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第294回 邪馬台国の会(2010.10.16 開催)
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1.土器の編年
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![]() 土器の編年の基本は、上の方に埋もれているほうが、下の方から出土するものよりも新しいということである。しかしこの方法では、相対年代は決められるが絶対年代は決まらない。 土器の年代判定は難しい作業である。そのため土器の編年は考古学者によって見解が異なっていて、だれの年代が正しいのか分からない。 奈良県の場合は、年代の決め手がほとんどないので、次のようにして年代を決めている。 まず、須恵器の年代を決める。須恵器は400年前後ごろから始まるので、判定対象の土器がそこから何形式ぐらい古いものかを調べる。そして、土器の一形式をおよそ30年と見て年代を導き出す。 しかし、この方法にはいくつかの問題がある。 土器の一形式の継続期間が、人によってちがう。ある人は30年と言うし、別の研究者は20年と言ったりする。 土器型式の細かい区分をどうするかということも、人によって異なる。たとえば、布留0式というのを認める研究者と認めない研究者がいる。 布留0式を認めなければ、1形式分の年代が狂ってくる。 石野博信氏は次のようにして土器の年代を決めると述べている。 下限は須恵器によって決める。上限は貨泉によって決める。その間にいくつの土器形式があるかによって、年代を割り振っていく。 しかし、貨泉にたよるこの方法にもいくつかの問題がある。 まず、大阪からは数枚の貨泉が出土したが、奈良県からは全く出ていないことである。 そこで、貨泉の出た大阪の土器と同じ型式の奈良の土器を、ほぼ同じ時期のものと仮定して奈良の土器の年代を決めている。 しかし、奈良と大阪が同時期に同じ型式の土器が使われていたという保証はないので、奈良県の土器年代の頭が分からない。 次の問題は、貨泉が作られたのが王莽の新の時代の西暦14年であったとしても、それが大阪まで運ばれるのにどのくらいの時間がかかったか全く分からないので、貨泉を出した大阪の遺跡が王莽の新の時代に近いとは云えないことである。 中国の晋の時代の洛陽晋墓からも貨泉が52枚出土している。洛陽晋墓からは墓誌が3つ出ていて、そこには墳墓の年代が西暦289年、299年、302年であることが記されている。中国でも貨泉が300年ごろの墳墓に副葬されることがあるのである。 これは、貨泉を出した大阪の遺跡もまた、洛陽晋墓のように、王莽の新の時代よりもはるかに新しい可能性があることを意味しており、貨泉では年代が決められないのである。 ![]() 近畿地方では、この程度のレベルで年代の話が進んで、新聞などで3世紀の卑弥呼の時代の墓から遺物が出たと言うような発表になる。 正確に言えば、畿内の年代については根拠らしい根拠は何もない状態なのである。 ■ホケノ山古墳の土器 ホケノ山古墳について、多くの考古学者は、庄内式土器が出土していることから庄内式期の古墳としている。 ホケノ山古墳の主体部からは、庄内式土器だけではなく、布留1式期の指標といえる小形丸底土器もまた出土している。 小形丸底土器は、口縁部の直径が十センチから十五センチていどの、小形の、丸い底を した壷形の土器である。小形丸底壷ともいう。 口縁部直系が、本体の直径よりも大きいという特徴をもつ。 小形丸底土器は、庄内式土器の時代と布留式土器の時代とを分ける、重要な指標土器として使われてきたもので、小形丸底土器は、布留式の時期にならないとでてこない。庄内式土器の段階ではまったく出土しないのである。 ホケノ山古墳の小型丸底土器について、石野博信氏は当会の講演会で次のように述べていた。 図面や写真は発表されていませんけれども、関西で考古学をやっている人間はみんな知っていることなんですが、いわゆる布留1式にならないと出てこないような、小型丸底土器が(ホケノ山古墳の)床の直上から出てきております。私にとってはショックでした。『こんなん、石でつぶれりゃいいのに』と思ったんですけれども、出てきておりました。(『季刊邪馬台国』100号) 石野氏は、ホケノ山古墳を「庄内式中葉」のものと見ているので、布留式期の小型丸底土器が出てきたことに驚いたのであろう。橿原考古学研究所の関川尚功氏は「ホケノ山古墳は、庄内式系の土器が出土していても、『布留式土器の時代』の古いところ、『布留1式期』のものとみるべきである」と三十年来主張されてきたが、本会の講演会でも次のように述べている。
ホケノ山古墳をどうしてもみんな古く古くしたがるのですが、いくら古くしようと思っても、ホケノ山古墳には布留1式という「くびき」が掛かっているわけです。これ以上はもう古くはできません。
この基準を厳格に用いると、小型丸底土器を出土したホケノ山古墳は、「庄内式土器の時代」のものではなく、古墳時代の「布留式土器の時代」のものということになり、関川氏の述べていることが正論なのである。 いまの考古学会は、おかしなことがまかり通り、正論が通らなくなっているようである。 ![]() ■近畿の年代 寺沢薫氏は、土器の編年を西暦の実年代にあてはめることの難しさについて、箸墓古墳の 「布留0式期」に関連して次のように述べる。
それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や形式)を実用年代におきかえる作業は至難の技である。
たとえば、位至三公鏡は中国では西暦300年ごろの墳墓から多数出土する。日本では九州から数多く出土する。すなわち、西暦300年ごろに中国と交流があったのは、九州の勢力であると言えるのである。 また、九州では、鏡を出土する墓や棺の様式も、甕棺墓葬→箱式石棺墓葬→竪穴式石室 墓葬と、時代を追って変化するので、それによって遺跡の年代を考えることも、 ある程度可能である。 しかし、奈良県の場合、九州のように墓制の変遷を追いかけることができないので、ひたすら、前方後円墳を古い方へ持っていこうとする。 奈良県では、土器以外、はなはだ手がかりに乏しいので、確実な根拠が提出されないまま、付和雷同的に遺跡の年代が議論されていることが 多い。 奈良県出土の遺跡・遺物を中心として土器の歴年代・実年代を決めようとするよりも、 九州での遺跡・遺物の年代をもとに奈良県の遺跡・遺物の年代を決めたほうが、むしろ 近道になるのではないか。 歴博の館長であった考古学者の佐原真も述べている。 弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連 遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である」(「銅鐸と武器形青銅器」 『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年刊) 近畿の土器の年代については、下表に示すように、次第に古い方に持って行く傾向がある。昔は多くの研究者が下表左端の佐原真の見解のように、庄内式を300年頃の土器とみていた。しかし、最近では。庄内式土器を西暦200年頃まで、100年ほどさかのぼらせている。 しかし、これについては、さしたる根拠があるわけではなく、今もなお議論のある年輪年代法によって測定された古い年代に引きずられたようにみえる。 ![]() ■三角縁神獣鏡の年代 考古学者の石野博信氏氏が『邪馬台国と安満宮山古墳』のなかで、次のように述べている。
墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の『布留式土器』と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器と一緒に出てくる例は一つもない。
専門家の中には、それをむりやり三世紀に持って行って卑弥呼の鏡であるとする人がいる。そして、三角縁神獣鏡がたくさん出土する畿内を、邪馬台国であるとする根拠にしているのである。 ![]() ホケノ山古墳からは布留式期(古墳時代)の指標とされる「篦被(のかつぎ)」 といわれるものをもった銅の鏃も出土している。 弓の矢の、竹の棒の部分を「矢柄(やがら)」という。「矢柄」のことを、古語で。 「篦(の)」という。 また、平安時代ごろから、身分のある女性が、顔をかくすために頭の上にかぶった おおいを、「被(かつぎ)」という。 矢尻の、「矢柄」にとりつける部分において、「矢柄(篦)にかぶせる部分を、 「篦被(のかつぎ)」という。 ホケノ山古墳の篦被について、石野氏は次のように述べている。
そのなかで、調査段階で問題になりましたのは、図(省略)の上の左側の二本です。
銅鏃の下に突起みたいなものが付いています。ふつう、このタイプの同鏃が出ますと、
前期古墳のなかでも前半ではなくて、中頃から後半だというふうにいわれている
銅鏃です。
■箸墓の年代 関川氏は、箸墓古墳の築造年代についておよそ次のように述べている。
箸墓古墳からは壷や特殊埴輪が出土している。箸墓古墳出土の壷は、桜井茶臼山古墳
出土の壷と同種のものである。これは布留式の古いところ、布留1式期のものと
みられる。
私は一応、布留式の初現を四世紀の真ん中前後でいいんじゃないかと。前半までは
ちょっとむずかしいんじゃないかと思っております。また、庄内式をいくら分けても
せいぜい二つです。そんなに長い時期とは思えません。
ホケノ山古墳や箸墓古墳出土遺物の炭素14年代の測定データでは、古木効果の影響がないと思われる桃核や細い小枝などの資料で、関川氏の見解を裏付けるデータが得られている(下表1、2)。 下表の暦年代中央値(参考値)の330年や324年は国際較正曲線で較正したものだが、日本の樹木のデータによる較正では350年ぐらいになって、4世紀の真ん中頃とする関川氏の見解とぴったり一致する。 ![]() ■古木効果はなぜ生ずるか 炭素14年代測定法や年輪年代測定法などによって木材(とくに加工材)の年代を 測定すると、その木材が出土した遺跡の構築年代よりも、明らかに著しく古い年代が得られることがしばしばある。 おもに木材の伐採年代と遺跡の構築年代が異なるためである。木材による遺跡年代の推定には注意が必要である。 「古木効果」が起こる理由として、おもに、次のようなものが考えられる。
弥生土器と庄内式土器の違いについて、関川尚功氏は「近畿・庄内式土器の動向」 (『三世紀の九州と近畿』)のなかで次のように述べている。 「煮沸形態に関して重要なことの一つに甕の壁の薄さ、つまり煮沸したときの熱の 通りの良さがあります。弥生後期タイプの甕は大体4ミリから5ミリぐらいの厚さです が、庄内あるいはそれに続く布留式の甕になると1.5ミリから2ミリぐらいの非常に 薄い器壁になります。」 関川尚功氏はまた述べている。「庄内甕の特徴の一つに内面を削って薄くするという手法がある。これはもともと 畿内の弥生後期の甕には見られなかったもので、瀬戸内、日本海側の地域のそれ以前 から見られるものである。」(「庄内式土器について」『季刊邪馬台国』43号) ![]() 寺沢薫氏の論文「銅鐸の終焉と大型墳丘墓の出現」の「破砕銅鐸一覧表」によると、 奈良県や大阪府のデーターでは破砕銅鐸が庄内式土器と一緒に出土していることが示されている。 つまり、最後の銅鐸は、庄内期に廃棄されている。 庄内期に破砕銅鐸を出土した大阪府豊中市の「利倉(とくら)遺跡」は、庄内式土器の標識となる土器を出土した「庄内遺跡」に、比較的距離が近い(直線距離で、4~5Km)。 利倉遺跡や庄内遺跡のある豊中市は、『日本書紀』の仁徳天皇38年の条にみえる「猪名県(いなのあがた)」の域内の地である。 『新撰姓氏録』の未定雑姓の「摂津の国の条」に、「為奈部の首(おびと)」は、「物部の連の祖」とされる伊香我色乎(いかがしこお)の命の六世の孫、金連(かねのむらじ)の後裔であると記されている。 「猪名県(いなのあがた)」の地域では物部系の人々が活動していたといえるようである。この地で出土する庄内式土器も、物部氏と関係があるのであろうか。 なお、古代の「猪名県」の域内と見られる大阪府箕面(みのお)市に、「為那都比古 (いなつひこ)神社」がある。『延喜式』の神名帳にみえる神社である。 ![]() 奈良県の阿刀の地名は物部の守屋の家のあった大阪府の阿都と、なんらかの関係があったのであろうか。 奈良県の「阿刀」の地名は、饒速日の命とともに北九州から天降った「阿刀造」と文字が同じである。あるいは、「阿刀造」の一族の住んでいたところなのであろうか。 なお、『新撰姓氏録』や、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」は、「阿刀氏」の祖先を、 物部氏の祖先である饒速日の命の孫の味饒田(うましにぎた)の命であると伝えて いる。 また、摂津の国の「猪名県」の境内にも、阿刀氏が住んでいた。『続日本後紀』の 843年(承和10年)の条に「摂津国豊嶋(てしま)郡の人、佐衛門 ![]() 以上のようにみてくると、物部氏系統の人、破砕銅鐸、庄内式土器、阿刀(跡) という知名、県の分布などは、相互に関係しているようにみえる。 ■土器の型式の新古と、炭素14年代測定値の新古とは、合致しているか 庄内3式期~布留1式期の炭素14年代の公表データ(下表)を見ると、土器形式が庄内3式、布留0式古相、布留0式新相、布留1式と4形式に分類されているにもかかわらず、炭素14年代のデータは、ほぼ同じ数値を示している。 桃核のデータを見ると、布留0式古相が平均1730であるのに対して2形式新しい布留1式が1720と、ほぼ同じ値である。 土器付着炭化物で見ても。庄内3式の1820に対して、3形式も新しい布留1式が1803という値で、やはり、ほぼ同じである。 土器の1形式の継続期間は、約30年と考古学者は見ているので、3形式異なると100年ぐらい違うはずであるのに、データ上はその違いが現れてこない。 このような結果になった理由として、次の2つが考えられる。
邪馬台国畿内説の研究者が、奈良県の遺跡の年代を古く持って行くために、ほぼ同じ時期に行われていた土器を細かく形式分類して年代を引き延ばしているのではないか。 ![]() |
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