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第285回特別講演会
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1.神祇信仰の歴史 籔田紘一郎 |
重要なキーワード:鬼神
日本では仏教の影響で、化け物とか変化(へんげ)とされているが、古代中国では、「鬼神」は死者の霊魂を指す。また、広辞苑も「鬼神」には死者の霊魂という意味が最初に示されている。荒ぶる祖霊とする百科事典もある。 陰陽説によると、鬼と神の意味は
津田左右吉 文献の研究から神祇信仰は自然信仰であると述べる。 柳田国男 各地の伝承や習俗の研究から神祇信仰は祖霊信仰であるとする。 現在でも、歴史学界は津田左右吉の説、民俗学界は柳田国男の説を採用している。 漢文学者の白川静氏は『新訂字統』のなかで、「祀る」は自然神を祀り、「祭る」は人を祭るときに用いる文字であるとする。 ■神の始まりと変化−津田左右吉の見解(『古事記と日本書紀の新研究』による)
鎮守の森は神籬の継続したもの、神社にとって母のような物。祭神は支配者が代わったり渡来人が来たりするとどんどん代わる店子のようなものである。 2.日本の祖霊信仰 民俗学の立場
3.仮説T
「鬼神」とは古代中国では「死者の霊魂」のことを言い、祭祀の対象であった。
神社の総数は100,000〜110,000社ほど。そのなかで稲荷神社は33,000社あり、一番多い。 八幡社の25,000社、神明社(天照大神)の18,000社が続く。 以下のことから、稲荷の最も原始的な神格は祖霊(死者の霊)である(五来 重)
■ 記紀の神々(人格神) 古事記の神々 267神(20〜30%が人格神他は人文神) 日本書紀の神々 181神(本文66神、一書115神) 古事記と日本書紀に共通する神々 112神 4.列島外からの神話伝来と記紀神話の人格神の形成
古代神祇信仰形成プロセス
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2.最近の新聞報道について 安本美典 |
纏向遺跡で発見された大型建物について、2009年11月22日の『朝日新聞』朝刊は次のように報じていた。
「奈良に3世紀最大の建物跡 纒向遺跡:邪馬台国の中枢施設か」 「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県纒向遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で3世紀前半の大型建物跡1棟が見つかった。と市教委が10日に発表した。」 ここに、3世紀前半とあるが、この年代は学会にでコンセンサスが得られた年代ではない。 このように報道されると、読者には確定事項のように読み取られてしまう。 奈良県教育委員会の見解であって、年代については異論も多い。 たとえば、布留0式とされる箸墓古墳の年代でも下記ように意見が分かれている。
にもかかわらず、あたかも確定年代であるかのようにマスコミに発表されている。 また、「三棟の建物の中心軸が東西に同一線上に並ぶ例のない配置」に注目しているが、例がないだけでは邪馬台国の根拠にならない。全国に人がいたわけだからこれからも各地で例のない発見があるかも知れない。『魏志倭人伝』の記述に結びつくことならいざしらず、「例がない」からといって邪馬台国に関連づけて騒ぎ立てるのは問題である。 「三世紀中頃の土器(庄内式土器)が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断した。」ということだが、土器は年代を決めるのが難しい。 寺沢薫氏も、次のように土器の実年代決定の難しさを述べている。
それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代に置き換える作業は至難の業である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい また、九州では、鏡を出土する墓や棺の様式も、甕棺墓葬→箱式石棺墓葬→竪穴式石棺墓葬と、時代を追って変化するので、それによって遺跡の年代を考えることも、ある程度可能である。 しかし、奈良県の場合、土器以外、はなはだ手がかりに乏しい。 確実な根拠が提出されないまま、付和雷同的に遺跡の年代が議論されていることが多い。 奈良県出土の遺跡・遺物によって土器の暦年代・実年代を決めようとするよりも、九州での遺跡・遺物の年代をもとに奈良県の遺跡・遺物の年代を決めたほうが、むしろ近道になるのではないか。 歴博の館長であった佐原眞氏も次のように述べている。
弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である
年代の上限は王莽の新で西暦14年から鋳造が始まった貨泉、下限は5世紀頃からの須恵器の出現とし、その間を土器の型式がいくつあるかで分ける。 しかし、たとえば大阪で貨泉が出土したが、中国から大阪まで何年かけて貨泉が移動したかわからないので、貨泉が出ただけでは年代の決め手にならないことは明らかである。10年できたかも知れないし、100年、200年かかった可能性もあるのである。 問題なのは、このような不確かな根拠で決められた年代が、マスコミなどを通じて確定事項のように一人歩きしていることである。 これに対して、安本先生の年代推定のロジックは次のようなものである。 上限年代は、洛陽の焼溝漢墓から出土した大量の鏡で決める。 ここからは、文字資料が出土しており、この墳墓が190年ごろのものであることが確定できる。ここから出土した長宜子孫銘内行花文鏡の年代が190年ごろであると言える。 北部九州の平原遺跡の1号墳からは長宜子孫銘内行花文鏡が出土しているが、柳田康雄氏がまとめた報告書では、平原一号分の年代を、200年ごろとしている。 卑弥呼が使者を送った洛陽の鏡の年代と、平原遺跡の年代が整合している。 また、年代の下限は、洛陽晋墓の出土遺物で決める。 ここからも文字資料がでている。いずれも300年ごろの年代が記された3つの墓誌である。 ここからは24面の鏡が出土しているが、そのうち8面が位至三公鏡である。 位至三公鏡は魏の時代に出土するだけでなく、265年に成立した西晋の時代に圧倒的な数が出土している。 そして、位至三公鏡は、日本では北九州から多数出るが、奈良県からは1枚も出土しない。 つまり、位至三公鏡の分布からみると、魏の時代から西暦300年ごろの西晋の時代まで、日本列島の中心は九州であったといえる。 マスコミや畿内説の研究者は、畿内説にとって不都合なこのような事実には、一切触れない。 また、新聞記事によると、大阪府立近つ飛鳥博物館長の白石太一郎氏は大型建物を「邪馬台国の王の宮室」を掘り当てた可能性が高いと述べる。 邪馬台国は『魏志倭人伝』の記述を出発点として考えなければならない。『魏志倭人伝』には次のように記述されている。
纏向遺跡で見つかった柵は、区画用の柵であり、防衛用の柵ではない。これについては、区画用の柵であることを発掘担当の橋本輝彦氏に直接確認した。 矛や鉄鏃も奈良盆地ではほとんど出土しない。 大きな建物が出たことだけで、『魏志倭人伝』を無視して、なんでもかんでも邪馬台国に結びつけてしまうのは問題である。「かすったら邪馬台国説」である。 安本先生は「今回の発表は全体の年代そのものに議論の余地がある」とも指摘する。 畿内説の研究者の土器の見方は100年ほど古くみる傾向がある。纒向遺跡には4世紀を示す材料もある。 纒向遺跡は崇神、垂仁、景行天皇の時代に近づく4世紀ごろのものだろう。 纏向遺跡からは東海・山陰・北陸など、各地の土器が出土するが、崇神天皇の時代の四道将軍の各地への遠征や、景行天皇の時代の日本武尊の遠征などと関連づければ、この現象の説明ができる。 纏向の大型建物は、大和朝廷の王族・大臣級の邸宅(居館)の可能性があり、その意味では重要な発見と言える。 |
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