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第297回講演会
崇神天皇の時代と三角縁神獣鏡の時代


 

1.崇神天皇の時代と三角縁神獣鏡の時代

崇神天皇の時代に三角縁神獣鏡が作られていたことを示す根拠があると考えるので、これについて詳しく解説する。

■ 第10代崇神天皇の年代

下図で、第21代雄略天皇から第50代桓武天皇までの期間を見ると、315.5年の期間に29代の天皇が在位し、天皇一代の平均在位年数は10.88年である。

崇神天皇は、雄略天皇より11代前の天皇なので、天皇一代の在位期間約10.88年で計算すれば、雄略天皇よりも約120年前の天皇であり、358年ごろ在位した天皇ということになる。



箸墓に葬られた倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の時代の人物であると『日本書紀』記されているので、箸墓も崇神天皇の時代の4世紀中頃に築造された古墳と考える。

したがって、箸墓付近に広がる纒向遺跡も、この地域に大市と呼ばれた市場が在った4世紀後半頃の遺跡と考える。

■ 三角縁神獣鏡は崇神天皇の時代に作られた。

前方後円墳は、時代が新しくなると前方部が発達する。

前方後円墳の「前方部幅/墳丘全長」を縦軸にとり、「前方部幅/後円部径」を横軸にとってグラフを描くと、古いものは左下に、新しいものは右上になる傾向がある。

下図は、三角縁神獣鏡を副葬する前方後円墳と、造り出しのある古墳とをグラフにしたものである。



これを見ると、三角縁神獣鏡を副葬する前方後円墳は、4世紀型の古い古墳であり、造り出しのある古墳は、5世紀、6世紀のものである。

崇神天皇陵も、4世紀型の古墳である。したがって、この図から崇神天皇の時代に三角縁神獣鏡が盛んに作られたことがわかる。

■ 八咫の鏡

崇神天皇は、宮中にあった八咫の鏡から心理的プレッシャーを受けるようになって、神武天皇以来宮中にあった八咫の鏡を、宮殿の外に出してしまう。

『日本書紀』は、このときの状況を次のように述べている。

「これより先に、天照大神(神体は八咫の鏡)と倭の大国魂の二柱の神を、天皇の 御殿のうちにお祭りした。ところが、崇神天皇は、神の威勢を畏れて、ともに 住みたまうことが不安であった。そこで、天照大神には、豊鍬入姫 (とよすきいりひめ)命(崇神天皇の皇女)をお付けになって、倭の笠縫邑 (かさぬいむら)に祭られた。」

同じ事件を、『古語拾遺』は、つぎのように記す。

「崇神天皇の時代にいたって、宮中にまつられていた天璽(あまつしるし)の鏡と剣とから天皇は威圧を感ずるようになられ、同じ宮殿に住むことに不安をおぼえられた。

そこで、斎部(いんべ)氏をして、石凝姥(いしこりどめ)の神の子孫と、天の目一箇(あまのまひとつ)の神の子孫との二氏をひきいて、さらに鏡を鋳造し、剣を作らせて(レプリカを作らせて)、天皇の護身用のものとした。これが、いま、践祚する日にたてまつる神璽の鏡と剣である。」

『日本書紀』によれば、第11代垂仁天皇の時代に、八咫の鏡を、豊鍬入姫命から離して、垂仁天皇の皇女の倭姫(やまとひめ)の命に託す。

倭姫の命は、八咫の鏡を鎮座させるところを求めて、兎田(うだ)の筱幡(ささはた)[奈良県宇陀郡榛原 (はいばら)町]、近江の国、美濃の国をめぐり、伊勢の国にいたって、斎宮(いつきのみや)を、五十鈴川の川上にたてたという。

■ 鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)

奈良県磯城郡田原本町八尾ドウズに鏡作坐天照御魂神社という神社がある(下図)。

古代に、鏡作り氏一族は、このあたりを本拠として大和朝廷につかえていたとみられている。

このあたりには、鏡作麻気神社(麻気神は、天の糠戸の神のこととも、天の目一箇の神のことともいう)、鏡作伊多神社(伊多神は、石凝姥のことという)、鏡作神社など、鏡作り関係の神社が多い。

「鏡作坐天照御魂神社」は『延喜式』の「神名帳」にのっている城下(しきのしも)郡の「鏡作坐天照御魂神社」に比定されている。

『磯城郡誌』には、つぎのように記されている。

「社伝に、本社は三座にして中座は天照大神の御魂なり。伝えて言ふ。崇神天皇六年九月三日、此地に於て日御象(ひのみかた)の鏡を改鋳し、天照大神の御魂となす。今の内侍所も神鏡是なり。本社は其像鏡(そのみかたかがみ)を祭れるものにして、此地を号して鏡作と言ふ。」



■ 鏡作坐天照御魂神社の神宝は、三角縁神獣鏡である。

和田萃(あつむ)氏は「古代日本における鏡と神仙思想」という文のなかで、 次のようにのべる。

「鏡作坐天照御魂神社では、古来、御神体の鏡を天照御魂神として祀っていたと思われる。鏡作神社に御神体として伝えられている鏡は、中国製説のある三角縁神獣鏡で、型式は、単像式の唐草文帯三神二獣鏡である。」

「(この鏡の)外区の欠失していることが注意される。こうした例は、他にほとんどなく、人為的になされたと考えざるをえない。完型でないこの舶載鏡を、鏡作り工人らが奉仕した理由が判然とせず、さらに本鏡が古来御神体であったことにも疑念が持たれている。」

「鏡作神社近傍の古墳から出土した鏡に手が加えられ、ある時期からそれを御神体として奉仕したとの想像も、あながち無稽のことではないだろう。」

しかし、森浩一氏はこれについて次のように書いている。

「八尾の鏡作神社には、三角縁神獣鏡の内区だけの遺品があって、鏡製作の原型(鋳造のもとになる型)と推定することができる。」

大和岩雄氏も、「鏡制作の原型」説をとる。

大和氏は、三角縁神獣鏡を、鏡製作の工人が、鏡製作の原型として使っているうちに、外区が欠けてしまい、鋳造の原型としては、使用不能になったため、神社に奉納し、それが神宝として伝えられたものと推測している。

なお、和田萃氏は、三角縁神獣鏡を、「御神体」とするが、神社では、「神体」ではなく、「神宝」としてあつかっている。

安本先生は、崇神天皇を西暦360年前後の人とみる。

前述の『古語拾遺』が、崇神天皇の時代に鏡を鋳造したと記し、『磯城郡誌』が、崇神天皇の時代に「日御像(ひのみかた)の鏡を改鋳した」と記しているのは、同じことをのべているのであろうが、三角縁神獣鏡が出土する古墳と、年代的にはあっている。

■ 三角縁神獣鏡と伝承

三角縁神獣鏡と結びつくかとみられる伝承は、次のように十例ぐらいはあげることができる。

その伝承は、第10代崇神天皇の時代から、第12代景行天皇の時代までのあいだに 集中している。

また、伝承地の近くからは、銅鐸が出土していることが多い。

三角縁神獣鏡と結びつくとみられる伝承
  • 鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾ドウズ)
    神宝が三角縁神獣鏡。近くの唐子・鍵遺跡から、銅鐸の鋳型が出土

  • 大岩山古墳群(滋賀県野洲郡野洲町富波・小篠原・辻町)
    三角縁神獣鏡が出土。大量の銅鐸も出土している。御上神社の近く。

  • 森尾古墳(兵庫県豊岡市森尾市尾)
    正始元年銘三角縁神獣鏡が出土。近くに出石神社がある。気比 銅鐸の出土地に近い。

  • 太田南5号墳(京都府竹野郡弥栄町と中郡峰山町との境)
    青竜三年銘方格規矩四神鏡が出土。崇神天皇時代の四道将軍の一人、丹波の 道主の命の居地の伝承地の近く。

  • 椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町椿井)
    32面の三角縁神獣鏡が出土。崇神天皇の時代に反乱をおこした武埴安彦(孝元天皇の子)の反乱伝承地の近く。

  • 黒塚古墳(奈良県天理市柳本町)
    33面の三角縁神獣鏡が出土。奈良大学の水野正好氏は、近くに、大海(おおかい)と いう地名のあるところから、黒塚古墳の被葬者として、崇神天皇の妃の尾張大海媛(おはりのおほしあまひめ)か、尾張大海媛の生んだ皇子と考える。

  • 日岡(ひおか)古墳群(兵庫県加古川市加古川町大野)
    1915年(大正四年)刊の『陵墓要覧』は、この地の日岡陵を、景行天皇皇后の、 播磨稲日大郎媛(はりまのいなびのおほいらつめ)御陵とする。この地の 南大塚古墳から、三角縁神獣鏡が出土している。

  • 備前車塚古墳(岡山県岡山市湯迫・四御神の境界)
    三角縁神獣鏡が11面出土。この古墳から出土した三角縁神獣鏡のうち五面の 同型鏡が、静岡県の上平川大塚古墳、神奈川県の大塚山古墳、山梨県の 甲斐銚子山古墳、群馬県の北山茶臼山古墳、三本木古墳などから出土している。

    これらは、いずれも、景行天皇時代の日本武尊と、吉備の武彦の東征経路上にある。 また、赤烏三年銘鏡のでた山梨県の狐塚古墳、正始元年銘三角縁神獣鏡のでた群馬県の 柴崎古墳なども、日本武尊と吉備の武彦の東征路上にあたる。

    伝承上も、三角縁神獣鏡も、吉備と関東とが結ばれている。

  • 会津大塚山古墳(福岡県会津若松市一箕町大字八幡字大塚)
    製三角縁神獣鏡が出土している。崇神天皇の時代に、四道将軍として北陸につかわされた大彦の命と、東海につかわされた武渟川別(大彦の命の子)とは、相津(会津)で行きあった、という。

  • 宮山古墳(奈良県御所市大字室宮山)
    三角縁神獣鏡が出土している。この古墳は、古代政界の大立者であった武内の宿禰の墓といわれている。 武内の宿禰は、『日本書紀』によれば、景行天皇から仁徳天皇にわたる各朝に活躍したという。



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