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第293回講演会
 古代年代論批判(2)文献による年代論
 円仁の石版の真偽問題


 

1.文献による年代論

■天皇1代10年説。

第21代雄略天皇は478年に宋へ遣使した倭王武と考えられている。また、平安京に遷都した桓武天皇の在位は781年〜806年である。

この間29代で315.5年(下図参照)であり、天皇一代の在位期間は平均10.88年である。

これをベースに雄略天皇以前の天皇の年代を推定すると、第10代崇神天皇は358年ごろ、第14代仲哀天皇は402年ごろ、第15代応神天皇は413年ごろの天皇と言うことになる。

この年代観は、考古資料や文献資料の内容とよく整合する(下図)。



日本や海外の王の平均在位期間を調べると、洋の東西を問わず古代の王の平均在位期間は10年前後である(下図)。



『続日本紀』淳仁天皇天平宝字二年(758年)の条に、「君十帝を歴(へ)て年殆(としほとほ)と一百」(孝徳から孝謙までの十代)という記述があることから、昔の人も、天皇一代の在位年数を、約10年と見ていたようである。

また、『広辞苑』にも、奈良時代について、「平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代七十余年間。」と記されていて、一代が10余年であることを述べている。

実在の確実な第31代用明天皇(在位585〜587年)から、一代約10年で年代を遡っていくと、記紀に記される全ての天皇を認めたとしても、初代神武天皇の在位は、270〜290年ぐらいの年代となり、卑弥呼が魏に遣使した239年には届かない。

すなわち、卑弥呼のいた邪馬台国の時代は、神武天皇より前の時代であり、大和朝廷の成立は邪馬台国以後ということになる。

卑弥呼にあたる人物を求めるならば、神武天皇より5代前の天照大御神の年代が、卑弥呼の年代と一致する。したがって卑弥呼=天照大御神と考えられるのである。



天皇の代数と即位年代を示したグラフの上で見ると、天照大御神=卑弥呼としたとき、実在の天皇のデータによる曲線の延長上に無理なく乗ることがわかる(上図)。

卑弥呼=倭姫説や卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説、あるいは、『日本書紀』の記述などでは、グラフが不自然にカーブし、成立しがたい無理な年代観であることが判る。

卑弥呼を天照大御神とすることについては、記紀に記される天照大御神と須佐之男命の対立の様相が、『魏志倭人伝』の卑弥呼と男王の記述と酷似するとして、すでに、白鳥庫吉が明治の時代に述べている。のちの和辻哲郎も同意見であった。

卑弥呼=天照大御神であるならば、卑弥呼のいた邪馬台国=天照大御神のいた高天原になるので、高天原がどこかわかれば、そこが邪馬台国である。

『古事記』に記される地名を分析すると圧倒的に九州と山陰が多い(左図)。

これは、大和朝廷の古い祖先が九州にいた。出雲にもそれなりの勢力があって九州の勢力と争っていた。これらのことの神話的な反映が『古事記』の記述と考えられる。

■安本説に対する批判について

上記の説について、インターネットなどでさまざまな批判がある。これについて考えてみる。
  • 安本は天皇の代の数を絶対に正しいとして論を進めているが、たとえば次のような問題があって、代数を拠り所にするのは問題ではないか。

    • 斉明天皇のように重祚した天皇がいる。
    • 弘文天皇のように後の時代になって認められた天皇がいる。
    • 神功皇后や日本武尊のように、資料(風土記など)によっては天皇と記された人物がいる。

    これについては以下のように考えていることを解説。

    天皇の代数を絶対正しいとしているのではない。これは仮説である。

    現在一般的に認められている天皇を仮に認めてみよう。そうすると天皇1代の在位年数は10年ほどになる。そうすると、さまざまなことが統一的に説明できるではないか。

    天皇1代の在位年数を10年とすることで全体がうまく説明できるなら、とりあえず仮説は正しいと認めておこうという立場である。この仮説が絶対に正しいとしているわけではない。

    これは、天動説と地動説の例でも言える。

    天動説の立場で、太陽の動きを観察すれば、太陽は地球の周りを動いているので、天動説が正しいように見える。

    しかし、この現象は地動説でも説明できる。惑星の運行などは地動説のほうがより良く説明が可能である。

    天動説の地動説も仮説である。どちらの仮説が、観測された事実をよりうまく説明できるかで判断されるべきである。

  • 安本は天皇の代の数をもって議論しているが、『古事記』『日本書紀』には世代情報が記録されているので、世代数をもって議論すべきではないか。

    この批判もあたらないと思っている。

    百済の王朝の系図(右図)の例が示すように、世数のほうが代数よりも信頼できるとは言い難い。

    『三国史記』によると、第25代武寧王は第20代有王から数えて4世代目にあたる。

    ところが、『日本書紀』には、第25代武寧王は第20代有王から数えて2世代目の孫として記されている。

    双方を比べると、代数は一致しているが、世代の数は異なっている。

    『三国史記』は百済の情報を朝鮮半島の国内情報として記したものであるが、百済の時代よりもだいぶ後の1145年に成立した文献である。

    720年に成立した『日本書紀』は、『三国史記』よりも、百済に近い時代に記されたものである。

    異なる内容が記されている世代数についてどちらが正しいのか、国内情報を記した『三国史記』取るか、時代の近い『日本書紀』の情報を取るか、難しい議論になるであろう。

    このようなことから、世数のほうが代数よりも信頼度の低い情報だと考えるのである。

    以上のような立場から代数を元にして議論を組み立てているが、

    • 代数情報が絶対に信用できると述べているのではない。
      代数情報仮説によるとき、古代について、かなり矛盾のすくない大きな説明体系の できるみこみのあることを述べているのである。

    • 他の仮説によるばあい邪馬台国問題ばかりでなく卑弥呼問題についてもうまく 説明できなければならない。


    なお、世数よりも代数を信ずべきだと言うことは、すでに大正時代に笠井新也氏が次のような観点から述べている。

    神武天皇から仁徳天皇まで16代の間は全部父から子へ、子から孫へと垂直的に 継承されたことになっている。

    しかし、仁徳天皇以後の歴史で、特に奈良朝以前の時代では兄から弟へさらに弟へと、 水平的に伝えられている。

    仁徳天皇の三皇子が履中・反正・允恭と順次水平に皇位を 伝え、継体天皇の三皇子が安閑・宣化・欽明と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・ 一皇女の四兄弟妹が敏達・用明・崇峻・推古と同じように水平に伝えた。

    この事実を 基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が単純にほとんど一直線に垂下に したものとは、容易に信じがたい。

    つまり、古代においては世数は信頼しがたいと述べているのである。


2.円仁の石板の真偽問題

円仁は慈覚大師ともよばれる平安時代前期の天台宗の僧である。最澄に師事し、唐に渡って密教を学び、多くの典籍を持ち帰った。根本道場として総持寺をたて、天台密教の確立に努めたとされる。

最近、中国で円仁の石版が発見されたことが報道された。しかし、石版の真偽をめぐってこれを本物とする朝日新聞と、ニセ物とする読売新聞とで見解が分かれている。

■新聞記事

『朝日新聞』2010年7月9日(金)夕刊

遣唐使「円仁」石板に名

中国で発見 井真成に次ぎ足跡2例目

平安時代の僧、円仁(慈覚大師 794〜864)と見られる名前の刻まれた石板が、中国 河南省の寺院で発見された。最澄の弟子で比叡山の基礎を築いたことで知られてる 円仁は、遣唐使の一員として9年間、中国に滞在した。その間の足跡が具体的に 確認されたのは初めて。中国に残された遣唐使の遺物としても、西安で見つかった 井真成の墓誌に次いて2例目だ。

石板が見つかったのは登封市の法王寺。お堂を囲む塀にはめ込まれていたもので、 縦44センチ、横62センチ。当時、道教を強く信仰する皇帝の命令で、仏教弾圧が 激しかった。信仰対象の仏舎利が失われるのを恐れ、地中に隠したことを記し、最後に 「円仁」「大唐会昌五年」と刻まれていた。845年に当たる。円仁を研究する 国学院大栃木短大の酒寄雅志教授(東アジア古代史)らが現地で確認した。

円仁は、中国での見聞を記録した「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれい こうき)」を書いており、古代の最も優れた旅行記の一つとされる。今回見つかった 石板に刻まれた同じ年、仏教弾圧により円仁は都の長安から追放され、帰国の途に ついた。巡礼行記には、洛陽から鄭州へたどったことが記されており、法王寺のある 登封は、両都市の中間に位置している。

酒寄教授によると、円仁という名は、当時の中国僧には見あたらず、当時の中国でも 高僧として名の知られた円仁にまず間違いないという。「廃仏の嵐の中、寺の宝の 舎利を地中に隠すことになり、事情を記す文を円仁が求められて書いた、というような 情景が想定できる」と酒寄教授は語っている。

『朝日新聞』2010年9月3日(金)朝刊

「円仁」名の石板、もう一枚確認

比叡山の基礎を築いた平安時代の僧、円仁(慈覚大師794〜864)とみられる名前の刻まれた石板が見つかった中国河南省の寺院で、同じ内容の 石板がもう一枚存在することが確認された。拓本によって微妙な違いがあると指摘を 受け、国学院大栃木短大の酒寄雅志教授が現地で再調査し、2日に東京であった 研究会で報告した。

中国河南省。同じ寺院 気に入らず作り直し?

石板は登封市の法王寺で、お堂を囲む塀にはめこまれて発見されたが、今回の調査で 鐘楼の下の倉庫でもう1枚が確認された。2枚は同じ大きさで、刻まれた文章も同一。 微妙に文字のバランスなどが違うという。調査には、現地の大学研究者と文化財 関係者らも立ち会い検討した。2枚あることについて、「1枚作ったが、出来栄えに 納得できず、作り直したというような事情が考えられる」と、酒寄教授は話している。

『読売新聞』2010年8月27日(金)

「円仁の石板」偽物の可能性

遣唐使の円仁が中国・河南省の法王寺に残したものとして先月公表された新発見の 石板は、寺側が出版している拓本とは別物であることが分かった。石板が2種類ある ことになり、極めて不自然であることから、確認した書道史研究者の飯島太千雄さんは 「石板はいずれも捏造品である可能性が高まった」と指摘している。

石板には、円仁が当時の仏教弾圧の際に仏舎利を守ろうとして地下に隠したという、 文献にはない”新事実”が記されているが、これもまったくの創作である可能性が 出てきた。

飯島さんが、公表された石板の写真と拓本の写真を比較検討したところ、文面や字体は 同じだが、外枠の文様と文字の間隔が異なることを確認。続いて、円仁ゆかりの 栃木県・大慈寺に法王寺から贈られていた2枚の拓本を比較したところ、出版された 方の拓本は、文字面の大きさが縦約40センチ、横59センチでそれぞれ約2センチと 約1センチ小さいことが判明した。

石板の存在を公表した酒寄雅志・国学院大栃木短大 教授(日本古代史)は「一方が本物で、もう一方はレプリカ(模造品)である可能性も ある」としている。しかし、レプリカと考えるには根本的な相違があることから、 飯島さんは「石板は、捏造品をつくるための試作品とその完成品なのではないか」と 推測している。

公表された石板は現在、法王寺の壁に埋め込まれている。寺側は「円仁の石板は一つ しかなく、発掘調査で見つかったものではない」と説明しているという。この石板は 2004年に発見された遣唐使・井真成(せいしんせい)の墓誌に匹敵する重要資料 として注目されていた。

『読売新聞』2010年9月3日(金)

『円仁の石板』寺でゴミ扱い

中国・河南省の法王寺に遣唐使の円仁が残したとされる石板の真贋問題で、これと同一文面でほぼ同じサイズの石板が 寺のゴミの中にあったことが分かった。円仁の石板の存在を7月に公表した酒寄雅志・国学院大栃木短大教授が先月31日に法王寺を訪れて確認、2日、国学院大(東京)で発表した。

円仁の石板と寺が出版している拓本が別物であることは先頃、研究者から指摘されて いたが、新たに見つかった石板はこの拓本と同じものとみられる。

寺側が公式に認めているはずの石板がゴミとして扱われていたことになり、円仁の石板の信ぴょう性はさらに疑われる事態となった。

会場からは、外枠の文様がちょうど1センチ間隔で 描かれ、中国古来の尺度ではなくメートル法を基準としているようにみえる点について も疑問の声が上がった。

”第二の石板”について、寺側からとくに説明はなかったが、酒寄教授は「拓本の 第一人者である裴建平・偃師市文物管理局特聘拓工は『石板はいずれも円仁の時代の ものではないが、現代のものでもない』と話している。明清時代(14〜20世紀)に 作られた可能性もあり、捏造とは言い切れない」と釈明している。

『読売新聞』2010年9月8日(水)

円仁の石板「捏造」強まる

円仁が中国・河南省の法王寺に残したとされる石板は、2枚目の石板が見つかった ことや、メートル法を基準に作られているように見えることで、現代に作られた 捏造品である可能性がさらに高まった。円仁は留学僧ながら中国仏教界のリーダー格 として活躍、仏教弾圧に抗して、法王寺の仏舎利を命を顧みず守り抜いた。これまで 知られていなかった高潔な人物像が石板には記されていたが、円仁が法王寺に立ち 寄ったことも含め、史実としては大きな疑問符が付いた。

2種類の石板の存在に 気づいたのは、空海や王義之(おうぎし)の研究で知られる書道史研究者の 飯島太千雄さん。石板が発見された当初から疑問を抱いていた。「9世紀の石板の はずなのに、唐初期(7世紀)の字体で書かれ、『円仁』の部分は円仁の直筆と伝わる 書の字体が使われている」

ほかにも、彫りが浅いこと、当時の日本が使わなかった『肇』の字が使われている こと、など不自然な点が見つかった。「2枚目があってもなくても、とても本物と 認めることはできない」と一蹴する。

一方、今月2日に国学院大(東京)で行われた石板の調査報告会に出席した筆跡鑑定の 専門家、綾部宏行・早大講師(書道史)は、外枠のサイズが横59.5センチ、 縦41センチであることに注目、メートル法(1799年成立)に基づいたデザインで ある可能性を示唆した。続いて、外枠を構成する5本の線がちょうど1センチ間隔で 描かれていることを指摘する声も上がり、会場からは大きなため息が漏れた。

こうした疑義に対し、7月に現地で石板を実際に見た鈴木靖民・国学院大教授は 「研究者レベルで円仁の事績を詳しく知らないと、とても書けない内容だ」と捏造に ついては否定的だ。

ただ、石板の記述はわずか88文字に過ぎず、円仁自身による旅行記「入唐求法巡礼 行記」と、2000年に河南省文物考古研究所が寺の地下から仏舎利の容器を発掘して 公表した報告書を読めば、十分創作できる内容と言える。

石板の存在を最初に公表した酒寄教授は報告会で「肯定的に研究していきたい」と 述べた。しかし、石板発見の経緯は、本人が認めるように、「法王寺の言うことが いろいろ変わり、はっきりとは確認できていない」状況で、「発掘以外で見つかった ものは、かなりの確率で偽物と疑うのが常識」と飯島さんは苦言を呈する。 史料批判という歴史学の原点に立ち戻った議論が求められている。

■ 本物説をとると
  • @ 寺の壁のものは本物
    • 円仁の記した旅行記『入唐求法巡礼記』と内容があう。
  • A ゴミの中のもの
    • (a) 拓本作成用のためのレプリカか?
    • (b) 本物をつくるための試作品か(2つとも残るのはやや不自然)
■ ニセ物説をとると
  • @ 現代作ったもの
       2000年に発見された仏舎利が石版に記されていることの説明ができる。
  • A 現代のものではない
       明・清時代のもの。→2000年に発見された仏舎利の説明できない。
なお、9月8日付読売新聞の記事の中で、飯島太千雄氏が、石版に記された「肇」の文字は円仁の時代には使われていなかったと述べて、石版がニセ物である傍証としているが、これについてはいくつかの反証をあげることができる。

まず、792年に成立している『続日本紀』の桓武天皇の天応元年「肇めて宝暦に膺(あた)りて」と記されている。

また、720年に成立した『日本書紀』の講義が何度も行われているが、『日本書紀』には崇神天皇を御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と記していて、この時代にも「肇」の文字は使われている。飯島太千雄氏の見解は誤りである。

メートル法が使われているのではないか、という見解についても、横59.5センチ、横41センチのサイズは当時の尺度で言うと、ほぼ2尺と1寸4尺に当たり、必ずしもメートル法とは言えないのではないか。当時の尺度で外枠をきめてから文字数に合わせて枠内を等分したと考えられるのである。

■ 文字の特徴

法王寺の石版、円仁の自筆や、金光明最勝王経、翰苑(太宰府天満宮所蔵本)、上宮聖徳法王帝説など、古文献の写真版で文字の特徴を調べると、時代と共に下図のように変化していることが判る。



法王寺の石版には、つぎのような古い字体が用いられている。
  • 「壽」の文字が古い文字が使われている。
  • 「恐」の文字が口の字が使われている
  • 「西]の文字の中央の縦線がまっすぐになっている。
その他の文字の特徴をも含めて考えると、
  • 法王寺の拓本の字体は、ほぼ円仁の時代にあう。
  • 現代人が制作するのは、かなりむずかしいようにみえる。
  • 清の時代の人も無理なのではないか(壽の字が書けない)
  • 750年〜850年ごろの字体の可能性が大きい。
  • 円仁の自筆と、「南」の字の特徴はあう。第4画の右のかこいがみじかい。 (誠の字も、まずあうといえるか)
  • 円仁の自筆と、「年」の字の特徴はあわない。円仁の自筆では、「年」の第3筆が 横に長い。個人的な筆くせのゆうらぎの範囲か?一例だけでなく、円仁の他の「年」の 字をみてみる必要がある。
  • 総体的にみれば、法王寺のものは本物で、ゴミの中のものは、拓本作成用の レプリカの可能性が大きいようにみえる。ただ石材について説明できるか?




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