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第285回特別講演会
神祇信仰の歴史


 

1.神祇信仰の歴史  籔田紘一郎

重要なキーワード:鬼神

日本では仏教の影響で、化け物とか変化(へんげ)とされているが、古代中国では、「鬼神」は死者の霊魂を指す。また、広辞苑も「鬼神」には死者の霊魂という意味が最初に示されている。荒ぶる祖霊とする百科事典もある。

陰陽説によると、鬼と神の意味は
  • 神=魂(精神の主宰者)。鼻を通して取り入れた気によって形成される。(陰陽説)
  • 鬼=魄(肉体の主宰者)。口を通して取り入れた食物によって形成される。
「鬼神」の初現は、前漢時代成立した『礼記』に記された孔子と弟子の宰我との次のような会話である。
  • 宰我「先生、私に死人を何故鬼神というか、その理由を教えてください。」
  • 孔子「人が死ぬと神(魂)は天に昇り鬼(魄)は地に下る。そこで古くから聖王と いわれる人は、この二つを合わせて祭り、死人の先を迷わぬようにしたのである。
    即ち、死人から昇るその気は痛ましいものであるし、又、その鬼の精(霊)は特に 恐ろしく目立つものである。そこで、この鬼と神をあわせて祭るのは、誰もが必要な ことであるし、祖先に対して取るべき子孫の孝養であり、又、つとめでもある。」
1.神祇信仰の起こり

津田左右吉 文献の研究から神祇信仰は自然信仰であると述べる。 柳田国男  各地の伝承や習俗の研究から神祇信仰は祖霊信仰であるとする。

現在でも、歴史学界は津田左右吉の説、民俗学界は柳田国男の説を採用している。

漢文学者の白川静氏は『新訂字統』のなかで、「祀る」は自然神を祀り、「祭る」は人を祭るときに用いる文字であるとする。

■神の始まりと変化−津田左右吉の見解(『古事記と日本書紀の新研究』による)
  • (1)原初の段階

    • 第一段階  

      山・河・石・樹木に対する崇拝。山口神社、大木神社、御木神社、大槻神社、小槻神社、石神社、石立神社などはその痕跡

      単に山や河や石や樹木を支配する神ではなく、むしろ万能の神が山や河や石や樹木の憑っているとの思想。

      出雲国風土記(733年)や延喜式記載の2861社には、神社の名前は記されているが、祭神の名のあるのは極めて少ない。これは遠い昔から伝えられた素朴な神々が祀られているためと考える。

    • 第二段階  

      木や石や山や河に精霊が居るという思想に変わる

      山の神、河の神の崇拝。 蛇や猪などに変身可能であり移動可能。後世の鏡や剣や玉が神とされたのはこのような思想。

    • 第三段階

      神(精霊)は保護者として崇拝・依頼の対象であり、他方、祟る神や荒ぶる神として の性格を有する二面性を持ったものであるとの認識が生成され、これらの神に対する 祭祀が行われるようになる。

      社殿は未だない。社殿が建てられるようになるのは、神が人格を備えるようになってから。

  • (2)次の段階  

    文化の発達に伴い新しい性質の神が発生し、昔からの神が性質を変えてくる。
    • 第一段階

      原初の万能の神(が川や森に憑っている)の段階から多神教的傾向の発生。天の神、海の神、風の神、日の神など

    • 第二段階

      人文神の発生(人間生活に有用なるものとして人文的に考えられる神。) 大年神、御年(みとし)神、若年神、大土神などの農業神(「年」は「稔り」の意) 大気都比売(おおげつひめ)神、豊受比売(とようけひめ)神などの穀物・食物神

    • 第三段階

      人格を備えた神(人格神)の発生(アマテラス、スサノオなどの記紀神話の神々 )
何年か神祇信仰を勉強してきたが、日本の神祇信仰は森が育んだという思いを強く感じる。(籔田氏)

鎮守の森は神籬の継続したもの、神社にとって母のような物。祭神は支配者が代わったり渡来人が来たりするとどんどん代わる店子のようなものである。

2.日本の祖霊信仰 民俗学の立場
  • 柳田国男(1875〜1962)
    • 日本人古来の霊魂感・死生観

      人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里を のぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎっては その家に招かれて食事をともにし、交流しあう存在となる。

      生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな 子や孫の幸福を願う祖霊であった。

    • 神社の起こり

      当初は次のように考えていた。

      遺念余執が死後においてもなお想像され、しばしば祟りという方式をもって、怒りや喜びの強い 情を表示し得た人が神として祭られた。

      70才の時に次のように考え方を変えた。

      忌と穢れを厳重に遮断して、清く祭らねばならぬ祖先のみたまのために屋外の一地を 点定したことが、今ある十万余の国内の御社の最大多数のものの起こりであった。

  • 山折哲雄(1931〜)
    • 山にのぼっていく死者の霊魂は、一般にそれは、はじめは危険な亡霊の状態であると 考えられた。すなわち荒魂(あらみたま)の状態である。

      だが、それは、やがて供養と祭祀をへて浄められ祖霊、すなわち和魂(にぎみたま)となる。そして、そのときから さらに一定の歳月がたって、この祖霊は神の地位へと上昇して行くと信じられた。

      つまり、荒魂→和魂→神というプロセスをたどって、山中に鎮まるものと信じられた。

      これらの山中に鎮まった祖霊や神は季節に応じて里におりてきて村人を祝福するという 性格を持っていた。これらの神がやがて、田の神や歳神、あるいは氏神や産土神として 祀られるようになった。・・『仏教民俗学』1993年

  • 五来 重(ごらいしげる)(1908〜1993) 東大印度哲学卒・京大国史学卒。仏教民俗学

    荒魂(凶癘魂(きょうれいこん))→殯(もがり)=鎮魂 → 和魂 → 祖霊

  • 津田左右吉

    柳田の説とは違う意見を持っていた。

    列島で一般に死者を神として祭ったという證跡は見えない。死の国・ヨミの国を穢れと 邪悪の源泉とする思想も死者を神とする思想と相容れない。

    原初の日本列島には祖先神の思想もなかったし、死者の霊魂が天に上がるという思想もなかった。 すなわち、原初の日本列島には祖霊信仰は存在しなかった。

    国家統一(古墳時代)後に中国思想が入って来て、祖先神の思想・陵墓築造が出来た。

3.仮説T 

  • 「古代神祇信仰は、縄文時代以来の自然信仰と弥生時代に朝鮮半島 経由で伝来した鬼神信仰を二つの核として形成された」
■ 東アジアの鬼神信仰

「鬼神」とは古代中国では「死者の霊魂」のことを言い、祭祀の対象であった。
  • 古代中国には鬼神信仰が存在した。(儒教・道教の古層、陰陽説、五行説)
  • 古代朝鮮にも鬼神信仰が存在した。(韓族・高句麗−三国志東夷伝。農耕儀礼の 祭神)
■ 日本列島への鬼神信仰の伝来
  • 北東アジアから日本列島へ弥生人が渡来した(BC5-4C)

  • 対馬には鬼神信仰が伝来した証拠が存在する。(天道信仰。神籬や磐境。卒士 (そと)山。)

    • 対馬の天道祭祀(永留久恵『海神と天神』『海人たちの足跡』)
      鬼神とは本来祖霊であり、農耕儀礼における主祭神とされている。対馬のテンドウは まさにこの鬼神にほかならず。天道信仰の本質は古い鬼神信仰を中世的に継承した ものと解される。
      天道は神社ではなく、特定の聖域があって神籬(かもろぎ)や磐境(いわさか)の形 を遺している。『三国志韓伝』の記述は、日本の磐座・神籬祭祀に通じるが、これとよく似た形式が対馬南部の霊山竜良山(俗称天道山)の山中にある(卒士山)。
■ 原始稲荷信仰(五来 重編『稲荷信仰の研究』1985)

神社の総数は100,000〜110,000社ほど。そのなかで稲荷神社は33,000社あり、一番多い。 八幡社の25,000社、神明社(天照大神)の18,000社が続く。

以下のことから、稲荷の最も原始的な神格は祖霊(死者の霊)である(五来 重)
  • 伏見稲荷大社(秦氏による)の境内に属する稲荷山の一の峰、二の峰、三の峰には 4C頃の古墳が存在する。
  • 古墳に祀られる稲荷は無数。『全国遺跡地図』に掲載の稲荷山古墳だけでも189基 存在する。稲荷名のない古墳でも稲荷が祀られている例が多数ある。(山田知子)
  • 稲荷の原始宗教的霊魂感はこの古墳稲荷という現象にもっともよくあらわれている。
  • 伏見稲荷大社の境内の稲荷山には数万基の「お塚(古墳のミニュチア)」と2万以上 の鳥居が存在<明治時代以降増えた>。
  • 原始的霊魂感から発生した稲荷は、民俗信仰化(穀霊・山神・水神・田神・屋敷神 など)、神道化(祖霊信仰・氏神信仰・鎮守神信仰・豊穣豊漁信仰・福神信仰)、 仏教化(御霊信仰・茶吉尼(ダキニ)信仰・秋葉信仰などにともない、除災厄除信仰・ 火防信仰・呪詛信仰・祟り神信仰)して発展する。
以上のようなことから「伊奈利」は鬼神(死者の霊、祖霊)であったと考える。(籔田)

■ 記紀の神々(人格神)

古事記の神々 267神(20〜30%が人格神他は人文神)
日本書紀の神々 181神(本文66神、一書115神)
古事記と日本書紀に共通する神々 112神

4.列島外からの神話伝来と記紀神話の人格神の形成
  • (1) 海人族の神話の伝来

    インドネシア・ポリネシア:イザナギ・イザナミの大八州の国生みなど。
    インドネシア:海幸彦・山幸彦、因幡の白兎、猿田彦など。
    ニュージーランドのマオリ族:イザナギの両眼日月二神が出現。
    インドネシア(ハイヌウェレ型神話):オオゲツヒメ(食物と穀物を嘗る女神)

    海人族の最大な根拠地は北九州であるが、その移動によりその居住地は、さらに 瀬戸内海沿岸一帯・大阪湾・四国・紀伊・志摩・伊勢・尾張からさらに中部・関東の 太平洋地帯、および裏日本では山陰地方・丹波・若狭・能登から以西の海岸地帯に亘っていた。

    また、対馬・隠岐・佐渡などの諸島嶼も、彼らの重要な根拠地であった。(松前 健『日本神話の新研究』)

  • (2) 弥生人の渡来に伴う鬼神信仰と北東アジア系神話の伝来(BC10〜BC5世紀) (仮説)

    「日本人および日本文化の起源に関する学際的研究」(1997-2001 リーダ尾本恵市)によると、 渡来弥生人のルーツは広義の北東アジア。

  • (3) 北方遊牧騎馬民族の神話の伝来(AD5世紀)(溝口睦子『王権神話の二元構造』 200年)
    • 4C以前(小国分立の首長制時代)

      主力は中国江南・東南アジア・インドネシアなど南方系で海洋性の強い文化。日・月・ 山・川・草・木、その他あらゆる自然を崇拝する多神教的世界観。

      中心的な神:イザナギ・イザナミ・オオヒルメ・月読・スサノオ・大巳貴神・ 宗像三女神・大綿津見・大山津見・山幸彦・海幸彦・猿田彦など多数

    • 5C〜7C半ば(ヤマト王権時代)

      朝鮮半島および北方遊牧騎馬民族の支配者文化。天崇拝、天に絶対的価値を置く 世界観。大王を天の至高神(=日神)の子孫とする。父系制・男性優位。

      中心的な神:高皇産霊神・ニニギ・ニギハヤヒ

    • 8C以後(律令制国家時代)

      中国文明が中心。仏教・儒教・道鏡的世界観。父系制・男性優位。出自血統重視。

      中心的な神:天照大神(装いを変えたオオヒルメ)
5.仮説U 
  • 「律令祭祀と記紀神話の神々の体系は異なる」
  • (1)律令国家の祭祀 <
    • (a)宮中の神三十六座
      神産日神、高皇産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神、 生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神、櫛石窓神、豊石窓神、生嶋神、足嶋神、薗神、韓神、大膳職坐神 、造酒司坐神、主水司坐神 (殆どの神が祖霊か精霊か人文神)

    • (b)律令国家の祭祀(中村英重氏の分類)
      • @国家祭祀:*祈年(としごえ)祭(2861社)、*月次(つきなみ)祭(304社)、 *大(新)嘗祭、即位条祭祀
      • A聖体祭祀:*鎮魂祭、*大祓
      • B都宮祭祀:*鎮花祭、道響祭
      • C神宮祭祀: 神衣祭、神嘗祭
      • D神社祭祀: 鎮花祭、三枝祭、大忌祭、風神祭、相嘗祭(71社)

    (2)律令時代の村落(民間)祭祀

    自然信仰、祖霊信仰、鬼神信仰、穀霊(農耕神)信仰、地霊(土地神)信仰、など さまざまな民俗信仰・土俗信仰が行われていたと考えられる。
6.仮説V

古代神祇信仰形成プロセス
  • 記紀神話の人格神と律令国家の祭祀で祀る神々とは異なるプロセスで成立したもので、これらの神々は相互の関係はないと考える。

  • 律令祭祀は古くからある自然信仰と、朝鮮半島経由でもたらされた中国古代思想である鬼神信仰、穀霊信仰、地霊信仰などがミックスされた古代神祇信仰をもとにして成立。

  • 記紀神話の人格神は、海神族の神話や弥生渡来人の神話、北方騎馬民族の神話をもとに政治的に構成されたもの。



2.最近の新聞報道について  安本美典

纏向遺跡で発見された大型建物について、2009年11月22日の『朝日新聞』朝刊は次のように報じていた。

「奈良に3世紀最大の建物跡 纒向遺跡:邪馬台国の中枢施設か」
「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県纒向遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で3世紀前半の大型建物跡1棟が見つかった。と市教委が10日に発表した。」

ここに、3世紀前半とあるが、この年代は学会にでコンセンサスが得られた年代ではない。

このように報道されると、読者には確定事項のように読み取られてしまう。

奈良県教育委員会の見解であって、年代については異論も多い。

たとえば、布留0式とされる箸墓古墳の年代でも下記ように意見が分かれている。
  • 3世紀前半・・・・白石太一郎 
    歴博の元副館長、歴博の発表はこの年代を念頭に置いてデータを読み取った可能性が多分にある
  • 3世紀終わり頃・・寺澤薫
  • 4世紀の中頃・・・関川尚功
専門家の意見の間にも、100年の差がある。

にもかかわらず、あたかも確定年代であるかのようにマスコミに発表されている。

また、「三棟の建物の中心軸が東西に同一線上に並ぶ例のない配置」に注目しているが、例がないだけでは邪馬台国の根拠にならない。全国に人がいたわけだからこれからも各地で例のない発見があるかも知れない。『魏志倭人伝』の記述に結びつくことならいざしらず、「例がない」からといって邪馬台国に関連づけて騒ぎ立てるのは問題である。

「三世紀中頃の土器(庄内式土器)が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断した。」ということだが、土器は年代を決めるのが難しい。

寺沢薫氏も、次のように土器の実年代決定の難しさを述べている。

それでは、この『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代に置き換える作業は至難の業である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい
(寺沢薫「箸中山古墳[箸墓]」、石野博信編『大和・纏向古墳』)

九州では、弥生時代から古墳時代まで絶え間なく鏡が出土している。その鏡を中国出土の鏡と照らし合わせて、遺跡のおよその年代を考えることが可能である。

また、九州では、鏡を出土する墓や棺の様式も、甕棺墓葬→箱式石棺墓葬→竪穴式石棺墓葬と、時代を追って変化するので、それによって遺跡の年代を考えることも、ある程度可能である。

しかし、奈良県の場合、土器以外、はなはだ手がかりに乏しい。

確実な根拠が提出されないまま、付和雷同的に遺跡の年代が議論されていることが多い。

奈良県出土の遺跡・遺物によって土器の暦年代・実年代を決めようとするよりも、九州での遺跡・遺物の年代をもとに奈良県の遺跡・遺物の年代を決めたほうが、むしろ近道になるのではないか。

歴博の館長であった佐原眞氏も次のように述べている。

弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である
(「銅鐸と武器型青銅器」『三世紀の考古学』中巻)

以前、石野博信氏をこの会に招いたときにお聞きした石野先生の編年論は次のようなものであった。

年代の上限は王莽の新で西暦14年から鋳造が始まった貨泉、下限は5世紀頃からの須恵器の出現とし、その間を土器の型式がいくつあるかで分ける。

しかし、たとえば大阪で貨泉が出土したが、中国から大阪まで何年かけて貨泉が移動したかわからないので、貨泉が出ただけでは年代の決め手にならないことは明らかである。10年できたかも知れないし、100年、200年かかった可能性もあるのである。

問題なのは、このような不確かな根拠で決められた年代が、マスコミなどを通じて確定事項のように一人歩きしていることである。

これに対して、安本先生の年代推定のロジックは次のようなものである。

上限年代は、洛陽の焼溝漢墓から出土した大量の鏡で決める。

ここからは、文字資料が出土しており、この墳墓が190年ごろのものであることが確定できる。ここから出土した長宜子孫銘内行花文鏡の年代が190年ごろであると言える。

北部九州の平原遺跡の1号墳からは長宜子孫銘内行花文鏡が出土しているが、柳田康雄氏がまとめた報告書では、平原一号分の年代を、200年ごろとしている。

卑弥呼が使者を送った洛陽の鏡の年代と、平原遺跡の年代が整合している。

また、年代の下限は、洛陽晋墓の出土遺物で決める。

ここからも文字資料がでている。いずれも300年ごろの年代が記された3つの墓誌である。

ここからは24面の鏡が出土しているが、そのうち8面が位至三公鏡である。

位至三公鏡は魏の時代に出土するだけでなく、265年に成立した西晋の時代に圧倒的な数が出土している。 そして、位至三公鏡は、日本では北九州から多数出るが、奈良県からは1枚も出土しない。

つまり、位至三公鏡の分布からみると、魏の時代から西暦300年ごろの西晋の時代まで、日本列島の中心は九州であったといえる。

マスコミや畿内説の研究者は、畿内説にとって不都合なこのような事実には、一切触れない。

また、新聞記事によると、大阪府立近つ飛鳥博物館長の白石太一郎氏は大型建物を「邪馬台国の王の宮室」を掘り当てた可能性が高いと述べる。

邪馬台国は『魏志倭人伝』の記述を出発点として考えなければならない。『魏志倭人伝』には次のように記述されている。
  • 宮室・楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち守衛している。
  • 兵(器)には、矛を用いる。
  • 竹の箭(や)は、あるいは、鉄の鏃、あるいは、骨の鏃である。
これによれば、邪馬台国の王の宮室は、防衛用の城柵を設けていた。吉野ヶ里遺跡からは防衛用の城柵も楼観跡らしい物も出土している。

纏向遺跡で見つかった柵は、区画用の柵であり、防衛用の柵ではない。これについては、区画用の柵であることを発掘担当の橋本輝彦氏に直接確認した。

矛や鉄鏃も奈良盆地ではほとんど出土しない。

大きな建物が出たことだけで、『魏志倭人伝』を無視して、なんでもかんでも邪馬台国に結びつけてしまうのは問題である。「かすったら邪馬台国説」である。

安本先生は「今回の発表は全体の年代そのものに議論の余地がある」とも指摘する。

畿内説の研究者の土器の見方は100年ほど古くみる傾向がある。纒向遺跡には4世紀を示す材料もある。

纒向遺跡は崇神、垂仁、景行天皇の時代に近づく4世紀ごろのものだろう。

纏向遺跡からは東海・山陰・北陸など、各地の土器が出土するが、崇神天皇の時代の四道将軍の各地への遠征や、景行天皇の時代の日本武尊の遠征などと関連づければ、この現象の説明ができる。

纏向の大型建物は、大和朝廷の王族・大臣級の邸宅(居館)の可能性があり、その意味では重要な発見と言える。


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