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第292回特別講演会
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1.炭素14年代法と古墳年代遡上論の問題点 前韓国国立慶尚大招聘教授 新井宏先生 |
■ 考古学における科学
歴博が弥生時代500年遡上論を発表して7年になるが、この間、土器付着物の炭素14年が、「国際較正基準よりも古く出ている」ことをずっと主張してきた。
イスラエルでも、炭素14年は考古学の年代より200〜500年古く出ている。 中国の周・越・呉・漢墓の事例でも100〜200年古く出る。 最近、南ドイツでも古くなるデータが得られて問題になっている。 歴博は日本の樹木も国際較正基準のカーブに乗ると言っているが、歴博の見解と異なる事例が数多く報告されている。 ■ 弥生年代遡上論に対する最近の考古学界の意見 九州には旧説(BC500年ごろ)を維持している研究者が多い。 弥生時代がBC950年に始まったとする説に対するさまざまな意見
・歴博は古墳時代の土器のデータをたくさん持っていたが、古墳時代が遡るという話を一度もしなかった。歴博のデータを国際較正曲線に照合すると、古墳時代の始まりが起源50年ぐらいになってしまうので使えなかった。 日本の樹木による較正曲線を用いれば、古墳時代の始まりを3世紀に持っていくことができるようになった。そこで、2008年に箸墓古墳の築造は250年頃と発表した。 しかし布留0式の分析では、270〜340年の可能性が高いのではないかと反論された。 歴博はそこで、2009年に布留0式は庄内3式と布留1式に挟まれる240年〜 260年と捉えるのが合理的として、箸墓古墳は卑弥呼の墓とした。 しかし、歴博の資料は土器付着炭化物であり、その結果、200年くらいとして出ている にすぎない。その他の試料でみれば箸墓古墳の年代は350年ごろになる。 ■ 土器付着物は何故古くでるか 青谷上寺地遺跡で出土品50点とボーリングコア試料153点の炭素14年代測定を行っている。そのデータによると、木材に比べて、土壌は650年、炭化物は400年古く出ている。炭化物は土壌に近い。 原因の一つは腐植酸(フミン酸、フルボン酸、ヒューミン)にある。これらは、地中に多く存在し、非常に古い炭素14年代を持つ場合が普通である。 炭化物は本質的に表面積の大きな物質で活性炭のように有機物の吸着能力に優れている。腐植酸は吸着されやすい部類の代表であり、炭化物は腐植酸を良く吸収する。 腐植酸を除去するため試料のアルカリ処理を行うが、その際に、歴博でも、名古屋大学でも試料のほとんどが溶解してしまう。 名古屋大学で、朝日遺跡と八王子遺跡の試料19点をアルカリ処理した結果、15点が溶解してしまった。残った4点について、炭素14年代を測定した結果では、アルカリ処理の前後で平均135年測定値が違ってきた。 試料が溶けてしまうため、土器付着炭化物のアルカリ処理は、通常の1/10の濃度のNaOHで処理を行っているので、腐植酸が残る可能性がある。これが分析結果を古くさせる要因ではないか。。 このように前処理が不安定であると言うことは、分析結果も不安定であることを示唆している。 従前の考古学的な時代観と対比して著しく古く出ている現状を考えれば、土器付着炭化物の年代は「古く出ている」可能性が極めて高いので信用すべきではない。 国の研究費を4億円以上使った研究であるが、土器付着炭化物の炭素年代測定値は「使えない」危険性に直面している。 ■ 種実など非土器試料による編年 種実や小枝などの非土器試料の炭素年代は従前の年代観に近いので、日本産樹木の年輪年代とこれらの試料に注目して新編年案を作成した。 概して、従来の年代観に合うが、古墳前期の始まりについては、寺沢薫氏らが示していた年代観よりも新しくなる可能性がある。
纏向で使われた可能性のあるモノサシ(右表) これらの尺度で、先年発見された纏向の大型建物や、初期の前方後円墳である纏向型古墳を測定すると次のような結果になる。
■ 古韓尺とは
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2.箸墓古墳・ホケノ山古墳の築造年代 安本美典先生 |
■「箸墓=卑弥呼の墓」説の学界での評価
2009年度の考古学協会総会で、歴博が研究発表した「箸墓=卑弥呼の墓」説は、その後、さまざまな批判を受けているが、2010年3月に行われた日本情報考古学会でも、手厳しい批判に曝された。(『季刊邪馬台国』106号巻頭言参照) 情報考古学会では、パネルディスカッションのパネラーとして、熱心に歴博を招待したが歴博はこれに応じなかったと言うことである。 正々堂々と公開の場で議論すべきなのに、それを避けてひたすらマスコミ工作に走る歴博のスタンスは、多額の国費を使っている研究者の取るべき態度ではない。 ■ 箸墓古墳の年代 箸墓古墳の年代の手がかりになるデータは、歴博の「箸墓=卑弥呼の墓」説の発表の前に橿考研のデータ(下表)があったが、歴博は橿考研のデーターをまったく無視して発表を行った。 ここでは、桃の種の年代は、平均324年であり、ヒノキのデータは平均BC192年となっている。ヒノキは古木効果によって古く出ているものと思われる。 これらのデータの両方とも、箸墓を、248年ごろに没した卑弥呼の墓とするには都合が悪かった。これが、歴博が橿考研のデータを無視した理由であろう。 多くの研究者が述べているように土器付着炭化物の年代は全く信用できない。にもかかわらず、歴博は土器付着炭化物から得られた自分に都合の良いデータだけで結論を出そうとしているのである。 橿考研の関川尚好氏は、箸墓の築造年代について次のように述べている。
箸墓古墳からは、壺や特殊埴輪が出土している。箸墓古墳出土の壺は、桜井茶臼山古墳出土の壺と同種のものである。これは布留式の古いところ布留1式期のものとみられる。
箸墓の場合と同じようなことが云える。 橿考研が2009年11月に出版した『ホケノ山古墳の研究』には、古木効果が入らないように吟味した小枝を試料にした炭素14年の測定データが載っている。これによればホケノ山古墳の年代は330年ごろになる。 この研究報告は歴博の発表よりも前に出版されたもので、歴博はこれを見る機会があったはずであるが、歴博は一切触れていない。おそらく自分たちの年代と合わないのでこれも無視したのであろう。 橿考研の関川尚好氏はホケノ山古墳についても次のようにコメントしている。
ホケノ山古墳をどうしてもみんな古く古くしたがるのですが、いくら古くしようと思っても、ホケノ山古墳には布留1式というくびきが掛かっているわけです(布留1式の代表的な土器である小型丸底土器が出ていることを指す)。これ以上は、もう古くはできません。
上の表で古木効果の影響がないと思われる試料での測定データを見れば、箸墓の場合もホケノ山古墳の場合も、いずれも、300年代前半の同じような年代を示している。これは関川氏の見解と整合している。 ■ 庄内3式〜布留1式のデータから見えること 庄内3式〜布留1式の期間で公表されている炭素14年代のデータをすべて集めて眺めると、興味深いことが見えてくる。 これまで述べてきたように土器付着炭化物は、どの時期でも桃核や小枝などよりも、系統的に100年程度古く出ている。 もう一つ注目は、庄内3式と布留1式の年代差がほとんどないことである。桃核だけでなく土器付着炭化物で見ても庄内3式と布留1式の年代差がない。 これは、年代を古く持っていくために、考古学者が土器の型式を増やす操作をした結果ではないかと疑われるのである。 古墳の年代を古く持っていくために、土器の型式を増やし、それぞれの型式に20〜30年ほどの期間を割り振れば、土器の年代をどんどん古く持っていくことが可能であり、土器を出土した古墳もその分だけ古く見える。 庄内3式から布留1式までの3形式で60年違えば、炭素14の年代に有意差が現れても良さそうだが、こに掲げたデータをみれば、庄内3式から布留1式までの間に年代差がないことは歴然としている。土器形式の増やしすぎではないか。 同じ古墳から出土したものでも資料により年代が何百年も違う。試料の選び方が大切。試料をきちんと選べば炭素14年代は大変有効なツールであるが、歴博のように試料の選択を誤ると、おかしな結論がでてきてしまう。 ■ 貨泉について 「貨泉」は、王莽の新の時代(8年 〜23年)に鋳造された貨幣である。大阪から「貨泉」が6枚出土していることから、これを近畿の土器の上限年代の根拠としている。 しかし、「貨泉」は西暦300年ごろの洛陽晋墓から52枚出土しているし、さらに後の時代の東晋の墓からも出土している。 後の時代に私鋳されたものが多数あると思われる。このような「貨泉」を根拠にして土器の年代を決めて良いのが疑問がある。 |
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