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第287回講演会
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1.三角縁神獣鏡 |
■ 鏡の年号
今回、桜井茶臼山古墳で発掘された鏡には正始元年の年号が入っていたとされる。 しかし、実際は、「是」の文字しかわからないのだが、「是」の文字が他の正始元年鏡と同じだとして、桜井茶臼山の鏡も正始元年鏡と判断されている。 この鏡を含め、今までに年号が入っている鏡が13面出土している。 そのうち12面は「景初」「正始」など卑弥呼が在位していたころの年号である。 前回説明したように、これらの古墳の築造時期はすべて4世紀中葉から5世紀中葉の期間内であり、卑弥呼の時代と100年以上の差がある。 三角縁神獣鏡の文様は、ピザの具のように、あちこちから持ってきて組み合わせているので、バリエーションが多い。 下表Dの大阪府和泉市上代町黄金塚古墳出土の三角縁神獣鏡などのように意味が通じない銘文がある。Cの鏡の文字の一部を並べて組み立てているのである。 これは、文字も模様と考えて、意味を考えずに勝手に文字を組み合わせているようにみえる。 桜井茶臼山古墳の「是」の文字も、文字をどこからか持ってきた可能性もある。そうすると、失われた他の文字が正始元年ではないかも知れず、正始元年鏡とは断定できない。 いずれにしても、鏡に描かれた年号は、卑弥呼の活躍した時代の年号がほとんどである。この理由を推理してみたい。 ■ 天皇の年代推定 そのための下準備として天皇の年代について検討してみる。 天皇の年代推定のために基準点を2つ設ける。
平均在位期間10.88年をもとに雄略天皇よりも前の天皇の在位した年代を推定すると、次のようになる。
ここで推定した崇神天皇の活躍年代と、陵墓についての考古学者の見解とが合致している。 ■ 崇神天皇陵古墳の被葬者 崇神天皇陵に葬られた人物が本当に崇神天皇であるかどうか検証してみる。 崇神天皇陵古墳と岡山県の中山茶臼山古墳のかたちは正確に相似形で、中山茶臼山古墳の大きさは、崇神天皇陵古墳の1/2である。 崇神天皇が358年ごろ在位していた天皇とすると、中国では東晋の時代である。崇神天皇陵古墳の全長は、東晋の尺度で、ちょうど1000尺であり、中山茶臼山古墳は500尺である。 これは、東晋の技術が日本にもたらされ、東晋の工人が古墳の造営にかかわったと考えると年代的に整合する。これらの古墳がほぼ同時代に築造されたことを意味している。 皇室の『陵墓要覧』によると、中山茶臼山古墳は大吉備津彦の墓所とされる。大吉備津彦は倭迹迹日百襲姫と兄弟で、『陵墓要覧』には、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓の次に中山茶臼山古墳が記載されている。 『日本書紀』の記述では、大吉備津彦は、崇神天皇の時代に四道将軍として吉備に派遣された人物で、崇神天皇と同時代の人物であるとする。 2つの陵墓を見ると、東晋の時代の同時期の築造であり、大きさが天皇と将軍との関係を示しているように見えることなどから、『日本書紀』の記述と完全に整合している。 このようなことから判断すれば、崇神天皇陵古墳の被葬者は崇神天皇と考えて良いのではないか。 さて、『日本書紀』によれば箸墓は、大吉備津彦の姉の倭迹迹日百襲姫の墓とされる。したがって、築造は4世紀半ば過ぎと考えられる。 箸墓の年代については、歴博などが、土器付着物の炭素14年代測定結果を根拠に、箸墓の年代を100年ほど古く見ようとしているが、箸墓から出土した桃の種は、炭素14年代測定の結果、4世紀後半の年代が得られているのである。 箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓所であり、崇神天皇や大吉備津彦の時代である4世紀後半に築かれたとすると、これらの話がすべて矛盾なくつながる。 また、箸墓から、吉備の特殊器台型の埴輪が出土している。 これも、倭迹迹日百襲姫の葬儀に際して、弟の大吉備津彦が吉備の土器を奉ったと考えれば話は整合する。 ■ 三角縁神獣鏡の年代 前方後円墳は、新しいものほど後円部が発達して大きくなる。 前方後円墳の前方部の幅と後円部の直径の比率を横軸にし、前方部の幅と墳丘の全長の比率を縦軸にしてグラフを作ると、おおまかな築造年代が推定できる。 天皇の陵墓は発掘できないが、そこから出土する円筒埴輪の形式から年代を推定することができる。 円筒埴輪の型式、天皇の代数、前方後円墳のかたちなどから、おおよその古墳築造年代の新古が決められる。 このグラフに、三角縁神獣鏡を出土した古墳をプロットすると、三角縁神獣鏡神獣鏡が出土する古墳は、崇神・垂仁・景行天皇の時代の4世紀中頃から後半の築造である。 つまり、三角縁神獣鏡は4世紀の鏡なのである。 ■ 年代推定のアプローチ 考古学関係の研究者は、年代を古く持っていき、しかも断定的に話をする人が多い。しかし、その根拠を明確に述べる人はほとんどいない。みんなが言っているからと云うのが拠り所のように見える。 以前、討論会でホケノ山古墳の築造年代をどう決めるかということが話題になったとき、石野博信氏は次のように説明された。 上は、西暦14年の王莽の貨泉で決め、下は400年ごろから現れる須恵器によって決める。14年から400年の期間に何形式の土器があるか、土器によって区分する。そうすると、ホケノ山古墳の庄内式土器は3世紀の前半になるということであった。 いっぽう、安本先生の年代論では、まず九州の状況を考える。そして、古い時代の手がかりを洛陽焼溝漢墓(190年ごろ)に求め、新しい時代については洛陽晋墓(300年ごろ)によって考える。 これらの墓所からは墓誌が出土しているので、年代がはっきりしている。 これらの墓所からは多数の鏡が出土しており、これらを手がかりにして、九州の鏡の年代を推理し、同じ鏡を出土する近畿など各地の遺跡の年代や土器に年代を探っていこうとするものである。 たとえば、190年ごろの洛陽焼溝漢墓から長宜子孫銘内行花文鏡が出土しているが、平原1号墳からも長宜子孫銘内行花文鏡が出ている。報告書によると平原1号墳は西暦200年前後の築造とされるので、話がスムースにつながる。 石野氏と安本先生のアプローチを比較すると、まず、年代の上限と下限の幅が違う。 石野氏の場合は、西暦14年から400年ごろなので、ほぼ400年の幅だが、安本先生の場合はおよそ190年から300年までなので、100年ほどの幅しかない。 さらに、洛陽焼溝漢墓と洛陽晋墓は墓誌によって年代が確定するのに対して、貨泉は、どのくらいの時間をかけて日本や近畿に伝わってきたのか判らないので、貨泉では年代が決められない。 白石太一郎氏は、箸墓の年代を250年ごろ、寺沢薫氏は280年ごろとする。また、関川尚好氏は350年ごろとするなど、考古学者の間でも年代に100年もの違いがある。 この現状を無視して、箸墓は卑弥呼の墓に間違いないとか、纏向遺跡は邪馬台国に間違いないとは、とても云えないのではないか。 ■ 鏡作神社 崇神・垂仁・景行天皇の時代について『日本書紀』の記述を見ると、鏡を鋳造したことを思わせる記述がかなりある。 しかも、それは、三角縁神獣鏡のようである。 たとえば、日本武尊が東国に遠征したとき、船の舳先に大鏡を取り付けたことが書かれている。 三角縁神獣鏡は大きな鏡であることから、ここに記された鏡は三角縁神獣鏡ではないかと考えられる。 また、日本武尊の東国遠征に吉備の武彦という人物を連れて行ったことが記されている。 岡山県出土の三角縁神獣鏡と関東出土の三角縁神獣鏡に同型鏡、同笵鏡が見られるのは、吉備の武彦が同行したことと関係するものと考えられるし、この記述がある程度信頼できることを示しいる。 そして、このころ三角縁神獣鏡が作られたことをも示すものと思われる。 今回は、三角縁神獣鏡に関連して奈良県の鏡作神社をやや詳しく取り上げてみる。 奈良県磯城郡田原本町八尾ドウズに、「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)」がある。 祭神は現在三座である。 中央には天照国照日子火明命(あまてるくにてるひこほのあかりのみこと)、向かって右に鏡作り氏の遠祖、石凝姥命(いしこりどめのみこと)、左に天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る。 しかし、延喜式神名帳では「天照御魂神」一座となっていた。 「天照御魂神」については、次のような2つの解釈がある。
鏡作坐天照御魂神社の神宝とされているのは三角縁神獣鏡である。 和田萃氏は次のように述べる。 「ご神体として伝えられている鏡は中国製説のある三角縁神獣鏡で、形式は単像式の唐草文体 三神二獣鏡で、外区が欠失している。このような例は他にほとんどなく、人為的に なされたと考えざるをえない。御神体でなく、神宝としている。」 外区が欠落していることについて、森浩一氏は「三角縁神獣鏡の内区だけの遺品があって、鏡製作の原型(鋳型のもとになる型)と推定することができる。」と述べる。 また、大和岩雄氏は「鏡作の工人が、鏡製作の原型として使っているうちに、外区が欠けて しまい、鋳型の原型としては、使用不能になったため、神社に奉納し、それが神宝と して伝えられたもの」としている。 この鏡の同笵鏡が、愛知県犬山市白山平にある東の宮古墳から出土している。大塚初重氏編の『日本古墳大辞典』によると、この古墳は4世紀後半築造とされる。 そうするとこの鏡は4世紀後半以前、おそらくは、4世紀中頃から後半ごろに作られたものと推定される。 『古語拾遺』が、崇神天皇の時代に鏡を鋳造したと記し、『磯城郡誌』が、崇神天皇の 時代に「日御象の鏡を改鋳した」と記しているのは、同じことを述べているので あろうが、三角縁神獣鏡が出土する古墳と、年代的にあっている。 崇神天皇の時代に、のちに伊勢神宮にまつられることになる日御像の鏡と草薙の剣との 複製品(レプリカ)を作り、その複製品を内侍所の神璽(みしるし)の鏡としたことを 『古語拾遺』などは述べている。 この内侍所の鏡を作るさいの試鋳の鏡が、鏡作神社の 鏡とみられる。製の鏡を作っていることをうかがわせる伝承が、存在していると いえる。 ■ 三角縁神獣鏡 三角縁神獣鏡には、卑弥呼の活躍した時代の「景初」や「正始」の年号が鋳込まれている。 畿内説の学者はこれをもって三角縁神獣鏡が魏の時代に卑弥呼に下賜された鏡だと主張する。 しかし、次のようなことから、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと考える。
今日知られている日本出土の年号鏡に鋳出された元号は、三国時代の魏と呉のものであり、一昔前は、銅鏡の年代を決めるうえでの基準として、昭和の末まで重視されていた。 しかし、次のようなことを見ると、これらの年代を絶対年代として考えていいか疑問であるとする。
森氏はこれによって、鏡の年号を見るときの心構えができたと述べている。 つまり、鏡の年号も、製作した年を表している保証はないというのである。 『三国史記』「新羅本紀」に、唐の時代に『晋書』が成立したが、できたその年に『晋書』が新羅にもたらされたことが記してある。中国の文献は予想外に早く周囲に伝わっていくようである。 これから推測すると、卑弥呼のことが記された『三国志』も、でき上がってから100年も経ていれば、日本にもたらされたのではないか。 卑弥呼の時代から100年ほどあとの崇神天皇の時代前後に、三角縁神獣鏡は盛んに作られた。 崇神天皇の時代には『魏志倭人伝』がわが国に伝わっていて、彼らの祖先が卑弥呼という名前で『魏志倭人伝』に記されていることを知っていたのではないか。 祖先の卑弥呼のことを知った人たちが、祖先の由緒ある年号を鋳込んで作った鏡が三角縁神獣鏡ではないだろうか。 ■ 八咫の鏡は三角縁神獣鏡か 八咫の鏡を三角縁神獣鏡とみる説がある。そのおもな根拠は次の二つである。
『古語拾遺』に、石凝姥の神に天の香具山の銅(かね)をとらせて、「日像の鏡」を鋳らせたという記事がある。また、『日本書紀』の一書の第一に、「(天照大神の)象(みかた)を図(あらわ)し造りて」と記されている。 そして、『日本書紀』を見ると、数多く用いられている「像(みかた)」という語は、次のように、いずれも、具体的な「像(ぞう)」を指している。
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