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第298回特別講演会
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1.魏鏡と倭人伝への認識をぼくが深めていった遍歴 森浩一先生 |
■ 倭人伝の読み方
『倭人伝』は、序文に書いてある様々な倭に関連する情報を把握していることを大前提として記述されている。 だから、『倭人伝』だけ読んではだめで、序文も読む必要がある。 ■ 魏鏡について 注意しなくてはいけないのは、活字の上で魏鏡と書いてあるときに、いろんな意味があると言うことである。
魏鏡と書いてあっても、どのような立場の人が書いた魏鏡かよく注意する必要がある。 ■ 三角縁神獣鏡 日本人学者が魏鏡と推定したにすぎない日本の出土鏡の典型が三角縁神獣鏡である。 大正15年刊行の後藤守一『漢式鏡』では神獣鏡を平縁と三角縁に大別。さらに三角縁神獣鏡を銘文や模様の配置をもとに11に細分した。日本の古墳からの出土では最も多い鏡と認識していた。 三角縁神獣鏡は中国では見つかっていないとしながらも、中国鏡とするのにまだ疑問はもたれていなかった。 ■ 三角縁神獣鏡の特徴 三角縁神獣鏡の特色は三つとみている。 (卑弥呼の鏡としている人はあいまいにしている)
出土の特色として、まず、日本の古墳からのみ出土していること。それと、弥生の墓からは一枚も出土していないこと。弥生時代の北部九州の西半分の墓には鏡を副葬する慣習があるが三角縁神獣鏡は副葬されていない。 ほとんどの三角縁神獣鏡は4世紀の古墳時代前期に集中して出土する。一枚だけ、千葉県の6世紀末の城山古墳から、古い形式の三角縁神獣鏡が出ている。 早稲田の水野祐氏は、古代の天皇家について、古墳の前期(崇神王朝)、中期(応神・仁徳王朝)、後期(継体・欽明王朝)の三つの王朝があったことを述べているが、三角縁神獣鏡の時期は、崇神天皇の前期王朝の時期と一致するのではないか。 ■ 紫金山古墳の発掘 昭和22年5月5日と6日、京都大学の梅原末治教授に呼ばれて、発掘中の紫金山古墳を見学した。 紫金山古墳は100m程の前方後円墳で、石室の棺の中には尚方作銘(中国の宮廷直属の鏡を作る工房)の平縁方格規矩四神鏡1面があり、棺外石室と棺の間の10cmほどの隙間に、三角縁神獣鏡10面と、直径40cmほどの大型の国産の勾玉文鏡1面があった。 中国製と思われる方格規矩四神鏡は棺内に収められており、副葬品と言ってもいいが、国産大型鏡と一緒に棺外にに置かれた三角縁神獣鏡10枚は、棺外遺物である。 出土状況がこれだけはっきりしたことを言ってくれているのに、京都大学の先生方が棺内遺物と棺外遺物の違いをこの状況から学ぼうとしなかったのは大変残念である。 さらに棺外の大型鏡や三角縁神獣鏡は鏡の鈕孔が鋳放なしだったり、鋳物土でつまっている。 見学の際に記録したノートには、「出土した鏡は、ことごとく鈕が鋳放しのままであり、中には、鈕の孔に鋳物土がつまり、ふさがっているものがあった」と記述していた。 中国の皇帝が周辺の王に鏡を与える時には、鈕孔に綬(組み紐)を通すので鈕の中の土を出し鋳張を除去する。中国からもらったものならば、鈕をきれいにしたあと、何色かの組紐が通してあってしかるべきである。 組紐がないばかりか、鈕孔に土が詰まっていたり鋳放しなのは、中国から与えられたものではないと考えるべき。 残念なことだが、昭和22年の段階で、三角縁神獣鏡の正体がはっきり出ていた。 京都大学の小林さんは、三角縁神獣鏡についての論文や本を書いているが、鈕の穴に土が詰まっていたり鋳放しだったことについて全く記述しなかった。というより故意に無視した節がある。 考古学者は、発掘の状況をきちんと記録して、その状況から遺物に対する歴史的判断をすべきである。 考古学で大事なのは、発掘の瞬間にどれだけ観察し記録を残すかである。観察の記録のない遺物は博物館の棚を埋めるだけの単なる「物」にしかならない。 ■ 中国の三角縁神獣鏡 1959年(昭和34年)戦後初の訪中団(団長原田淑人氏)が訪問した際に、三角縁神獣鏡の スライドを持参して、中国の先々で中国人学者に見せたが、だれも三角縁神獣鏡を知らなかった。 卑弥呼の鏡だと騒がれている三角縁神獣鏡について、このころからこれを中国鏡とすることへの疑問がわき始めた。このことは中央公論の『日本の歴史』に書いた。 ■ 和泉黄金塚の発掘。 粘土で固めた三つの棺が出た。その中央の1mもの厚さの粘土槨に覆われた棺の中から、中国にあってもおかしくないような平縁の中型の鏡が1枚出た。棺の外では、鉄の剣、斧、鎌と一緒に、平縁ながら、内区の神獣文が三角縁神獣鏡と同型の景初3年の銘文をもつ鏡が、中央槨の棺外遺物として出土(棺外槨内)。 景初3年と書いてるのは事実だが、棺外に他の遺物と一緒に出る状況がどうもおかしいので、景初3年に作られた鏡と即断しなかった。 京大系の小林行雄氏を筆頭とする学者は徹底した遺物学だが、私は出土状況を重視する遺跡学の重要性を知り始めたので、和泉黄金塚の神獣鏡も魏の鏡というには出土状況がおかしいと考えた。 ■ 遺跡学と遺物学 大英博物館には、ギリシャのパルテノン宮殿の神殿の飾りを外して持ってきた物が展示してある。イギリスの考古学者は、お金と労力さえかければ遺跡は動かせると考えていた。 イギリスに留学した京大の浜田耕作は、イギリス流の考え方で「遺跡はお金さえ出せば他の場所に移すことができるので、考古学の対象は遺物である」と説いた。 一方、同じ京大の水野清一は「考古学には遺物と遺跡の二つがあるようにいわれているけれども、遺物は遺跡の中において初めて学問的価値がわかる。だから考古学の対象は遺跡に一語に尽きる」と述べている。 水野清一の考古学の定義は画期的だと考えるが、今の学者はこのことをよく理解していない人が多い。 昭和60年頃から、遺跡と遺物の二つの概念だけでは不十分ということで、遺構という考え方が提案された。 すなわち、「遺物は遺構の中において初めて学問的価値がわかる。その遺構を総合したものが遺跡である。」 登呂遺跡は多数の竪穴式住居で構成されている遺跡である。遺跡は大地にくっついているもので、動かせない。一部の人たちがいうようにお金さえ出せば動かすことができるというのは、ひとつひとつの竪穴式住居の遺構にすぎない。 だから出土の状況が不明な「伝××出土」というような遺物を、論文作成の材料に使ってはいけない。 ■ 鏡の銘文 4世紀の倭人は無文字社会であり、漢文が読めなかったとしている人がいるが、そのようなことはない。 『魏志倭人伝』のなかに、魏から卑弥呼に降したりっぱな文章が載っているが、このような漢文を卑弥呼の宮殿では読んでいた。 倭人は漢文を読めたのである。それどころか卑弥呼の宮廷では中国語が飛び交っていたという人もいる。 三角縁神獣鏡魏鏡説の信奉者は、鏡の銘文の内容を無視する傾向が強いが、銘文の内容の重視する必要がある。 昭和25年に和泉黄金塚古墳の中央槨の棺外で、景初3年銘のある三角縁神獣鏡が見つかった。 それは次のような銘文であった(句の区切りは便宜上つけたもの)。 景初三年 陳是作 之 保子宜孫 最初と最後の句は意味がわかるが途中は意味不明。出土した当時、と重なるのは軍隊のかけ声だとかいうようなこじつけの解釈が盛んに行われた。 この銘文の解釈について、1986年に福知山市広峰15号墳で出土した三角縁神獣鏡が決定的な手がかりを与えてくれた。 広峰15号墳の三角縁神獣鏡の銘文は、次のような文章であった。 景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人之 位至三公 母人之 保子宜孫 寿如金石兮 この内容は、吏人(役人)がこの鏡を持つと立身出世する。また母親がこの鏡を持つと子孫が繁栄し長生きする。というものである。五月丙午之日は鏡を作るときの吉祥句である。 男女両方への効能が書かれているが、中国にはこのように男女両方の効能を書いた鏡はない。 和泉黄金塚の三角縁神獣鏡は、広峰15号墳の鏡の銘文から女性に関係する部分だけを取り出したものと見られる。 和泉黄金塚の被葬者は女性だったのであろう。ぎこちない漢文ではあるが、女性を葬ることになってから、広峰15号墳の鏡のような文章から、女性の部分だけを取り出して日本で製作した鏡であろう。 ■ 三角縁神獣鏡の制作者 昭和37年、私は『古代史講座』第三巻「古代文明の形成」の巻に「日本の古代文化−古墳文化の成立と発展の諸問題」を書いた。 考古学から日本の古代文化を通観した最初である。その中の「三角縁神獣鏡の検討」の項で私は三角縁 神獣鏡の大部分は製鏡で、国内での鏡製作の当初には帰化系工人が製作を担当したと考えた。 このなかの「帰化系工人」はその後、「呉からの渡来系工人」と改めたし、この段階では年号をつけた重層式(階段式)の鏡だけは日本製とすることを保留した。しかし今ではそれも日本製とみている。 ■ 柳本天神山古墳の発掘 昭和35年に、行燈山古墳(現・崇神陵)の陪墳の柳本天神山古墳の発掘に参加、24面の一括埋納に遭遇し、鏡の出土状況についての認識を深めた。 このころは、鏡のことは後藤先生か梅原先生しかわからないものだと思われていたが、怖いもの知らずで取り組んだ。中国ではどのような出方をするかを参考にした。 ■ 椿井大塚山古墳 昭和28年に鉄道線路の拡張で見つかり、三十数枚の鏡などの遺物が持出された椿井大塚山古墳の報告書が昭和39年に梅原末治氏の執筆で刊行された。 発行前に、梅原先生から直接一冊頂いたが、その直後、小林行雄氏のクレームが入って報告書は未刊行となる。小林さんの写真を使ったことが問題であったようだ。 ■ 黒塚古墳 1997年と翌年に柳本古墳群の黒塚古墳が発掘された。この古墳は、たぶん石室が地震で壊れていたため盗掘者が入ったけれど石ころだらけで遺物のところまで行けなかったようで遺物がよく残っていた。 木棺内には一面の平縁神獣鏡があっただけだが、石室内の棺外の狭い空間に32面の三角縁神獣鏡と1面のダ竜鏡が棺を取囲んでいた。 発掘直後に、鈕の状況に注目して観察したが、半数は鋳放しのままで、鈕の穴に鋳物土が詰まっていた。 遺物学から見れば、このような出土の状況は、三角縁神獣鏡の性格(呪具・葬具)の分る決定的証拠だが、頑迷な魏鏡論者はその後も「卑弥呼の鏡」説をとなえている。 何をかいわんやである。 ■ 同型鏡、同范鏡 三角縁神獣鏡は同范鏡が多く、大量生産である。その技術は弥生時代に銅鐸を作る技術があったからであろう。 福岡県糸島市(倭人伝のいう伊都国)での平原古墳の発掘品の整理で、大型内向花文鏡(5面1組)と方格規矩四神鏡に、それぞれ同型技術のあったことが分かった。 柳田康雄氏の調査で、銅鐸の同型製作とともに、同型技術は弥生時代からすでにわが国独自の技術であることが分かりだした。 三角縁神獣鏡は500枚ほど出てきて、めちゃくちゃ多い鏡であり、同型、同范鏡という技術もいっぱい使われている。その技術の先行は銅鐸にもあるが、鏡では伊都国で弥生後期後半にはすでに発生していた。 その技術を母胎にしてヤマトに移ってきた九州勢力が新たに作り出したのが三角縁神獣鏡かな、と思っている。 |
2.「三角縁神獣鏡」の誕生 安本美典先生 |
三角縁神獣鏡についての見解は森浩一氏とまったく同じ。山に登るときに、登り口は違っても到達する頂上は同じになるようなもの。
下垣仁志氏の『三角縁神獣鏡研究事典』掲載の557面の三角縁神獣鏡のデータから、破片や出所不明のものを除いた364面の面径データを抽出して度数分布をグラフ化した。20cm以上の鏡が97.5%を占める。 いっぽうで、中国の発掘の報告書のデータから中国出土の画紋帯神獣鏡のデータを集めると、圧倒的に小さな鏡が多く、20cm以上のものはまったくない。 日本で出土した画紋帯神獣鏡の面径の度数分布を見ると、二つの山に分かれている(下図)。 三角縁神獣鏡と同じような大きい径の鏡と、中国の鏡と同じような小さな鏡の二つの山があるように見える。 三角縁神獣鏡も画紋帯神獣鏡も、直径の大きい鏡は、日本で作られたのではないか。 しかし、径の大きいこれらの鏡について、中国製ではあるが、日本向けに特別に製作した特鋳品だから大きな物を作ったとする主張があるかもしれない。 次のような情報はこのような考え方を否定するものであろう。 熊本県江田船山古墳からの画紋帯同行式神獣鏡が出土している。 江田船山古墳の鏡は面径20cmほどだが、その同型鏡が右表のように国内で26面出土している。 しかし、中国では全く出土していない。 江田船山古墳の画紋帯神獣鏡について、王仲殊氏は次のように述べている。
「数多くの画紋帯同向式神獣鏡が日本国内で製作されたからこそ、その同范鏡が、日本各地の古墳からひとつ、またひとつと発掘されたのではないでしょうか。
すなわち、面径の大きな画紋帯神獣鏡は日本で作られた鏡であり、中国製ではないと思われる。 江田船山古墳は、出土した鉄剣の銘文から5世紀後半の古墳とされる。また、やはり画紋帯神獣鏡が出ている藤木古墳は6世紀の古墳とされる。 これらのことから、江田船山古墳の画紋帯神獣鏡や、その同型鏡などは、古いものではないと考えられる。 王仲殊氏は、三角縁神獣鏡は、画紋帯神獣鏡と三角縁画像鏡がミックスしてできた鏡だと述べている。 中国の画紋帯神獣鏡は、揚子江流域など、南の地方で出土する鏡であり、北の黄河流域からの出土は少ない。 中国出土の画紋帯神獣鏡の銘文を調べると、呉の年号が記されている鏡が圧倒的に多い。これは、画紋帯神獣鏡が南の呉の地方の鏡であることを示している(右表)。 すなわち、中国南方の呉の地域で作られた画紋帯神獣鏡をルーツのひとつとする三角縁神獣鏡は、中国北方の魏の鏡とは考えられない。 |
3.対談 森浩一先生 安本美典先生 |
安本: 『歴史読本』の2011年4月号にお書きになった「これから邪馬台国を学ぶ人のために」という文章の最後に、「1月23日に放映されたNHKスペシャル「邪馬台国を掘る」は20年ほど前のレベルで、見ていてがっかりした。問題点はいずれ指摘する」と追記されていますが?
森: 教え子が何人か登場していたが、かなり昔にしか通用しない議論を、またしても持ち出していた。何人か破門してやろうかとおもった。(^^) いちばんひどいのは、纒向遺跡から日本各地の土器が出土していることで都だといっているが、これは日本の特徴で、どこの縄文遺跡でも弥生遺跡でも、その土地で作った土器だけで構成されている遺跡はまずない。 20年ほど前に『図説日本の古代』という本で金沢市の弥生遺跡を例にとって、いかに各地の土器が入っているかを書いた。この段階で、各地の土器が出るということは、纒向の特殊性を説明する材料としては通じない。それをまた持ち出しているから、これはあかんと思った。 桃の実についても、そうなんです。桃の実ほど弥生遺跡からたくさん出る果実の種はない。桃の次によくでるのは鬼ぐるみです。 戦争中の昭和19年に四ツ池遺跡というところの池の中を1m四方ほど試掘したことがある。狭い面積にもかかわらず桃の種がたくさん出てきた。 植物学者に見てもらったら野桃と栽培桃の中間だから古代桃と呼びたいと思った。桃が出るのは四ツ池遺跡だけではなくて高槻の遺跡からもたくさん出てきた。 纒向のは、宴会の後で穴に放り込んだのでしょうが、たくさん入っていたということはわかりますがあれでもって不老長寿の思想だとか、まして邪馬台国があそこにあったとかにはならない。 銅鐸の破片が出てきたことについても、20年も前に但馬の遺跡で銅鐸がばらばらになって出てきたことがあり、当時の実験で熱く熱した銅鐸にバケツで水をかけるとばらばらに壊れることがわかっていた。これも改めて持ち出す必要のないことだ。 そんなことを言ってるだけではいけないので、先日、纒向から出土した遺物を見に行った。唐古鍵遺跡で出たような弥生後期の銅鐸の鋳型や銅鐸の破片がいくつも出ていた。纒向では唐子と同じように銅鐸を鋳造する技術を持っており、銅鐸の破片を材料にして何か作っていた可能性がある。 NHKの番組は、始めに答えがあってでっち上げたように見える。 それから、普通に古代史をやっている人が纒向で第一に頭に思い浮かべなくてはならないのは、『古事記』『日本書紀』に崇神、垂仁、景行の三代にわたって纒向に宮があったと書かれていることである。 纒向で、考古学的に年代が限定できない建物が出土したら、まず考えなければならないのは、記紀に記されている初期大和政権の都のことを検討するのが順序である。 それで検討してみて、さらに年代が遡るといえる可能性があるなら邪馬台国時代のことを考えればいい。 考古学の年代は、測定器でぱっと出るようなものではない。高松塚のように都の近くで時代も新しく、遺物もいろいろ出た古墳でも 学者によって70年ぐらいの年代差がある。このくらいの年代幅の中でしか言えない。これが考古学の常識です。 だから、纒向遺跡の年代が何年だというのは眉唾でしかない。 纒向遺跡の最初からの発掘者である関川氏は、纒向遺跡の時代を古くするのは無理だと言っている。 もっと古く見る説もあるけど何を根拠にしているかわからない。 あのNHKの番組は、ここまで学問でわかってきたということを国民に知らせる番組になっていない。 かつて、あるディレクターだか新聞記者が、我々は面白くすればいいんですと言っていたので、出入り禁止を申し渡したが、面白くすればいいというのは、学問としてはきわめて迷惑な話である。 今回の、NHKの番組は面白くするために学問あり方を無視しており、学問をないろがしろにしている。 安本: 『日本書紀』には、箸墓古墳に倭迹迹日百襲姫を葬るときに、大市に葬ったと記している。ここには市があったのではないか。 大きな建物は後の時代の市司(いちのつかさ)で市を管理する役所の跡かもしれないし、そこに、桃の種や、魚の骨、動物の骨があったのは、売れ残った物を捨てたとも考えられる。 市司で宴会などをやったときの残骸かもしれない。 ところが、桃の種から神仙思想にむすび付け、そこから卑弥呼へ、さらに邪馬台国に結び付けるのはまるで連想ゲームである。 連想ゲームで邪馬台国問題が解けるはずがないと思う。どうも最近は連想ゲームが多すぎる。 森: だから私はNHKの番組に出るのはいやだとお断りした。あんな中に出たら恥です。 安本: 最近の考古学の人は、証明よりもマスコミなどで宣伝すればいいと思っているようだ。証明が手薄になっている。 森: そうそう。僕とは人生観が全く違う。もう一生酒をいっしょに飲みたくないと思う。(^^;) 言いにくいんですけど、桜井市は今度纒向の研究所を作った。あの番組はそこの人事が絡んでいる。いろいろ裏があるんです。 安本: 予算の問題とかいろいろ絡んでいるんでしょうけど、なにか一発出てくるとAさんの意見、Bさんの意見というようにマスコミでどんどんやるとまとまりが付かなくなってしまうのでは。 森: 5年ほど前に僕の人生の最後の段階になって考古学の崩壊の足音が聞こえるのはきわめて残念だと書いたが、あの番組一つ見てもそう思う。 昔、市民大学講座の放送を半年間、毎週やったことがある。あのころはNHKのほうも内容は僕らに一切任せてくれた。 一時間番組の59分までは台本無しでしゃべって、最後にあと一分と教えてくれた。 この内容は講談社から文庫本になって出ている。 あんなのをまたやらせてくれたらいいけど、あんな時代はもう来ないかもしれませんね。これだけテレビが堕落してしまってはもうだめでしょうね。 安本: 今日は限られた時間でお話し頂いたが、追加の話がありますか? 森: 最近の中国の傾向として、骨董屋が持ち込んだ物が大学のコレクションにしばしば入っている。それが日本の報道に使われている。あれは危ないです。 つい半年ほど前にも、中国の女の先生が・・・ 安本: 楊金平さんです。 森: 素性のはっきりしない資料を中国の学者はわりあい平気で使ってますね。遣唐使の名前の出た墓碑も慎重な学者は一切使わないです。 そのような物は一切使わないでほしいが、どうも中国ではそのような厳密さが薄れている。 ひとつ付け加えたいのですが、倭人伝に100枚のよき鏡をもらったとあるのだから、日本で一つの種類で最も数の多い三角縁神獣鏡に当てるべきだとする。これは梅原末治先生に始まって、多数の魏鏡説をとる人が唱えていることです。 しかし、古い時代のものが、発掘で出てくる数はたいへん少ない。100枚の鏡をもらったとしても、出土するのは多くても5面ぐらいである。 5面ぐらい出ている鏡の中に卑弥呼がもらった鏡が含まれている可能性がある。5面ぐらいだったら方格規矩鏡でもいいし内行花紋鏡でもいいし、たくさん候補がある。三角縁神獣鏡ではなくても、どの鏡でもあてはまる。 ひどい学者は、三角縁神獣鏡が500面以上あるのだから、魏への使いが倭人伝に書かれている以外に5回も6回も行ったのだと、馬鹿なことを言っている。 安本: 西暦238年ぐらいまでは公孫氏によって魏への道が遮断されていた。魏は滅ぶのが265年なので卑弥呼が魏から鏡をもらった期間は20数年ぐらい。500面出土した三角縁神獣鏡を魏鏡だとすると、仮にその10倍ぐらいはもらっているとすると、20数年間で5000面をもらう計算になる。ちょっと普通じゃ考えられない。あり得ないことをどんどんあり得ることとして議論しても話にならない。 森: この意見が出たときに、某大手新聞が小林行雄以来のみごとな説だと書いた。考古学を専門とする記者がである。なにをか言わんやである。怖いんですよ、世の中は。 安本: 崇神・垂仁・景行天皇の時に、鏡の鋳造を裏付ける話がかなり載っている。たとえば、日本武尊が東に向かうとき大きな鏡を船に取り付けた話がある。大きな鏡とは中国の鏡ではなさそうである。 崇神天皇の時に宮中の鏡からプレッシャーを受けてレプリカを作ったことが『古語拾遺』に記されている。 鏡作神社にレプリカを作ったときの元の鏡があるという話があるが、 森: 鏡作神社は唐子遺跡の真横にある。そこにいまだに三角縁神獣鏡の内区の神獣鏡の部分を祭っている。唐子遺跡を中心に鏡作神社が数社ある。このあたりが三角縁神獣鏡を作っていた中心と思われる。 安本: 考古栄えて記紀滅ぶと言う言葉があるが、考古学関係の方は『古事記』『日本書紀』をまったく読まないというかんじがするが、あれは考古学の純粋性を目指していることなんでしょうけど・・・ 森: いや、それは無理でしょう。 大学の2回生の時に『古代学研究』という雑誌をみんなで作った。そのとき、一人の人間が考古学の材料も文献の材料も両方読めてはじめて古代史が読めるんだという目標を作った。この雑誌はいまだに若い委員諸君が出し続けてくれている。 一つ自慢したいのは、僕が編集していた最後のころに、地震考古学というのを毎号やった。47回やったので全国ほとんどの府県を網羅した。考古学者は石ころの並び方とか土器の分類とかもいいんだけど、それ以外に地震についても積極的に物が言えるようになるといい。 地震学者は、高価な機械さえ買えば地震が予知できると思っているが、わずかな面積を掘れば地震の痕跡は出てくるので、考古学的に各地域の地震の履歴書が書ける。 地震学者で見に来た人がいない。考古学だけが情けないんじゃないんですね。(^^;) 安本: 『日本三代実録』に貞観年間の津波のことが書かれている。 森: 松島湾の宮戸島の人たちは、貞観津波の到達点に目印の石碑をを立てておいて、地震の時にはそれより上に逃げた。その結果、あの島は一人しか死者が出なかった。 今後は、各地域の津波の到達点に目印を作るのがいいんじゃないか。新しい先生などが入りたての時に必ず災害学というのを徹底的に教えるんです。それをしていたら今回も救えた学校があるんではないか。貞観年間の津波の目印を残した宮戸島の人たちはたいしたものですね。 世の中賢い人ばかりじゃないんですね。(^^) 安本: どしたらいいんでしょうね。 森: やっぱり、このような研究会に出ると言うことでしょうね。(^^) 安本: 今は誰でも情報発信ができる時代です。みなさんも、今日の感想などをインターネットなどでどんどん発信してください。 |
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