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第295回講演会
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1.中国で発見されつづける「三角縁神獣鏡?」 |
最近、中国で三角縁神獣鏡が発見されたという論文がいくつか雑誌に掲載された。
三角縁神獣鏡は日本では500枚以上発見されているのに対して中国からは1枚も出ていないというのが通説であった。 王仲殊氏などによれば、三角縁神獣鏡は、揚子江流域の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を足しあわせた特徴を持っている鏡である。 しかし、中国でも日本でも、三角縁神獣鏡そのものの定義が曖昧であり、三角縁神獣鏡の範囲を広げて三角縁画像鏡も含むようにすれば、中国でも三角縁神獣鏡がでたことになる。 以下の最近の中国の学者たちの議論は、おおまかにいえば、このような話である。 ■『中原文物』2010年/4 総154期(河南博物館主辧)の雑誌に掲載された記事。 − 1本の帯で境をした欄をもつ同向式三角縁神獣鏡 王趁意−
この記事では、中国で三角縁神獣鏡が次々と出現しているとの内容だが、日本の専門家の判断ではこれは三角縁神獣鏡ではないとうことなので、日本ではあまり話題にならなかった(下記参照)。 この記事についての安本先生のコメント
『中国文物報』に、陝西師範大学教授の張懋鎔(ちょうぼうよう)氏がかなり興奮した筆づかいで、三角縁神獣鏡が 洛陽で発見されたと主張している。 これについて、朝日新聞は、2007年1月24日朝刊で次のように伝えている。 「三角縁神獣鏡」が中国で見つかったとのニュースがこのほど同国で報じ られた。本当なら、東アジア古代史上の大発見だ。でも、写真を見た日本の研究者の 多くは、「?」。 背後にはこの鏡をめぐる研究者の認識の相違があるようで・・・ 朝日新聞はそうとう慎重に、かつ、やや批判的に伝えているが、この鏡は「三角縁神獣鏡」ではない。 「三角縁画像鏡」の系列の鏡で、「斜縁二神二獣鏡」というべきものである。 ■京都新聞2010年10月26日朝刊の記事 邪馬台国の女王卑弥呼の時代に中国・魏から伝えられたとされる「三角縁神獣鏡」に 似た鏡(東之宮古墳出土の鏡と類似した鏡)がこのほど、中国の徐州で見つかり、 中国人研究者(楊金平氏)が中国の学術雑誌に発表した。 三角縁神獣鏡は中国では出土していないが、鏡の形状などから三角縁神獣鏡の成立過程の解明につながる発見になるとみられる。 前述のように東之宮古墳出土の鏡は三角縁神獣鏡ではないとされているので、これなども『中原文物』と同じような誤解である。 ■これらの対する論評 何度も同じような騒ぎがおき、また、現代における鋳造品、あるいは模造品によって 騒ぎがおきることをふせぐために、つぎのような規準を定めるべきであるように 思える。
つぎのような特徴をもつものは「三角縁神獣鏡」の「中核」をなす。
いっぽう、中国の南の地域では、三国時代から神獣鏡や画像鏡がでている。とすると、全体的に見れば王仲殊氏が述べているように、日本の三角縁神獣鏡は呉の工人が食い詰めて、日本に来て中国の南の鏡の文様を真似して三角縁神獣鏡を造ったと考えるのが妥当ではないか。 |
2.鉛の同位対比研究 |
■鉛の同位対比測定法
鉛には、化学的性質がまったく同じで重さだけがわずかに異なる 4 種類の同位体が存在しており、それ ぞれの鉛原子の質量数は 204、206、207、208である。 ある鉱床における鉛同位体の構成比率は、鉱床ができるまでの地質学的な履歴によって決まり、鉱床ごとに固有の値を持つと考えられる。 これを調べることで、青銅製品の原料となる鉛の産地を推定できる。 右図は、縦軸をPb-208/Pb-206、横軸をPb-207/Pb-206として描いてある。 ■三角縁神獣鏡と小型製鏡第U型 三角縁神獣鏡は領域Sに分布し、小型製鏡第U型は領域Yに分布する。 三角縁神獣鏡と小型製鏡第U型とは、分布域がはっきりと分かれている。 ところが、三角縁神獣鏡の領域Sに小型製鏡第U型が1面入っているが、領域Yには三角縁神獣鏡はない。 このことから、三角縁神獣鏡は小型製鏡第U型より新しいものであることが分かる。 すなわち、小型製鏡第U型は、邪馬台国時代の鏡であるので、三角縁神獣鏡はそれより新しい古墳時代の鏡と言うことになる。 小型製鏡第U型の領域Yの中に、広型銅矛・広型銅戈や、近畿式・三遠式銅鐸も分布する。 これは、九州が小型製鏡第U型を用いていた邪馬台国の時代は、近畿・東海地方は、銅鐸の時代であったことを意味する。 三角縁神獣鏡の分布する領域Sについて、馬淵久夫氏は、「神獣鏡・画像鏡など後漢中期から三国・晋の時代に作られた鏡の占める範囲」「華中・華南の鏡」「後漢・三国時代の舶載鏡の占める範囲で、華中または華南の鏡」「古墳出土中国鏡」などと記す。(『季刊邪馬台国』60号) 馬淵氏は、畿内説の影響を受けていたため、すこし曖昧な表現になっている。 馬淵氏と同じく鉛同位体の研究をしている平尾良光氏は、図の二つの領域について「華北地方(前漢鏡)と華南地方(後漢・三国時代鏡)との違いとしても表現されるので、地域差と考えるほうが時代の違いと考えるよりも よいのかもしれない」と、多少遠慮したような書き方ではあるが、かなりはっきり述べている。 |
3.年輪年代論 |
4.炭素14年代 |
下表は古墳発生期の遺物の炭素14年代の測定値である。
以前にも述べたが、桃核や小枝などのデータと、土器付着物のデータとでは100年以上異なる値が出ている。 土器付着物はほかの遺跡でも、クルミなどよりは年代が古く出ることが報告されている。 国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、桃核のような新しい年代のデータを異常値として捨て去り、年代が古く出る傾向にある土器付着物のデータだけを採用して、この時期の年代を邪馬台国の時代の3世紀とする。 数理考古学者の新井宏氏に上表の「桃核」および「桃核型の若い年代を示すもの」の全データにもとづく、確率密度分布図を作成して頂いた(下図の左下の部分)。 これによれば、纒向古墳群(ホケノ山古墳、箸墓古墳、東田大塚古墳)の築造年代は、
箸墓古墳の築造年代が、4世紀である確率は約85%である。 箸墓古墳の築造年代を、240年〜260年とする歴博の研究グループの「歴博仮説」は、統計的に十分な安全さ(危険率1%以下)をもって否定(棄却)できる。 箸墓古墳は卑弥呼の死後100年以上のちに築造された可能性(確率)が大きいのである。 「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」は十分な安全性を持って否定できる。 なぜ、「歴博仮説」のような誤った説の大報道が、新聞・テレビで、繰り返されることになるのか? |
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