TOP>活動記録>講演会>第291回 | 一覧 | 次回 | 前回 | 戻る |
第291回特別講演会
|
1.魏志倭人伝の考古学的註釈 前宮崎公立大学教授 奥野正男先生 |
『魏志倭人伝』の記述や考古学的な資料から、次の3つについて自分の考えを明確に述べて邪馬台国論争に参加してきた。
■ 女王の都 魏志倭人伝によれば、女王国の都は伊都国の南1500里にある。 1里が今の何メートルに相当するか諸説があり、太平洋のまん中に行くとの解釈もある。 しかし私は末盧国から伊都国は500里なので、その距離の3倍と考える。 末盧国は松浦半島であり、伊都国は糸島である。伊都国の南1500里にある女王国の都は、筑紫平野の吉野ヶ里付近にあることになる。 この考えを発表したのは、吉野ヶ里遺跡が発掘される以前の、1981年のことであり、吉野ヶ里が発見されてからは、女王の都は吉野ヶ里と言っている。 ■ 卑弥呼の鏡 戦後、京都大学の考古学者の小林行雄氏が、卑弥呼のもらった銅鏡100枚は三角縁神獣鏡であると述べたため、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡の有力候補となっていた。しかし、その後いろいろな発掘があり、研究が進んで考え方が変わってきた。 私は、卑弥呼の鏡は、三角縁神獣鏡ではなく、後漢式鏡であると考えている。 三角縁神獣鏡は中国からは一枚も出土しない。中国で出てない鏡を、日本の考古学者は魏の特鋳の鏡と言っている。舌先三寸で言いくるめようとしている。学問からかけ離れた姿勢ではないか。 考古学協会の会長にもなった西谷正氏は、『魏志倭人伝の考古学』という最近の著書のなかで、九州でたくさん出土する鉄器について、まったく触れていない。 三角縁神獣鏡が中国でいまだに一枚も出ていないので、王仲殊氏など中国の学者がこぞって魏の鏡ではないと言っていることも、西谷氏は書いていない。 中国の学者も交えて再三議論してきた問題点に、著書でまったく触れないというのはおかしいのではないか。日本の考古学の権威がこのような姿勢をとり続けるのなら、邪馬台国の議論はやめたほうがいい。 鉄器は、北九州の方が近畿より普及していたと研究したことについて、考古学者の佐原眞氏から批評を受けたことがある。 鉄は腐る。この論文は鉄が腐ることを書いていない。だから鉄器ではなく青銅器で比較すべきだというのである。 たしかに、佐原氏の著書では鉄器について一行も触れていなかった。 佐原氏も西谷氏と同じで、不利なことについては触れないという姿勢に見える。 ヤマトに鉄器が普及するのは古墳時代(4世紀後半から5世紀)であると考えている。 ■ 卑弥呼の墓 卑弥呼の墓は鏡が一つの決め手だと考える。後漢鏡がまとまって出るのは朝鮮半島の 楽浪漢墓である。戦前に調査した結果を、戦後に報告書としてまとめられた。帯方郡の資料ははっきりしていない。 楽浪漢墓で後漢鏡は多数出土しているが、三角縁神獣鏡は一面も出土していない。 長宜子孫名内行花文鏡は鈕座に長宜子孫の4文字が入ったものがある。このように鈕座に4文字の漢字が あるのは内行花文鏡の一番最後の段階で、これが楽浪漢墓から60枚以上出てきた。 弥生中期の甕棺から前漢鏡が出土。弥生後期の後半に墓制が箱式石棺に変わる。 そして、箱式石棺墓から長宜子孫名系の内行花文鏡がたくさん出る。 糸島の平原遺跡の周囲12〜13mの方形墓(平原一号墳)中の木棺墓から、内向花文鏡をモデルに した直径46.5cmの大型国産鏡が出土した。 最初に原田大六氏が発掘。その後、福岡県教育委員会の柳田康雄氏が再調査。46.5cmの鏡は5枚であることが判った。その他35枚あり、合計40枚であった。 平原遺跡が卑弥呼の墓であると最初に書いたのは私である。 平原遺跡の方格規矩四神鏡のデザインは後漢鏡の非常に古いものと、新しいものがごっちゃになっている。 中国の学者は、後漢晩期から三国期に入る時、新しい鏡式は現れないが、伝統的な文様がいろいろ作り変えられる時期があり、平原の鏡はそのようなものではないかと言っている。 方格規矩四神鏡は、その後日本に広がって行く後漢鏡のなかで最も数が多い種類の一つである。 甕棺の時代の弥生後期、内行花文鏡は1枚も出ないが、古墳時代の木棺墓に変わる頃、一番最後の 長宜子孫名内行花文鏡が平原から出る。大形のものであることが特徴である。 ■ 庄内期の鏡 本格的な古墳時代になると、後漢鏡の中の方格規矩四神鏡を含む内行花文鏡と三角縁神獣鏡が共伴するようになるのだが、三角縁神獣鏡がまだ出て来ない段階の後漢鏡時代の土器が、纏向遺跡で問題になっている庄内式土器である。 弥生時代の土器は地方ごとに特色があるが、庄内式土器は、土器の地方性が失われ、共通性を持ちはじめる。 考古学者が土器に実年代をつけている。人によって100年も違う。実年代を決めるのはむずかしい。 実年代は人によって異なるが、重要なことは、庄内式土器と一緒に出てくる鏡は後漢鏡であり、三角縁神獣鏡ではないということである。 平原遺跡から出土の土器は庄内土器ではないかという説がある。もっと古いのでは ないかという説もある。なかなか微妙である。 布留式土器は古墳時代の土器である。三角縁神獣鏡は布留式土器と一緒に出てくる。椿井大塚山古墳など三角縁神獣鏡が多く出るところでは庄内式土器が出てこない。 後漢鏡は庄内期に大和の方まで広がった。後漢鏡は九州の唐津周辺、博多周辺、吉野ヶ里、筑後川流域から九州の中では南の方へ(大分)へ広がり、同時に瀬戸内海沿岸、四国へ広がり、さらに東の方へ広がる。 終着点がホケノ山あたりだと考えている。 庄内式土器は、博多湾、有明海沿岸の北部に大きなまとまりがある。瀬戸内海の沿岸を 四国も含め転々とし、大阪湾から奈良県の纒向遺跡を中心としたおきなかたまりがある。 考古学者は博多湾沿岸の庄内式土器はヤマトの勢力が来て作ったと言っている人がいるが、 これはとんでもないはなしである。 弥生時代の土器には地域性があったが、庄内式土器は全国同じような土器になって古墳時代に入って行く。もっと別な要因を考えるべきである。 布留式になると、土器の下が丸くなる。器台があり、その上に乗せる。 吉備では、器台が埴輪のルーツと言われる特殊器台になる。 箸墓古墳に吉備の特殊器台が置かれていた。箸墓古墳の被葬者である倭迹迹日百襲姫の兄が吉備津彦である。 倭迹迹日百襲姫と吉備津彦の関係を考えれば、箸墓古墳に特殊器台が置かれたのは理解できる。 考古学者の言うことより『古事記』『日本書紀』の記述のほうが正しいのではないか。 ■ 三角縁神獣鏡 小林行雄氏は三角縁神獣鏡の同笵関係を研究したことで知られているが、私は、さらに範囲を広げ、同笵鏡でないものも含めて三角縁神獣鏡のリストを作成した。 どの古墳からどのような型式の鏡が何枚でているか可能な限り調べて、同笵関係や文様の変化していく様子を研究した。 和泉黄金塚古墳(大阪)から景初三年という年号の銘のある平縁の同向式神獣鏡(画文帯四神四獣鏡)が出土している。 この紀年銘(景初三年)と、銘文の一部を継承した三角縁神獣鏡が出雲の神原神社古墳から出土した。 神原神社古墳の景初三年銘の三角縁神獣鏡が発見されたとき、これを三角縁神獣鏡が景初三年に中国で作られた証拠とする見方があったが、別の見方がある。 景初三年の年号は三角縁神獣鏡に最初に刻まれたのではなく、平縁の同向式神獣鏡の銘文をまねした可能性がある。そうすると、三角縁鏡より同向式平縁鏡の方が年代が古いことになるので、三角縁神獣鏡の年代を考える上で重要なヒントになる。 小林行雄氏は次のような「伝世鏡」説を主張した。 「弥生時代の近畿地方にも中国鏡が搬入されたが、この地方には墓に鏡を副葬する習俗がなく、それが持ち伝えられ、次の時代の古墳に副葬された。」 しかし、考古学の立場からは伝世があることなど分からないのだから強く言えないのではないか。 三角縁神獣鏡は中国からは全く出土せず、日本からしか出ていない。特鋳説もあるが、 三角縁神獣鏡の最盛期に多く使われた笠松形文様は日本から出ている鏡にしかない文様で、中国の鏡の文様には一切出て来ない。 三角縁神獣鏡は、中国鏡のデザインを踏襲しながら中国鏡にない作り方と文様を加えている。中国系の鏡にはちがいないが、日本でこのような文様を付けたと解釈した方がよいと、1981年から主張している。 このことは、中国の学者も認めている。 ■ 考古学会 韓国の考古学界を育て、現在の日本考古学界の重鎮である西谷正氏は、三角縁神獣鏡が中国で一枚も出ないと言うことにまったく触れずに、明治以来のカビだらけの主張を繰りかえしている。これでは日本の考古学会は変わらないだろう。 邪馬台国論争は一つの国家論である。中国の学者の言うことを一切認めない。これも明治時代のままである。 旧石器捏造事件でも、おかしいと唱えた考古学者は私一人であった。この事件について 『神々の汚れた手』を書いた時、これを出版してくれる日本の出版社がなかった。 仕方無く福岡の梓書院から自主出版した。 日本海が陸続きだった70万年前の旧石器時代に、人類が日本列島に来たと口をそろえて主張していた日本の考古学会は、この事件の顛末を、迷惑をかけたアジアの考古学会に説明しなければいけなかった。 考古学協会は、結果の報告を英文でまとめて、「我々はいかにして藤村に欺されたか」という国際報告をカナダでやった。 なぜ、日本の旧石器と深く関わりのある中国や韓国でやらなかったのか。 事件の後で考古学協会の会長になった西谷氏は、韓国で発表するのがはずかしかったのか。 ■ 投馬国 10年くらい前から、投馬国が遠賀川流域ではないだろうかと考えている。 『魏志倭人伝』には、投馬国は水行20日と書いてある。不弥国の次に投馬国が書いてあるので、近畿説では不弥国を出発点とし、方向について南を東に変え、日数、里数をたどって投馬国の位置を解釈している。 古田武彦氏が安本先生と論争になった時、古田氏は、全て里数は帯方郡を出発点として記述されていると主張した。 私も、全ての里数は帯方郡を起点にしたと解釈すべきと思う。ただし、古田氏の説とは帯方郡を起点としたことは同じだが、対馬や壱岐で里数を消化し、一万二千里を博多湾沿岸に持っていくという古田氏の里数の扱いは同意できない。 『魏志倭人伝』の元の文は、投馬国の所で改行している。これはその前の部分と連続ではないことを示している。これがヒントになった。 |
2.卑弥呼の鏡は後漢鏡である 安本美典先生 |
卑弥呼の鏡については、日本の考古学者が畿内説の立場で唱えているものと、中国の考古学者が洛陽の視点から唱えているものは全く違う。
中国の学者の言うことを参考にして選んだ十種の魏晋鏡
中国の学者は「これが卑弥呼の鏡」と説明するが、安本先生は「年代が客観的に判る鏡という意味で大変重要な鏡」と述べる。 前回も説明したが、洛陽付近で出土した位至三公鏡19面のうち18面までが、西晋の時代のものであり、洛陽晋墓から出土したものは、西暦295年と302年の墓誌が伴っていた。 卑弥呼の鏡は、位至三公鏡よりも少し前に盛行した長宜子孫銘内行花文鏡などの後漢鏡であると考えている。 これらの鏡は、日本での分布の中心が九州であり、北部九州から大量に出土するが、奈良県からは全く出土しない。 すなわち、西暦紀元直後の後漢の時代から、300年ごろの西晋の時代まで、中国と交流があったのは九州であると判断できるのである。
上表を見ると、位至三公鏡などを含む10種の魏晋鏡は、箱式石棺からも古墳時代の遺跡からも同じように出土する。 このあたりが箱式石棺の時代と古墳時代の端境期である。そして、その年代は上述のように西暦300年前後と考えられるのである。 画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡はほとんどが古墳時代から出土し、その年代は西暦300年以降である。 10種の魏晋鏡の前の時代、すなわち、西暦300年より前の時代の鏡である長宜子孫銘内行花文鏡などの後漢鏡こそが、邪馬台国時代の鏡と考えられるのである。 ■雷雲文鏡 中国の学者は雲雷文鏡と長宜子孫名内行花文鏡とを分けているが、日本の学者は雲雷文鏡と長宜子孫名内行花文鏡の両方とも長宜子孫名内行花文鏡として分類している。私はそれでよいと思う。 雲雷文鏡は後漢中期に現れる鏡だが、西暦300年ごろの洛陽晋墓から出ており、日本では平原遺跡から出てくる。 弥生後期中頃の飯氏馬場遺跡や4世紀の古墳時代の遺跡からも出ているが、邪馬台国時代の鏡のひとつであろう。 そして、その分布は北九州を中心にしている。 位至三公鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡なども同じ傾向がある。 ■ 鏡の初現年代と盛行年代 「鏡の年代を考える」場合に、つぎのようなさまざまなものが、ごっちゃにして考えられていることが多い。
ある型式の鏡について、中国に初現データがあれば、その初現データによって年代を遡らせる。 初現データがなければ、それは、倭国向けの特鋳品であるから、初現データがないのであるとする。 あるいは、畿内で邪馬台国時代のその型式の鏡が出土しなければ、それは存在したのであるが墓に埋納される習慣がなかったのであるとする。 要するに、初現データがあってもなくても、年代を遡らせることができる。 事実は、中国でも、日本でも、邪馬台国時代の遺跡からは、三角縁神獣鏡などは出土していない。 なにもなくても、「邪馬台国は奈良県である」という結論だけは出土する、という構造になっている。 |
TOP>活動記録>講演会>第291回 | 一覧 | 上へ | 次回 | 前回 | 戻る |