TOP>活動記録>講演会>第259回 | 一覧 | 次回 | 前回 | 戻る |
第259回
|
1.日本民族の起源 |
■ 第1次アウト・オブ・アフリカ
人類の祖先と思われるものがにアフリカで発生して全世界に広がった。第一回目の拡散をアウト・オブ・アフリカとよび、およそ150万年〜180万年前のこととされる。 前河合信和著『ネアンデルタールと現代人』では第1次アウト・オブ・アフリカで、人類の祖先が日本列島まで来たように描かれている(右図)。 これは、旧石器捏造事件が露見する前に書かれたので、60〜80万年前に日本列島に人類の祖先がいたということを信じて作成されたためである。 現在では、第一次アウト・オブ・アフリカで人類の祖先が日本にまでやって来たというのはかなり怪しいとされている。もし日本にやってきたとしても、日本人の祖先には繋がらない。 ■ 第2次アウト・オブ・アフリカ アフリカで発生したホモサピエンスが6万年〜10万年前ごろ全世界に広がった。これを第2次アウト・オブ・アフリカとよび、日本列島には4〜3万年前に到達した。現在の日本人の祖先である。 最近、アフリカからアジアへのルートについて、従来の北ルートに加えて、アラビア半島を渡ってインド方面に向かった南ルートが存在したといわれる。(下図には南ルートを追記してある) ■ 新人の起源に関する二つのモデル 旧人から新人に変わるとき、ノアの方舟モデルと、教会燭台モデルとがある。
チンパンジーは脳が発達しているが、発声器官が十分進化していないので言葉は使えない。 同じように旧人は言葉が使えなかったと思われる。 教会燭台モデルでは、進化の過程で各地の旧人が同じ進化をして、同じように言葉が使える新人になったことになるが、このようなことを想定するのはかなり難しく、現在はノアの方舟モデルが妥当であろうと言われている。 ■ 日本語の起源 日本語と他の言語の近さを測定した結果から、大まかにいって古朝鮮語系、古アイヌ語、古日本語は古極東アジア語としてつながりがあった。 氷河期には日本列島は大陸と陸続きであった。サハリンや朝鮮半島、南西諸島方面を通じて、日本海を取り巻く人の交流により古極東アジア語が成立した。 古極東アジア語からわかれた古日本語(日本基語)は、はじめ、北九州と南部朝鮮とにあり、ビルマ系江南語と結びついて、倭人語(日本祖語)が成立した。 その言語を母胎として、大和朝廷の原勢力邪馬台国が北九州に発生し、大和朝廷の原勢力が南九州などにおよぶとともに、台湾原住民の言語アタヤル語などと関係をもつインドネシア系の言語の語彙を吸収した。 さらに、その原勢力が東漸し大和朝廷をたて、その力が日本列島の各地におよぶとともに、縄文期の長年月にわたって、庶民のあいだにかなり広くひろがっていたインドネシア系の言語や、クメール(カンボジア)系の言語などをも吸収しながら、日本列島を、言語的に統一していった。 また、朝鮮語は、もともとは、現在よりも北のほうで行われていたのが、南下したと考えられる。 ヨーロッパ言語は祖語があってそこから時間と共に分離発展してさまざまな言語が成立していくモデルで説明できる。しかし、日本語は、それとは逆に、周辺各地の言語が流れ込んできて成立したと考えられる。 言語については別途詳しく解説の予定。 ■ 周日本海型分布 古極東アジア語と同じように、日本海の周囲に分布する「周日本海型」の生物がいる。 ウラジロミドリシジミ、メスアカミドリシジミなどのチョウ類、ヒメザゼンソウ、 ツバメオモトなどの植物である。 西村三郎(京都大学教養学部教授の動物学者)は『日本海の成立、生物地理学からの アプローチ』の中でつぎのように述べる。 「周日本海型を示す生物は洪積世の氷河期、少なくともウルム氷期 (約7万年〜1万年前まで)を生き延びた種で、周日本海地域は氷河期における避難的 な場所であった」 ウルム氷期には日本海は外海から隔離された内陸海となっており、周辺の陸地より温暖だったため、ここで多くの生物が氷河期を生き延びたといわれる。 ■ 細石刃文化 約1万5千年前ごろに遠くシベリアからアラスカまで広がりを持つ細石刃文化があらわれる。細石刃文化を担った人類集団はバイカル湖から拡散し、1万2千〜1万3千年前に東日本を覆ったとされる。 細石刃とは、幅が5ミリ、長さ3センチ程度の両側の縁が平行になっている薄くて細長い剥片である。 ■ 縄文時代 縄文時代の始まりは、1万1千年〜1万2千年前とされてきたが、最近は、炭素14年代などの測定結果から、1万4千年〜1万6千年前といわれるようになってきた。 縄文時代は細石刃文化のあと始まったとされるが、縄文文化が1万6千年ぐらい前から始まったとすると、細石刃文化との前後関係で疑問が生じる。 細石刃は大変有効な道具であったが、縄文文化の中にほとんど残らなかった。これは縄文文化が狩猟よりはドングリなどの採集を主としたため、刃物より、木の実をすりつぶす道具を必要としたためではないか。
酒詰仲男氏の貝塚の研究からも、関東、東北の人口が多かったことが裏づけられる。北海道の人口はそれほど多くはなかった(右図)。 西日本では少ないとされる縄文遺跡だが、鹿児島県の上野原遺跡は、約9500年前の国内最古級の集落遺跡として話題になった。 上野原遺跡は、約6400年前の鬼界カルデラの噴火によって壊滅したと思われる。 九州の人口が少ないのは、上野原遺跡のように、火山の噴火の影響であるともいわれるが、小山修三氏のデータでは鬼界カルデラの噴火の前の縄文早期から、九州の人口はほかより少なかったように見える。 大きな噴火による火山灰は、日本列島の広い範囲を覆うので、堆積した地層は年代を推定する良い手がかりになる。
|
2.天皇陵の盗掘 |
奈良市北部の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群では多くの古墳が盗掘されている。
■ 成務天皇陵の盗掘
川路聖謨の調書には、垂仁天皇陵、神宮皇后陵の盗掘の状況も記録されていた。これらの陵墓は、盗掘したが中には何もなかったということである。 4人の犯人のうち3人は牢獄で死に、一人は磔になった。このときすでに牢死し塩漬け保存していた三人の死体もいっしょに磔にしたという。 ■ 日葉酢(ひばす)媛命(垂仁天皇の妃)の盗掘 1917年の大阪朝日新聞、大阪毎日新聞に記事が掲載された。十数名の窃盗団が、日葉酢媛命の陵墓をあばき、勾玉、鏡(1尺1寸なので三角縁神獣鏡か)などを盗み、捕縛された。 ■ 北和城南古墳 日葉酢媛命陵の窃盗団が残した盗品で、出所不明のものが多数ある。どこから盗んだか白状しなかったので、「北和城南古墳」(大和北部、山城南部地域の古墳という意味で、実際には存在しない。)の出土品として扱われている。天皇陵から物品を盗んだ場合、当時は不敬罪で死刑になるので、自白しなかったのかもしれない。 北和城南古墳とはどこの古墳であろうか。考えられる候補は下記の古墳である。
|
3.鉄(てってい) |
佐紀盾列古墳群の東群に属する宇和奈辺(うわなべ)古墳の陪塚の一つの大和6号墳
から多量の鉄が出土した。
また、鉄は、新羅の慶州の金冠塚などからも多量に出土している。 森浩一、石部正志の両氏は鉄についてつぎのように述べる。
5世紀初頭を中心にした約1世紀間に構築された畿内の大古墳のうちで、多数の鉄製武器類を副葬する例は、河内の古市誉田古墳群、和泉の百舌鳥古墳群がとくに顕著である。
|
TOP>活動記録>講演会>第259回 | 一覧 | 上へ | 次回 | 前回 | 戻る |