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第286回講演会
崇神天皇と三角縁神獣鏡の時代


 

1.纒向遺跡での大型建物跡の発見−続報

纏向での大型建物の発見に関連して、邪馬台国=畿内説の大報道が続いているが、これに関連する新たな情報がいくつかあるので紹介する。

■森浩一氏の見解

考古学者の森浩一氏は今年1月から『西日本新聞』に「倭人伝」を読み直すという連載記事を執筆されている。2010年1月5日(火)に、その第一回が「纏向遺跡は卑弥呼の宮殿跡と決まったのだろうか?」という副題で掲載され、纏向の大型建物と邪馬台国について、森氏はつぎのように見解を述べている。

古代の資料で纒向に支配者の宮殿があったと書いているのは日本側の歴史書であり、中国人が書いた『魏志倭人伝』にはそんな記載はない。

纒向は磯城のなかの小範囲の地名で、この地域には崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の三代の天皇の時代の宮があったことを『古事記』『日本書紀』の両方が記載している。

3世紀後半から4世紀前半と推定される宮殿遺構が纏向で発見されたとなると、まず、崇神・垂仁・景行の三天皇に関係する可能性を検討しなければならない。

考古学の年代の出し方では、纒向の宮殿遺構は3世紀後半から4世紀前半の幅のなかと考えるのが普通である。それを、3世紀前半だけに絞って卑弥呼の宮殿と強弁するのは、学問の進め方としては異常である。

■安本美典VS辰巳和弘氏

『毎日新聞』12月12日(土)のコラム「闘論」に、「邪馬台国 九州説VS大和説」と題して、安本先生と同志社大学教授の辰巳和弘氏の主張が並べて掲載されている。

辰巳氏の主張について安本先生は次のように述べる。

辰巳氏は、今回発見された大型建物を含む4棟の建物が東西方向の同じ中軸線上に並んでいることから、これらが卑弥呼の祭政空間の一角と主張する。

しかし、建物が東西方向並んでいることなどは『魏志倭人伝』にまったく記述されておらず、邪馬台国の根拠にはならない。

邪馬台国論争は『魏志倭人伝』を出発点として行うべきである。『魏志倭人伝』にまったく関係のない所で勝手な解釈を積み重ねていくのは問題である。

纏向遺跡からは、東海をはじめ全国から運ばれた土器が全体の15%〜30%を占めている。

これなども、崇神、垂仁、景行の三代の天皇の時代に四道将軍や日本武尊が東海はじめ各地に遠征したことと関連すると考えるべきであろう。

辰巳氏は、纒向遺跡の建物群の年代が3世紀前半であるのは確かと述べる。畿内説の学者は「間違いない」とか「確かだ」とか言って盛んに断定するが、そんなことはない。

たとえば、布留0式とされる箸墓古墳の年代でも
  • 白石太一郎氏 : 3世紀中頃
  • 寺沢薫氏  :3世紀終わりごろ
  • 関川尚功氏 :4世紀中頃
のように研究者によって100年も違いがある。

寺沢薫氏などは土器年代から弥生時代の絶対年代を正確に割り出すのは難しいと次のように述べているのである。

それではこの『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいだろうか。
正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。ほとんど正確な数値を期待することは、現状では不可能といってもよい。
(寺沢薫「箸中山古墳(箸墓)」石野博信編『大和・纏向遺跡』)

考古学者が、土器の年代を正確に決めるのは不可能に近いと言っているのに、辰巳氏は年代は確かだと述べる。おかしくないか。

さらに、辰巳氏は、「建物群を卑弥呼の祭政空間の一角と見て間違いない。」とか、「邪馬台国が大和にあり、その中枢が纏向遺跡なのは決定的だ。」とのべる。

祭政空間かどうかわからない、他の可能性、たとえば倉庫かも知れない、それを間違いないと断定する。このあたりに非常に危うさがある。

また、辰巳氏は、箸墓を台与の墓だと述べる。『魏志倭人伝』には台与の墓については、大きさも場所もなんにも記述していないのに、どうして断定できるのか。辰巳氏の想像にすぎないのに、これを確かだ確かだ述べる。

遺跡の年代については、九州では、弥生時代から古墳時代にかけて絶え間なく鏡が出土している。その鏡を中国出土の鏡と照らし合わせて、遺跡のおよその年代を考えることが可能である。

また、九州では鏡を出土する墓や棺の様式も、甕棺墓葬→箱式石棺墓葬→竪穴式石室墓葬と、時代を追って変化するので、それによって遺跡の年代を考えることもある程度可能である。

しかし、奈良県の場合、土器以外、はなはだ手がかりに乏しい。

確実な根拠が提出されないまま、付和雷同的に遺跡の年代が議論されていることが多い。

奈良県出土の遺跡・遺物を中心として土器の暦年代・実年代を決めようとするよりも、九州での遺跡・遺物の年代をもとに奈良県の遺跡・遺物の年代を決めたほうが、むしろ近道になるのではないか。

歴博の館長であった佐原眞氏も次のように述べていた。

弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関係遺物・遺跡によって暦年代を決めるのが常道である。

■高島忠平氏

纒向遺跡大田北地域の大型建物の発見について佐賀女子短大学長の高島忠平氏のコメントが『佐賀新聞』2009年11月11日(水)の朝刊に掲載されている。これはその前日にウェッブサイトで公開された内容を要約したものである。

ここでは纏向の大型建物に関わる問題点が良く要約されている。

大型建物を卑弥呼の宮殿などとすることについては、建物の並び方は古墳時代の家型埴輪の配列と共通する点があるので、古墳時代の豪族居館・祭祀施設に連なるものではないかと述べ、さらに、まだ小範囲の発掘であり、全貌がもっと明らかになってから判断すべきであろうと、今の時点で邪馬台国や卑弥呼と関連づけることを戒めている。

今回発見の遺構(庄内式土器期)の年代は、4世紀以降のものとするのが無難であり、大型建物を卑弥呼の宮殿とするには、時期が合わないと述べる。

庄内式や布留式土器の年代判定については、布留1式の土器と鐙(あぶみ)がいっしょに出土していることが重要な手がかりになる。

鐙は中国で4世紀はじめの西晋墓出土品が最初であり、朝鮮半島では4世紀末に出現し、5世紀に普及し始めるものである。

日本での出土例は5世紀である。したがって、布留1式土器は従来どおり4〜5世紀とするのが合理的である。当然、庄内式土器も4世紀以降ということになる。

最古級とされるホケノ山古墳の石室床面から布留1式からしか出現しない小形丸底壷が出土していることも重要である。

小形丸底壷が出たホケノ山古墳の築造時期を、庄内式土器期にすることはできない。ホケノ山古墳は 4世紀後半である。

また、『魏志倭人伝』に卑弥呼の都のようすを「居所、宮室、桜観、城柵を厳重にめぐらして、人が居て、武器を持って守っている」と記述している。城柵などの記述があることからこれは環濠集落である。

纒向遺跡をはじめ近畿では、弥生時代後期後半以降には環濠集落は存在しない。この記述に適合するのは九州の弥生時代後期後半の環濠集落がふさわしい。


2.崇神天皇と三角縁神獣鏡の時代

■桜井茶臼山古墳についての『毎日新聞』記事

奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳は、大彦の子孫の安部氏の治めた地域にあることから、この古墳が大彦の墓ではないかとの説もある。その桜井茶臼山古墳から大量の鏡が発見された。

『毎日新聞』2010年1月8日(金)朝刊は次のような内容を伝えている。

橿原考古学研究所は、奈良県桜井茶臼山古墳から81枚の銅鏡が出土したことを発表した。 鏡は13種類あり、枚数、種類とも国内最多である。

この中には、正始元年(240年)の銘文が入った三角縁神獣鏡1枚のほか、製の大型内向花文鏡(38cm)なども含まれている。

鏡の枚数は、これまで最多だった平原1号墓の40枚のほぼ倍で、種類は平原の4種類よりはるかにバラエティーに富む。大型の内向花文鏡の径は平原の46.5cmに迫るもの。

また、国内最大のガラス製管玉(8.16cm)も新たに見つかった。

専門家のコメント
  • 岸本直文・大阪市立大准教授
    「ピラミッド構造の頂点にいた権力者が、いかに多くの鏡を集積していたかが分かる。」

  • 白石太一郎・近つ飛鳥博物館館長
    「鏡の種類は大王墓とそうでない墓との差を示しているのだろう」と推定している。

  • 福永伸哉・大阪大教授
    「鏡が多種多様で、それぞれの作り方が優れている。初期ヤマト政権が鏡生産の中枢で、桜井茶臼山の被葬者が生産を主導していたのだろう」 とみる。

いままで「正始元年」鏡が出土した古墳はいずれも初期ヤマト政権の根拠地から遠く離れていた。

昨年、卑弥呼の宮殿跡の可能性があると注目された纒向遺跡から北北西4.1kmしか離れていない桜井 茶臼山古墳に、卑弥呼が鏡をもらったとされる魏の年号「正始元年」が刻まれた三角縁神獣鏡が副葬されていることが分かった。

これについて、岡村秀典・京大教授は、
  • 「正始元年の鏡が大和から見つかったことで、大和にあった邪馬台国が魏から三角縁神獣鏡をもらい、全国に配布したことが確実になった」と大和説の補強材料とみる。
これに対し、高島忠平・佐賀女子短期大学長は
  • 「三角縁神獣鏡の分布の中心が近畿なのは、魏からもらったのではなく国内生産の中心地だったから。正始元年の年号を入れた鏡は、権力のよりどころを魏に求めようとして作ったにすぎない」 と考える。
一方、三角縁神獣鏡は初期ヤマト政権の象徴と考えられてきたが、桜井茶臼山の鏡の中で三角縁神獣鏡が占める割合は3分の1未満であり、大王墓の副葬品として絶対視されていなかったことも明らかになった。

■桜井茶臼山古墳についての安本先生の見解

桜井茶臼山古墳について報道があった。これを、4世紀を照らす資料として報道した新聞(毎日新聞)もあったが、なかにはいちじるしく邪馬台国に結びつけて報道した新聞(朝日新聞)もあった。

桜井茶臼山古墳を邪馬台国に結び付ければ、前にその新聞が報じた「卑弥呼=箸墓古墳」などが崩れてしまうのではないか。

卑弥呼の時期と箸墓古墳の時期が合致するから、箸墓古墳は卑弥呼の墓だという意見を報道していたのに、箸墓古墳以外にもこの時期の古墳があったのだとすれば、箸墓古墳だけを特に卑弥呼の墓に当てはめる必然性が失われてしまう。

また、桜井茶臼山古墳には竪穴式石室があり、これは「槨」といえるものである。 『魏志倭人伝』には「棺あって槨ない」とあるのに合致しない。

ホケノ山古墳にも「槨」にあたるものがある。

築造時期の順番は、ホケノ山古墳 → 箸墓古墳 → 桜井茶臼山古墳 とされているので、ホケノ山古墳と桜井茶臼山古墳に「槨」があることから推定すると、箸墓古墳にも「槨」がある可能性が大きい。

新聞では、年代を古めに言う人の意見ばかりが報道されがちであるが、桜井茶臼山古墳の築造年代は4世紀の中頃であるとする、橿原考古学研究所の関川尚功氏や筑波大の川西宏幸氏の根拠のある見解にも留意すべきである。

また、桜井茶臼山古墳からは三角縁神獣鏡が出土している。

三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡だとする説がある。しかし、次のような理由から、魏の鏡ではないと考える。
  • 三角縁神獣鏡はこれまでに五百数十面出土しているのに中国からは一面も出土していない。

  • 三角縁神獣鏡の文様は中国南方の呉鏡系の文様で、北方の魏鏡の文様ではない。このことから、中国の考古学者、王仲殊氏、除苹芳氏などは、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とすることに強く反対している。

  • 五百数十面出ということは、出土率5%とすると、一万面以上の三角縁神獣鏡が日本にあったことになる。卑弥呼のもらった百面の銅鏡にあてはめるには多すぎる。

  • 材料に含まれる鉛同位体の分析から、三角縁神獣鏡の銅は中国南方のものである。

  • 4世紀以降の古墳から発見される。
桜井茶臼山古墳から出土した三角縁神獣鏡は正始元年の銘がある。

これでわが国では四面の正始元年銘の三角縁神獣鏡が出土したことになる。そのなかの一面は群馬県である。

三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとすると、卑弥呼の時代に群馬県にも影響力が及んでいたのであろうか。だとしたら狗奴国はどこに持っていくのか。



大塚初重編の『日本古墳大辞典』に古墳の築造推定年代が記されている。景初三年、景初四年、正始元年などの紀年鏡を出土した古墳で、ここに築造年代が記されているものを全て調べると下表のようになる。

紀年銘西暦鏡を出土した古墳古墳の築造時期( 大塚初重編『日本古墳大辞典』による)
赤鳥元年238年鳥居原狐塚古墳(山梨県)5世紀中葉の築造か
景初三年239年和泉黄金塚古墳(大阪府)4世紀末から5世紀初頭の築造と考えられる
景初四年240年広峰15号墳(京都府)築造時期は4世紀後半と考えられ、福知山盆地では最古の一つとみられる
正始元年240年蟹沢古墳(群馬県)5世紀初頭の築造と考えられる
正始元年240年森尾古墳(兵庫県)年代の決め手に欠けるが、4世紀末から5世紀初頭の年代を与えておきたい
正始元年240年竹島古墳(山口県)5世紀前半の築造か
正始元年240年桜井茶臼山古墳(奈良県)4世紀中葉ごろの築造と考えられる

これらの古墳の築造時期はすべて4世紀中葉から5世紀中葉の期間内であり、中国の東晋の時代にあたる。卑弥呼の時代と100年以上の差がある。

これらの鏡は、4世紀ごろ、中国の東晋(中国南方の南京の地に都があった)と交渉のあったわが国で、東晋渡来の工人の指導のもとで、つくられたものであろう。

「景初四年」の銘のある盤竜鏡が2面ある。晋代の文献に「景初四年」の使用例がある(季刊邪馬台国104号参照)ので、この鏡はとくに東晋の工人が関与した可能性がある。

この時代は、卑弥呼についての記憶をもっていた崇神、垂仁、景行天皇ごろの時代にあたるとみられる。

今回の桜井茶臼山古墳出土の紀年銘鏡を含め、日本で出土した13面の紀年銘鏡に示される年代は、元康□年(291〜299年)、赤烏(せきう)七年(244年)の2面を除く11面が、235〜240年である。

この年代は卑弥呼が活躍し、魏と交流していた期間である。

高島忠平氏は、三角縁神獣鏡は「国内生産」のもので、正始元年鏡は「権力の拠り所を魏に求めようとして作ったにすぎない」と述べているのは、大略妥当と思われる。


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