ほとんど法則的に、一貫してみとめられる。

たとえば、鉄の矛は、福岡県からは、七本出土しているのに、奈良県からは、一本も出土していない。銅の矛は、二百三本出土しているのに、奈良県からは、一本も出土していない。絹の出土地点は、福岡県では、十五地点を数えるのに、奈良県は、二地点にすぎない。

魏晋鏡は、福岡県からは、三十七面出土しているのに、奈良県からは古墳時代の遺跡から出土しているものを合めて、二面しか出土していない。

勾玉は、福岡県の二十二個出土に対し、奈良県は三個の出土…。

私の提出したこのような資料に、具体的に検討、批判、反論していただきたかったのであるが…。そうは ならなかった。
                                   東京新聞  2007年5月24日

「畿内」「九州」直接対決  邪馬台国シンポから(下)  

石野博信氏の邪馬台国畿内説と、私の九州説とでは、根本となる考え方に、大きな違いがある。

まず、私の考え方の基本を述べる。

(T)邪馬台国論は、「魏志倭人伝」から出発している。したがって、考古学的に検討するのであれば、「魏志倭人伝」に直接記されているものを、優先的にとりあげるべきである。

(U)調査された事実は、だれが観測しても、ほぽ同じ結果、同じ結論を示すという「検証性」「再現性」をもっていなければならない。

この(U)については、さらに、つぎの二つにわけられる。

(a)「邪馬台国畿内説」なら「邪馬台国畿内説」という「同じ立場の人」ならば、ひとしくみとめる事実であるのか。

(b)「邪馬台国畿内説」の人も「邪馬台国九州説」の人も、ひとしくみとめるような、「異なる立場の人」がともにみとめるような事実であるのか。

例をあげる。

「鉄の鏃」については、「魏志倭人伝」にはっきり記されている。つまり、さきの(T)の基準をみたす。

そして、「鉄の鏃」が、北九州を中心に分布する、あるいは、福岡県からは、奈良県よりも、ほとんど百倍(すくなくとも何十倍)も多く出土するという事実は、たとえば、「邪馬台国九州説」にたつ考古学者、佐古和枝良も、「邪馬台国畿内説」にたつ考古学者、寺沢薫氏も、ともにみとめている事実である。

すなわち、さきの(U)の基準もみたす。

「矛」「絹」「勾玉」…などについても同様のことがいえる。

これに対し、石野博信氏は、たとえば、土器の年代のことなどを論じられる。しかし、まず、「土器」のことなどは「魏志倭人伝」に記されていない。

つまり、さきの(T)の基準をみたさない。

かつ、同じ畿内説の立場にたつ人でも、石野博信氏と、橿原考古学研究所の関川尚功氏とでは、土器の年代観が異なっている。すなわち、(U)の基準もみたしていない。

このような、私の議論に対し、石野博信氏は、ほぽつぎのように反論される。

「『再現性』などということぱの意味がよくわからない。同じものをみても、意見の違うことのあるのは、ふつうのことではないか。意見が違ったぱあいは、なぜ意見が異なったのか、その理由を明確にして行くべきである。そのようなプロセスを通じて、邪馬台国も、しだいにあきらかになって行くとみられ る」

ユーモアも交え、なかなかの説得力である。

石野氏の話をきくと、私の話は理屈に流れすぎているようにみえてくる。

ルールの異なる異種格闘技のようでもある。ルール、方法論自体の検討を含め、今回のシンポジウムを第一ラウンドとして、さらに畿内説の方々と議論を深めていきたい。

(やすもと・びてん=邪馬台国の会主宰)
                                   東京新聞  2007年5月25日

■石野先生の示されたデータについて

石野先生の示された鏡のデータ(右図)がある。この図を見ると九州よりも畿内が多いように見えるが、精密に観測すれば、そうはならない。

  • 40面の九州の平原遺跡の後漢式鏡データが落ちている。 当日指摘したが、これを入れれば九州の鏡の数は多くなる。

  • 28面の九州の魏晋鏡データが落ちている(これは神獣鏡ではない)。

  • 小山田宏一氏、樋口隆康氏、奥野正男氏などがまとめた庄内期出土の鏡のデータとあわない。

  • 畿内の中で比較しても、大阪湾岸に比べ奈良県のある近畿内陸は少ない。

  • 九州から30面の長子宜孫銘内行花文鏡が出土している。これらは甕棺からは出土せず、箱式石棺から発見されているので、後漢か魏の時代の鏡と思われるが、石野先生のデータから落ちている。

  • 九州では62面の「小型製鏡第U型」の鏡が出土している。これは製鏡だから落としてもかまわないが、これも箱式石棺から出ており、邪馬台国時代の鏡と思われる。
■ 安本先生が思う議論の方法
  1. 水かけ論をさける。
  2. 精密な観測を(漠然とした議論ならどんな結論も出せる)。
  3. 全体をみる。
残念ながら、議論をしているとどうもくいちがってしまって、今回はこのような議論ができなかった。

『魏志倭人伝』に書いてあることをすべてとりあげてデータを提示しているのだから、ひとつひとつを検討しなければならないと思うのだが、詰めようとすると議論が水かけ論になる方向へいってしまう。

例えば、鉄については、畿内の出土数が少ないことについてはそのとうりであり、お互いに共通の認識なのだから、ほかの議論をしようということになる。

ガラスの勾玉、翡翠の勾玉の集計でも、唐子・鍵遺跡の禹余粮(うよりょう)からでた勾玉(1世紀中)を入れて集計しても、九州の方が多い。

下表に示するように、『魏志倭人伝』に記載されていて、考古学的にチェックできるものはどれを見ても 一貫して九州の方が多い。これに目を向けないで主張される畿内説は、極端なデータ無視の上に成り立っていると云わざるを得ない。

 諸遺物福岡県奈良県
『魏志倭人伝』記載の遺物

大略西暦300年以前
弥生時代の遺物
弥生時代の鉄鏃398個4個
鉄刀17本0本
素環頭大刀・素環頭鉄剣16本0本
鉄剣46本1本
鉄矛7本0本
鉄戈16本0本
素環頭刀子・刀子210個0個
邪馬台国時代に近いころの銅矛・銅戈(広型・中広型)203本0本
絹製品出土地15地点2地点
10種の魏晋鏡37面2面
庄内期出土の鏡小山田宏一氏のデータによる45面0面
樋口隆康氏のデータによる5面0面
奥野正男氏のデータによる3面0面
ガラス製勾玉・翡翠製勾玉29個3個
古墳時代の遺物

大略西暦300年以後
三角縁神獣鏡49面100面
前方後円墳(80m以上)23基88基
前方後円墳(100m以上)6基72基


2.『魏志倭人伝』は、だれが、いつ、どこで書いたか?

■ 『魏略』と『魏志』

『魏略』と『魏志』の関係について、立命館大学の山尾幸久氏はつぎのように述べる。

『魏略』と『魏志』とは、ともに、晋の武帝の太康年間(280〜289)の成立で、ほぼ同時期の成立であり、ともに、泰始二年(266年)に没した王沈(おうしん)の『魏書』を参考にして、編纂された。

(『魏志倭人伝 東洋史上の古代日本』講談社現代新書 1972)

山尾氏のこの説はかなり流布したが、その後多くの批判があり、現在では、ほぼ誤りと見られている。

以下のような理由で、『魏略』が『魏志』の先行文献であることは、まず確かとみられる。

  • 唐の歴史家の劉知幾(りゅうちき)はその著『史通』で、魚豢(ぎよかん)が『魏略』を私撰したのは、晋の時代ではなく、魏の時代であると記している。

  • 『魏略』の逸文でもっとも時代が新しいものは、高貴郷公(254〜260)の甘露2年(257)のもので、『魏略』の成立はこの257年をそれほど大きく降らないとみられる。
    (江畑武『阪南論集』人文・自然科学編、第26巻第1号 阪南大学刊)

  • 『魏略』は『魏志』に比べ、司馬氏に対して厳しく、司馬氏の敵対者に対して 寛容な傾向がみられる。これは、司馬氏のたてた国である晋になる前の魏の時代(265年以前)に編纂されたためであろう。
以上から、『魏略』の成立年代は257〜265年の10年たらずのあいだのどこかと判断される。つまり卑弥呼が死んで10年ないし、20年たらず後には『魏略』が成立していたことになる。

■ 『三国志』はどこで書かれたか?

『晋書』の「陳寿伝」に、陳寿が亡くなったときに、天子の詔が河南省の長官に下り、その命により河南省に属する洛陽の県令は、陳寿の家に行って、『三国志』などを写した、とある。

『三国志』は洛陽の陳寿の家にあったのである。陳寿は『三国志』を洛陽で完成させたとみられる。

■ 『三国志』全体は、いつ成立したのか?

『呉志』は280年の呉の滅亡記事を載せており、更に呉の第4代皇帝で最後の皇帝孫皓(そんこう)が284年に亡くなったことを記している。

いっぽう、陳寿は297年(元康7年)に65才で亡くなっているので、『三国志』の成立時期は、284〜297年に絞れる。

陳寿の『三国志』のすばらしさを見て、みずからの編纂していた『魏書』を破り捨てたという夏侯湛(かこうたん)が、291年に亡くなっている。

さらに、『華陽国志』や『晋書』などによると、陳寿の『三国志』成立後、杜預(どよ)が陳寿を散騎侍郎にすべく推挙している。その杜預は284年に亡くなっている。

これらの情報から、『三国志』は284年に成立したことになる。

■ 『三国志』のなかの『魏志』は、いつ成立したのか?

『三国志』の『魏書』『蜀書』『呉書』はもともと別々に書かれたものであるが、『魏書』の成立は『三国志』全体の成立より早かったとする説がある。

『呉書』は284年まで記してあり、『蜀書』は278年の郤正(げきせい)(劉禅に ついて洛陽へ行き、晋で登用され巴西郡の太守となった)の死まで記している。

これに対し、『魏志』は265年に魏が滅亡し、晋の国が成立したことまでしか記して いない。

『華陽国志』に、「呉が平定(280年)されてのち、陳寿は三国の史を鳩合(あつ) め魏・呉・蜀の三書・六十五篇をあらわし『三国志』としたとある。

朝鮮古代史の専門家の井上幹夫氏は『魏志』の成立は呉の平定以前、すなわち、280年以前に求めてもよいのではないかと述べている。

『魏志倭人伝』を見ると陳寿は晋の宮廷の図書を閲覧できる立場にいたように見える。古代朝鮮史の専門家井上幹夫氏は陳寿が宮廷の図書を閲覧できる著作郎であった時期を、270年代後半から280年前半と推定する。

かれこれ考えあわせると、『魏志』は『三国志』全体より、3〜4年早く、280年頃には成立していた可能性があるように見える。

『魏志倭人伝』の成立は、早く見て280年ごろ、遅く見て284年ごろと言うことになる。

■ 陳寿の伝記

陳寿は233年に梁州巴西郡(りょうしゅうはせいぐん)の安漢(四川省南充市の北で 重慶に近い)に生まれた。

巴西郡出身の散騎常侍(さんきじょうじ:天子の側近)の周(しょうしゅう)を師とし、経学と史学と を学んだ。特に、『史記』『漢書』に詳しかった。

陳寿は蜀の国に仕官して、観閣令史(かんかくれいし:宮中の図書がかり)に任じ られた。

蜀が滅び(263年)、呉が滅び(265年)、西晋の時代になると、西晋の政治家で司空(最高位にある三つの官職の一つ)の地位にある張華(ちょうか)が陳寿の才能をおしみ、佐著作郎(歴史編纂補佐官)にした。

269年に37歳で、出身地の巴西郡の中正(官吏志望者の評定者)となった。 さらに、陽平の県令に任じられた。

このとき、『諸葛亮集』を撰んだとみられる。おそらくはこの功績で著作郎(歴史編纂官)になったと思われる。

晋の武帝の時代の274〜290年ごろに、再び、著作郎になる。

のち、御史治書(ぎょしちしょ)(官吏を監督し、不正をただし、しらべる官) となるが、母がなくなったので、その喪のため職を辞した。

297年65歳で病没した。

『後漢書』をあらわした范曄(はんよう)は刑死し、『史記』をあらわした司馬遷は宮刑に処せられた。

これらの大史家に比較すると、陳寿が65歳まで生きて病没というのは珍しい。





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