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第292回特別講演会
炭素14年代法と
古墳年代遡上論の問題点


 

1.炭素14年代法と古墳年代遡上論の問題点 前韓国国立慶尚大招聘教授 新井宏先生

■ 考古学における科学
  • 「科学」では同じ条件で再現できないと、それは事実とは認定しないので、 「追試」が必ず求められる。
  • しかし考古学は発掘調査に代表されるように追試(再現実験)が困難な場合が 多いので、極端な場合、旧石器捏造事件のようなことが起こる。
  • 考古学に利用される「科学」は分析などが主であり、考古学側では、その結果を 「良いとこ取り」する傾向がある。
  • そのため、「科学」側が自分達の結果を採用してもらうために、「考古学」側の 意見に合わせた発表をする傾向がある。
  • 従って「科学的な調査結果」がしばしば「科学的でない」ことが起こっている。
■ 炭素14年による弥生500年遡上論の破綻状況

歴博が弥生時代500年遡上論を発表して7年になるが、この間、土器付着物の炭素14年が、「国際較正基準よりも古く出ている」ことをずっと主張してきた。
  • 日本では炭素14年が国際較正基準よりも数10年古くシフトしている可能性が高い。
    • エジプトやイスラエルの考古学、中国の事例でも数100年の差があり論争が継続している。
    • 海洋性気候、低緯度圏の日本は、較正基準が国際較正基準よりも数10年古い方にシフトしていて、「2400年問題」の時期には、数100年も古く出る危険性がある。

  • 土器付着物の炭素14年が、50〜200年ほど古く出ている可能性が高い。
■ どうして炭素14法で年代が分かるか

  • 大気中の炭素14はいつも一定(本当は違うが)。宇宙線で生成される炭素14と放射崩壊で減る量がほぼ同じ。

  • 光合成で樹木となった炭素14は減る一方(5730年で半分)なので、樹木や炭の炭素14を測ることでいつごろ育った木か判る。

  • 以前にはβ線を使って測定していたが、最近は微量の試料でも、AMS法で手軽に測れる。

  • 炭素14年は1950年を基準にして何年前になるのかの計算値。すなわち分析値である。

  • ところが、厳密には大気中の炭素14は一定ではないので、実際の年代とズレが生じる。

    これを修正する方法の一つが国際較正基準である。

    しかし、弥生時代に相当する2400年前の領域では、グラフが平坦になる部分があり、較正年代が一意的に定まらない。炭素14年代法による弥生時代の年代特定は危うい。(2400年問題)
■ 国際較正基準はどこでも使えるか
  • 歴博は、国際較正基準をどこでも使えるといっているが、40年以上も前に木越邦彦氏が、欧米よりも東京の炭素14比が少ないのは、海洋性の気団のためと指摘している。

    木越氏の図では、東京の上空はバラツキが大きい。

    とくに、台風直後に炭素14比が大きく下がっている。

    歴博はこの論文を知らなかったのか。知っていて無視したのか。

  • 日本樹木と国際較正曲線の間に差がある。
    • 鳥海神代杉(BC750−BC490)  21年
    • 飯田市畑ノ沢ヒノキ(BC627−BC462)  40年
    • 箱根町杉(BC242−AD188)   32年
    • 長野県遠山川ヒノキ(BC142−AD398)   45年

  • 原理的にいえば、高緯度、高標高地、内陸では新しく、低緯度、海洋地域では古く出る。

  • 局所的な影響として海岸地域も古く出ている可能性が高い。
エジプト考古学界では、クフ王の遺跡の炭素14年は考古学が与えた年代よりも200〜300年古く出るとして論争中。

イスラエルでも、炭素14年は考古学の年代より200〜500年古く出ている。

中国の周・越・呉・漢墓の事例でも100〜200年古く出る。

最近、南ドイツでも古くなるデータが得られて問題になっている。

歴博は日本の樹木も国際較正基準のカーブに乗ると言っているが、歴博の見解と異なる事例が数多く報告されている。

■ 弥生年代遡上論に対する最近の考古学界の意見

九州には旧説(BC500年ごろ)を維持している研究者が多い。
弥生時代がBC950年に始まったとする説に対するさまざまな意見
  • 宮地聡一郎:土器判定ミス 150年以上古い
  • 宮本一夫 :青銅器伝播 BC770年頃(200年古い)
  • 甲元眞之 :環境考古学 BC770年頃(200年古い)
  • 庄田慎矢 :韓国考古学 100〜200年古い
  • 新井宏  :炭素14年解析 150年以上古い 
■ 土器付着炭化物は古く出る
  • 最初に発表したのは西田茂氏で江別市の対雁2遺跡の分析結果による。

    西田氏は土器付着物は500年ぐらい古く出ることを指摘したが、歴博は直ちに反論しリザーバ効果のせいであるとした。

  • リザーバ効果については、リザーバ効果があるかどうかの判定基準が明確でないので結論が出ていない。

    青森県で陸上のオニグルミと海の中の魚介類と500年ぐらい差がある。これはリザーバ効果として理解できる現象だが、土器についているおこげでは、魚介類よりもさらに100年ぐらい古く出る。

    礼文島でもおなじような実験をしたが、同じ結果が出た。

    西田氏の指摘した問題は未だ解決していない。

  • 土器付着炭化物と炭化米の炭素年

    唐子・鍵遺跡の出土物で分析すると、土器付着炭化物が炭化米よりも平均57年古く出る。

  • 年代のわかっている土器を使って、土器付着炭化物の年代測定をすると、その土器の年代より50年〜100年ほど古く出る。

  • 古墳時代の分析結果

    古墳時代中期の豊田市本川遺跡で分析した結果は、ばらつきがあるが100年以上古く出る。

    弥生時代から古墳時代の北九州、瀬戸内、東海北陸、畿内の土器付着炭化物の炭素14年は、国際較正基準と比べるとことごとく古く出る。

  • 土器付着炭化物とクルミや桃の種などの分析結果の差比較すると明らかに、土器付着物は古く出る。
■ 歴博の箸墓古墳の年代

・歴博は古墳時代の土器のデータをたくさん持っていたが、古墳時代が遡るという話を一度もしなかった。歴博のデータを国際較正曲線に照合すると、古墳時代の始まりが起源50年ぐらいになってしまうので使えなかった。

日本の樹木による較正曲線を用いれば、古墳時代の始まりを3世紀に持っていくことができるようになった。そこで、2008年に箸墓古墳の築造は250年頃と発表した。

しかし布留0式の分析では、270〜340年の可能性が高いのではないかと反論された。

歴博はそこで、2009年に布留0式は庄内3式と布留1式に挟まれる240年〜 260年と捉えるのが合理的として、箸墓古墳は卑弥呼の墓とした。

しかし、歴博の資料は土器付着炭化物であり、その結果、200年くらいとして出ている にすぎない。その他の試料でみれば箸墓古墳の年代は350年ごろになる。

■ 土器付着物は何故古くでるか

青谷上寺地遺跡で出土品50点とボーリングコア試料153点の炭素14年代測定を行っている。そのデータによると、木材に比べて、土壌は650年、炭化物は400年古く出ている。炭化物は土壌に近い。

原因の一つは腐植酸(フミン酸、フルボン酸、ヒューミン)にある。これらは、地中に多く存在し、非常に古い炭素14年代を持つ場合が普通である。

炭化物は本質的に表面積の大きな物質で活性炭のように有機物の吸着能力に優れている。腐植酸は吸着されやすい部類の代表であり、炭化物は腐植酸を良く吸収する。

腐植酸を除去するため試料のアルカリ処理を行うが、その際に、歴博でも、名古屋大学でも試料のほとんどが溶解してしまう。

名古屋大学で、朝日遺跡と八王子遺跡の試料19点をアルカリ処理した結果、15点が溶解してしまった。残った4点について、炭素14年代を測定した結果では、アルカリ処理の前後で平均135年測定値が違ってきた。

試料が溶けてしまうため、土器付着炭化物のアルカリ処理は、通常の1/10の濃度のNaOHで処理を行っているので、腐植酸が残る可能性がある。これが分析結果を古くさせる要因ではないか。。

このように前処理が不安定であると言うことは、分析結果も不安定であることを示唆している。

従前の考古学的な時代観と対比して著しく古く出ている現状を考えれば、土器付着炭化物の年代は「古く出ている」可能性が極めて高いので信用すべきではない。

国の研究費を4億円以上使った研究であるが、土器付着炭化物の炭素年代測定値は「使えない」危険性に直面している。

■ 種実など非土器試料による編年

種実や小枝などの非土器試料の炭素年代は従前の年代観に近いので、日本産樹木の年輪年代とこれらの試料に注目して新編年案を作成した。

概して、従来の年代観に合うが、古墳前期の始まりについては、寺沢薫氏らが示していた年代観よりも新しくなる可能性がある。



中国尺の場合
・前漢尺23.2cm /尺1.39m /歩
・後漢尺23.3cm1.40m
・魏尺24.0cm1.44m
・晋尺24.3cm1.46m
・唐尺29.8cm1.49m
朝鮮半島の尺度の場合
・古韓尺26.7cm1.60m
■ 纒向の建物・古墳の使用尺の解析

纏向で使われた可能性のあるモノサシ(右表)

これらの尺度で、先年発見された纏向の大型建物や、初期の前方後円墳である纏向型古墳を測定すると次のような結果になる。
  • 纒向の建物の尺度に、漢尺は全く合わない。魏尺もかなり合うが、最も良く合うのは朝鮮半島の古韓尺である。
  • 纒向型前方後円墳は、日本の古墳の始まりとして位置づけられるが、古韓尺に良く一致する。漢尺、魏尺は全く一致しない。


■ 古韓尺とは
  • 4〜8世紀日韓の遺跡を対象に、膨大な計測データを収集し、コンピュータの解析に よって、「もっとも良くあう尺度」として選び出した尺度である。
  • その初現は、現在のところ4世紀の高句麗の積石古墳にみることができる。
■ 古韓尺の示す高句麗との関係
  • 日本の前方後円墳の源流を高句麗の前方後円形積石墓に求めるのは有力な仮説で あった。今回の古韓尺の検出は、その仮説を強固なものにする。
  • 古韓尺が4世紀の高句麗積石古墳に使用されていたのは確かであるが、その使用が 何時まで遡るかは定かではない。ただし、高句麗が朝鮮南部に影響を強めるのは 3世紀中程(魏と共同して公孫氏を滅ぼした238年)から4世紀初(楽浪郡支配)で あることから見ると、纒向遺跡の年代をあまり遡上させるのには違和感がある。


2.箸墓古墳・ホケノ山古墳の築造年代                   安本美典先生

■「箸墓=卑弥呼の墓」説の学界での評価

2009年度の考古学協会総会で、歴博が研究発表した「箸墓=卑弥呼の墓」説は、その後、さまざまな批判を受けているが、2010年3月に行われた日本情報考古学会でも、手厳しい批判に曝された。(『季刊邪馬台国』106号巻頭言参照

情報考古学会では、パネルディスカッションのパネラーとして、熱心に歴博を招待したが歴博はこれに応じなかったと言うことである。

正々堂々と公開の場で議論すべきなのに、それを避けてひたすらマスコミ工作に走る歴博のスタンスは、多額の国費を使っている研究者の取るべき態度ではない。

■ 箸墓古墳の年代

箸墓古墳の年代の手がかりになるデータは、歴博の「箸墓=卑弥呼の墓」説の発表の前に橿考研のデータ(下表)があったが、歴博は橿考研のデーターをまったく無視して発表を行った。



ここでは、桃の種の年代は、平均324年であり、ヒノキのデータは平均BC192年となっている。ヒノキは古木効果によって古く出ているものと思われる。

これらのデータの両方とも、箸墓を、248年ごろに没した卑弥呼の墓とするには都合が悪かった。これが、歴博が橿考研のデータを無視した理由であろう。

多くの研究者が述べているように土器付着炭化物の年代は全く信用できない。にもかかわらず、歴博は土器付着炭化物から得られた自分に都合の良いデータだけで結論を出そうとしているのである。

橿考研の関川尚好氏は、箸墓の築造年代について次のように述べている。

箸墓古墳からは、壺や特殊埴輪が出土している。箸墓古墳出土の壺は、桜井茶臼山古墳出土の壺と同種のものである。これは布留式の古いところ布留1式期のものとみられる。

箸墓古墳出土の特殊埴輪は、他の古墳での特殊埴輪と埴輪の共伴出土状況から判断すると、埴輪の1期の時期にあたるころのものとみられる。

これらから、箸墓古墳とホケノ山古墳とはほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期のもので、4世紀中ごろ前後の築造と見られる。
(『季刊邪馬台国』102号)

■ ホケノ山古墳の年代

箸墓の場合と同じようなことが云える。

橿考研が2009年11月に出版した『ホケノ山古墳の研究』には、古木効果が入らないように吟味した小枝を試料にした炭素14年の測定データが載っている。これによればホケノ山古墳の年代は330年ごろになる。

この研究報告は歴博の発表よりも前に出版されたもので、歴博はこれを見る機会があったはずであるが、歴博は一切触れていない。おそらく自分たちの年代と合わないのでこれも無視したのであろう。



橿考研の関川尚好氏はホケノ山古墳についても次のようにコメントしている。

ホケノ山古墳をどうしてもみんな古く古くしたがるのですが、いくら古くしようと思っても、ホケノ山古墳には布留1式というくびきが掛かっているわけです(布留1式の代表的な土器である小型丸底土器が出ていることを指す)。これ以上は、もう古くはできません。

だから、木槨墓とかいろいろな古いものの要素があるからという話をしたとしても、これ以上動かされませんから、それは布留1式の中での話ということになります。

それを動かそうとしたら、それは考古学ではなくなりますから。

そういう考古学の編年の基本原則というのは、やはり、きっちりしておかなければいけないと思います。
(『季刊邪馬台国』102号)

関川氏は、箸墓もホケノ山古墳も、布留1式の同じような時期と考えている。

上の表で古木効果の影響がないと思われる試料での測定データを見れば、箸墓の場合もホケノ山古墳の場合も、いずれも、300年代前半の同じような年代を示している。これは関川氏の見解と整合している。

■ 庄内3式〜布留1式のデータから見えること

庄内3式〜布留1式の期間で公表されている炭素14年代のデータをすべて集めて眺めると、興味深いことが見えてくる。



これまで述べてきたように土器付着炭化物は、どの時期でも桃核や小枝などよりも、系統的に100年程度古く出ている。

もう一つ注目は、庄内3式と布留1式の年代差がほとんどないことである。桃核だけでなく土器付着炭化物で見ても庄内3式と布留1式の年代差がない。

これは、年代を古く持っていくために、考古学者が土器の型式を増やす操作をした結果ではないかと疑われるのである。

古墳の年代を古く持っていくために、土器の型式を増やし、それぞれの型式に20〜30年ほどの期間を割り振れば、土器の年代をどんどん古く持っていくことが可能であり、土器を出土した古墳もその分だけ古く見える。

庄内3式から布留1式までの3形式で60年違えば、炭素14の年代に有意差が現れても良さそうだが、こに掲げたデータをみれば、庄内3式から布留1式までの間に年代差がないことは歴然としている。土器形式の増やしすぎではないか。

同じ古墳から出土したものでも資料により年代が何百年も違う。試料の選び方が大切。試料をきちんと選べば炭素14年代は大変有効なツールであるが、歴博のように試料の選択を誤ると、おかしな結論がでてきてしまう。

■ 貨泉について

「貨泉」は、王莽の新の時代(8年 〜23年)に鋳造された貨幣である。大阪から「貨泉」が6枚出土していることから、これを近畿の土器の上限年代の根拠としている。

しかし、「貨泉」は西暦300年ごろの洛陽晋墓から52枚出土しているし、さらに後の時代の東晋の墓からも出土している。

後の時代に私鋳されたものが多数あると思われる。このような「貨泉」を根拠にして土器の年代を決めて良いのが疑問がある。






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